あやしいバイト(仮) 8


「その原因は何だろう。投与期間に、あるいは量に限界があるのか。でもマウスは喋らない。マウスはどんな夢を見ていたかも教えてくれない。だから人体実験に踏み切った」
 それで私なんですね。
 多分、私がどこにも行けない状況だったのも「うってつけ」だったんですよね。わかってます。
「多感な時期の女の子であること、身寄りが極端に少ないこと。これはとても都合が良かった。命に関わるようなものは作ってないけど、それでも万が一って事もある。でもきみなら――その点の心配は必要ない、と考えた」
 川島さんの声が右から入って左に抜けていくような感じがした。
 壁にもたれかかって座る。
 この人にとって私、本当に20万で買われた実験動物だったんだ。
 手足から力が抜けていく。
 かっこいい、と思った川島さんの顔を見る気にもなれない。
 ただ寝たい。
 眠くて、寝たくて、朦朧としてきた。
 薬が欲しい。
「でもこの薬はだめだ」
 わさわさと布が擦れるような音がした。
 ベッドの縁が沈む。
 川島さんがこっちに動いてきたんだ。
 はなし、まだ続きますか?
 眠っちゃだめですか?
「まず第一に、命に関わる。無気力どころじゃない。きみは食事をしなくなってる」
 だって、お腹空かない。
 それに一食や二食抜いたくらい、どうってことない。三日くらい食べなかったら大変だろうけど。
「マウスたちがエサだけを食べていたのは、それ以外の幸せを知らなかったからだろう、と推測する。彼らがもし夢を見るとすれば、きっとエサをたらふく食べる夢を見ていたと思う。だからこそエサ入れのすぐ側で眠り、エサが入れられればそれをすぐに食べ、また眠っていたんだ。夢と現実の境が曖昧になりながら、彼らは常に『満腹』という幸せを得ていたはずだ」
 わけわかんない話が子守歌になる、って本当だったんだ。
 ねずみたちはきっとやさしいおじいさんが穴の上からおむすびを落としてくれた夢を見ただろう。
 おむすびころりん、すっとんとん。もひとつおまけに、すっとんとん。
 そうしてお腹いっぱいおむすびを食べるんだ。
 おむすびの後に穴に落ちたおじいさんはきっと、川島さんの顔をしているだろう。
 ねずみたちは川島さんを、お餅をついてもてなしたんだ。楽しかっただろうなあ。
 だって夢の中は楽しい。そう決まってる。
「次に副作用がある。副作用、と断じていいかわからないが、夢から覚めた後もまだ夢うつつなのは僕の意図していたところだ。だが、睡眠を充分にとってもまだ寝てしまうのならこれは使えない。レム睡眠を連続させる不自然さに体がついていかないのかもしれない。僕の使ったマウスは常に眠ろうとした。眠っている間に見る夢の世界に生きていたからなのか、眠っているはずなのに眠っていない状態に陥っていたのかそれはわからない。けど、この薬に必要なのは、夢を現実と取り違えることと、取り違えたまま行動できることの二点だ。眠っているばかりで動けないのならこれは失敗作だ」
 失敗か。
「だから実験はここで打ち切る」
「え!?」
 半分くらい眠りかけていたけど、一気に目が覚めた。
 打ち切る?
 終わり?
「じゃ、私は?」
 ここを出て行かなくちゃいけないの?
 もう薬は飲めないの?
 あの夢は見られないの?
「残りのバイト代を払うよ。もう薬は飲ませるわけにはいかない」
 川島さんは立ち上がると、台所へ行った。食器棚の引き出しを開けて、封筒を手に戻ってくる。
「80万入ってる。前金と合わせて100万」
 差し出された封筒を受け取れない。
 合わせて100万!?
 なんで?
「そんなにもらえません」
 実験が最後までできなかったのに、そんな大金もらえない。
「きみには必要なはずだ。これでも足りないくらいだと思う。家を探すというのなら手伝ってあげる。保証人が必要だというならなろう」
「なんでですか」
 私のことなんかどうでもいいはずだ。
 だって『実験に都合がいい人間』ってだけだもの。
 他に助けを求めるあてもない、身寄りだってどこに行ったかわからない父さんと兄ちゃんだけだもの。兄ちゃんは最悪会社に問い合わせれば連絡は付くだろうけど、せっぱ詰まらない限り頼れなさそうな雰囲気を、兄ちゃんからではなく兄ちゃんの恋人から感じた。
 だから。
 私は多分『私』として、つまり『松下結衣』として必要とされてる場所をどこにも持ってない人間なんだ。
「きみに対してはそうしたいと思ったから。それじゃ理由にならない?」
「なりません」
 だって。
 だって、あなたは私のことを。
 泣きたいのに、目がぴりぴりするだけで涙が出ない。
 瞬きをして、気が付いた。
 これが、川島さんが言っていた『肥大した自意識』なんだ。
 笑えてくる。
 私を見て。私だけを見て。私だけを大事だって言って。
 そんな気持ちがふくれ上がって、でも実際には川島さんは私を『私』じゃなく『被験者』としか思ってなくて私はその現実を受け入れられない。
 私が『私』だった、しかも『そうなりたかった私』だった夢の世界に帰りたくて仕方ない。
 川島さん。あなたは天才かもしれない。あなたの薬は、私の夢と現実の世界の境界をめちゃくちゃにしてしまった。
 私はもう『こっち側』にいたいと思えない。
 好きだなんて思わなければ良かった。
 もう涙は流れていないのに、私はもう一度ティッシュで目を拭いた。
「お願いがあります」
「なに?」
「前金の20万と今いただいた80万で、あの薬を売ってください」
 こんなお金使い切ってしまえばいい。
 そしてありったけの薬を飲んで寝てしまおう。
 どのくらい眠れるかわからないけど、きっとかなり長い時間眠っていられるはずだ。
 長い間、幸せな夢だけを見て眠って、そしてそのまま。
 川島さんは一瞬目を瞠ったけど、すぐに
「だめだ」
と言った。
「なぜ……」
「無認可の薬なんか、売れるはずがないだろう。それにこの薬が失敗作である理由は言ったはずだ。命に関わる、と。そんなものを渡すわけにはいかない」
 つい、くすっと笑ってしまった。
 そんなものを飲ませたくせに。
 私、契約書まで書いたのに。
 今更だ。なにもかも。
「なるほどね」
 私が笑ったせいで、考えるような表情になっていた川島さんが口を開いた。
「つまりきみはそこがどうしても克服できないんだな」
「え?」
「克服でないなら納得と言い換えてもいい。きみは別に僕に抱かれたかったわけじゃない。女の子になりたかっただけだよ。違うかい?」
 違う、と思います。
「ふつうはね、『僕の家に来る?』って聞かれて、会って10分も経たないような男について行かない。どんなに困った状況にいたって、警戒するものだよ。なのにきみはあっさりついてきた。聞けばお兄さんがいると言う。警戒心の無さはそれかとも思ったけど、僕ときみのお兄さんじゃ年齢からして合わない。きみが警戒心を抱かない理由にはならない。じゃあ、なぜきみはついてきたか」
 そりゃ他に行くあてが無かったから。
「きみは心のどこかで自分を女じゃないと思い込もうとしている部分があるんだよ。相手が誰であってもあまり態度が変わらないから、男女関係なく誰とでも仲良くできそうでいて、深く付き合える相手がいない。自分で一歩引いてしまうし、相手もどこまできみに踏み込んでいいのか掴めない」
 そんなの知らない。
 だってずっと女の子になりたかった。
 みんなと同じように髪を伸ばしたり、休みの日に目的もなくぶらぶらしたり、かわいい服を着たり好きな人の話をしてみたりしたかった。
「したいのにできない。抑圧されたその感情は逆に向かう。できないのではなくしないのだ、と行動を正当化する」
 そんなことしてない。
「男の家に転がり込んでも何も起こらないと思っている。自分は女じゃないから。他人に女だと認めてもらえないから。女に見られないんだったら綺麗に着飾ることもない。服装だってユニセックスな物になっていく。行動も仕草も、どうせ何をやっても女だと見てもらえないなら、と変化していく」
 そんなことない。
 そりゃ、ここに来てからはスウェット上下とかの格好が多かったけど、それは仕事が寝ることだったから、寝やすい格好を選んだだけで、それ以上の意味は……。
「ついこの間まで高校生だったのに、好きな子もいなかった?」
 それは。
 好きだって思えるような人がたまたまいなかっただけで。
 そんなの私のせいじゃない。
 現に私は川島さんを好きになった。薬や夢が大きく影響してるかも知れないけど、本当に好きだと思った。
 男の人を好きだって思う私はちゃんと女だと思う。
「自分で作った枷が僕の薬のせいで外れちゃったんだよ」
 川島さんの手が伸びてきて頭を撫でられた。前髪をかき上げるように髪の中に指を入れてくる。
「僕に抱かれるような夢を見たのは、誰でもいいから誰かに女性として扱われたい願望の表れだ。それ以上の意味は無い。だからきみは安心してその気持ちもあの夢も忘れていい」
「川島さん……」
「キスは、ごめん。こんなおじさんが最初で、本当に悪いことをしたと思ってる」
 なんで。
 忘れなきゃいけないの?
 嫌じゃなかった。
 川島さんとキスしたのは嫌じゃなかった。
 何をどう言えばいいのかわからなくてただ首を振る。
 でも川島さんは困ったように微笑んだ。
「そう簡単に忘れられるわけないか」
 忘れたくないです。
 実験は終わってしまった。でも私は川島さんを好きでいたいです。
 たとえそれが夢のせいで植え付けられた恋心だとしても。
「薬を売ってもらえないのなら、こっちならきいてくれますか?」
 せめてひとつだけ。
「なにかな」
「私を抱いてもらえませんか?」
 夢の中でなく、現実で、女だと実感させてください。一度でいいから、それきり終わりで、その後はさようならで二度と会えなくてもいいから。
 川島さんは痛みを堪えるように顔をしかめた。
 ぎし、と音がしてベッドのマットが揺れる。縁に座っていた川島さんが立ったんだろう。
 ぎゅっと抱きしめられた。
 背の高い川島さんの腕と胸の中に閉じこめられたようで、体中から力が抜けていく。
 あたたかい。
 川島さんはもちろん、こうして抱きしめられていると体の内側からじわっと温かくなる。なんて安心できる場所なんだろう。
 夢と一緒だ。ううん。それ以上だ。自分の内側から満たされていく。
 川島さんが喉が絞られたような変な声を出した。
「ごめん」
 たった一言。
 それで充分だった。
 温かいもので満ちかけていた私の体が凍り付く。
 頬がこわばる。
 そんなに、私は、だめ?
 川島さんは四十って言った。女の人との関係は当然あるだろう。こんな子供に口移しで薬を飲ませちゃうくらいだ。きっとそういう事に慣れてる。そういう人が、戯れにでも抱けないって言う。
 そのくらい私はこの人にとって女じゃないってことなんだ。
 腕が離れていく。
「いえ。すみませんでした」
 頭を下げるふりをして川島さんから目をそらす。
 無理を言ったのは私。
 これで決心が付いた。
「実験終了なら、もう薬は飲まなくていいんですね?」
「ああ。もう飲んじゃだめだ」
 じゃあ、と私は布団をめくった。
「ふつうに寝ます。明日から家を探そうと思いますが、見つかるまではここに置いてください」
「もちろん。家探しも手伝うし、手伝えることがあったら言ってく」
「ありがとうございます。それじゃ、おやすみなさい」
 川島さんの言葉を遮ってお礼を言った。
 話のさいちゅうはあんなに眠かったけど、もう眠気はすっかり消えていた。
 でも私は目も合わさずに挨拶をして、布団を被って、壁の方を向いて目を瞑る。
 眠くて仕方ないふりをする。
「結衣ちゃん。食事やお風呂は」
「なんだか疲れてるので明日にします。私のことは気にせずにどうぞ」
 薬を飲むのをやめたんだから、もう私を監視する必要はないはず。
 私が食べてないんだから、と外食はしないかもしれない。でも、食べる物を買いにコンビニに行くくらいのことはするかもしれないし、お風呂にだって行くだろう。
 川島さんは私が薬を飲んで眠ってしまってからお風呂に入っていたようだ。
 監視をしなくてはならないのは私が起きている間だけ。薬を飲んだら私はぐうぐう寝ているんだからその隙に自分のことをしていたに違いない。
 そこまで考えて、あの抱き枕状態の理由にも気が付いた。
 あれは、万が一私が先に起きた場合の保険だ。寝ている川島さんが私が起きたことに気が付くためには、私の体を押さえているのが一番わかりやすい。そんな理由だったんだ。決して特別な意味があったわけじゃない。
 どんどん心が冷えていく。
 ともかく、川島さんは私が寝たと思ったら絶対にお風呂に行く。
 何時間後になるかわからないけど、きっとお風呂に入る。
 その時がチャンスだ。

 息を殺して寝たふりをするのは苦しい。
 すぐに耐えられなくなって、はふ、と大きく息を吐いた。
 本当に寝ているときってどんな息の仕方をしてるんだろう。
 知ってるはずがない。寝てるんだもの。
 でも多分こんなふうに力が抜けてるはず。
 だから私はゆっくりと呼吸を繰り返した。深呼吸のように長々と吐いて、ゆっくりと細く吸い込む。
 あとどのくらい待つことになるのかわからないんだから、力は抜けてる方がいい。
 ふいに肩に温かい物が触れた。
 動かないようにするのが精一杯だった。
 川島さんの手だ。
 なに? ひっくり返されるの? 寝たふりってばれた?
 力を入れちゃいけない。
 でも心臓がドキドキする。
 川島さんの手はしばらくすると離れた。
 そして溜息がひとつ。
 足音が遠ざかる。
 洗面所のドアの開く音。電気のスイッチの音。それからちょっとして、お風呂のドアが開いて閉まる音。
 もう少し。
 もう少しだ。
 かすかにシャワーの水音が聞こえてきた。
 それでもまだ安心できなくて、そこから百数えた。
 もういいだろう。
 咄嗟にこっちに戻ってこられないくらいには川島さんの体は濡れたはずだ。
 ベッドから起き出す。
 常夜灯の薄暗いあかりの中でもその場所へは迷わずに行けた。
 本棚の上から二段目。私にだって手が届く高さに置いてあるインスタントコーヒーの瓶。
 その中に入っているのはつい数時間前まで私が飲んでいた薬だ。
 瓶を手に取る。
 フタを捻り、受け皿代わりにしてそこへカプセルをざらざらと出した。
 あんまりたくさん出すと、私が取った、ってすぐにばれちゃうだろう。
 でもばれたっていい。もう構わない。
 このカプセルだけ持って、川島さんがお風呂から出てくる前に私はここからいなくなるんだから。
 荷物もなにもかも置いて出て行けばいいんだから。
「なるほどねえ」
 声と同時に部屋の灯りがついた。
 ぎょっとした拍子に瓶を取り落とした。
「あっ!」
 慌てて手を伸ばすけど掴めるわけがない。
 瓶は床に落ちて、カプセルがざあっとこぼれた。
「依存症というのはものがなんであれ深刻だ」
 川島さんが部屋の入り口の壁に寄りかかって腕組みをしてこっちを見てた。
「な、なんで……」
「なんで?」
 だってお風呂に行ったじゃないですか。
 川島さんはなんだか意地の悪い微笑みを浮かべて言った。
「そりゃ警戒してるからに決まってるでしょう。寝息らしきものは立て始めてたけど、体を触っても入眠したと思えるような弛緩は起こって無さそうどころか緊張してるように見えたし。それに『薬を売ってくれ』なんて言われてるんだ。疑わない方がどうかしてる」
 ああ、つまりこうやって薬を盗むだろう、って思われてたんだ。
 もう私はどこまでこの人に嫌われればいいんだろう。
 ただの被験者でさえなくなってしまった。未遂とはいえ泥棒で、失敗作とはいってもこれを元にまだ何かするんだろう貴重な薬を床にぶちまけて無駄にした。今更拾ったって多分3秒ルールってわけにはいかない。
 うなだれる私に川島さんは
「心配しなくていい。それは全部偽薬だから」
と言った。
「ギヤク?」
「そう。偽物の薬。中身はブドウ糖やビタミン剤とかそんなもの。薬を飲んだ、と思いこませるために使う物で、体に害は無い。いくらなんでもそんなところに本物を放置しないよ。作ったときのデータがあるから薬はすでに処分してある」
 どこまで用意周到なんだろう。
 そうだよね。私みたいな不心得者がいるものね。
 こんな危ない薬、誰でも手が届くようなところに置いてるはず無いよね。
「そうまでして薬がいるの?」
 その問いに答えろって言うんですか?
 他ならぬあなたが。
「夢はどうしたって現実じゃないよ」
「わかってます」
 そんなことはわかってる。現実にはこんな幸せなことは起こらない。
 だから夢の中に逃げ込むしかない。
「そんなにきみの見た夢は幸せだった? そんなに叶えたい夢を見たの?」
 あなたが好きでした。
 薬のせいだったのかどうかなんて、どうでもいいです。関係ないです。
 ただ好きなんです。夢で見たようなことをしたい、されたいと思うほど好きなんです。
 でもそれは叶わない。
 絶対に現実には起こらない。
 ごめん、っていうたった一言で私は拒絶されてしまった。
 私は確かに自分中心で物を考えているし、そうだったらいいなあ、だけで生きてきたんだと思う。
 うちにお金が無いってだけで一家離散したし、お金をもらえるって思って得体の知れない薬を飲んだ。
 人生ってすごく簡単に狂う。
 思ってもみなかった状況に自分がいる。
 それでも。
 それでも今私はここにいて、感じることがあったり、考えることがあったりするんです。あなたから見たらそれはとてもバカバカしいことだろうし、ガキのたわごとだと思います。でも私は今これが精一杯なんです。
 誰かに迷惑をかけることしかできない。
 迷惑をかけて生きていくしかできないなら、迷惑をかけないためには――。
 この薬をいっぱい飲んで、眠ったままでいればいい。それがきっと一番いい。
「薬の効果が抜ければきみはきっとその気持ちを忘れる」
 川島さんはふいと壁の方へ顔を向けた。
「薬のせいでこんな気持ちになってただけだ。だからあれ以上のことをしなくて良かった。そう思う日がすぐに来る。なんといってもきみはまだ若いんだから。未来はきみの前でまだ何の形も取っていないんだから」
 説得、されてるんだろうか。
 でもそれにしては川島さんの声はやけっぱちな感じに聞こえた。
「二、三日ふつうに生活してごらん。体に蓄積された成分も排出されてしまうだろう。そうしたらきみは新しい生活に踏み出す。こんな実験のことも、僕のことも忘れて、新しい家を見つけて、仕事を見つけて、きみの人生を見つける。僕とは関わっていない未来がある」
 川島さんはそう言いながら自分の腕をぎゅっと握りしめていた。
 服のしわがきつく寄る。握りしめてる拳が震えてる……?
「眠れるならなにもせずに眠りなさい。そうでないなら、風呂に入るなり食事をするなり、とにかく薬を飲んでいる間はしなかったことをしなさい」
 そんなことを言われても。
 何も言えなくて、私はしゃがむと落としたカプセルを拾い集める。
 たとえ偽物のカプセルでも片付けないと。
「そのままでいいから」
「いえ。落としたのは私なので」
 それに、他に何をしたらいいのかわからない。
 川島さんは大きな溜息をつくと、どこかへ消えた。
 水音が止まる。出しっぱなしになってたシャワーを止めてきたんだ。
 そしてゴミ箱を持って私の側にしゃがんだ。
 拾いながらどんどん捨てる。偽物の薬とはいえもったいない。
 中身がビタミン剤ならサプリ代わりに使えるんじゃないだろうか。
 でもカプセルの表面はちょっとぺたぺたし始めている。床の埃もくっついている。
 捨てるしかないんだ。
「結衣ちゃん」
「……はい」
「僕は今日はよそへ行くから」
「はい?」
「別の場所で寝るから」
 もう一緒のベッドで寝ることさえ無いんだ。
 胸の真ん中を砲丸が通り抜けていったような感じがした。
 痛い。大きな穴が開いて、風が抜けていく。寒い。
「は……」
『はい』以外の返事をしちゃいけない。
 いけないんだけど。
「い……やです」
「は? 結衣ちゃ……」
「嫌です!」
 川島さんの袖を掴んだ。
「どこにも行かないで! 行っちゃやだ! 私がだめならだめでいいです。でも側にいるのもだめだなんて、そんなのやだ!」
「結衣ちゃん、待って」
 川島さんはぺたりと尻を落として、詰め寄る私の体重を支えようとした。
 周りには積み上げただけの本の壁もある。
 でももう崩したって知らない。
 もう片方の手で胸ぐらを掴んでのしかかった。
「結衣ちゃん!」
「初めてのわけ無いよね、って言ったのは川島さんじゃないですか! 経験があってもおかしくない年なんでしょう? だったら」
 困っているのか慌てているのかはっきりしなかった川島さんの表情が急に引き締まる。
「だめだ、結衣ちゃん。言うな」
「抱いてください」
「聞かない。僕は聞いてない」
「初めては川島さんがいいです。抱いてください」
 苦しそうな顔をして川島さんは横を向いた。
「聞いてない。だめだ」
「何度でも言います。好きです。私に未来があると言うのなら」
 ぽた、と涙が落ちた。
 やだ。興奮して涙出てきた。
「その未来に踏み出すための勇気をください。一度でいいから抱いてください」
 忘れないから。
 生涯忘れないから。
 お金では絶対買えない大事な何かを私に教えてください。
「ゆ……」
 言いかけた唇をぎゅっと引き結んで、川島さんはぐっと私を抱き込んだ。
「ひゃっ……」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。腕と胸とに挟まれて苦しい。
「かわし、まさ……ん、くるし」
 息ができない。
 ゆっくりと川島さんの腕から力が抜けた。
 やっと呼吸が楽になる。
「どこまで信じたの?」
「…………え?」
 初めて聞く低い低い声と、唐突な話の方向転換について行けなくて、十秒くらい呆けた。
「僕の話を。どこまで信じたの?」
 信じるもなにも。
 だって本当のことでしょう?
 私、夢見てたよ。ぐっすり眠って、目覚ましも何にもないのにすぱっと目が覚めて、夢の内容をこれでもかってくらい覚えてたよ。それはさっき川島さんが言ってた――なんだっけ? 夢を見るときの。レム睡眠か。たっぷりその状態になって、眠りが浅くなるとかなしに突然目が覚めてたんじゃないの?
「本気でそんな薬があると思ってる?」
「そう言ったじゃないですか!」
「そんなもの一人で作れるわけないだろ!」
 え?
 えええ?
 はあ、と溜息をついて川島さんはメガネに触れないように手で額を抑えた。
 まぶしくてひさしを作ってるわけじゃないよね。これ、頭抱えてるんだよね。
「そんなとんでもないもの作れるわけがないじゃない」
 もう一度自嘲気味に言うと、川島さんは私を抱えてくれていた手をすっかり離した。
「夢を見るっていうのはレム睡眠の特徴だ。そしてレム睡眠のさいちゅうに目が覚めた被験者はたいていすっきりしている。ということは」
「ということは?」
「眠りのサイクルを無視してレム睡眠ばかりを取ることができたら人間は睡眠時間を削ることができないだろうか」
「……川島さんはいったい何の研究をして、何の実験をしようと思ってたんですか?」
 よくよく考えてみたら、バイトを始めるときにこの人は『夢を見てそれを覚えておいてね』って言った。
 それは内容がだんだん過激になる内容をしっかり覚えておけ、ってことじゃなく、レム睡眠の状態でいてね、って意味に取れないこともない――かもしれない――ような気も――。
 なんかこんがらがってきた。
「睡眠不足ってとても怖いことなんだよ。知ってる?」
 川島さんは膝を抱えるように座ると話し始めた。
 現代人は睡眠を削ることを社会から要求されている。睡眠を削ればその分仕事に充てられる。仕事量が増えれば生産性が上がる。生産性が上がれば社会全体が潤う。
 寝るな。働け。
 それが正しい社会人というものだ。
 朝早くから長時間満員電車に揺られ通勤し、仕事は時間内に終わらずサービス残業を強いられ、へとへとになってまた電車に揺られて帰宅してもすぐに寝床へはいけない。
 眠らずに生きていくことは不可能なのに、生活をするために睡眠時間を削らなければならなくなる。
 慢性的な睡眠不足を抱えた人々は、日中も頭の働きがぼんやりするし、積極性も見られない。仕事量も生産性もがた落ちだ。ストレスも溜まる。ミスを起こしやすくなる。抵抗力が落ちる。
 せめて人間が必要としている八時間の睡眠が取れれば。本来なら成人であっても十時間は正しい睡眠を取りたいところなのだ。
「でも社会はそれを許さない」
 決められた労働時間。時間内には終わらないオーバーワーク。
「どこで取り返す? 休日に寝だめをする? それでも週の半ばにはまた睡眠不足を感じて体には疲労が蓄積される。社会のサイクルを変えるのがムリならいっそ睡眠のサイクルを変えてしまったらどうだろう」
 十時間眠りたいところを短縮する方法はないだろうか。
 浅いノンレム睡眠から始まり徐波睡眠、そしてレム睡眠へ移行し、深い眠りは徐々に浅くなり、だがそこではまだ覚醒せず再び深い眠りへと落ちていくこの周期を変えることはできないだろうか。
 体はぐっすり眠って疲れを癒し、脳も一日をリセットして明日の活動をスムーズに行える睡眠の仕組みはないだろうか。
「もちろん、レム睡眠を連続させる危険性は考えた」
「危険があったんですか?」
 あるよ、と川島さんは答えた。
「科学が進歩して、他の動物とはまったく違う生き物になっちゃった人類が大昔から変えてない、変えられなかったものだよ。それを弄るんだから危険に決まってる」
 そんな危険がある薬を飲んでたの!?
 あれ? でもそんなもの作れないって言った?
「僕はそういう研究をしてました。学生たちは当然それを知ってた。だから学生たちに実験に協力してもらうわけにはいかなかった」
「学生を使おうと思ってた、って言ってませんでしたか?」
「うん。それも嘘」
 川島さんはあっさりと言った。
「彼らに偽薬は効かないから、僕の研究を知らない人に実験に参加してもらわないとだめなんだよ」
「偽薬ってさっき言ってた……」
 ちらりとゴミ箱を振り返る。
 全部捨てられてしまった、中身はブドウ糖やビタミン剤っていうカプセル。
「うん。きみにとっては本物になっちゃったみたいだけどね」
「は? え?」
 川島さんはくすっと笑った。笑ったんだけれどそれはとても疲れた笑いに見えた。
「寝る前に飲んでたでしょ」
「やっぱりあれを飲んでたんですね? 実験終了って言った後ですり替えたとかじゃなかったんですね?」
 本物を処分して偽薬を、なんてそんな暇無いと思ったもの。
 川島さんは頷いた。
「ずっときみはブドウ糖だの整腸剤だのビタミン剤だのを飲んで、僕の暗示にかかって寝てただけ」
 すい、と川島さんの手が伸びてきた。頭を撫でられる。
「ありがとうね。素直な子で助かったよ」
 なんかバカにされてる気がする。
「そんなわけだから」
 川島さんは私の頭に手を乗せたまま、ふい、と目をそらした。
「一時の気の迷いは忘れてしまいなさい」
 なんか、変よ。
 なんかうまいこと煙に巻かれてない?
 この、はっきり形にならないもやもやした疑問を確かめる方法は無いだろうか。
「じゃあ忘れます」
「うん。そうしなさい」
 川島さんはほっとしたような声を出した。
 それだけでも状況証拠に思えるんだけど。
 私は立ち上がると、まだ中身がほんの少し残っているコーヒーの瓶を手に取った。
 本物を偽物にすり替える暇はなかった。じゃあこの中身は最初から偽物だったのか、それとも本物だったのか、どっち?
「体に害は無いんですよね。ブドウ糖って『脳の栄養』ってCMで言ってましたっけ」
「結衣ちゃん!?」
「整腸剤ってあれですか? 『生きて腸に届く乳酸菌』的な。確かにどれを飲んでも問題無さそうですね」
 手のひらにひとつ出す。
 ブドウ糖かな。整腸剤かな。ビタミン剤かな。
 スリルのないロシアン・ルーレットだわ。
「飲むな!」
 立ち上がるやいなや川島さんは手をはたいてきた。カプセルが飛んでいく。
「やっぱり、本物なんですね?」
 振り返りながら聞く。
「違うと言ったはずだ」
 川島さんはコーヒーの瓶を取り上げると中身を全部ゴミ箱にあけてしまった。
「ならどうして全部捨てるんですか」
「偽薬といえども薬品を軽々しく扱うな」
「体に影響は無いって言ったじゃないですか」
 抱き合う寸前くらいまで近づいてにらみ合う。
「川島さんは、私に責任があるって言いましたよね」
 薬を飲んで私に万が一のことがあった場合の責任は川島さんが、って言った。
「結衣ちゃん、話を聞いて」
「聞きましたよ。どれが本当でどれが嘘ですか?」
 あの長い長い話のどこまでが本当でどこからが嘘だったのか。
 私が飲んだ薬は、本当は何ができる薬なのか。
 川島さんは何をどうしたかったのか。
 詰め寄るようにつま先立った。
 川島さんと私の身長差はそれでもちっとも埋まらない。
「なんでだ。納得できる話を作ったつもりだぞ」
 どれがそうなのかわからないけど、やっぱり嘘だったんだな。
「納得できないですから」
「どうしたいの? 何が望み?」
 つま先でバランスが取れなくて川島さんの胸に倒れ込みそうだったのを支えてくれて、川島さんは諦めたのか、ひどく冷たい声を出した。
「薬は渡せないよ。もっと金が要る?」
「両方とも要りません」
 夢に逃げ込むなって言ったのは川島さんだ。
「じゃあなに?」
「抱い……」
「それは絶対に駄目だ」
 川島さんは私を遠ざけるように腕を突っ張った。
「絶対に後悔する」
「しません」
 きっぱり言って、じっと川島さんの目を見上げる。でも目を合わせてくれない。
「僕は今年で三十八だぞ」
「四十って言ってたじゃないですか」
 なんで急に年齢の話なんか。
「あれはもうすぐ四十、って言ったの。だいたいきみね、僕がどんな気持ちで……」
 私は川島さんの腕を振りほどいてぶつかるように抱きついた。
 うわって声を上げる川島さんは、私ごときでは倒れなかった。
「二十二歳も違ったら親子だわ、って思ってたけど、二十歳違いなら平気ですよ」
 言った後で、平気かな、と思った。
 あんまり変わらないような気もする。
 いや、でも、二十歳って成人したばっかりよ。それで子持ちって――いるか。
 親子か。
「充分親子だよ」
 川島さんにも言われてしまった。
「でも本当の親子じゃないです」
「当たり前だ!」
 こんな大きな子供、いてたまるか、と川島さんは言った。
 私も困る。こんな、もうすぐ四十のくせにこんなかわいらしいお父さんなんて困る。っていうかお父さんだったらこんなことできないから困る。
「事実がどうあれ、私にとってあの薬は本物でした。もし川島さんが、あの薬のせいで私がこうなってると思うなら、責任を取って抱いてください」
「それは責任を取った内に入らない」
 川島さんは厳しい口調で言った。
 けち!
 すごく頑張って言ったのに!
「いや。そうだな」
 川島さんは軽く二、三度頭を振って言った。
「そういう責任の取り方をさせてもらおうか。僕もその方が楽な気がしてきた」
『そういう』の意味を聞く前に抱きしめられた。

 キスをすることを目的にしてキスをするのは初めてだ。
 後ろへ倒れかけている川島さんに覆い被さるようにしてそっと唇を乗せる。
「ん……」
 急に恥ずかしくなってきた。目や頬が熱い。
 互いの唇をちゅうと吸うのがこんなに恥ずかしい気持ちになる行為だなんて思わなかった。
 だ、大丈夫だろうか、私。
 まだこれから先があるのに、なんかもう逃げ出したくなってきた。
 だってこれは夢じゃない。
 唇を舐める舌に、混じり合う唾液に、温度も味もある。
 夢の中でもそれは感じていたような気がするんだけれど、今実際に感じているもののほうが強烈すぎて、夢でどうだったかなんて思い出せない。
 そろっと頭を後ろに引いた。
 やっぱり自分からなんてできない。
 川島さんの手ががっしりと逃げる私の頭を掴んだ。それ以上後ろに行かしてくれない。
 綺麗な手だと思った。父さんや兄ちゃんと比べて、だけれど、白くて長い指をしている滑らかな手だと思った。
 でも実際にこうして触られるとわかる。
 これは男の人の手だ。
 髪の毛をかき分けるようにして指先が入ってくる。
 地肌に触れられてぞくぞくする。
「あ……」
 唇が離れる瞬間に盗むように息をした。
 でないと窒息してしまう。
 角度を変え、深さを変えて、川島さんと口づけを交わす。
 唇が濡れる。
 舌が絡まる。
 吐息が混じる。
 それは夢では知ることのできない現実だ。匂いも味も温度も、夢の中で想像はしたんだろうけど結局感じることはできなかったものだ。
「…て、る」
「なに?」
 川島さんが聞いてきた。
 声に出ちゃってたんだ。
「わ、たし……、川島さんと、キスしてる」
目の前の顔がくしゃっと笑った。
「そうだよ。何をしてると思ってたの」
「ん……」
 ぶつかりそうなくらい近くに川島さんの顔があるせいでうつむくこともできない。
「夢でも、いっぱいしました」
「そうらしいね」
 頬を撫でられる。その手が首を撫で、肩を撫でて、下へと降りていく。
「でもそれ、僕は知らないから」
「知らないって……」
 ちゃんと報告したのに。かなり恥ずかしい思いをしながら。
 川島さんはまたちょっと笑った。
「そうだね。それ以上のことも聞いた」
 うわあああ! やめて。いや、えっと、今からそういうことをするのはわかってるんだけど、言っちゃだめだあ!
「でも詳細を知らない」
 言わないでしょ! そこはふつう言わないでしょ!
「夢の中の僕の方が上手かったら嫌だなあ」
 くくく、と川島さんは笑った。
 嫌そうに見えない。
 脇腹に川島さんの手が添えられた。
「ひゃっ」
「くすぐったい?」
「少し」
 それよりも驚いた。いつの間にそんなところに手が。
 スウェットをめくり上げて手が中に入ってくる。
「え、あ!? か、川島さん!?」
 いきなり? っていうか、もう?
 ちょっと待って。この、本の壁の隙間でしかないような床の上は嫌だ。
 それに電気も消して。
 でも本当に気になるのは
「む、胸は……っ」
 触られたら無いのがばれちゃう。
 一回こっきりなんだから、せめていい思い出を残したい。
「ん?」
「あのっ。胸ってどうしても触らなきゃいけないものですか?」
 触らずに済むならそうしてほしいんだけど。
 がっかりされたくない。川島さんだってこんな胸触ったってきっと楽しくない。
「絶対、ってことはないと思うけど」
 スウェットの下に入ってきていた川島さんの手が私の胸のあたりを覆った。
「ひゃんっ!」
 背中が反る。
「痛い?」
 首を振る。痛いわけじゃない。
「怖い?」
 がっかりされるのが怖い。
 指先に力が入った。ふつうならこれはきっと胸を揉む動作になるんだろう
 けど、私の場合、そのあたりの脂肪に川島さんの指先がほんの少しめり込んだだけになった。
「ゃあ…っ」
 それでも、その行為は気持ちよかった。
「いい反応だ」
 川島さんは嬉しそうに顔をほころばせると、むにむにと指を動かす。
「あ、ああ…んっ、あ、や、う」
 我ながら、やらしい声が出るなあ、とびっくりした。
 こんな、おっぱいと呼んだらおっぱいに訴えられそうな容積の胸でも気持ちいいんだ。
 ああでも川島さんはどうだろう。
 楽しくないよね、こんなの。だって無いもの。肉が無いもの。
「ふ、は…っ、か、わしまさ…ん」
「なに?」
「やめ…、むね、や、ああああっ」
 胸は嫌だって言おうとしたのに指の動きを早めたよ、この人!
 なんだってこんなに気持ちいいんだろう。
 ブラをしてなかったのが裏目に。いや、こうしたかったんだから表目?
 ぺろりと首筋を舐められた。
「あああんっ!」
「なにをぼんやりしてるの? もっと激しいのが好き?」
「ひゃっ……、ち、違います」
 こんなの夢の中でもあった。あったよ。舐められた。でも違う。全然違う。
 舌の熱さが違う。柔らかさが違う。舐められた後の場所がひやりとする。
 夢と全然違う。
「あ」
 首の付け根に吸い付かれた。
 びくっ、と体が動いた。
 倒れないようになのか、川島さんの腕が背中を支えてくれた。
 もう片方の手はまだ胸を触ったまま。
 背中の方からもスウェットをまくり上げられる。
「ふあ…っ」
 脱ぐんだろうか。自分で脱いだ方がいいんだろうか。
 でも明るいところで自分から脱ぐのはなんかやだ。
 それに、明るいところで裸になっちゃったら、薄いのもばれちゃう。
 やっぱり子供だってバカにされちゃうかもしれない。そんなのいやだ。
「結衣ちゃん」
 優しい声で名前を呼ばれる。
「は、い」
 私、だめだ。名前を呼ばれるのってだめだ。
 川島さんの柔らかい低い声で名前を呼ばれると、すっごく気持ちがいい。
「脱いで」
「……はい」
 なんでも言うこと聞いちゃいそう。
 あかりがついたままの部屋で脱ぐなんて、すっごく恥ずかしいけど、こんなふうに言われたら脱いじゃう。
 スウェットを上下とも脱いでTシャツとパンツだけになる。
 川島さんが顎でベッドを示した。
 床でするのはやだな、って思ってたから私はちょっとほっとしてベッドに仰向けになった。

2009年1月19日