![]() 星が姿を現し始めたなか、千切ったような雲がむらになって漂っていた。 エルヴァールは、エレオノーレとふたりで王都の外れの森の中を歩いていた。 ヴァレイ外壁近くまで辻馬車に乗り、そこからはずっと歩いていた。 途中までは道を歩いていたが、急に彼女が木々の間を選んで進み始めたので、 彼もそれに従い、ついていった。 彼女の顔色は蒼白だった。フッケルを見送るために執務室を出てきたときから ずっとそうだった。ワイズは再び王城に用があるといい、来客と共に 馬車に乗って行ってしまった。 鐘が五つ鳴ったので、本日の勤務は終了となり、東のふたりは顔を出してから宿へと 帰っていった。ティモアは彼女の様子に気付いていたようだが、彼女自身が帰宅するように 指示をしたので、そのまま本部を出て行った。 本部にふたりきりになると、彼女の張り詰めていた気が少し緩んだように感じた。 多分、彼女が言ってほしい言葉はこれだろう。 「何かあったの?僕でよければ相談に乗るよ」 その言葉を聞いて、彼女はようやくエルヴァールと視線を合わせた。 何かに怯えたような、安堵したようなものがあった。 「……何から話したらいいのか、わからない……」 途方に暮れたように小声で呟いた。 石造りの学舎の影で、同じセリフを聞いたことを思い出した。 エルヴァールは脚を少し曲げて、視線を彼女と同じ高さにしてから、 前と同じセリフを言った。 「大丈夫。順番にゆっくり話してごらん?時間はいくらでもある。 最後までちゃんと聞いてあげるから」 そして彼女は表情を緩めた。前回はあどけない少女の顔だったが、 今は成人した女性の顔だった。エルヴァールは、そうしなくてはいけない気がして、 彼女から視線をそらせた。 エレオノーレは彼からそう言われたものの、自分で上手く説明できる自信が無かった。 元々、彼女は論理立てて物を考えることが苦手だった。それゆえ、まずは知識の幅だけ でも広げて、多くのことに対応だけはできるようにと、素質の全く無い魔法関連のゼミを 受講したりもしたが、それが一部の上級生に快く思われなかったことを、彼女は ずいぶん後になって知った。そんな中、エルヴァールは年が離れているのにも関わらず、 ゼミが被れば気さくに話し掛けてくれ、そして何かと面倒をみてくれた。 いつの間にか、彼に頼ることが当たり前になっていたことに気づき、彼が卒業してからは、 距離を置くように心がけてきた。 そして、、困難な道を進まなくてはいけなくなった今、彼から駆けつけてくれたことが 涙が出るほど嬉しかった。今度は同じ目線では共に歩いてけたら……。 しかしついさっき、偉大なる魔術師にコテンパンに論破されたばかりで、 彼女は芯がグラグラしていた。ことの始まりから、もう一度自分で追いかけなくては、 このまま流されるままになってしまう気がした。 「……外れの森に、行かなくちゃ。その間に、話したい」 「わかった。広場で馬車を拾おう」 エルヴァールは団長の代わりに本部の戸締りをして、王都の西南行きの馬車に ふたりで乗り込んだ。 石畳と轍の摩擦がうるさく口を挟んだが、団長はぽつり、ぽつりと女神に会った 始まりを話し始めた。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 並木道の木漏れ日が、ワイズに斑な模様を映しては後ろに流れていった。 カラカラと軽い音で走る馬車の上で、先ほど牙をむいた若い団長のことを 考えていた。辛い思いをさせることは分かっていたが、言わなくてはならない ことだったし、自覚させなくてはいけないことだった。 「君の命は、もはや君のものではない」 経験と実力の差は明らかで、こちらの勝利が分かっていた戦いだった。 それでも、一切の手加減をせずに、論という武器で彼女を殺した。 自分の思考を凌駕する理論に圧倒されて、呆然とするあの表情。 彼が学生時代、ウェローの代表となった弁論大会で、モルサガルサの 鼻持ちならない代表を降した時にも、相手はあのような表情で降伏していた。 その時の勝利の爽快さと、賛辞を浴びる快感と来たら、実に気持ちが良かった。 だが、今は後味が悪くて仕方が無かった。 自分が彼女の立場だったら。 やはり、同じように怒り、王の決定に悩み、仲間のことを想うだろう。 それでも、結果的には納得し承諾するだろう。 彼はもう若くなかったから。 若かったころの無鉄砲さや、無限の希望や奇蹟を信じる心が無かったから。 だからこそ、女神が選んだ彼女を信じていた。 たくさんのクロニクルを読んで来た。 その中で、団長たちはいつだって悩み、傷つき、それでも未来に挑んでいた。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 森の中の小さな泉の表面に小さな波紋が起きた。 波紋は池の向こうから飛んでくる音声によって生じ、反対側のふちにぶつかって跳ね返った。 跳ね返ったときには、女神はそこに立っていた。 空から舞い降りてきたのでもなく、水の底から湧きあがってきたわけでもなかった。 彼女を呼ぶ声が、彼女を存在させた。 女神の存在を信じる誰かがいなくては、彼女はここにいることはできない。 「女神!いらっしゃるのですか?」 茂みを掻き分ける音と共に、声の主が現れた。 「どうしたのです、エレオノーレ」 池を挟んであちらとこちら。一人と一神は約一月ぶりに顔を合わせた。 「驚異は未だ現れていませんが、兆しを感じます。旅に出るのですか?」 「いえ……貴女に確認したいことがあるので、参じました」 「行かないのですか?災いは待ってくれません。そのことを忘れないでください」 エルヴァールは驚きを隠せないでいた。 水の向こうには、燐光を放つ翼を持つ、美しい女性が立っていた。 その人が「女神」であるということは、疑問を持つことすらなく彼は受け入れた。 見惚れるよりも先に、恐怖が走った。 彼は、人間の形をしていて人間ではない生き物を見るのが初めてだった。 それがとにかく、心を揺さぶっていた。 「忘れてはいません。でも、その前に確認させてください。貴女が……私の目にかけた 魔法についてです」 「どうしたのです、エレオノーレ」 女神は無表情なまま尋ねた。 エルヴァールは目についての話は聞いていなかった。道中、団長が彼に語ったのは 女神が現れ、滅びの予言を告げられたことだけだ。クロニクルズのことは多少は 触れたが、団長は結末の改ざんについては話さなかった。 エルヴァールは団長の顔を見た。団長はまっすぐに対岸を見ていた。 「貴女は……。私に、部隊を効率よく強化させるために、私の目にあるものが 見えるようにしましたね?」 「あるもの?」 エルヴァールが反芻した。女神は沈黙のままだ。 「…………人の、寿命です。いえ、天命と言った方がいいのですか? いつ、その人が衰えるかという、人生の峠のようなもの」 エルヴァールは息を呑んだ。 どう反応したらいいのか、何を声をかけてあげればいいのか。 「……私は、あなたの道しるべ。あなたが進むべき道を示すだけ。 あなたは自分の力で進まなくてはいけません」 「女神、答えになっていません。シーテ先生とシャダウェリン殿がクロニクルズを 読み解いて、先ほどの結論に達しました。これが正解か、そうでないのか。 それを問いに、ここまで来たのです」 「……私は、あなたの道しるべ。迷わないように道を指し示すだけ。 そのために必要なことをしただけです」 「必要……」 団長はうつむいた。女神を見るのが恐ろしくなった。 片耳にかけていた前髪が垂れた。 「つまり、肯定と取っていいのですね?」 「……はい」 エルヴァールは動揺していた。 彼は視力がよかった。彼が見る限り、女神は口元を動かしていなかった。 どこから声を出しているのだろう? 死とは違う意味で生気を感じさせないあの人型のモノは。 そして、目の前にいる見知った人間が、急に遠い存在に感じた。 「エレオノーレ・エヴァンス。私は道を示しただけ。進むと決めたのは あなた自身です。そのことを忘れないでください」 「忘れてはいません。忘れることはありません。けれど、……もうひとつ、 聞かせてください、女神」 「どうしたのです、エレオノーレ」 「なぜ、私を選んだのですか?」 潮の香りがした気がした。 以前も同じ質問をしたことがあった。 『あなたが、あの少女たちの中で唯一の金髪だったからですよ』 見上げた相手は扇で顔が隠れてよく見えない。 それから手を引かれて馬車に乗った。 後ろを一度だけ振り返ってみた。 値踏みをする人々の黒い塊の中に残されていたのは、紫色の髪をふたつに縛り、 紺の帽子を被った少女と、同色の髪を肩で切りそろえ、聖書を両手に抱えた少女だった。 抜けた自分の代わりに、また新たな少女が輪の中に突き飛ばされていた。 その子も自分と同じ、北方特有の薄い金髪を三つ編みにまとめて、簡素なワンピースを着ていた。 自分は裸足だった。町についたらまずは靴を与えられた。慣れない革のブーツで、 すぐにマメができた。素足とは違い、地面の温度が遠かった。 それは今からずっとずっと前の、はじまり以前の話だ。 女神は無表情のままだった。 団長は肩で息をしていた。女神は微動だにしない。 「あなたは、あなたを選んだ私を怒っていますか?」 女神は質問に答えず、質問で返した。 団長は上目で女神を睨んだ。 「……正直に言いましょう。怒ってます。理不尽だと感じてます。なんで私が こんな目に遭うんだ!と、思っています!」 早口でまくし立てた。 エルヴァールは彼女の後ろで、どうしたらいいのか分からないままだった。 団長は息をついてから、ゆっくりと深呼吸した。 「それでも、道を示してくれたことには感謝しています、女神」 顔を上げて、女神の視線の高さに戻して言った。 その時、初めて女神は目を少し細めて、唇の端を引いたような気がした。 「だから、あなたを選んだのですよ、エレオノーレ・エヴァンス。 他人のことも、自分のことも、全てを正直に判断できるあなたを。 世界が生き残るべきか死ぬべきかを、判断できるあなたを」 団長は首を振って目にかかった前髪を跳ね除けた。 腰に手をあててイタズラっぽく笑って見せた。 「私は裁判官になる気はありません。私は騎士です。守るために 駆ける者です。だからこそ、きっとあなたは私を選んだのでしょう?」 女神は答えず、その表情のまま瞳を閉じた。 まばたきをすると、その姿はもう見えなくなっていた。 団長は目の前の霧が晴れたような気がした。 彼は彼女に対する言葉が上手く出なかったが、そっと小さな左手を握った。 前の話 次の話 |