![]() 名簿に己の名前を書き込むフェルフェッタを、団長は見守っていた。 「はい、これからもヨロシクね、エル」 フェルフェッタは名簿を手でずいっと押しやり、肩をすくめてウィンクした。 「ありがとうございます、フェル先輩。これからもよろしくお願いします」 団長はインクがまだ乾いていない名簿を、日が差し込む位置に置いた。 季節は夏になろうとしていた。 雨季が近づき、湿度も上がる季節だ。 団員もある程度揃い、準備は着々と進行していた。 相変わらず、日々の報告に変化はない。 それは安心すべきことなのだろうか。 熱で揺らめく石畳のように、団長は不安を感じていた。 一度、女神を訪ねた方がよいだろうか。 フェルフェッタが試し書きをした紙のインク染みがじわりと滲んだ。 それは緩やかに形を変えた。 人間みたいな形だな、と団長が思った時だった。 「エレオノーレ・エヴァンス。魔物が現れました」 インクの染みが口をきいた。 団長とフェルフェッタは思わず紙を覗き込んだ。 「なぜ、今すぐ出立しないのです?」 「ウわっ……!」 今度は二人の真後ろから声が聞こえてきた。振り返ったフェルフェッタは声を上げた。 心拍数が一気に上がる。そこには女神が以前と変わらず、無表情に立っていた。 「ど、ど、ど、どちらさま?」 フェルフェッタは場違いな姿の女神を目にして、どもった。 「私は女神です、フェルフェッタ・カルフラン」 「な、なんであたいの名前……」 女神は瞬きをした後、視線を団長に戻した。 団長は緊張した趣で視線を返した。 「魔物が出たとは、本当ですか?そのような報告は受けてませんが」 「つい先刻、キングリオンに出現しました。モウリィマウスです」 「先刻?キングリオンに?……ずいぶんと……遠いですね」 「そうです、人間の脚では二百日以上かかるでしょう。今すぐ出立しなさい」 団長は頭の中で大陸地図を思い起こした。女神の言うことは正しい。 キングリオンは大陸の西南に広がるリオン荒野の最南端にある街だ。 王都から直線で結ぶと、天嶮キーディスと、それに連なる不可侵のグランタロス湖が 行く手を遮る。かの地へ最短で進むには、まずは王都より西に進み、ウォルター平野と バルサの旅人の森を横断した後、南下して城塞都市ゼレスを通過しなくてはならない。 (よりにもよって、ゼレスを通らなくてはいけないとは……。 いや、今は夏。キーディスを越えて南アクラルから山伝いに行く? ……。時間がかかりすぎる。それに、そんな長い期間を私たちは山越えに 耐えることができるだろうか……その後に魔物と戦うことを考えれば、 やはり西方ルートしかない、か……) 「聞いているのですか?エレオノーレ・エヴァンス」 「はい、女神。迅速に出立の手配をいたします。他の街には、魔物は現れていないのですね?」 「ええ、その通りです」 団長はインクの乾いた名簿を引き出しにしまい、代わりに地図と通行手形の申請書を取り出した。 フェルフェッタに見えないように手持ちの地図と照らし合わせて記入項目を埋めていった。 フェルフェッタは女神を露骨に観察していた。 相手が人間でないことは肌で感じ取っていた。 それにしても、自らを神と名乗れるとは大したものだ。 「あの、ええと、女神さま。お目にかかれて光栄です。女神さまは何を司る方なんですか?」 「私は……」 女神はフェルフェッタを見やった。 投げかけられた疑問に対する答えを探したが、見つからなかった。 エレオノーレにそう告げる前は、いつ誰に自分が女神であると名乗ったのだろうか。 そもそも、エレオノーレを見出す以前は、何をしていたのだろうか……。 「私は……女神です。私は、女神です」 食い入るような目つきを受けてフェルフェッタはたじろいだ。 団長は、女神が人間らしい感情を表に出したことに驚いた。 女神は動揺していた。 フェルフェッタを見ているようで、すでに焦点は彼女に合っていなかった。 異様な沈黙がその場を支配した。 団長は地図を折りたたんでから声をかけた。 「……女神?どうしました?」 問いかけに、女神は機械的に首を回して団長に向き直った。 それから右手を掬うように挙げた。手のひらには虫が乗っていた。 蝶の羽根をそのまま蜻蛉にしたような虫だ。 ひらひらと上下に迷いながら、虫は団長の目の前まで飛んできた。 「エレオノーレ・エヴァンス。あなたにそれを授けます。それは世界のどこに 魔物が出ているかを告げます。あなたの目なら読めるはずです」 団長は前かがみになって虫を覗き込んだ。よくよく見ると、それは虫によく似た からくりだった。眼の奥がチカチカ瞬いていて、その小さな光が彼女の瞳孔を刺激した。 全ての人に見えるあの記号と、同じ系統の文字列が網膜に焼かれた。 団長は思わず目を硬く閉じ、手で抑えた。 「エル……、だ、大丈夫……?」 フェルフェッタは団長の様子を心配し、顔を覗き込んだ。 団長は頷いて、大事無いことを伝えた。フェルフェッタは憤りを感じて女神を睨んだ。 だが、そこにはすでに誰もいなかった。 「あれ……?」 先ほど女神がいた場所まで歩いて行き、手を広げて空中を探った。 魔法で姿を隠したわけではない。もうすでに、この部屋にはいないのだ。 窓も扉も開かなかった。本当に、消えてしまったのだ。 「今の、何なの?それも、何なの?」 団長は薄目を開いた。目の前を漂うものの側面に文字が書かれていることに気づいた。 「異物を探知し、忠告を促す虫……って書いてあります」 「どれ?……見たこと無い文字だわさ。エルは読めるの?……さっきの、目がどうの ってのに関係あるの?」 「それは、追って話します。すぐにでも王城に上がって、出立の最後の手続きと 許可を取らなくては。すみませんが、下の階に行ってシーテ先生を呼んでいただけませんか?」 「いいよ。でも、あたいもいっしょに行くわ。途中でたっぷり話を聞かせてもらおうかしら。 乗りかかった船なら、船のことはなんでも知っておかないと、安全航海できないでしょ?」 「了解」 団長は顔を挙げて、水兵の敬礼を取った。 フェルフェッタは口の端をニッとあげて、同様の敬礼を取った後、軽やかに階下に降りていった。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 「キングリオン?!辺境中の辺境ではないか」 ヴァーグナルは大袈裟に反り返り、そのままソファに倒れこんでみせた。 「そこは遠いの?」 アディが逆さになったヴァーグナルを覗き込んだ。 「『アクラル三大辺境』のひとつさ。極寒の開拓村シーラ、旧イグラス諸島連合の首都マリス・ベイ、 そしてレイラント背水の都キング・リオン。どこも特に名産も名所も無く、 厳しい環境の土地と聞く。要は大陸の端っこにあるのだ。王都からはとても遠い」 「『三大辺境』なんて初めて聞いたんだけど……」 「私がたった今、考えたんだ」 大真面目な表情で答えた騎士に、エクレスはあっそう、と短く返した。 ティモアが部屋に入ってきて、団長からの伝令を伝える、と相変わらず低い声で呟いた。 「出立は明後日。本部に寄らず、ヴァレイ正門前に鐘ひとつで各自集合。 今日のこれより、明日、明後日と本部に出勤する必要はない。……以上」 遠征期間はどれほどを予定しているのかを、エルヴァールは尋ねようとして、やめた。 記憶する限り、ヴァレイとキングリオンでは往復するだけで一年半は軽く越える。 途中で何が起こるかも分からない。一日の猶予が、せめてもの厚意なのだろう。 「……では、わかれ」 ティモアの声を残し、団員たちは無言で部屋を立ち去った。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 夕日を浴びて、薄い色の髪はますます安っぽく透け、色褪せた刺繍糸のようだった。 団長と魔法使い二人は、王城からの帰りに寄り道をして、外壁の三ノ塔から 西の方を眺めていた。女神からの贈り物は、団長の頭に羽根飾りのようにとまっていた。 「街道沿いに、グラツィア、バルセールを通過して旅人の森と辿って、ライカンウッド。 これで行程の半分を見ておいた方がいいだろう。荒野は平野より移動速度が鈍ると思う」 「雨季に入りますから、ベリアス湿地帯を避けるとなると……かなり北寄りに修正しないと いけませんね」 ワイズは頷いた。フェルフェッタは団長から渡してもらった地図を眺めた。 街道と関所と砦と、各地の警備隊情報が記載された地図だ。ただし、王都より西から リオン地方にかけてまでの範囲のものだ。 「北寄りに行くと、フェルミナ領の森を掠めるんじゃないさ?大丈夫なの?」 「バルセールまでは、協約があるので大丈夫です」 王城に赴く途中で、フェルフェッタには予言のことも女神のことも話した。 クロニクルズのことは伏せておいた。聞いている間中、彼女の眉は面白いほどよく動き、 表情を豊かに彩っていた。全てを話した団長の頭を、背伸びをして無言で撫でた。 『でもさ、それ。他の子たちにも話してあげたほうがいいんじゃないの?』 団長が自分の中でもぐずぐずと考えていたことを、あっさりと指摘した。 黙っていることは欺いているようで気が引けた。 だが、話すことは、何やら黒い病を感染させるようで、恐ろしかった。 「北寄りだと、エルの故郷も見えるんじゃない?」 「そこまで北には多分行きませんよ」 薄っすらと覚えている、生まれた村の寂しい風景がふと脳裏によみがえった。 グラル島の貧しい漁村だ。島の南半分は平地、北半分は黒々とした森が占める。 南に行ってはだめだと、あれほど母に言われたのに、小銭欲しさに行ってしまった。 (……あのひとたちは、いまもげんきなんだろうか) 「エヴァンス団長」 ぼんやりしていたが、ワイズに呼ばれて振り返った。 ワイズからは逆光の形になり、陽光が団長に白い境界線を描いて見え、世界から彼女だけ 切り取られてしまっているような印象を受けた。 「前もって、団員として話しておこう。僕は、この遠征にしか付き合えない」 その言葉にフェルフェッタは一瞬動きが止まった。 「この準備期間だけでも、これだけの煩わしい手続きだのなんだのが必要だったんだ。 遠征から帰ってからの、報告、報告、報告と次の遠征のための準備に同じだけ 時間を掛けるわけには行かない。その辺のことを、僕が引き受けようと思う」 多分、君よりも僕のほうがそういうのに向いているしね。と、鼻を鳴らした。 「本当は、今回もそのほうがいいのかもしれない。最低一年半も騎士団本部が もぬけの空になるのは、好ましくない状況だ。だがね……」 ワイズは夕日が眩しいふりをして、帽子のつばを下げて団長から瞳を隠した。 「僕としては面白くない。僕は今、32歳だ。君が最初に目のことを話してくれた時、 僕の峠を教えてくれたね。30だと。……自分の全盛期がもう過ぎているって? これからはただゆっくりと衰え、死に至るだけだと?……認めない、認めないね」 できる限り平坦に喋ろうと努めたが、どうしても語尾は悔しさの色が滲んでしまった。 団長が悪いわけでは全くないのだ。行き場のない憤りを、今まで何度も飲み込んできた。 「峠が体力を指すのか、なんなのかは分からないが、足手まといにならないように努める。 だから、僕のわがままで今回は着いていかせて欲しい」 「シーテ先生、ご教授いただける時間を無駄にはいたしません。……必ず、全員そろって 王都に帰りましょう。これが、今回の旅が全ての始まりなんです」 「つまり、若いもんにはまだまだ負けんわイ!って言ってるだけだから、 あんまり深く考えなくていいと思うよ、エル」 「まぁ、そんなようなもんだ。君の言うとおり、これが全ての始まりだ。適度に真面目に、 適度に気楽に行こう」 弟子の軽口に少し感謝し、ワイズは帽子のつばを指で弾いて、再び団長と視線を合わせた。 傾斜の強くなった陽光は、より一層影を濃くし、団長の表情を隠していた。 三人は城壁を降りて、徒歩でそれぞれの帰路についた。 先にワイズが抜け、団長とフェルフェッタは二人で女性としての旅に必要なものは何か、 など他愛もない話をする内に、自然と会話が途切れた。 「……あたいの峠は、あたいにも、他の誰にも教えないで。あたいが死んでも、 誰にも絶対に言わないで、おねがい」 フェルフェッタは早口の小声で、しかし、確実に団長に聞こえるように言った。 その言葉を聞いて、団長は胸のあたりがぐるりと掻き混ぜられたような気がした。 心の中に虫が居て、何かを食い荒らしているような感覚だった。 「……約束、します」 フェルフェッタは団長の腕に自分の腕を絡めて、頭を団長の肩にぶつけた。 「ごめんね。ありがとう。これから、がんばろっ!」 先ほどとは打って変わって、明るい調子で言った後、パッと離れて通りを走って 曲がって行ってしまった。人通りはまばらだった。 彼らの上の峠はいつでも見えている。 慣れたとずっと思っていたが、慣れることなど無いのだろう。 単に、見えていることの重みに鈍感に気づかない振りをしていただけだ。 最初に峠というものではなく、命の寿命ではないかという推測を聞かされた時には、 足元から昏い手が這い寄るような、絶望に似た気持ちになったりもした。 この眼を信じるならば、現在の団員で峠を過ぎているのはワイズ・シーテのみだ。 しかし、次に峠を越すことになるのはエルヴァール・ネルド。 四年後に頂点を迎えることになる。 四年という長さとは。 団長は15歳だった。今までの人生の約三分の一。 彼と知り合ってからは九年になる。その時間の約半分。 百年という時間から見れば、二十五分の一。 長いのか短いのか、彼女には掴みきれなかった。 頭を振った。その拍子に、髪にとまっていたカラクリ虫は宙に放り出され、 団長に纏わりつきながら飛び始めた。 「君のご主人様は、なかなか難儀な道を教えてくれたもんだ」 団長は虫が休めるように人差し指を差し出した。 羽音を立てずに滑らかに降りてきた。 「君もいっしょに旅をする仲間だから、何か名前が欲しいな。…… 異物を探知し、忠告を促す虫(Find the Invasion and Notice Inscectsystem)の頭文字を取って、 フィニーって言うのはどう?F.I.N.Iで、フィニー」 フィニーは眼に当たる部分をチカチカと瞬かせた。 「気に入ってくれたなら嬉しいな。よろしくね、フィニー」 団長は髪にフィニーを戻した。 本部が見えた。しばらく見納めだと思うと、穴の空いた執務室も愛おしく思える。 (女神は、なんて名前なんだろう。……今度尋ねてみよう) 前の話 次の話 |