![]() 王都での最後の日が始まった。 団長はいつもと変わらず日の出と共に起床し、愛馬の世話をした後に必要な訓練を行い、 それから自らの朝食を取った。 今までと少し違うことは、テーブルの上のジャムの瓶の蓋に、フィニーがそっと佇んでいた ことだった。 「君は何か食べる?」 フィニーは沈黙で返答した。 食事が終わった後、いつもより入念に食器を洗い、水瓶の残量を確認してから トルパドールと共に本部に出勤した。 鐘ひとつが鳴ると、例によって文官が書類を届けに来てくれた。 今回は、しばらく留守にするとあって量が多かった。一番上に挟まれている 書類には、重要ランクAの押印があった。 キングリオンに魔物が出現ことに関する情報だった。 リオン荒野の伝書魔法使いたちが必死にバトンを渡したのだろうか。 最後にゼレスから遠距離で送られた文章は、かなり支離滅裂な状態に思えたが、 そうだからこそ、緊急事態であることを物語っていた。 魔物図鑑が記録室にあったことを思い出し、団長は探し始めた。 一番下の棚に、薄っすらと埃を纏って鎮座していた。 自分の上半身ほどもある図版を床の上で開いた。 モウリィマウス【学名:ムイン】 小獣族(注:妖獣族という訳もある)下位 食欲旺盛で貪欲。性格は臆病。攻撃を仕掛けなかれば襲ってくる危険は無いが、 その食欲は尋常ではなく、食害により一国を滅ぼしたという記録もある。 小さな躯と素早い動きと、口から飛ばす複数攻撃が脅威。 回復能力は持たない。 説明書きの隣に姿図が描かれていた。ポサポサした毛並みに縞模様の前足。 長い鼻と立った耳を持つ鼠のような姿だ。どことなく愛嬌がある顔立ちだった。 この図版は重くてとても持ち歩けないので、他の魔物のことも覚えておこうと、 団長は他のページをめくり始めた。 今日は他の団員は誰も本部にいない。 静かな石造りの部屋の中には、中央広場の喧騒が内緒話のように届いていた。 来訪者を告げる呼び鈴が鳴った。 団長は立ち上がり、膝の汚れを払ってから玄関へと降りていった。 扉を開けると、一人の青年が立っていた。 「おっ!よかった。まだ居た」 彼は中途半端な長さの髪を無造作に後ろで束ね、羽織を肩につっかけていた。 「あんたがエヴァンスさんだろ?当たり?俺はシュウガ・ジン。父はコノエ。母はタナ。 ジンギ屋っていう商家のもんだ。はじめまして」 礼儀正しく、腰からまっすぐにお辞儀をした。 「はじめまして。エレオノーレ・エヴァンスです。騎士団本部へようこそ」 団長は客に中へ入るように促した。そのまま会議室(というより、団欒室)に通した。 「今日は誰もいないんだな」 「明日が出立なので、今日は皆、ヴァレイとの名残を惜しんでいるのでしょう」 団長が促して、ようやくシュウガはソファに腰をおろした。 ラフな格好や言葉遣いに反して、彼は礼儀をわきまえている。 「今日はどのような用件でいらしのたですか?」 「結論から言うと、入団しに来た。騎士団は、キングリオンに行くんだろう?」 「……よく、ご存知ですね」 団長は驚いた。昨日の昼に女神から告げられてのことだ。 上を通しての正式な通達ですら、今朝の書類でだった。 シュウガは得意げに目を吊り上げた。 「商人には、商人の情報網があるからな。どこで誰が聞いてるか、わかんねぇもんぜ」 商人、工人、そしてならず者。彼らには独自のギルドやネットワークがある。 彼らは腰の重い政務機関よりは、よっぽど新鮮で正確な情報を持っている。 「私どもは商隊ではありません。必要な用具もすでに用意してありますし、 何より戦いに赴くことが目的です。それでも、入団の意思は変わりませんか?」 シュウガは両手を広げてみせた。 「そりゃ分かってる。押し売りじゃねぇぜ。大体、うちは主に東の調味料を扱ってるんでね。 そこだ、店の次代を担う総領息子として、交易範囲を広げて置きたいって前々から 思ってたのさ。キングリオンに行くんなら、ライカンウッドとゼレスにも行くんだろ? 特にゼレスは香辛料が豊富な街だ。そこと話をつけたい。だが、一人でそこまで行くのは 何かと億劫だった」 彼は両手をパン!と合わせて、拝むような形を取った。 「そこにあんたら流星騎士団が西に行くって話が出た。これはチャンスだ。取引をしようってね」 「取引き?」 「そう、取引き。あんたたちは俺を王都に帰るまで連れて歩く。俺はジンギ屋のネットワークと 喧嘩の腕を貸す。どうだ?」 団長は少し考えた。商人のネットワークはありがたい。途中で物資に不足した際には 頼れる存在だ。情報も鮮度の高いものが得られるだろう。断る理由は特に無かった。 「喧嘩、では済まないですよ」 「おう、上等」 「それでは、よろしくお願いいたします。歓迎します、シュウガ・ジン殿」 「商談成立!シュウでいいぜ!よろしくな、エル団長!」 団長が差し出した手を音を鳴らして握った。 名簿に軽快にサインをした後、明日の手はずについて説明を受けた。 団長が武器について尋ねると、持参すると断った。 「分かった、じゃ、また明日な」 再び、礼儀正しく頭を下げてから出て行った。 身長は団長とさほど変わらないが、大またで歩くので足が早い。 団長は名簿を引き出しにしまおうとしたが、二つ折りにして、持っていく書類に挟んだ。 雨季に備えて戸締りをきっちりと確認してから、荷物を持って愛馬に乗り、南へと向かった。 路地の間を器用に抜けて、友人の家の前で下馬した。 半開きの扉の中では、ブラッドが豆の鞘剥きをしていた。 団長に気づくと、抱えていた大きなざるを脇において駆け寄ってきた。 「こんにちは、エルさん!姉ちゃんは今は劇場だよ」 「うん。定期公演に出てるってね。元気?」 「ぼくも姉ちゃんも元気だよ」 「それはよかった。今日は、約束を果しに来たんだ、ブラッド君」 団長はしゃがんで、彼と目線の高さを同じにした。 ブラッドは手を後ろに組んで、上目遣いに彼女の瞳を覗き込んだ。 「トルパドールに乗せるって約束したでしょう?」 「覚えててくれたんだ!」 団長が頷くと、ブラッドは一目散に家の中に飛び込んだ。 かあさん、おかあさーん!ねぇ、行ってもいいでしょう?! と叫ぶ声が聞こえてきた。 団長は立ち上がり、おとなしく待っているトルパドールの顔を撫でた。 眼に溜まっていた汚れを取ってやった。長い睫毛を持つ黒くて大きい瞳に 団長とフィニーが映っていた。 ほつれたたてがみを解いてやっていると、ブラッドがサスペンダーをつけて現れた。 「お待たせ!かあさんが行っていいって!」 「鐘四つには帰ってきます」 団長はボアル婦人にそう告げてから、ブラッドが馬に乗るのを手伝ってあげた。 鞍の前の方に座らせて、自分は少し腰を持ち上げ気味に騎乗した。 「どこに行きたい?」 「水道橋!」 「姉弟そろって好きなんだね。じゃ、行くよ」 いつもと違う、大人よりも高い視線から見るだけで、見慣れた路地も別世界のように見えた。 鞍を掴む手を挟む形で、エレオノーレが手綱を握っていた。 今日の彼女は、珍しく騎士のチュニックを着ていた。 そんな騎士といっしょに乗っているだけで、自分も騎士になったかのような 自慢気な気持ちになった。馬車道まで出て、駆け足を始める。 波打つような馬独特の振動に、思わず前かがみになった。 「首にしがみついちゃダメだよ。トルがびっくりしちゃう」 上から声が聞こえたが、それもすぐに後ろへと流れていく。 蝉の声が近づいてきては、遠ざかっていく。 水道橋と並ぶ。橋脚が細かく遠景を区切ったが、像を残してぶれていく。 夏の日差しに照らされて、田園地帯にゆるやかに息づく木々が風に揺れていた。 葉の一枚一枚が波間のように煌き、樹を構成し、並木と連なり、ヴァレイという情景を描いていた。 ブラッドは王都で生まれ育ったが、幼いために滅多にここまでは来ない。 この景色の感動を伝えたかったが、振動で舌を噛みそうだったので、 エレオノーレの顔を見上げるのが精一杯だった。 騎手は視線に気づいて、優しい視線を返した。 君と同じ気持ちだよ、と物語っているようだった。 長い髪が宙に舞っていた。 管制塔のひとつの傍らで馬の速度を緩めた。 「酔ってない?」 「大丈夫!こんな遠くまで始めてきたよ。ここもヴァレイなの?」 「そうだよ。まだヴァレイの外壁内。あっちが市の内壁で、あそこからグルッとこっちに 回る道をずっと来たんだ」 遠くに固まりのように見える市街を指差しながら、少年に説明をした。 「ここまで歩くとどれくらいかかるの?」 「ブラッド君の足なら、昼に出たら夕暮れまでかかるかもね」 「うわぁ〜……」 馬が鼻を鳴らした。溜池を泳ぐ魚のウロコが宝石のように光った。 水道橋を走る水の音が多角的に反響している。繁った枝の間を鳥が何羽か 羽ばたいて飛び移っていた。少し湿度が高い。橋の影になる位置まで馬を進めた。 「ねぇ、遠征にはトルパドールも連れて行くの?」 「……いえ、置いて行くよ。この子を連れては行けない」 「どうして?遠くまで行くなら、トルに乗っていったほうがいいんでしょ?」 「みんなが馬に乗れるわけじゃないんだ。それに、トルパドールはあんまり長く歩くのは得意じゃなくてね。 無理して旅をさせるより、置いていった方がこの子にとってもいいんだよ」 「そうかなぁ……?トルはどう?エルさんと離れても平気?」 ブラッドは首を叩いて馬に尋ねたが、馬は首を振って己の顔にたかる蝿を振り払うだけだった。 団長は自分だけ降りて、引き馬の形で歩き始めた。ブラッドからは彼女を見下ろすことになる。 「どれくらいで帰ってくるの?」 「早くても、次の次の冬だよ」 「……姉ちゃん、会いたがってたよ」 「うん、せっかくの舞台を、私も観に行きたかった」 「ぼくさ、今年で8歳なんだ」 「大きくなったね。初めて会ったのは五歳の時だっけ?東街で迷子になってた君を 探すのを手伝ったんだ」 「もう、迷子にはならないよ!ねぇ、……次にエルさんが帰ってくる時には、 ぼくは10歳になってるよ。そうしたら、それから5年で大人になる。 そ、そうしたらさ……」 ブラッドは口を尖らせて団長とは反対側を向いてしまった。 「ぼ、ぼくも……騎士になれるかなぁ……?」 「ブラッド君、もっと背筋を伸ばして。顎と足を引いて。……そう。そのまま」 団長はトルパドールに合図をしてから、手綱を完全にブラッドに預け、 数歩後ろに下がった。腕組みをして、小さな騎手を見つめた。 「なれるよ。いつか君もこんな風な騎士になる」 ブラッドは肩をすくめて、嬉しそうに歯を見せて笑った。 「その時は、ぼくは自分の馬でエルさんといっしょに遠乗りしたいな!」 「喜んで」 騎士の礼をしてから、再び騎乗して、田園地帯の小道を通る経路でゆっくりと市街に帰り始めた。 ブラッドは普段のアリアや、彼の家族の様子を楽しげに語って聞かせた。 ボアル家には学生時代は時々食事に呼ばれたり、アリアの部屋に泊まったこともあり、 旧知の仲だった。 団長は王都の東部に一人で暮らしている。エヴァンスの屋敷はそこよりもやや北に行ったところに ある。彼女の義理の父母と、弟がそこで暮らしている。 弟はブラッドと同い年だ。今年になってからはまだ一度も会っていない。 左の頭の上でフィニーがもぞもぞと動いた。 通りすがりに馬車とすれ違った。 昔、自分も馬車に揺られてこの王都へやって来た。 授業で狩人の森に行く以外では、故郷の方角へ行くことは無かった。 『北寄りだと、エルの故郷も見えるんじゃない?』 帰りたいと思ったことはないけれど、ほんの少し期待している自分に気づいた。 彼女の胸に郷愁という感情がこの日、初めて生まれた。 家の前で、今度は団長の力を借りずに、ブラッドは一人で飛び降りた。 前に回りこんで、馬の鼻と自分の鼻をくっつけた。 ボアル婦人が扉を開けて息子を迎え入れた。 「おかあさん、にんじんを一本ちょうだい!」 母の許しが出たので、少年は台所まで駆けて行き、一本を引っ掴んでから トルパドールの口の下にそうっと差し出した。 「エルちゃん。明日出て行ってしまうのでしょう?よかったら、今日はうちで 晩ご飯を食べていきなさい。娘もあなたに会えれば喜ぶわ」 団長は少し迷ったが、申し出を断った。 「今日は、エヴァンスの家に帰ろうと思いますので」 「そう。そうね。そのほうがきっとご家族も安心なさるわね」 「アリアによろしくお伝えください」 「無理はせずに、無事に帰ってきなさい」 「エルさん、気をつけてね。絶対帰ってきてね」 「はい、ありがとうございます。では、行ってきます」 二人に優しく首に手を回し、再びボアル家を後にした。 目的地は王城だ。王から賜ったものを、王に返すためだ。 走らずに、わざと並足のまま歩いていった。 並木道が切り絵細工のごとく影を映していた。 騎手よりも見事な金髪を持つ愛馬に語りかけた。 「君を、連れて行くことはできない」 トルパドールは耳を後ろに向けた。 「君が、私の元に来たのは偶然だったかもしれない」 目に飛び込む明るい照り返しと黒い影の激しいコントラストに、目が眩みそうだった。 「それでも、今日まで私を乗せてくれて、ありがとう」 彼女の掛け声るを聞いている証に、耳をぴくぴく動かしていた。 ゆっくり歩いても、王城は近づいてきた。 団長は開門を命じ、入って左手にある厩舎に向かった。 トルパドール号を返還する旨は、すでに伝えてある。 馬番が空いている馬房の柵を外した。 団長は自分で馬具を全て外し、蹄の土を掻き出してやった。 その間に馬番は身体の汗を拭いてやり、すっかり身軽になったトルパドールは 大人しく用意された場所へ収まった。 柵が掛けられた。 「さよなら、トル。元気でね」 背伸びをしてトルパドールの頬に自分の頬を当てた。 少しザラッとした感触と、その裏を流れる熱い血の流れと、獣の臭い。 首を軽く叩いてやると、首を上下に振って応えた。 馬番が差し出した書類にサインをして、正式に彼女は彼の主人では無くなった。 名残を惜しんでは未練が残る。今生の別れというわけでもない。 団長は振り返らずに厩舎を後にした。 その足で、今日の処理した分の書類を提出しに行った。 途中でフッケルとメイホークに遭遇し、激励を受けてから、王城の門を徒歩でくぐった。 並木道を外れて南東に進めば、エヴァンスの家がある。 鐘が六つ鳴った。ようやく空も夜の顔を見せ始めていた。 貴族の館が並ぶ一角まで来ると、編んでいた髪を解き、横髪で長い耳を隠した。 エヴァンスの門が見えてきた。 前に立ち、門扉をそっと押した。 ぴくりとも動かなかった。 一旦手を下ろしてから、今度は両手に力をこめて押してみた。 重たい摩擦音を発しながら、門は彼女を受け入れた。 白い敷石を踏んで、玄関のベルを押した。 数拍置いた後、華美ではないが重厚な扉が開かれた。 前の話 次の話 |