午後中ずっと考えていた。
川島さんは恐ろしいことを囁いた後、あっさりと手も体も離して、
「なんてね」
と、言った。
「え?」
「そんな都合のいい話があると思う?」
力が抜けている。
「え? え?」
今までの川島さんはなに?
「実験については言ったとおり。僕はきみくらいの年齢の子を使いたかった。そしてきみは適任だと感じた。それは今でも変わっていない。でも、そんなあやしい薬があると思う? 僕を見て、そんなものを作れる人間だ、って思う?」
思――う、ような、思わないような。
でも。
ええ?
どう返事をしたらいいのかわからない私を見て川島さんは笑った。
さっきまでの不吉な感じが嘘みたいな優しい笑顔。いつもの笑顔だ。
「でも本当にそうだったらいいな」
「そんな薬を作れたら、ってことですか?」
それはある意味、見たい夢を見ることができる薬だ。
何の役に立つのかよくわからないけど、ちょっと面白そうだとは思う。
「ううん」
川島さんは首を振った。前髪が揺れる。
そしてそれ以上は何も言わなかった。
川島さんは何を「そうだったらいいな」と思ったんだろう。
見たい夢を見ることができる薬、っていうのはばかげてる。
都合良すぎる。まるでマンガだ。
だからそれはありえない、と思う。
同時に、あったらいいな、とも思う。
川島さんは私の夢について何も言わない。
私がどんな夢を見ても――って言ったって主に川島さんとヘンなコトをしてる夢なんだけどそれを嫌がらない。面白そうに聞く。
私は川島さんの実験の役に立ってるんだろうか。
バイト料をもらえるだけの働きをしてるんだろうか。
でなきゃ、理由もなくあんな大金もらえない。
役に立ちたい。
多分それはお金のこともあるけど、川島さんを好きになってしまったからだと思う。
うんと年上で、名前と生活パターンくらいしか知らない人のことを。
役に立ちたい。喜んでもらいたい。
「川島さん」
だったら私ができることはひとつだ。
「なに?」
「ちょっと昼寝します。薬をください」
薬を飲んで寝て、夢を見る。
薬と水の入ったコップを持って川島さんはベッドの側まで来た。
「あの……」
なんで? コップを渡してくれない。
「結衣ちゃん」
「はい」
川島さんはコップを本棚の隙間に載せた。本だらけのこの部屋で液体の入ったものを置ける場所は少ない。
「昼寝というのは本当?」
疑われてる。
そりゃ、あれだけぐうぐう寝てれば昼に寝たいなんて言うのは不自然だものね。
実際、眠くない。
でもこの薬はそんなの関係ない。夜に飲んだときだってそう。飲んだらいつの間にか寝てしまう。
だからきっと私はすぐに寝るはず。
もしもこれがあたっていたら、起きてから川島さんに教えてあげよう。
でも目的はそこじゃない。
見たい夢が見られると言うのなら。
今までは薬の飲まされ方や川島さんの笑顔に影響されまくった。
キスをされれば夢の中でもキスをした。
肌に触れられれば夢の中でも触れられ、そこから想像のままにエスカレートした。
キスをやめても夢は淫らなままだ。
じゃあ、私がそんな夢を望まなかったらどうなるんだろう。
試したい。
望んでいない方の望んだ夢――なんかややこしい。
ええと、とにかく、気を確かに持って、えっちな夢を見ないようにしたら、えっちじゃない夢を見られるんだろうか。
「本当です。いやあ、春はあけぼのも爆睡ってのは本当ですね。眠くて眠くて」
「それを言うなら『春眠暁を覚えず』だ。どうやったらそんな間違いを」
すごく呆れられた。
ほっといて。
意味は通じたんだからいいじゃないですか。
薬ください。薬。
私の体で証明するから。
ふいに、川島さんに手を掴まれた。
「ひゃっ!?」
「何を考えてるの?」
じいっとこっちを見る、めがねの奥の目がすわってる。
「な、なにも! だってほら寝るときは薬を飲めって川島さんが……」
言ったじゃないですか、まで言わせてもらえなかった。
ぐっと手を引かれる。
体がころりと川島さんの方へ倒れる。
だから! そういうことしちゃだめだってば!
そういう夢を見る予定じゃないんだってば!
自由な方の手を慌てて川島さんの胸に突っ張る。
胸って!
フリースの手触りの下に感じる硬い感触。
私、常々胸がないって思ってたけど、男の人ほどじゃなかったわ。
そうじゃなくて。
どくどくと血が流れていく音が耳の中でうるさいくらい聞こえてる。
「結衣ちゃん」
そんな声で名前を呼ばないで。
「本当にいいの?」
いいですよ。契約書だって書いたじゃないですか。薬飲んで寝ますよ。
そう言ったじゃないですか。
お願い。
もうこの空気に耐えられない。
こくこくと頷くと、ぎゅっと抱きしめられた。
「あああ!」
「――もうちょっと色っぽい声でお願いしたい」
不意打ちをしておいて何を言うんだ、この人は。
だめですってば。ほんとに。
見たくないんだから。
絶対現実にはならない夢なんか見たくない。
川島さんは面白がってこんなことをするんだろうけど、私を女としては絶対に抱かない。きっとそんなことしない。
私がそうしたいと思ったら?
したいのにできなくて、でも毎晩夢で見ていたら、そのうち夢なんて見たくなくなる。
眠るのが嫌になる。
きっとそうなると思う。
川島さんの手が背中を撫でるようにして降りていく。
腰骨。
平べったいお尻。
「う…」
こんな、柔らかさの足りない体を、触ってる方は楽しいんだろうか?
「色っぽい声出して、って」
むりだ。歯を食いしばって首を振る。
夢の中でならいくらでも出せそう。
夢の中での私は、持ってる知識を総動員して、考え得る限りのえっちなことをしていた。
私の知らないことを夢で見せる方法は無いんだと思う。
だから本当に本当の最後の部分はよくわからないし、アレをどんなふうに感じるのかもわからない。ただ、えっちな方向に展開してしまう夢を見るだけ。
そんな変な夢を見せる薬なんか、世の中の役に立たない。
それを私は証明しなくちゃ。
川島さんに言わなくちゃ。
そのために私は夢を――なんの夢を?
首筋に温かいものが触れた。
「…やっ」
わからなくなる。
いろんなことが、こんなふうにされるとわからなくなる。
「そうそう。そういうの」
ぞくんとして、思わず背筋が伸びた。
なに、今の。
なんでそんなところにキスするの。
つうっ、とその温かいものが首筋から耳へと――川島さんの唇だ。
「やぁ…っ」
声が。
出ない。やめて、って言いたいのにその声が出ない。
柔らかくて、温かくて、ちょっと冷たい不思議な感触が私の肌を撫でていく。
ふう、と耳に息がかかった。
「…っ!」
ぎゅっと体が縮こまった感じがした。
逃げなきゃ。
川島さんの腕の中から逃げて、そして寝なくちゃ。
夢に川島さんが出てきてもいいから、こんなことしてない夢を見なきゃ。
なのに体はちっとも動いてくれない。
「結衣ちゃん」
耳元で囁かれる自分の名前が、なんだかすごく特別な呪文のように聞こえた。
「夢の中で僕はどうしてた?」
「…ひ、あ」
お尻の上をなで回す手が少しずつ足の間へと入ってくる。
「こんなふう? それとももっと優しくしてた?」
きゅっと耳たぶを噛まれた。
「やあぁっ」
「こんな無粋なことは聞かなかった?」
やだ。
もう、やだ。
「か、わしまさ…んっ」
抱きしめられていて逃げることが叶わない。逆にしがみついてしまう形になる。
「なに?」
「も、やめ……っ、ひゃうっ」
指が…っ。足の間に。
スウェットを着た上から割れ目を撫でるように川島さんの指が動く。
あの長くて綺麗な指が脳裏に浮かぶ。あの指が今私のアソコを撫でてる……。
「や、やぁ…っ。や、です…」
あなたはこんなことしても平気かも知れないけど、私は無理です。
こんなことを誰とも経験しないまま一生が終わっても不思議じゃない、って思ってました。
そりゃもう、ふつう娘をひいき目で見るはずの父だってそう思ってたんです。
教えないで。
私に、好きな人に触られる気持ちよさを教えないで。
お金をもらったから、って割り切れるほど私はまだ強くない。
「じっ…け、ん! するんでしょう!?」
皮膚からぞわぞわと伝わってくるような気持ちよさをはねとばす勢いで叫んだ。
ぴたりと川島さんの手が止まる。
ほら。
実験、したいんでしょう?
結果を見たいんでしょう?
「結衣ちゃ……」
「薬をください」
息が上がっていて、ちっともかっこよく言えなかったけど、髪も乱れてばさばさだったけど、私はそう言って手を出した。
ぐるぐると景色が渦を巻く。
気持ち悪い。
油の浮いた水たまりをかき混ぜたみたいに、虹色の模様が動いてる。
見えているものはとても気持ち悪いけど、川島さんがいないことにほっとした。
ほらね。
見ないでおこうと固く思えばあんな夢は見ないで済むんだ。
ってことは、それまでは見たいって思って見てた、って事なんだろうか。
それって私がすっごくえっちって事なんじゃ……。
あんまり深く考えないでおこう。
それよりもこのぐにゃぐにゃした夢だ。
起きるまで続くのは嫌だけど、変な夢を見ない、とそれだけを考えて寝たから他の夢が思いつかない。
見たい夢を見られる薬なら、もっと素敵な夢を見せてくれてもいいんじゃないだろうか。
決して川島さんとの夢が素敵ではないという意味ではなくて、罪悪感を覚えずに済む夢。
「結衣ちゃん」
うわあああ!?
なんで声がする!?
きょろきょろと辺りを見回した。
大丈夫。川島さんはいない。
でも。
あしもとに虹色の渦が移動してきていた。
ぐるぐると回っていたそれが、いきなり穴を開ける。
「わあ!?」
渦に飲み込まれる。
何かが体中にまとわりついてくる。
虹色の膜が全身を覆っていた。
ぺたぺたと、肌という肌を触られる油っぽい感触。
「や! いやぁ!」
液体だからどこへでも入り込んでくる。スウェットの中にも下着の中にも。
にゅるにゅると動くのが気持ち悪い。
「ひ…っ! あ、あ…」
ぬるん、と胸の上を滑っていった。
やだ。
どっちにしたってこんなえっちな夢になっちゃうなら、まだ川島さんとなにかしてるほうがいい。
足の間がぬるぬるしてくる。
汗とは違う。子供みたいにトイレの失敗をしたのとも違う。
熱くてぬるぬるで体の奥がぞくぞくする感じ。
「ぃや……ぁ、あ」
自分の体なのに、まったくそう意識もせずに腰がくねるように動いた。
妙な感触から逃げたいのか、もっと欲しいのか、よくわからない。
思わず足を捩ったけど、それがまた太ももや膝あたりでぬるぬるを感じることになってしまった。
「結衣ちゃん」
だから! なんで声がする!?
「もっとうんと気持ちよくなるよ」
な、な、なにが!?
体の表面を覆い尽くした虹色のマーブル模様は、本当に油のようにぬるぬるとしながら肌の上を動いていく。
オイルマッサージなんかされたらこんな感じなんだろうか。
肌がざわめく。
なんの刺激も受けてない場所が疼く。
切なくなる。
「や…だ、こんな……」
見るものか、と思って寝たのにやっぱりえっちな夢を見るのか。
じゃあ、あの薬はやっぱりそういう薬なのか。
それとも私?
足の指の間にもぬるぬるが入り込んでくる。
「んんんっ!」
びくん、と体がのけぞった。
いやだと思うのに止められない。
なんで。
これ、夢でしょ?
現実じゃないのに。この感触は実際には無い物なのに、どうして私、こんな声を上げて、こんな反応をするの。
胸の先端が擦れる。
ちっぽけな、ささやかなふくらみでも、一応私だってブラジャーが必要なくらいの体はしてるわけで、作りもふくらみの上にちょこんと豆粒のようなものが載ってるわけで、その先端がぬるぬるしながら擦れたりするとそれは非常によくない。
「やっ、やあああ!」
びくびくと腰が揺れる。
未成年なのに。
あ、でも夢だからいいの?
「最後までしてもいい?」
だめだ。いくら夢でも。
「ひぁ…っ! あ、やっ、だめッ! だめですッ」
手足をじたばたと動かす。抵抗できてるんだろうか。
相手は、川島さんの声がしているとはいえ、ただのぬるぬるだ。
「どうして? 気持ちいいよ?」
「こんな…っ! こんな…ッ、液体に犯されるようなの、いやですッ!」
いくら夢でも生物じゃないものに何かをされるのはいやだ。
それだったら開き直って川島さんに何かされる夢を見る方がずっといい。
多分それは私の本音だ。
川島さんにされたい。川島さんとしたい。
一緒にご飯を食べて、一緒のベッドで寝た。実験のために一緒にいるだけだった。でも私は川島さんを好きになってしまった。
こんな夢を見るほど。
「そうなの?」
ぬるぬるとした液体はまだそのまま肌の上を蠢いているのに、いつの間にか川島さんが目の前にいた。
「あ……」
抱きしめられると川島さんの肌と私の肌の間の液体がぬるりと動いた。
「…く、はぁ」
「いいの?」
頷いて、川島さんの肩に頭をもたせかけた。
「いいです」
川島さんにだったらいいです。
川島さんじゃなきゃいやです。
たとえ川島さんが、私を見てくれなくても、私を女として扱ってくれるんだったら。それが実験の一端だとしても構いません。
だって好きだから。
現実だったらもっといいのに。
背中をどこかに押しつけられた。
夢って便利だ。床に倒されるような味気ない状況にならないし、ベッドを探す必要もない。
足を少しだけ開く。
なんの準備もなく川島さんがその隙間に体を入れてくる。
夢だからなにも必要ない。
抵抗もなく受け入れる。
「あ、あああ…っ ふ、は…ぁ」
股の間一帯がじんわりと熱い。
本当のところ、どうなるのか知らないから、こんな想像でしか補えない。
でも気持ちいい。
温かくてぬるぬるしていて、川島さんは優しい顔をしている。
気持ちよくて、嬉しい。
「動いても平気かな」
私はどこでこんな知識を仕入れてきたのかな。
おもしろ半分に友達と回し読みしたレディースコミックあたりの記憶だろうか。
「はい」
私は川島さんの背中に手を回した。
「いっぱいきてください」
それならいっそ目一杯えっちにしたっていい。どうせ夢だし。
夢のくせにこんなに気持ちいいんだし。
川島さんの体が揺れる。
動く、ってことがどういうことになるのかわからないから、その感覚はどうしてもはっきりしない。
それでも繋がっている部分を揺すり上げられている内に私はなんだか小舟に乗せられたような気になってゆらゆらと波に漂っているような、うっとりする気持ちになってきた。
「結衣ちゃん、気持ちいい?」
「いいです。すごく気持ちいいです」
多分それはかなり間違っているんだろうけれど。
夢の中で私は間違ったまま、川島さんとのえっちで、幸せな気分で泣いちゃうくらい気持ちよくなった。
目が覚めていく。
こんな感覚は、この薬を飲むようになってから初めてだ。いつもはもっとすぱっと目が覚めてた。
頭が覚醒していく。
その中でぼんやりと思った。
夢だから。これは夢だから。現実の川島さんには、私をどうこうしようなんて気持ちはこれっぽっちも無いはず。
川島さんを好きな私は、夢の中でしか報われない。
気が付いてしまった。
この薬は本物だ。
ぼんやりと目を開ける。
川島さんは横にいなかった。
昼寝だったからだろう。でも抱き枕になってなかったからちょっとほっとした。
川島さんはパソコンの前に座って、こっちをじっと見てた。
昼寝から覚めて「おはようございます」も変だな、と思ったけど、無言のまま私を見る川島さんになんて言えばいいのか判断つかない。
川島さんから何か言ってくれればいいのに、と思いながら体を起こして、股の間のひやりとした感触にびっくりした。
ベッドから飛び降りる。
「結衣ちゃん!?」
私の行動は予想外だったんだろう。不機嫌そうにむっつりしていた川島さんはいつもの調子に戻って、驚いて私を呼ぶ。
「すみません! トイレ!」
まさか。いや。そんな。
夢が夢だけに信用できない。
ドアを閉め鍵をかけるのもそこそこに、下着ごとスウェットを引き下ろす。
「あ、れ?」
パンツだった。いや、パンツはふつうのを穿いてるからパンツがあるのはいいんだけど、綿100%のそれはきれいなものだった。
よかった。
子供じゃないんだからそんな失敗するはず無いよね。
安心して、ついでだから用を足して、ペーパーで拭いて……。
「ひゃあぁっ!?」
ぬるんっ、と手が滑った。
「結衣ちゃん!?」
ドアの向こう、すぐそこで川島さんが呼ぶ。なんでそんなとこにいるの。
「どうした?」
「な、なんでもないですッ! なんでもないから、あっちに行ってて!」
こんな状況、言えない。
「でもきみの体に異変があった場合……!」
ああ、それを心配してるのか。
「違います! 大丈夫です! だからあっちで待ってて!」
トイレのドア越しに会話なんていやだ。
薬のせいで体に異変が起きたわけじゃない。 いや、厳密にはそうじゃないとは言い切れない? どっちでもいいけど、これは心配しなきゃいけないような体の異変じゃない。
淫夢を見て濡れちゃっただけだ。
かあっ、と頬が熱くなる。
端的に言ってしまえばそうなんだけど、自分でそうと認識するとインパクトあるなあ……。
カラカラとペーパーを多めに引っ張り出して、ぬるつきが無くなるまで拭いた。
体ってすごい、と思った。
私は男の人との事を何も経験したことがない。
実験、と言ってここで暮らすようになってキスは何度かしたけど、それ以上のことは知識でしか知らない。
夢に見たって肝心な部分はぼんやりしていてうやむやのままに終わる。
感じ方にいたってはもう、幸せとか、胸の内側からふくらんでいくみたいとか、アバウトにもほどがあるってくらい曖昧だ。
それでも体は反応するんだ。
こうやって濡れたりするんだ。
さっきの夢はすごく気持ちよかった。
夢の中でなきゃ川島さんはあんな笑顔で私を見てくれないだろう。
私は女の子になれないだろう。
川島さんは『そんな薬、作れると思う?』って言ったけど、実際にそういう効果が出てる。少なくとも私にはそんなふうに効いてる。
ずっと夢の中にいられたらいいのに。
夢が現実になるなんてことは思わない。
いくらなんでもそこまでバカじゃない。
でもあの薬を飲んで眠り続けたら。
ずっとずっとあんな夢を見続けられたら。
私、すごく幸せな気がする。
欲しい。
あの薬が欲しい。もっとたくさん飲んで、寝たい。
トイレから出てくると川島さんが心配そうな顔をしていた。
「何でもないです。大丈夫」
私はベッドの上に戻った。
川島さんの側に座りたいけど、夢の中ならともかく現実の世界じゃそんなマネはできない。
なによりこの部屋はそういう空間的余裕が無い。
「本当に?」
川島さんは指先でめがねをくいと押し上げながら聞いた。
意味は無いんだろうけど、ちょっと冷たく見える。
「はい。夢のせいでちょっと勘違いして」
ああ、と川島さんは言って、マウスを動かした。メガネに反射する画面の色がちかちかと変わる。
「夢の内容を教えてくれる?」
「はい」
ベッドの上で楽な格好に座り直す。
そうして、水たまりに浮かんだ油の膜のような、ぎらぎらした虹色の渦に引き込まれたところから話を始めた。
ぬるぬるした油が体中にまとわりついたくだりでは、川島さんはなんの反応も見せずにパソコンに記録を続けていた。
それでも私から望んで川島さんに身を任せたところになると、ぴくん、と眉が動いた。
「で、そのまま……最後までしました」
川島さんは話の途中では絶対に口を挟まない。
私が何も言えないでいたときは、話し出しやすいようにあれこれと聞いてくれていたけど、それでも話し出すと黙って記録をしていた。それは多分、事務的な態度の方が私も話しやすい、と判断していたんだと思う。
そこまで言って黙ると川島さんが顔を上げた。
「それで?」
「あ、それで終わりです。川島さん、その薬ね」
私は本棚の上の方に置いてある、元はインスタントコーヒーの瓶を指さした。
「飲むとすぐに眠ってしまうみたいです。少なくとも私は。だから夜たくさん寝てても、昼寝もできちゃう」
「そうか」
川島さんは、ふうん、とも、ふん、ともつかない声を鼻から出して、顎に手を当てて、じっとパソコンの画面を睨んだ。
川島さんがそのまま黙ってしまったので、私はごろりとベッドに横になった。
ああ、楽ちん。
ごろごろして、だらだらしてるの、楽ちん。
これでまた夢を見たら気持ちいいんだろうなあ。
今度は、今の川島さんの顔――鋭い目つきで真面目な顔をしてる――であんな夢になるといいなあ。
そしたらなんか、真剣に求められてる、みたいですてきだ。
うふふ。
うふふふふ。
「結衣ちゃん? どうした?」
「え?」
ごろごろしている私に気が付いた川島さんが聞いてきた。
「どこか体の調子がおかしかったりするの?」
「違いますよ。ただ、こうしてると気持ちいいから」
うん。気持ちいい。
開き直るっていうか、腹をくくるっていうか、そういう気分って大事なんだなー。
あれもこれも話したら、なんか気が楽になってしまった。
私、この実験楽しい。
ずっとこの実験をしてたいな。そしたら川島さんの側にずっといられる。
それ以上の、現実には絶対叶わないことは夢の中で体験できる。
すごくいい。これ、すごくいい。私の夢だから私が傷付くようなことは起きないもの。
「結衣ちゃん?」
いつもと違う不安そうな声で川島さんが私を呼んだ。
「はい?」
「ちょっと早いけど、夕飯食べに行こうか」
「んー」
ちょっと考える。
お腹空いてる気がしない。
ご飯食べたい、って気がしない。
それよりここにいたい。
あの薬を飲んで寝たい。
「今日は私いいです。ずっと寝てたからかな。お腹空いてない」
「え……」
川島さんは表情を曇らせた。きっと憂い顔ってこういうのを言うんだ。
かっこいいな。
「本当に体はどこもへんじゃない?」
失礼だなー。
誰からもそんな扱いを受けたこと無いから大きな声では言えないけど、一応十七歳の女子ですよ。夕食抜いてダイエットとかふつうですよ。
「どこもなんともないです」
「ほんとうに?」
一音一音を区切るように発音して、やけに川島さんは念を押す。
「本当です」
私はごろごろしたままで言った。
「それより寝たいです」
体がベッドに沈んでいきそう。
腕を上げるのも面倒なくらい、寝たい。
「ええ?」
「というか、もう寝そう……」
布団もかけられない。もういい。このまま寝る。
寝るけど、夢、見たい。
「川島さん……。寝るから、薬」
もうまぶたを開けてられない。でも、薬をもらわないと夢が見られない。
「薬、ちょうだい」
あの夢が見たいの。
だから欲しいの。
とろんとした眠たい目で見上げると、川島さんは慌てて薬と水を用意しに立ち上がった。
ベッドの上で仰向けになったまま待つ。
戻ってきた川島さんに、眠くて不明瞭な言葉でお願いした。
「薬、ください。飲ませて……」
目を瞑る。ちょっとだけ口を開く。
ほんの少しのまがあった。
それからカプセルが押し込まれた。
さすがに水がないとカプセルを飲むのは無理だなあ、なんて思った瞬間、川島さんの唇が落ちてきた。
鼻先がちょっと触れあった。
「ん…ふ」
すぐに水が流れ込んでくる。カプセルを飲み下して、それでも足りなくて私は自分から川島さんの唇を吸いに行った。
「んん…ぅ」
ちゅく、と水気の多い音がした。
唇が強く押しつけられた。川島さんの大きな手が私の頭を包むように固定する。
「ゃあ…ん」
こんなことされたらまたすごい夢見ちゃうよ。
嬉しいな。もっと気持ちいい夢見られるんだ。
ふは、と熱い息がかかった。
川島さんの唇が離れる。
「結衣ちゃ……」
切なそうな、苦しそうな小さな声で名前を呼ばれた。
ぞくぞくする。耳の中が震えるみたい。
ああ。なんてもったいない。
もっとしてくれたら、もっとすごい夢になる。私にはそれがわかってる。
なのに、もう眠くて眠くて、川島さんがしてくれることが受け取れない。
眠ってしまおう。
そして続きを見よう。
ずっと眠っていられたらいい。
2009年1月4日