眠りに落ちる直前の続きだったから、すぐには夢だってわからなかった。
「結衣ちゃん」
耳のすぐ側で声を出されると吐息がかかる。首筋の産毛が動いたのがわかるくらい私は敏感になってる。
「んんっ……。はい」
名前を呼ばれたらちゃんと返事をする。それはうちでは絶対だった。
いくら解散したからってそんなに簡単に癖は抜けない。
でもそれ以前に、川島さんに呼ばれたら返事をしたい。
呼んで。
他の誰かじゃない、一被験者じゃない、私を呼んで。
もう胸に触れられても怖くない。
ペッタンコだけど川島さんはそれに対して何も言わない。
だって私の夢だもの。
こんなメリハリのない、女らしくない体、誰だって抱くのは嫌に決まってる。
だけどこれは私の夢だから。夢の中に出てくる人は私に対して誰も文句を言わない。
みんな私を大事にしてくれる。
どんなに似合ってなくたって、髪を伸ばしてリボンを結んでスカートを穿いていられる。
好きな人に抱いてもらえる。
しかも自分はまったく傷付かないで。
川島さんの手が肌の上を滑っていく。
たくさん泡立てたスポンジで体を洗っているみたい。
優しくて柔らかくて、触れられたところから気持ちよくなっていく。
「結衣ちゃん、好きだよ」
「わ、私も…っ、あ、はぅ…っ、好き、です」
全部嘘。全部夢。
全部私の望むこと。
男の人とこんなことをして、こんなふうに感じるとは思ってない。
自分の体も相手の体も生きてる。呼吸をしてる。汗をかく。
だからきっともっと生々しい。気持ち悪いこともあるはずだし、痛いこともあると思う。
でもいいの。
知らなくていい。
ずっと夢の中にいればいいから。
「川島さんで私をいっぱいにして……」
どこがなにでいっぱいになるのかくらいは知ってる。
現実だったら絶対に言えない。
川島さんは嬉しそうに微笑んで軽く頷いてくれる。
頭を撫でられる。
片方の足を抱えられ、広げられる。
そこは現実にはぜったい見られたくない場所だ。
自分の体は貧相だと思うけど、そこは貧相である上に幼い。私のその部分の体毛はすごく薄くて少ない。まるで子供のように。だから見られたくない。触れられたくない。
でも夢だから。
川島さんの手が、指が、そこに触れてくる。
「あああ…ん!」
ぐちゅ、と熟れた果実を握りつぶしたような音がした。
「結衣ちゃんのここはかわいいね」
「やッ…」
恥ずかしくなって目をそらす。
「待ちきれない、って言ってるみたいだ」
「やぁ……ん。言わ、ないで」
もっと言って。
欲しい。
夢の中くらい、欲しいと思ったものを全部欲しい。誰も私を傷つけない、幸せが欲しい。
「いくよ」
「はい。――っ! あ、ああっ、あはぁ…っ!」
熱い塊で股の間がいっぱいになる。なんか塞がれたような感じ。
よくわからないまま私は声を上げてのけぞる。
体の中心に感じているのは川島さんの重みとぬくもり。
気持ちいい。
気持ちいいよお……。
もう、夢から覚めたくない。
それでも眠り続けるなんて事はできなくて、前の日の夕方から寝始めた私はその翌日の午後遅くには目が覚めてしまった。昼寝と合わせたらほぼ丸一日寝た計算になる。
でも薬を飲み始めてから私の体や感覚は、そういうあたりが麻痺してしまったみたいだ。もっと眠っていたかったし、もっと夢を見ていたかった。
ううん、と伸びをする。
「おはよう」
突然薄暗い中で声がした。
びくっ、と体が動いてしまった。こ、怖かった。
私が寝ているせいで、川島さんは部屋のカーテンも開けられなかったんだろう。
それにしたって電気くらいつければいいのに。
「お、はようございます」
夕方近くにおはようってどうなんだろう。
パソコンの前の定位置で川島さんは、何もせずにただ座っているだけに見えた。
だって、パソコンのモニタのライトが川島さんの顔を照らしてない。
「どんな夢を見てたの?」
パソコンも起動させずに聞くの?
ちょっと不思議に思った。
でも聞かれること自体はこの生活を始めてからは当たり前のことだったから、私は深く考えずに話し始めた。
「また、川島さんに抱かれる夢でした」
事細かに話すのはさすがに恥ずかしい。だから、何をどうしたなんて細かいことは言わない。
夢の中の川島さんは優しかった、ってことと、私はそれで嬉しかった、気持ちよかったってことを言えばそれで終わりだ。その間川島さんは黙って聞いてる。昨日だってそうだった。
でも今回は違った。
「それがきみの望みなの?」
突然聞かれて、それは『はい』としか返事ができない問いで、でもそんな返事をしたが最後、私はきっとここにはいられなくなるのが明かで、私はたっぷり一分は何も言えなかったと思う。
「な、なんでですか?」
やっと口にしたのはそんな時間稼ぎ。
それに答えず川島さんは
「お腹は?」
と聞いてきた。
「え? いえ」
それだけ言って首を振った。
起き抜けだ。まだお腹が空いたなんて感覚、無い。
「昨夜も食べてないのに?」
そういえばそうだった。
「昨日はお昼も食べてない。そして今日はもう夕方だ。ほぼ一日食べてないことになる。それなのに?」
そう……だったっけ?
でも本当にお腹は空いてない。お腹が空きすぎたときの胃の痛みも感じない。
ただ寝たいと思う。
あんなに寝たのにまだ眠い?
違う。眠くない。ただ寝たい。あの薬を飲んで夢を見たい。
「結衣ちゃん。きみは今、何をしたいと望んでいるの?」
「え?」
心の中を見られちゃったみたいな気がして聞き返した。
「今。まさにこの瞬間。お腹は空いてないって言う。ご飯を食べに外に出るのはおっくう? じゃ、出前を取れば食べる? 昨日からお風呂にも入ってないけどそれは? 遊びに行くのはどう? 何かしたいと思うことが今きみの中にある?」
外に出るのはおっくう。お風呂も遊びに行くのもめんどくさい。ご飯を食べることもどうでもいい。
ただ夢を見ていたい。
寝て、また川島さんとの夢を見たい。
「マウスは喋らないから」
川島さんは独り言のように言ってお尻ごとずらして、ベッドとは関係のない方を向いてしまった。
本当に独り言なんだろうか。そんなふうに背中を向けられると相づちを打っていいのかもわからない。
「薬を投与し始めて三日もすると全てのマウスの動きが鈍くなった。見た目にはどこにも異常を認められなかった。ただ、エサ入れの前にうずくまってじっとしている。薬入りのエサを入れるとそのときだけ活発になる。エサを食べてしまったらまたうずくまって眠ってしまう。一週間もしたら全てのマウスが一日中眠り続けるようになった。まるで冬眠しているように」
「冬眠……しますか?」
ほ乳類で冬眠するのって、熊とかそんなのしか思い浮かばない。マウスって、ねずみってそんなに寝る?
「ふつうはしないよ。だから僕はてっきり冬眠できる薬を作ってしまったんだと思った」
目の前のマウスがばたばた眠ってしまったんなら、そう思っても不思議はないかもしれない。
「簡単に言うと、寒くなるとまず体温を維持するために大変なエネルギーが必要になるわけだよ。でも冬場はエサになるものも少ない。エネルギーの元にできるものが無い。だから冬眠をする動物ってのは、まだエサが豊富な内に体や巣穴に蓄えておいて、外気温が下がったら自分の代謝活動も低下させて活動をやめてしまう。でもね。マウスはそんな寒い場所に置いていたわけでもないし、エサも体に脂肪を蓄えられるほどには与えていなかった」
えーと?
マウスはふつう冬眠しない。で、川島さんが実験に使ったマウスは、冬眠しなきゃいけないような状況、たとえばすっごく寒いところだとかに置かれてたわけじゃなかったし、エサも薬混じりってだけで高カロリーなものをたっぷりってわけでもなかった。
なのに日が経つにつれマウスたちは活動が鈍ってきて、しまいには冬眠に似た状態になった……?
「そういうこと。僕はそんな薬を作ったつもりはなかった」
ふう、と細く息を吐いて川島さんはメガネを外した。そして眉間をあの長い指で揉んだ。
疲れてるんだろうか。
「僕は夢を見る薬を作ろうとしてた」
寝る薬じゃないんだ。やっぱり夢なんだ。
「現実の世界に影響される夢を見る薬、ってすごいと思わない?」
眉間を揉む指の隙間から、底光りするような川島さんの目が見えた。
怖い。なんで?
「夢を見ることで脳は影響を受けるか否か。その影響は現実の世界を変えるかどうか」
意味がよくわからない。
川島さんはいったい何の研究をしてるの?
「人は、生き物は、眠らずにはいられない。どんな野生動物だって眠る。寝ている状態というのはとても無防備だ。それでも睡眠をとらないことには生きていけない」
川島さんの話はちゃんと聞いていないとわからなくなる。
いったい何に関係してるんだろう。
私?
私はたくさん寝てた。
夢をたくさん見て、すっきり目が覚めて、また寝たいって思った。
「眠りにはいるとまずノンレム睡眠が始まる。眠りは少しずつ深さを増して、もっとも深い眠りの状態に入る。脳の活動はほぼ限界まで低下する。これを徐波睡眠と呼んでいる。この段階で起こそうとしてもなかなか起きられないし、夢は見ていないことが多い。脳の電圧変化を測るととてもゆっくりとした大きな波形を描く。しばらくすると体は眠ったままなのに脳電図は覚醒状態と同じ波形を描き始める。レム睡眠と呼ばれる眠りだ。この段階で起こすと脳は活動しているときと同じ状態に近いからだろうが、さっぱりと目を覚ますし、約80%の人が『夢を見ていた』と答える」
「ふ……ぁ」
「眠い?」
あくびを見とがめられてしまった。
「あ、いえ。ごめんなさい。なんだか急に。あのっ、決してお話がわからないとかそういうことでは」
それじゃすごいバカみたいだから、そこは必死に否定を試みる。
あ、信じてない感じの顔だ。
「いいよ。退屈な話だね。けど、きみにも関係する話だからもうちょっと聞いて」
「はい」
ベッドの上だから眠ってしまいそうになるんじゃないだろうか。
私は体を起こすとベッドの縁に座った。
ああ、でも体がふわふわする。寝たいな。やっぱ眠い。
困ったな。
知らない言葉が多すぎて意味を考えられない。
「ほぼ90分の周期でノンレム睡眠から徐波睡眠を経てレム睡眠というサイクルを3回から6回繰り返すのが一晩の典型的な睡眠のパターンだ。その周期を繰り返すごとに徐々に眠りは浅くなり覚醒する。ではもし繰り返しのない睡眠を取ったとしたら?」
「……は?」
繰り返しに何か意味があるのかな。
あるんだろうな。意味があるからそういう眠り方をするんだろう。
「眠っているあいだじゅう夢を見続け、目が覚めても覚えていられるようにレム睡眠に入ったらそれを覚醒するまで持続させる。そんな薬があったらどうだろう。そしてそれは、その日もっとも強く印象に残った出来事を必ず夢に見せるという特性も持っている。たとえば生まれて初めてキスをした。するとそれを夢に見る」
うわあ!?
「頬に触れる。抱きしめる。そうするとそれを必ず夢に見る」
見た。見ました。だからもうやめて。それは恥ずかしくて聞いてられない。
「もう少し強く影響するような薬を作れないだろうか。キスをしただけで抱かれてしまうような夢を見る。優しくされただけで、自分はこの人に愛されている、と実感するような夢を見る。それも強烈なリアリティを持った夢。現実と夢と、どちらが本当なのかわからなくなるような夢」
「ひえっ!?」
変な声が出た。
それは、すごく今の私の状況じゃないですか?
「そうしたらね、その薬はとても『使える』薬になる、と思ったんだよ」
「使える……?」
えっちな夢を見る薬のどこに利用価値が?
今の私はなんか幸せ。好きだけど絶対振り向いてくれないってわかってる人と、現実なんじゃないかって勘違いするくらいすごい夢が見られる。もしもこの薬が買えたりするんだったら買いたいと思う。
でも逆はどうだろう。好きでもない人をむりやり好きにさせる、くらいのことはできるかも知れないけど、それで誰が得をするの? ストーカーしてる人が思いを遂げられるくらいのことしか考えつかない。
「たとえば――そうだな。もしも選挙運動真っ最中に、自分が思ってもいなかった候補者に投票する夢を見たらどう思う?」
投票権、まだ無いんでぴんときません。
「街の中で声を張り上げてる車を見て『ああ、そろそろ選挙か』なんて軽く思う。そんな認識しかない人たちが誰かに、はっきりと決まった誰かに投票する夢を毎晩見るようになったら、どうすると思う?」
「き、気持ち悪い……かな」
投票所の夢ってなんかあんまり楽しくなさそうだし、自分が思っていた人に投票するならまだしも、そうじゃない人に投票する、ってなると、なんか嫌だ。
「まあね。でも続く内に『なぜこんなに夢に見るんだろう。もしかして自分は本当はこの候補者の方がいい、と無意識に思ってるんだろうか』と思い始めたら?」
もう全然意味がわかんない。
思い始めたらどうだって言うの?
「夢によって『この人に投票すべきなんだ』と思わせる。当日実際に投票させる。これは立候補者にとってはおいしい話だよ」
「そう、ですね」
一応肯定してみたけど、実はよくわからない。
だって、投票する『かも』なんでしょ? そもそもそんな夢をどうやって見させるの、って話だし。
「そんな暗示をかけるくらいなんなくやってのける人たちはいる。でもこの薬は今はまだ直接関わらないと夢に見るほどの影響は与えられないみたいだ」
「え?」
川島さんはやっと眉間を揉むのをやめて、メガネをかけた。
「僕がきみにしてたこと」
ああ。
薬がカプセルなのに不必要に口移しで飲ませたり、一緒のベッドで寝て起きたら抱き枕状態だったりのあれか。
あれが!?
あれは全部実験に必要だからやってたこと、っていう意味!?
座っているのに全身から力が抜けそうになる。
うそ。
そんなの嘘だ。
だって川島さんは。
私に好きって言ってくれたのは現実じゃない。夢の中だ。
私にかわいいって言ってくれたのも現実じゃない。それも夢の中でのことだった。
じゃあ、私が川島さんを好きだと思ってるのも、これは夢の中の川島さんを好きなだけで、ここにいる現実の川島さんを好きになったわけじゃない、ってこと?
でも、じゃあ、どうして夢の中で私が好きになる相手が川島さんの姿をしてなきゃいけないの?
だってほんの数日前に知り合っただけの人だ。
そうだ。
好きになる方がおかしい。
困ってるところを助けてくれた。
お金がない、って言ったのに、それを助けるように、お金をくれた。
行くところも頼れるあても無い私は本当に助かったんだ。
だけどそれだけだ。
この人との関係はそれだけだ。
好きになるような出来事は何一つ起こってない。
夢を見る前にされたことに影響された夢を見て、川島さんはすてき、だの、川島さんは優しい、だのってイメージが私の中で出来上がって、私は偽物の川島さんの前でなら自分を偽らずに『女の子』でいられるって思い始めて、その川島さんを偽物だと気付かずに好きだと思ってしまった。
「ゃ……で、も……」
喉が潰れたみたいに声が出せない。
そんなのって。
そんなのってない。
「実験は成功したように見えたよ。三日目の夜にはもう僕に抱かれる夢を見た、なんてね」
口の中がカラカラなのに、目の前が水っぽくぼやけてくる。
やだ。
言わないで。
そんな夢を見る自分にびっくりした。でも嫌じゃない、と思い始めてた。
それが見せられてた夢なんて。
つう、と最初の雫が頬を伝い始めたら、涙が止まらなくなってきた。
「きみはキスの経験もない、って言ってた。その子がたったこれだけのことでそんな夢を見るまでになった。それもたった三日で。これはいける、と思ったよ」
いける、って何ですか。
その薬を悪用するんですか。
何に使えるのか、私の頭じゃまだピンと来ないけど、なんか悪いことに使えるんでしょう、それ。
偉い人が使ったら多分世の中のいろんな事がぐるんとひっくり返っちゃうようなことができちゃうかも知れないんでしょう。
川島さんはそういう悪いことに関わってる人なんだろうか。
「ところが」
川島さんは、小さな声で「よっこらせ」と言って座り直した。
私の方を向いてあぐらをかく。
「マウスだ。思い出して」
「え?」
涙がだらだら流れてる顔を上げてしまった。
川島さんは驚いた顔をして、ティッシュの箱を取ってくれた。
「マウスが冬眠状態になった、と言ったでしょう」
「ああ、はい」
なんかすごく悲しい気持ちなのに、つい返事をしてしまった。
だって、なんかもう、この目の前のことがどうでもいいんだもの。
目の前にいる川島さんは私が好きになった川島さんじゃない。私が見る夢の中の川島さんが、私の好きな川島さんなんだ。だったらもう夢なら夢でいいから、私、夢を見たい。
眠ってしまって、幸せな夢を見たい。
話が早く終わってくれるんだったら返事くらいいくらでもするわ。
2009年1月18日