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■ Like a shine |
ToHeart2 |
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作者/バリゾウ:掲載/2008/07/20 |
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前編
「なぜこんなにも」
懐かしい気持ちになるのだろう。
北東を見上げると夜空に浮かぶ満天の星星。その中でも一際輝く七つの星、北斗七星。
あの星達を眺めていると、心の奥が締め付けられたように苦しくなる。
あたかも大切な宝物が仕舞って置いてあるような気持ちになる。
だからふと気付けば、手を伸ばしていた。手に浮かぶ星が欲しくて堪らなくて。
けれど決してこの手が届く事はなく、諦めてその手を下ろす。
それでも尚を私は天を見上げる。それだけが私に許されている事だから。
地上からいつまでも天に輝く星を眺めた。私を懐かしくさせるあの星を。
何故こんなにも懐かしいのか。必死で何かを思い返すが、結局分からない。
「お~い、るーこ。そろそろ帰ろう。風邪引いちゃうぞ」
遠くで呼ぶ彼の声。咄嗟に誰の事だが、分からなかった。
るーこ、そうだ。彼が呼ぶ私の呼び名。彼にだけ許した私のあだ名。
「今行くぞ……うー」
咄嗟に言葉に詰まる。本格的に調子がおかしいのかもしれない。
今日は早めに寝るとしよう。そう決めて、公園の外で待つ彼の元へ。
最後に、北東の空をもう一度見上げる。すると、光った。
今星が不自然な明滅を繰り返した気がして目を擦る。
もう異常はなく、何かの見間違いだったのだと思い、止めた歩みを再開する。
痺れを切らして待っているだろう彼の元へ。その途中、脳裏に浮かんだ素朴な疑問。
彼は私を、私をなんと呼んでいただろうか。
◇ ◇ ◇
異変は気づかぬ内に始まっていた。
まるで体内を静かに侵攻する悪質の病魔のように少しずつ蝕まれ続け、気づけば既に手遅れだった。
(もっと早く気付いていれば。でも果たして俺に何ができた?)
その後、俺を待っていたのは、後悔と自問を繰り返す日々。
日に日に全てを忘れていく彼女を見守りながら、自分こそが絶望に支配されていた。
「貴明、どうかしのたか」
心がまた少し重くなる。彼女が俺を貴明と呼ぶ度に少しずつ。
俺ではない誰かの呼び名。その言葉を彼女が口にする度に、目の前にいる存在が、赤の他人のような錯角に陥ってしまう。
頼むから俺をそう呼ぶなよ。
何も悪くない彼女に、今すぐ怒鳴りつけたくなる。だが、俺を不思議そうに見つめる彼女に、怒りは続かず霧散した。
代わりに湧き起こる寂しさと虚しさ。何も分かっていない彼女が痛ましく、俺はまともに顔を見れない。
「どうしたというのだ?」
その心配そうに歪めた顔に申し訳なくなる。彼女が心配している。
なんでもないとそう言え。
自分自身に言い聞かせるものの。やはり割り切れなどしなかった。
だから尚も縋るように口から零れる。
「るーこ」
「ん、またその変な名を。私はルーシーだ。何度言ったら分かる」
「お前はるーこなんだ。俺にはるーこなんだよ。再会した時にだって、そう呼んでもいいって。覚えていないのか?」
「でも、そんな覚えは全くないぞ。それにその呼び名はよくない。ダメだ」
尚も懇願する俺に、彼女は無情にも首を横に振った。明確な拒否の言葉と共に。
「ダメだ。ルーシーだ。貴明でもこれだけは譲れない。ちゃんと呼べ」
彼女の呼び名は、儚く消えた。それから彼女は少し呆れた様子で、情けなく肩を落とした俺を嗜める。
そんなやり取りが続いて、もう何日目だろう。
もう俺達二人には共有する思い出も、そして今名前すらも失った。
いつからだろう。彼女が、「るーこ」が全てを失い始めたのは。
記憶は俺との思い出であり、彼女の在り方だった。
そうして俺の知る「るーこ」は消え、今目の前にいる、ルーシー・マリア・ミソラ。俺の記憶にない俺を知る彼女がいる。
「帰るぞ貴明。このみや春夏も待っている」
「分かったよルーシー」
満足そうに頷く彼女を俺はやはり直視できず、重い足を1歩前に引きずるようにして後に従う。その途中、心が叫んだある感覚。
まるで世界に独り取り残されたみたいで。
くそっ。思わず天に唾を吐いた。
◇ ◇ ◇
全ての発端はあの日の出来事だったのだろう。
それとも俺が気づかなかっただけで事態はもっと早くから始まっていたのかもしれない。
事の全てはあの日から。
地球に接近した小惑星。その軌道が低い確率で地球に衝突するかもしれないというニュースが、テレビや、ラジオや、インターネットなど世界中至る所で駆け巡った。
世界の終わり。そんな法螺さえ出回った。
そんな中、俺は妙に落ち着かなくなった、るーこの様子に気が気じゃなかった。
「なあ、本当にどうしたんだ」
公園でいつものように星を眺める。かつてと同じように。
それはるーこの好む習慣の一つ。そして足元には置かれたラジオ。
そこからゆったりとした洋楽のナンバーが流れている。
なのに俺は不安になる。何故なら空を見上げる彼女の顔は怯えていた。
その険しさは消える所か、日を追う毎に増していた。
だから、何度も尋ねるも。
「なんでもないぞ。うー」
返答は決まって無理した笑いだった。まるで仕方ないのだと言わんばかりに首を振る彼女。
なぜ何も言ってくれないのだろうか。
はっきり嘘と分かる彼女の言葉に、俺は苛立ちと不安を隠せず重い吐息を零す。
何を隠しているのか問い詰めればいいのだが、
「なんでもないぞ。なんでも」
辛そうな声で繰り返す彼女を見る度に、結局口を噤んできた。
きっと、それがいけなかった。
昨日と同じく公園を訪れた彼女に付き添い夜空を見上げる。
倣うように北東の空を、大熊座のあたりを眺める。
そうする内に、懐かしい記憶が蘇ってきた。
それはかつて聞いた彼女が生まれた星の話。
あの話を信じるならば、彼女は一度あそこに帰った。
こうしてもまた会えたものの、いつかまた帰る日が来るかもしれない。
そう思い、目をすぼめて星を見る。彼女が住む星を。
そして脳裏に浮かぶ、かつて告げられた途方もない長さ。
会いに行きたくとも、そんな距離をどうすればいいのか。
どう逆立ちしたって、自分からは不可能に思えた。
心底困って頭を抱えたその時。
「ニュースをお伝えします。現在、地球に接近している小惑星ですが、ただ今入りましたNASAによる観測結果から、直前で衝突する軌道から反れる事が判明致しました。ですから皆様ご安心ください。引き続き続報が入り次第お伝えします。続きまして……」
曲の合間に入ったラジオのニュース。
この頃それ所じゃなかったが、さすがにほっとする。
まだまだやりたい事は山ほどあるのだから。特にるーこと二人なら何だってやってみたい。
ふとそんな温かな気持ちなり、俺は彼女に同意を求めた。
「万に一つがなくて良かったよな?」
「くる」
え、何が。
突然の警告。緊張した声。
るーこは警戒を露に身構え、そうして真っ直ぐ頭上を、天を睨んでいた。
その姿が悲壮な覚悟を固めた戦士に見え、訳が分からずうろたえる。
足元では再び流れ始めた曲がイントロを終え、メロディに切り替わる直前。
ジジジジ。
ラジオから流れ出したノイズ。その雑音が次第に音量を増し、一際大きな騒音に変化した。
「うわっ」
思わず耳を塞ぎ、蹲る。慌てて彼女の様子を確かめると。
「るー!」
両手を広げ天を睨んでいた。あたかも俺を庇うように。
どうして平気なのか。
俺の耳はつんざく高音に今にも鼓膜が破れそうだった。
「るー!」
なのに、彼女は未だ両手を掲げ天に挑み続けている。
一体?
俺の疑問に答えるかのように聞こえてきた。深く重々しい響きを持つ。
「るー」
「るー、るーっ!」
答えるような悲痛な叫びが辺りに木霊す。
何かを拒否するような感情の篭った響きだった。
その叫びが止む瞬間、彼女はその場で崩れ落ちた。
「るーこっ」
地面に倒れこんだ彼女に駆け寄る。急いで抱き起こして無事を確認する。
大丈夫、意識はある。
顔を覗き込み、何処か怪我はしなかったか尋ねようとして、気づいた。
彼女はどこを見てる。空、いや星か。
空に浮かんだ光る星。それは肉眼で確認できるほど接近した小惑星。
その星をるーこは酷く悲しそうに細めた目で見つめていた。
そんな彼女の様子に一つの可能性に思い至る。それは確信を持って俺の胸に迫った。
「何があった。また〝るー〟が来るのかっ」
「忘れたくないのに、忘れて」
そう言ってるーこは、空を見上げながら額にじっとりと汗を掻き苦しそうに喘ぐ。それでも片手を天に伸ばす。
まるで逃げていくものに追い縋るように。
「なんの事だ。なに言ってるんだよっ」
「うー。るーは、ぅ……」
最後に呟いた彼女の言葉は窄んで消えた。合わせたように気を失う。
そんな彼女の様子にも関わらず、俺はその場から動けなくなる。
どうすればいいんだ一体。
何も分からずとも胸に迫ってくる危機感が、己の身体を震わせていた。
無意識の内に彼女を抱きしめたその手を離さぬように固く結んだまま、いつまでも。
それから暫く後に気づいた。
いつの間にか、有り触れたメロディの続きが、足元のラジオから流れ出していた事に。
◇ ◇ ◇
その後、何事もなく無事目覚めたるーこに深く安堵した。
何ともなかったのだと。
けれどそれは、とんでもない間違いで。
気づけば、彼女は〝るー〟という言葉も、
「どうした、貴明?」
〝うー〟という俺の呼び名も口にしなくなった。
結局、るーこの症状はそのまま快復することなく、〝るー〟としての記憶を全て失った。
いや、少し違った。
「何を項垂れているのだ。もっと胸を張っていてくれないと困る」
るーこは、暗い顔を隠せていない俺を咎める。
俺の情けない様子に呆れながらも本気で戸惑っている彼女がいた。
「どうしたというのだ。幼い頃のお前は、そんなに頼りなくはなかったぞ」
失望させるなと窘めるように俺を見る。
けれど俺の心は一向に沈んだまま戻らない。
彼女が消えてしまったという事実に打ちのめされたまま。
「頼むぞ貴明。もうすぐ、私の父と母が来るのだからな」
そう含めるように言い残し、彼女は去っていく。
もう何度目か分からない大切な知らせ。もうすぐ彼女の両親がやってくる。
カリフォルニアから、いる筈もない彼女の両親が。
(一体どんな顔で会えばいいんだよ)
俺は途方に暮れたまま、縋るように空を見上げ、愚痴を零す。今も接近し続けるあの星に。
ルーシー・マリア・ミソラ。彼女と俺は幼い頃、カリフォルニアで出会ったらしい。
俺の知らない記憶を嬉しそうに語る彼女をそれ以上見ていられず、用があると断り家の外に出た。
歩きながら聞かされた話と状況を総合して考えると。
(記憶が捏造されたのか)
浮かんだ予想。
まさか〝るー〟の力だろうか。
思い当たるものといえばそれ以外なかった。
そうなると、地球に接近する小惑星との関連があるのだろう。
その可能性を考えない訳にはいかない。
だが、どうすれば。時間はまるで砂時計の砂のように落ちて消えていく。
時間がなかった。
異変に気づいた俺はすぐさま行動に移った。
周囲の人間にあの時撮った写真を見せて回ったのだ。
だが、得られた回答は同じく一つ。
「はぁ、これが誰かって、ルーシーちゃんだろ。なに言ってんだ、お前。彼女とは昔から許嫁だろうが、まさか忘れたのか」
怪訝な顔で「何を当たり前の事を」と問われる始末だった。
雄二もこのみもタマ姉も、聞いて回った人全員。誰も彼もが、るーことの記憶を失くしていた。
代わりに覚えていたのが俺の知らない架空の歴史。
河野貴明の許嫁、カリフォルニア出身の地球人ルーシー・マリア・ミソラの存在だった。
(俺の頭がおかしくなったのだろうか)
正しいのは皆の方で、自分こそが狂っている。
そんな精神的な恐怖に襲われる。
だが、るーこは確かに存在したんだ。
花梨や珊瑚ちゃんにも確かめ事からも信じていい筈だ。
るーことの出会いは、彼女と過ごした時間は、本当にあったのだ。
それを無かった事にどうしてできる。
この世界の方だ。
譲れない思いが胸に溢れる。
それでも急速に進行している異変を止める術は未だ無い。
みんなの記憶は既になく、彼女さえも変わってしまった。
そして恐らく彼女達を変えてしまった存在がいる。
公園で聞いたあの言葉。それだけが手がかりだった。
だけどもう時間がない。
あと3日後にあの星は地球に最も接近する。
その後は離れて行ってしまうのだ。
その前にどうにかしてコンタクトを取らなくては。
(急がないと、でもどうやって?)
焦りが俺の心を掻き乱す。
幸い俺の記憶は消えていない。彼女……るーことの出会いの中で何か方法がある筈だ。
取り出した写真を見つめて、そう強く己に言い聞かせる。
手の中の一枚の写真、今となってはこれだけが心の拠り所。
最後に皆で撮った二人の写真。俺は彼女の肩を抱き、彼女は皆に囲まれて笑っていた。
近頃は肌身離さず持っている写真に写った彼女を見つめる。
彼女、俺の大切な、これは誰だ?
「るー……こ。そんなまさか」
一瞬思考にノイズが走る。
写真の中に映る彼女が誰か分からない。
戦慄が体中を駆け巡る。記憶の喪失。それが遂に俺自身まで及び始めた。
手の中の写真を思わず、クシャと握り潰しかけ、慌てて引き伸ばす。
写真に写った俺とるー……こ。まだ覚えている。
俺はまだ覚えている彼女の呼び名を。気づけば、口から零れ出していた。
「るーこ、るーこ、るーこ、るーこーーっ!」
忘れたくないお前を。忘れたくないんだ。
俺が出会ったのは、るーこ・きれいなそら。そう名乗ってくれたお前なのに。
それでも不確かになっていく自分の記憶に俺は必死で歯止めをかける。
消えかけた思い出を指でなぞるように何度も何度も思い返して。
そうして俺は喪失への恐怖に抗いながら考え続けた。
彼女を救う方法を、俺が全てを忘れてしまう前に。
◇ ◇ ◇
「朝のニュースをお伝えします」
壁に掛かる時計を確認する。
もうこんな時間か。急がないとアイツが迎えにやって来る。
俺は急いで残りの朝食を口に詰め込み咀嚼する。
「ん?」
何か忘れてるような気がした。
なんだっけ?
首を捻るも、特に思い付く用もない。気のせいかと思った瞬間、慌てて階段を駆け上がり自分の部屋へ。
危ない、危ない。せっかく書いたレポートを忘れる所だった。
机の隅に寄せておいたレポート用紙を手にした時、ひらりと床に落ちるものが。
「これは、俺と、ルーシー?」
いつの間に撮ったのか。記憶にない皆で撮った集合写真。
いつの物だろうか。
「遅いぞ貴明ーっ」
その時、外から届く彼女の声。
やばい、もう来たか。
写真を机の上に戻し、急いで玄関に向かう。その途中、妙な違和感に襲われ、思わず足が止まる。
何故だか忘れてはいけないものを置き忘れたみたいで。
だが、妙な感覚もすぐに痺れを切らした彼女の声に掻き消された。
「待ってろ。今行くーっ」
まだ残る違和感を振り払い、俺は彼女が待つ玄関へ。
途中、消したテレビからは、
「本日未明、小惑星は地球に最も接近するとの予測が発表されました。その後は徐々に地球から離れていく模様です。続きまして……」
そんなニュースが流れていた。
昼休み、皆で屋上に集まり昼食をとってる時の事だった。
「おい、貴明、今日どうすんだ?」
突然、雄二が聞いてきた。
「何の事だ?」
今日、何か約束していただろうか。
雄二は呆れた顔で俺をまじまじと見つめてくる。
「ほんと忘れたんだなお前。言っただろ、ルーシーちゃん含めたみんなで例の小惑星を見ようって」
え、そんな事言われただろうか。いや聞いたような気もする。それとも。
どうにも頼りない自分の記憶に首を傾げながらも、この場は合わせて頷いた。
「ああ、そうだったな。それでメンバーは?」
隣から交わされる楽しそうな会話。はしゃぐルーシーやこのみは、恐らく参加するのだろう。
「おいおい、いつもの天文部のメンバーに決まってるだろ」
なるほど、部活のイベントだったのか。
やっと俺は腑に落ちた。
きっとミーティングの際に連絡を聞き忘れたのだろう。
「分かったそれで時間は?」
最後まで呆れた様子の雄二に、少し不満を覚えるも俺が悪いのだから仕方ないと割る切るも。若年性痴呆症か聞かれた時には、さすがに一発殴っておいたが。
帰り際、何処から見られている気配を感じ振り向く。ドアの陰にすっと消えた人影。
あの髪留めは、何やってるんだアイツ?
また不可思議な事でも見つけたのだろうか。
下手に関わると厄介事を押し付けられるに決まってる。
なら、1秒でも早くここから。
「ルーシー、帰ろう」
帰り支度を終えた彼女と共に教室を後にする。
けれど、背後で上がった叫び声が。
「さっすが、たかちゃん。まさかここまでとはーっ!」
何故か大変嬉しそうであり、くわばら、くわばらと努めて気にしない事にした。
「何だかやけに嬉しそうだな」
いつも比べて2割り増しほど楽しげなルーシー。
今夜星を見られるのがそんなに嬉しいのだろうか。
「ふふふ、そう見えるか」
「当たり前だろう。何年の付き合いだと思ってんだよ」
ちらりとこちらを見てまた楽しげに笑う彼女。
まったく何だというのだろう。
「あのな」
「まあ、待て貴明。お前も悪いのだぞ」
よく分からない。何か機嫌を損ねる事をしただろうか。
思い当たる節は特にない。
「ようやく、いつものお前に戻ってくれたな」
「はぁ?」
またも、ふふふと笑って嬉しそうに駆けていく。
一体なんなんだ。本当に訳が分からない。
「先に行くなよ。おい、ルーシーっ」
慌てて彼女の後を追う。駆け出した途端、ひらりと胸のポケットから零れ落ちる。
一枚の写真。
ひらりひらりと落下しながら地面に着く寸前。
俺の目の前を横切る小さな影。
「ニャー」
路上に飛び出してきた猫が写真を宙でキャッチした。
くるりとこちらを振り返り、口に咥えた写真を示す。
まるでしっかり捕れと言わんばかりに。
「悪かったよ。ありがとな」
気づけば、謝り受け取っていた。猫から写真を、頭を下げて。誰が見ても奇妙な光景。
「どうした。ん、猫か」
戻ってきたルーシーが猫に気づいて嬉しげに近寄る。
腰を屈め、こいこいと言って指先で誘うルーシー。猫もピクリと反応する。指を揺らし誘う彼女と首を巡らせ追う猫。
もしかしたら寄ってくるかも。思わず期待する。
でも結局、猫は迷った末に、
「ニャー」
少し寂しげな一鳴きを残し去っていった。
あら、行っちゃたか。
その後姿を彼女と一緒に見送る。
残念だが、野良みたいだし仕方ないか。
隣に立つ彼女が少し気落ちしてるように見え、その肩を叩く。
「惜しかったな」
「いや、私ではダメらしい」
やけに諦念の篭った吐息をつく。
だが、言葉の意味はさっぱりだった。
「何がダメなんだ」
「あの猫がそう言っていたのだ」
俺は彼女の顔を凝視するも、その様子は真剣そのもの。嘘はついてない。
それが分かったから、今度は額に手を当て確かめる。
「熱もないと。幻聴だ。猫が喋る訳ないだろ」
「くっ、失礼だぞ」
俺を睨み唸るが、それもすぐ止む。
それから彼女は暫く悩んだ後、首を振って頷いた。
「そうかもしれない。多分私の気のせいだ」
そう言って止める間もなく歩き出した。
そんな彼女の様子に俺は、やれやれと肩を竦めて後に続いた。
彼女の気まぐれは今に始まった事じゃない。
早足で追いつき、横に並んで歩く。
ふと、手に持ったままの写真を胸のポケットに入れようと。
「その写真どうしたのだ」
「ん、これか。いやどうもな」
上手く言えず口を噤んだ俺に、彼女はそうかとだけ頷き、それ以上聞かなかった。
本当に上手い言葉が出てこないんだよ。
言い訳がましい思いが浮かぶ。
強いて言葉を探すなら、持っていないと酷く落ち着かなくなるのだ。
(なんだかなぁ)
自分でも奇妙な状態に呆れてしまう。すると唐突に訊かれた。
「貴明、不満か」
何だよ急に。前を向いたまま答えを待つルーシー。その意図が分からず困惑する。
戸惑う俺を他所に彼女はゆっくりと問いを重ねる。
「私と一緒のこの世界では、不満なのか」
「そんな訳は、ない」
歯切りの悪い答えを返す。一瞬、言葉が喉に詰まった。
俺は急いで仕切り直す。
「不満なんてあるかよ。そういうお前はどうなんだよ」
妙な事を訊いてきた彼女。
という事は、何か不満があるのだろうか。もしかしなくても、俺の事で?
なのに、彼女は違うのだと首を振り、それから空に消えるほど小さな声で、
「不安なのだ。心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったみたいで」
「俺がいる」
口にして急に恥ずかしくなり慌てて付け加えた。
「それにみんなも、俺達の家族だっている。だから心配するなよ」
揺れる瞳で空を眺める彼女に元気を出せと励ましながら、自分の手を差し出す。
「ほら」
まるで家族とはぐれた子供みたいに映る彼女。
いつかどこかで見た彼女のようで。
俺は彼女の手をとり、引いて歩く。
「帰るぞ。俺達の家に」
少し強くその手を握る。
「痛いぞ貴明」
「それぐらい我慢しろ」
そう言い返し、少し緩めた掌を今度は反対に強く握られた。
それから彼女は、優しげな透き通る声で、ほんの少し切ない響きを乗せ言葉を紡ぐ。
「私は満足してるぞ。本当に、だって横には今もこうして……」
続く言葉は、空に解けて消えた。
彼女と並んで歩く帰り道、まだ星の見えない空を見上げて思った。
あの星が今この瞬間に全てを終わりにしてくれるなら、それはそれで幸せなのかもしれない。そんな柄にもなく感傷的な気持ちになり笑って誤魔化した。
「今日も、明日も一緒に星を見よう。二人で、皆で、ずっとさ」
「うん、きっとそれは楽しい日々だ」
そうだ。彼女が笑ってくれるなら、他に何が要るというのだ。
俺は自分に強くそう言い聞かした。
後編へ
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