些か、酔った。徳川屋敷に招かれての酒宴の帰りである。勧められるままに杯を干したために一人で飲むときよりもずっと酒精が回っている。足元がおぼつかないほどではないが、なにやら頭一つで浮いているようなこころもちである。自然、早足になる。ついてくる侍従が小走りになるほどだ。気分は良かった。最近はぐっと気温が上がってきたが、夜はそれでも少しだけ肌寒い。しかし火照った頬にそれが気持ちよいと思う。大名屋敷の連なるあたりで、そこここ、門のあたりに灯りは燃えているものの人影はないに等しく、それが少しだけ真田の心を浮かせている。
 辻に差し掛かった。まっすぐに行けば真田の屋敷で、左に行けば今真田のこころうちに住んでいる人の屋敷に辿り着く。それまでとんとんと歩を進めていた真田が急に立ち止まったので、侍従はなにごとかと目をきょろきょろさせた。そのたびに、手にした提灯がゆらゆらと揺れる。真田は一つ顎をさすって、その手で左を指差した。先に帰れと侍従に指示する。少し酔いを醒ましてから戻る故。そう言う己の目は、まだまだ酔っ払いの風情であったのだろう。侍従はさしたる疑問も抱かずに、ではと提灯を差し出したが、それを押しとどめてさっさと辻の向こうに追いやった。足音がすっかり聞こえなくなり、提灯の明かりが小指の先ほどになってしまうのを待って、目をつぶる。しんとした夜が背中に覆いかぶさってくる。影のあたりになにやら人の気配がしたかと思うと、それがむくむくと膨れ上がって真田の名を呼んだ。……遊びかい。遊びと言うな、真剣勝負だ。くくっと猿飛は笑って、まあ物騒な気配はしないけどもお気をつけて、そう残して気配を消した。目を開けた先に、己の裸の爪先がある。
 足裏はしっかりと道の砂利を掴んでいる。地面に近いところ、屋敷の屋根、その上を通り越して夜空を眺めていると、星明かりがちらついた。まだ上田にいたころは、あの星とこの星を線でつなぎあわせてはなにに見える、あれに見えるなどと言って遊んだものだ。真田にはもうその図形の一つも思い出せないが、その要素となっている星の姿かたち、並び方はあれからなにも変わってはおらぬ。今の俺であったら、どんな形につなぎあわせるだろう。そういうことをふわふわと浮いた頭で思った。やはり、酔っているのだ。
 気が付いたら、思い描いた屋敷の門のあたりに辿り着いている。松明は赤く燃えてはいるが、もうすでに人の寝静まる時間である。しんと静まって、暗い。それでもどこか入れるところはないだろうかとぐるぐると屋敷のまわりを回った。屋敷を囲んでいる土塀は真田の背丈を少し超えるぐらいで、勢いをつければ乗り越えられないこともない。
 どこか入れるような場所はないものかと屋敷の周りをぐるりと回り、元いた門のあたりに戻った。すると、門横の小さな戸板がキイと開いてそこから提灯がのぞく。なにやら夢物語のようだと酒の回った頭で真田は考える。提灯の明かりで下から照らされた男の顔はなにやら幽鬼めいて青白く、真田はいよいよ恐ろしいことになったと思う。真田様にござりましょう。低い声で男が告げてくるのに無我夢中で頷き、戸板の中に促されるのに諾々と従った。庭はしんと静まり、明かりの一つもない。ここは伊達屋敷ではなかったろうか。己はいつの間にか本当にこの世のものならざる場所に辿り着いてしまったのだろうかと考えるうち、先を行くはずの男の姿がひどく小さく見えてきて焦る。……竜殿はご機嫌が悪いのだろうか。先導の男にそう尋ねると彼は丸まった背中の向こうから青白い頬を真田に向けた。さあ……。そっけなく返された言葉に、いよいよこれはよくないと真田は思い始める。
 屋敷の入り口はひどく暗い。男はふっと明かりを消して、あっと言う間にその姿を消した。おそるおそる草履を脱いで床に足を乗せると、今度は女がそこに叩頭している。傍らの燭台の火がちらちらと揺れて、削げた頬に影を作った。……殿がお待ちにございます。そうして、音もなく立ち上がり廊下を歩いて行く。するすると滑る女の足さばきに見とれているうち、今度はどうも女の体が大きくなっているように感じられる。白い着物がしゅうしゅうと音をたてて膨らんでゆくようだ。真田はゴクリとつばを飲み込み、その背中をじっと見つめた。そして、同じ質問を繰り返す。……竜殿のご機嫌は、どうだろうか。女は白い頬を真田に向けて、さあ、と呟いた。ただ、お連れせよとの御達しで。
 真田を見つめる女の目はぎゅっと細い。狐のようだ。果たして竜殿は狐の類も眷属にするのだろうかと考えた。そういえば、あの男の丸っこい感じもなにやら狸の様相に似ているように思われた。
 穴ぐらに似た暗く長い廊下をするすると滑り、女はやがてある部屋の前で足を止めた。……お連れいたしました。真田の耳には聞こえなかったが、奥から返答があったのだろう。女は真田にちらりと視線をくれて、頭を下げた。白い着物はじきに暗がりの中へと消えていってしまう。燭台の灯りのみがちろちろと視界の隅を燃やした。それも、やがてふつりと消える。
 途端に暗闇の中に取り残されて、真田は瞬きをなんどかした。己のてのひらを見下ろす。なんどか握っては開いてを繰り返すが、淀んだまなこには暗がりばかりでなにも映らぬ。穴ぐらの奥底は星明かりすら届かぬ。己の輪郭もなにもかもが希釈されているようなこころもちである。暗闇に、こころ、たましい、そういうものだけが浮いているような心地がする。そして、それがなぜだか不快ではない。
 どこからか、おい、どうした、そう低い声がした。きょろきょろと浮いたまなこであたりを見回す。すると、正面左手のほうから明かりが細く漏れている。恐る恐る、からだを前に動かしてみる。床を踏む感触は遠い。それでもどうやらまだこのからだは真田の思うように動くようである。
 手でこってりとした暗闇をかく。やがて障子のようなものに行きあたる。ガタガタと音を鳴らせると、うるせえな、と怒声が中から響き渡った。転がり込むようにして中に入る。そこは小部屋のようで、穴ぐらよりは少し明るい。見下ろすと、己の膝やてのひらを確認できた。顔を上げる。目の前の障子の向こうから、もっと確かな光が溢れている。這うようにして板間を滑り、その障子を開ける。燭台を一つつけた広い部屋の片隅に、白い薄物に上着を肩にひっかけた独眼竜が胡坐をかいている。……おお、竜殿、御機嫌はいかがだろうか。
 ニッと笑ってそう寄越すと、返事の代わりに煙管がカンと叩かれた。……不審者が屋敷のまわりをうろついてると思えば上田のアレだ、しかも酒の臭いを屋敷中に撒き散らしやがって……。脇息に寄りかかり、勢い良く煙を吐き出す様子に真田は少し首を傾げる。御機嫌は、悪いようでございますなあ。殺されてえのかお前。今のこの世で政宗殿の六爪にかかって死ねるとあらば本望にございますなあ。
 今度は、煙管は叩かれなかった。代わりに細く長く煙が吐き出される。……それで、用向きはなんだ。打って変わって低く響く言葉に、真田は目を宙に向けた。しかしふわふわと浮いているような頭の中には適切な言葉の一つも現れてこない。
 そんな様子で口をもごもごとさせていると、伊達はまたもう一度深く煙を吐いた。煙草盆に煙管を置き、胡坐を解いて立ち上がる。提灯と供をつけてやる、さっさと帰れ。言って、その奥の襖に手をかけようとする。そうして初めて真田はバタバタと身動きした。這うような動きで伊達に近寄り、その小袖の裾を指で摘む。お、お待ちを。……だから、用向きはなんだと訊いてるだろうが。険しい眉のあたりに影ができている。その様子を見上げながら、どうにか真田はふわふわと浮かぶものを捕まえようと努めた。……徳川殿と、酒を飲んで参りました。それで? その、先日のことは書状にて詫びをいただいておったのですが、改めて謝罪を頂きまいた、竹千代竹千代とかわいがってくださった信玄公を害することはけしてないと。全部俺がそそのかしたことだって? いや、……政宗殿も相当悩んでおったのだと、むしろやってみろとけしかけたのは徳川殿や御館様のほうだと……。ハハッと伊達は笑った。上掛けを引き寄せ、足を揺すってくる。真田はぱっと摘んでいた小袖を離し、居住まいを正した。その前に伊達はしゃがみこんで、じっと畳の目を見つめている真田を覗き込むようにする。鵜呑みにするのか?あれが東海道の要所に砦を作っているのも、堺の商人から大量に銃器の買い付けをしているのも事実だろう。しかし! ひとの言葉なんぞあてにならん。……だが、某の言葉を欲しいとおっしゃったのは政宗殿でございましょう。
 途端、しんと空気が冷えた。布の擦れる音がする。伊達は立ち上がったようだった。白い足指が畳を擦って、真田の視界に現れる。……あの野郎、喋りやがったか。某が、無理に問い詰め申した、もう時間がございませぬ故。それもか。は。
 冬の間、奥州への街道は雪で固く閉ざされてしまう。だがその雪壁も、そろそろ緩み始めることだろう。それを待って、伊達は一度奥州に戻ると言う。そうしたら、京に戻ってくるのはいつになるやら。
 最初に、そういう話題になった。梅が咲き始めている、桜がほころび始めるのももうすぐだろう、春が来れば北の雪も融けよう。話題がそういうふうになったのは自然の流れだった。……伊達も、そうなったら一度戻ると言うておったわ。
 徳川のその言葉を聞いたとき、真田は酒の注がれた杯を見つめていた。そこに映った己の顔が見る間に険しくなってゆくのを見、そうしてゆっくりと顔を上げた。にわかに眉根を寄せた真田の様子を知って、徳川が顎を引く。……しまった。そう口が動くのを目の玉が映した。
 膝の上で拳を握り、目の前の足の指から視線を上げた。見上げたそこに、苦虫を噛み潰したような顔の伊達がある。なにゆえ、そのような大事なことを。信玄公の許しをまだ貰ってない、正式に決まってから言おうと……。そちらではござらん!
 そうならそうと言って下さればよい、なぜあんなまどろっこしいやり方を。うるせえ。臍曲がりにも程がありまずぞ。お前に言われたくねえ。それは謝りまする、某も意固地になってしまって申し訳なかった、さあこれでようござろう。じりと伊達の足指が後ろに下がる。その分真田は膝を進める。埒があかなくなって膝を立てた。立ちあがると、目線が同じ場所にある。伊達は、真田が腕を伸ばす分だけからだを後ろに下げてしまう。
 政宗殿、さあ、もうようござろう、賭けはそなたの勝ちにござる、存分に、俺の名前も呼んで下さればよい。小袖の袂を掴んだ。手繰り寄せるようにする。白い布からこぼれ出た白い腕に触れ、てのひらまでをなぞった。彼のたなごころはひどく、冷えていた。

 襖の奥は暗がりだった。伊達のからだをそこに押しやり、後ろ手に襖を閉めた。薄く漏れる光にものの輪郭が浮かぶ以外は、ほとんどなにも見えぬ。真田はもう一度、さあと伊達を促した。顔を寄せる。鼻同士が触れ合って、その感触をやわいと思う。くちびるのあたりに伊達の吐息。その、あいまいで不確かだったものが形を持って真田の前に現れるのを待っている。薄い着物に包まれた背中をかきよせ彼の首筋に顔を埋めた。伊達の口から洩れる言葉の、一言だって聞き漏らしたくはなかった。
 お前が悪い、と伊達が言った。そうでござるな、と返した。あの謁見のあと、尻込みした真田が彼のことを昔のように政宗ではなく伊達と呼んだのが悪かった。それが最初に伊達の臍を曲げてしまった。からかうつもりで彼が真田のことを上田と呼んだのが、火に油を注いでしまった。意地の張り合いは、もうどうにもならないところまで行ってしまった。賭けにしようとしたのは伊達の最大の譲歩だったのだろう。どちらが先に名前を呼ぶか。政宗と呼ぶか、幸村と呼ぶか。勝敗はあの伏見の日に決した。確かに、伊達の態度が一変したのはあのときを境にしてだったと思う。
 ぐいと後ろ髪が引っ張られた。目の前に伊達の顔の輪郭がある。お前が悪い、幸村。……申し訳ありませぬ。だが伊達も知るべきだ。真田が彼の中で「上田」だった期間、真実生きている心地がしなかったこと。十年前、いくさばや互いの城で彼と過ごしたすべてを否定された心地がしたこと。そこまで考えて、真田は目を見開いた。そこにあるはずの伊達の輪郭をてのひらで包む。頬の冷たさに触れ、思わず顔を歪めた。……申し訳、ございませぬ。
 もういいと伊達が言った。そうして、寒いと一言続けた。

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