「……う〜……」 寒さのせいで歯の根が合わなかった。息をするだけで自然と喉が声を出してしまう。 バルサリオンの中継地からここまで、急いで来てしまったので碌な冬支度をしていなかった。 外套を頭まで被り、団長は針葉樹の間をぬって歩いていた。 遠くにもやもやと動くものが複数見えている。 知っている数字たちだ。あそこに他の団員たちがいるのだろう。 「う"う"う"〜……」 前歯の隙間から息を細く。腕の筋肉も収縮して震えていた。 足元がふらつく。右手に持っていた錫を杖代わりについた。 「エレオノーレ・エヴァンス」 後ろから抑揚の無い声が聞こえた。今までと同じように、気配など最初から 感じなかった。 「はい"……」 団長は振り返らなかった。 「よくぞフーマックを倒しました。見事です」 「フーマックとは?」 「その錫の持ち主です」 「……これは、今は私の物です」 「そうですか。しかし、あれらは本当の意味で魔物ではありません。この先の街での戦いが 真の初戦であることを心しなさい」 「女神……」 団長は前を見たまま女神に問いかけた。 「魔物ではないなら、彼はなんだったのですか?」 「何であろうと、世界を滅ぼすものです」 「人間なのですか?」 「いいえ」 「彼が人間でないのなら……」 (私も人間では無い……) 頭に被っていた外套をさらに深く引いた。布を摘む指先が小刻みに震えた。 女神の顔を見たくなかった。 「女神、私を褒めてくださるためだけにおいでくださったわけではないのでしょう? 大丈夫です。今回は気づいています。白炎の村にゴブリンが現れました」 「上出来です」 そのまま沈黙が後ろから追いついてきた。 前方に見えるものが近づいてきた。右手の錫をしっかりと握り締めた。 息をするたびに胸が震えた。 「う"う"う"う"う"う"〜〜……」 魔法使い二人が作り出した魔法陣の中で、エクレスとイガーナがシュウガの手当てをしていた。 意識ははっきりしているものの、痺れが残って上手く喋れなかった。 フェルフェッタは魔法を維持するために集中していた。 魔法陣の中は外よりもほんの少しだが、暖かい。 「それで、弔おうと思ったのだが遺体も血痕も見当たらないのだよ……夢だったのかな?」 「変だね。けど、シュウガの怪我は夢じゃない……」 エクレスが弱々しい声で呟いた。シュウガはそれを受け、全くだ、と小さく漏らした。 「エヴァンス卿!」 ヴァーグナルが団長を発見し、明るい声を出した。 「ご無事でしたか?お怪我は?さささ、こちらへ!」 「大丈夫ですカンタ卿。シュウの具合は?」 イガーナから彼の容態の説明を受けながら、団長は懐から取り出した紅い外套を彼にかけてやった。 厚手の防寒用の外套だが、肌触りが良い。裾に金糸で紋章が縫い取られていた。 それを見て、ヴァーグナルは思い出した。 先の敵騎士の盾にあったものと同じ紋章だ。 「エヴァンス卿、この布はどちらで?」 「敵の頭から奪ってきました。もう、奴らは襲ってこないでしょう」 ヴァーグナルは団長の持つ黒い錫を見据えつつ、状況を理解した。 団長は両手を地に付きシュウガの顔を覗き込んだ。 「……面目ねぇ」 シュウガは上目で囁いた。 「いいえ。歩けますか?」 「おうよ。荷運びで鍛えてたんだ。伊達じゃねぇ」 再び団長が立ち上がったところに、エルヴァールがホノカを背負ったグリムグラムを伴って 帰ってきた。エルヴァールは団長の姿を見て、心底安堵した。 しかし、見慣れない錫を持った彼女の瞳が暗く沈んでいたことには気づかなかった。 「トランタン殿、ホノカ先輩は?どこか怪我をしたのですか?」 グリムグラムはホノカをそっと降ろした。心配そうに顔を見つめたが、 触れてはいけないもののように遠ざかり、イガーナに任せた。 「怪我は、大丈夫だと思うよ。木にぶつからないようにできたから、気絶してるだけだと思う」 「彼女は元々、船酔いが残っていたからね」 王都育ちのホノカは、今回の渡航で初めて海を体験した。 一日足らずといえども、全くの未経験の者には辛く苦しい時間だったようだ。 彼女のほかにエルヴァールも実はかなり酔っていた。 北の晩秋の冷たい空気が辛うじて頭をはっきりとさせてくれていた。 フェルフェッタが何事かを呟き、顔を上げた。 「エル、先生とティモアさんもアディと合流してこっちに来るってさ」 「了解」 「あのさ……」 フェルフェッタがもじもじしながら続けた。 「……怒ってる先生、かなり、怖いからね……」 しばらくの後、ワイズを先頭にして三人が連れ立ってやってきた。 お互いの状況を報告しあい、今日は備えてここに宿営することにした。 ここからイルグールの街までは朝に発てばギリギリ夕刻に着ける距離だった。 怪我人二人以外は設営の準備を始めた。そんな中、団長はワイズに呼び出された。 疲れの溜まっていた魔術師は団長に断ってから、幹にもたれ掛かって腕組みをした。 「僕が何を言いたいかは、賢い君なら分かっているだろう?」 「……」 「君が隊列を組んだ時、簡単だったが作戦を僕らに言ったね?僕らはそれを実行するために 動いていた。ところが、君が独断で突っ走った。今回は勝利したが、次からはそうは 行かないかもしれない。君が団長だ。君の作戦に従おう。だから、君が作戦を裏切るような 真似はしないでくれ。信頼にも関わる」 「……はい」 「それと、その手に持ってる、ソレはなんだい?」 ワイズは先ほどから気になっていた、団長が右手にしっかりと握っている錫を顎で指して尋ねた。 微弱ながら、魔法を感じる。 「シーテ先生でもご存じないですか?これは『守護の塔』です」 「聞いたことはある。塔?見たままで言うと、錫杖か長いアンクに見えるが」 「そうですね、元々は『復活のアンク』でした。この島の再生を願って、大戦の 連合の最後の将軍が民衆の心を喚起するために掲げたものです。柄が長いのは、遠くからでも そのものが見えるようにするため。この戦の結果が燦々たるもの だったことは、あなたには語るまでも無いですね」 団長はワイズに向かって喋ってるようで、どこも見ていなかった。 頭に血が上っていたワイズはここでようやく、団長の目が虚ろなことに気づいた。 「いつだってそうだったんです。この地は後回しにされていたのです。そもそもイグラスの名など 人の記憶にとどまる余地はほんのわずかでした。 島などあるだけで煩わしいと思われたのでしょうか。 大陸の一部だと認められなかったのでしょうか。ならばいっそのこと地図から抹消して、 別の世界として放っておいてくれれば よかったのだ。それでも、戦時下にだけは都合よく 領土を換算され翻弄された。 アルセナからもレイラントからも、出兵された。我らは戦った。 兵に対するのは兵のみ。 多くの子らが、イグラスの名と誇りのために戦ったのだ。 私も常に前線に立った……」 団長の声に低い声が被さり始めた。頭が小刻みに揺れていた。 ワイズは幹を蹴って彼女の右手を叩こうとした。 「エヴァンス君!その錫を離せ!!」 団長はひらりと攻撃をかわし、よろめいたワイズを見下ろし、優しく微笑んで見せた。 「シーテ先生……あなたが懸念されているようなことはありません。これは、私の意志です。 他の皆には、黙っていてください」 ワイズは反論しようとしたが、髪の隙間に垣間見える長い耳を見て思いとどまった。 胸がざわざわと高騰していたが、深呼吸をして無理やり落ち着けた。 「……イルグールに来たのは、失敗だった」 「そんなこと言わないで下さい。先生は、ご出身はどちらでしたっけ?」 「モーガの砦街だ」 「美しいところですか?」 「まぁね」 「ここの島々も美しいです。霧が映え、雪が彩り、白が良く似合う美しいところです」 「……そうだな。だが、暮らすのには厳しそうだ」 「生きる厳しさを教わるからこそ、生きる喜びも見出せるのです」 穏やかにそう言った団長の瞳は、穴が空いたように暗かった。何も映してはいないように見えた。 ゆっくりと瞳を伏せてから、彼女は踵を返して仲間たちの元へと帰っていった。 遅れてワイズも後を追った。火の側に寝かされているシュウガに掛けられた紅い布の縫い取りが目に入った。 アクラル史にも長けているワイズには、それが何の紋章かすぐに思い当たった。 (これは、大戦中のイグラス諸島連合最後の将軍マリウス・ムルジャルボの御印だ……) 炎を絶やさないために寝ずの番を交代で行った。 早朝、最後の番にはアディと団長が当たった。 二人とも厚手の外套を頭から被りながら、炎を薪でつついていた。 アディが髪を編みなおしながら団長に尋ねた。 「あなた、名前は?」 「名乗るほどの者ではない」 「団長に何かしたら殺すよ」 挨拶をするかのようにアディは言い放った。 団長は顔を上げた。暗い瞳に異国の冒険者が映っていた。 「この娘はアルセナの者たちに、お前たちに愛されているのだろうか?」 「それはボクは分からない。ボクはアルセナの人じゃない。その人を愛してる人は いるは思う。だけど」 アディは編みあがった髪を数本まとめてさらに編み始めた。 「その人がボクたちを愛していないと思う。でも、ボクはそれくらいが丁度いいから その人のことが好きだ」 「ふむ、そうか。いつか他人に愛を与えられるような、そんな子になってくれれば 私はとても嬉しく思う」 「あなた、奥さんいる?」 「ああ、私には過ぎた妻だ。名はマルヴェラと言う。イグラスの誇り、戦乙女『ヴァルキリー』であった。 ……私を置いて戦渦の中で逝ってしまった」 「辛かった?」 「半身を失ったようだった……。己だけが息をし、心臓が動いていることが辛かった。 だが、まだ守るべきものがあったから、私は戦いを止めなかった」 「今も?」 「そうだ。そうだ。そうだ。そうだ。 私はこの地を守りたい。私はこの地を守りたい。守りたい。守りたい。 それだけだ。それだけだ。それだけだ。それだけだ」 「団長」 霧が一段と濃くなり低温の白が取り巻く中、小刻みに手にした枝で焚き火を連打し始めた団長に、 アディは静かに呼びかけた。 「はい」 「もうすぐ日の出だよ」 「皆を起こしましょう」 二人がかりで全員を起こしてまわり、朝の鍛錬、食事、身支度と一日が動き出した。 アディは自分の楽器を大切そうに布でできたケースに閉まい、口を固く縛った。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 「編成を通達ます。先陣、ヴァーグナル・カンタ、ティモア・ジェイナード」 「はいっ!」「了解した」 「第二列、ワイズ・シーテ、グリムグラム・トランタン」 「ああ」「へ、は、はい?!」 「後衛、アディ・ナット、エレオノーレ・エヴァンス、エルヴァール・ネルド」 「ハイ」「……はい!」 「残りは街の被害状況の情報徴収と戦闘員が負傷した場合の救護班です。安全な場所の確保と誘導、 物資の調達です。こちらはシュウガが指揮を取って下さい。街の地理は先ほど伝えたとおりです」 「任しとけ」 「イルグールは常霧の海と揶揄されるここの近海の航海を安全に導く灯台があります。 これが損害を受ければこの町のみならず、広範囲への影響が懸念されます」 団長は全員の顔をゆっくりと見回した。 「これが初戦です。これが始まりです。気を引き締めて行きましょう!」 全員が思い思いの返事を叫び、街の入り口である門を駆け抜けた。 後から白い呼気が追いかけてきた。 門からは街までは、丸いアーチがつづく橋が長く河口にかかる。 石畳を蹴る度に町並みが大きく近づいた。 向かって左手に港町の証でもある灯台が見える。そこから背後のカントレル山の中腹まで 家々が緩やかに並んでいる。 二階建て屋根の合間からボサボサの頭が左へと揺れ動いているのが垣間見えた。 頭の動きに合わせて、脚に振動を感じた。 海に接する位置にある灯台が不安そうに震えていた。 眼に当たる風が冷たい。凍て付いた空気が歯に染み入る。 長い耳の先が痛い。 (温度を感じる。寒さを感じる。イルグール島を感じる。……帰ってきたのだ!) 息を大きく吐いて立ち止まった。 「戦闘員、左へ。残りは散開!」 前衛の四人は指示を出す団長を追い抜いていった。 残りの者たちはそれぞれ細い路地裏へ消えていった。 エルヴァールとアディは団長の側で立ち止まった。 アディは背負っていた弦楽器の弓を引き抜いた。 「団長、僕らは?」 「両脇より弓で援護します。前衛になった際はアディを中心に陣形を保ちます。アディ?」 「ハイ団長」 団長は空いたアディの手を握り、耳元に口を寄せた。 「守るために戦うこと、責めるべきではないと私は思う」 「……」 「責めるのも己なら許すのもまた己。時間はかかるかもしれないが、いつかその日が来る」 「あなたにも、来た?」 「今日がその日であるといいと、毎日祈っている……」 距離の近い二人をやきもき盗み見ながら、エルヴァールは矢筒をもう一度背負いなおした。 バルサの森で団長が告げた己の評価は確かにショックだった。 自分ではそのつもりは無かったが、フェルフェッタに指摘されたとおり、長く心の底で くすぶっていた。直前に賊に襲われた際にも、やはり自分の反応は愚鈍であった。 それでも。 団長はエルヴァールを今回の編成に組み込んだ。 怪我をしたシュウガの代わりだとは察しは着いていた。 後列配属されたのは遅さをカバーできると考えてくれたのだろう。 役に立つ機会を与えられたのだ!弓を握る拳が震えた。 がんばろう! 団長とY字に分かれる形で走り進んだ。 「でかいな!」 走りながらヴァーグナルは隣の騎士に話し掛けた。 「……まったくだ。人間ではありえない大きさだ」 「ははっ!魔物だからな!だが、でかけりゃいいってものではない!」 頷きを返し、平行して走っていたティモアが遠ざかる。 距離を見計らってヴァーグナルは篭手で固めた拳で左手の盾を殴った。 やや高い金属音が辺りに響いた。 その音に釣られて、灯台を中腰で揺らしていた魔物がヴァーグナルを見下ろした。 ヴァーグナルの3倍はある背丈だ。 「針の穴で堤防が決壊したことだって、あったさ」 ヴァーグナルは剣を抜き、魔物を灯台から引き離すために攻撃を仕掛けた。 「『逃げろ』、『この先は危険だ』、『助けにきた』。このどれかを覚えな」 「もう一回言って?」 「『逃げろ』、『この先は危険だ』、『助けにきた』、だ。なぁに、ちょっとくらい発音が 変でも大声で言ってりゃ気にされんだろ」 「レッテ、ヴェア、カー……難しいわさ……。これ、イグラス語でなんていう意味なの?」 「逃げろ、この先は危険だ、助けにきた、だ。魔法よりは簡単だぜ?」 「フェル、簡単翻訳魔法みたいなの、無いの?」 「ンなもん、無いわさ」 「なんでこんなに言葉が違うのかね……」 「『逃げろ』、『この先は危険だ』、『助けにきた』、ですね」 「おっ。イガーナはすごいな」 イガーナ以外の女三人はそれぞれがひとつづつ覚えようと取り決め、小声で反唱した。 「イグラスは大陸から切り取られた島国だったからな。アクラリンドと同じく、 大陸とは別系統で発展したのさ」 「それを、なんでシュウガが喋れるかってのが、わかんないわ」 ホノカが口を尖らせながら言った。 「へへぇ。学は無ぇけどよ。仕事上色んな奴と喋んなきゃいけないから、 自然と覚えちまったわけよ。お前さんとはここのできが違うのさ」 なんですってぇ!と声を荒げてつま先で蹴りを入れようとするホノカをヒラリと 避けながら、そのままのコンビで角を曲がって行ってしまった。 自然と残された三人がチームを組むことになった。 「じゃぁ、あたし達はこっちだね」 シュウガ達とは反対側へと曲がるエクレスにイガーナとフェルフェッタも続いた。 グリムグラムの隣で小柄な魔術師は魔法の発動に入っていた。 手の平で決められた一定の模様、彼らが魔法言語と呼ぶものを描いて、 自分の魔法力の通る道筋を作る。一定の法則で走り抜けると、魔法力は初めて 何かしらの効果を持つのだ。水が流れるために水路を作るのに似ている。 緩やかな水路、急激な水路、滝を成す水路、通り道の違いにより、 その景観や用途が変わるのと同じだ。 魔法力は天恵。その強弱は生まれて持ったものだ。 グリムグラムにはあいにくと発動できるほどの魔法力は無かった。 魔法力の弱い者は魔法力そのものを見ることが難しい。 ワイズが空中に描いている魔法陣が、なんとなく煌く粒子として見えるだけだった。 彼は今、ヴァーグナルに支援をするための陣をしいている。 手に持つ杖は攻撃専門の媒介だそうだ。 (魔法って、便利そうで面倒くさいんだなぁ) 「……〜〜……」 ワイズの半開きの口から声にならない声が漏れた。 その瞬間、パン!と音がして粒子が飛び散るのがグリムグラムにも見えた。 「わぁ!」 ビクッと一歩下がる彼に、ワイズが杖に寄りかかりながら告げた。 「相手は防御をしてくるようだ。固い。カンタ卿は攻撃補助つきでなんとか ダメージを与えたようだが、あの細い剣ではそれが限界だ。 ……ジェイナード卿頼みか……」 「ぼ、ぼ、ぼうぎょぉ?!」 「想定していたより知恵があるんだな。人型だからか?いや、記録では……」 ブツブツと独り言を呟き始めたワイズの声に混じって、低音に神経質な高音がほんの少し混じった 咆哮が聞こえた。耳障りな声だ。 「……うむ。さすがジェイナード卿!さぁ、僕らの番だ」 ワイズが顔を上げてグリムグラムを促した。途端に条件反射で若い戦士の足は震え始めた。 「も、もうですかぁ?オ、オ、オレよりもティモアさんたちが前列のまま……」 「前にも言ったろう?この戦いが一歩目なんだ。彼らだけに頼って疲れさせるわけにもいかないし、 君も」 ワイズはグリムグラムの顔をぐっと覗き込んだ。鼻がぶつかりそうなのでグリムグラムは 一歩下がったが、その手を魔術師は捕まえた。 「強くなりたいんだろう?」 「そ、そ、それは、そうだけどぉ〜……」 「なぁ、トランタン君。自分を変えるのは難しそうに見えて簡単なんだよ。 臆病者が勇敢な騎士になる時。堅物があっと言う間に恋の虜になる時。 きっかけはちょっとしたことなんだ。最初は笑ってしまうくらいあっけないことなんだ。 後から、あれがそうだったんだと気づく。あの時のあの一歩が、その後の全てを 決定する。そんなもんなんだ。今がその時じゃないって、君はどうして思うんだい?」 早口な説教も、ワイズの言葉ゆえにグリムグラムの落ち着かない心をゆっくりと整えた。 「さぁ時間が無い。行こう。君は騎士団員なんだ」 「は、は、はいっ!」 ワイズとグリムグラムは走り出した。 エレオノーレは海に面した建物の脇へと身を隠した。 ティモアが与えた斬撃が魔物の気を完全に灯台から引き離すことに成功したことを確認した。 これで一番目の作戦は成功。騎士二人が退却する。 しかしヴァーグナルの攻撃を木を引き抜いて防いだのは予想外であった。 なんという怪力。 そして、それがそのまま敵に武器を与える形になってしまった。 (当初の予定よりも、戦いは長引くかもしれない。長い戦いは疲弊するだけだ。 多少の無茶をしても、速攻隊列を組むべきだったろうか) 目の端に映る海面が反射する光に少し目が眩んだ。 (またこの海を自分の眼で見る日が来ようとは) もう一度視線を灯台に戻した。 (あの灯台も変わらない。あの上から押し寄せる軍船を発見した時は血が凍ったものだ。 ……他の物見の塔は、今や無いのだな。やはり、) 思考とは別に身体はクロスボウの照準を巨人に合わせた。 「変わったのだな。敵は人ではない。魔物なのだ。恐ろしい時代だ」 (人と人が戦う時代よりもですか?) 「敵が理解できる範疇のものであるほうが、思想が相容れないとしても一目おくことができる」 団長は目をカッと見開いて、ジャイアントのわき腹に向けて矢を放った。 矢は正確に飛んで行ったが運悪く、ティモアを追撃しようと振り上げ始めた木に当たってしまった。 矢の慣性を受けて万歳をした形で傾いた魔物は、不思議そうに手の中の丸太を見た。 刺さったか細い矢を顔に近づけた。 幸い動きと判断力は愚鈍そうだ。団長は矢を巻き上げにかかった。 団長の放った矢に気を取られている魔物の反対側から、新たに矢が飛び、首筋に命中した。 ブォッと声と唾液を咳き込みながら魔物は仰け反った。 新たにもう一本、先ほどの矢のすぐ下、人間の鎖骨の上にあたる部分に命中した。 機械要素のあるクロスボウとは違い、アーチェリーは射手の腕次第では連射が可能だ。 エルヴァールは学生時代は弓に秀でていた。 「ひゃぅーーーー!!」 成人男性の声とはとても思えない声が響き渡った。 木に右手を、首筋の矢に左手を使っていた無防備な魔物の太ももにグリムグラムの よろけた一撃が当たった。 「へぇ、はぁ……あ。当たった。当たったよぉーー!」 「上!上!」 切り裂いたままの柄を握って感激に浸るグリムグラムにワイズが厳しく叫んだ。 笑顔で見上げたグリムグラムの顔がそのまま凍りついた。 巨人の不揃いな歯並びの大口が、彼に向けて開いた瞬間だった。 「ぎゃっ!!」 間一髪で噛みつかれる前にグリムグラムは後ろに尻餅をついた。 その勢いで転がり後退することに成功した。目が回って頭がぐらぐらした。 「通り道、確保」 ワイズが左手を添え、右手の杖を勢いよく振り下ろした。先端から雷が唸りと共に 発した。魔物に向かって一直線に飛ぶ……! と、思いきや、乱反射するようにでたらめにうねり始めた。 「……カ、カルフラン君……!」 練習では実戦ほどの魔法力を杖に通したことが無かった。 ワイズのそれに耐え切れず、魔法言語の内『方向』を入力する前に放たれてしまったようだった。 あちこちを走り回る雷をジャイアントは楽しそうに手を打って目で追っていた。 おかげで忘れられたグリムグラムは、巨人よりもワイズの魔法を必死に避けながら 四つんばいで後退していた。 このままでは同士討ちや、騎士団が町に損害を与える形になる。 相殺のための魔法をワイズが結び始めようとした時だった。 細い弦楽器の音色が滑り込んだ。 東の楽器、七弦の和音だ。 「あ、アディの音だ……」 灯台とは少し離れた路地を早足で歩いていたフェルフェッタは顔を上げた。 隣でイガーナが耳を済ませた。 「この曲は『水蛇の踊り』と言います」 大騒ぎの戦場の中では控え目すぎる音だが、その音が作る美しい進路をワイズの魔法が 吸い寄せられるように添った。 光に音楽も加えたショーを楽しんでいた魔物の耳に、その旋律が届き、 雷も後に続いた。 グガァッッ!! 耳に入り込んだ雷はそのまま巨人の頭を駆け巡った。 髪の毛らしき体毛がチリチリと縮れあがり、魔物は両手で頭を抱えて震えた。 放り出された木が鈍い音と共に転がった。 「ハハ、えげつない……」 ワイズが皮肉めいた笑みを浮かべ、魔物と己の手の内の杖を見比べた。 ようやく立ち上がって走り始めたグリムグラムに指で指示を出す。 自らも細い路地へと消えていった。予定の配置についているはずの団長宛てに 短距離伝書魔法を送った。 「見てたかい?今回はナット君に助けられたが、どうやら僕の攻撃は上手く行かない ようだ。……腹が立つな。トランタン君も武器を敵の足元に放り出したままだ。 立て直すには時間が足りない。次に僕らの攻撃はできないと思ってくれ」 「了解しました」 届かない返事をして、団長は建物の影から飛び出した。 右手で突剣を抜く。太陽をキラリと反射して街路に光の帯が走った。 朝でも昼でも夜でもない、狭間の空と同じ色。 彼女の瞳と、かつてのイグラスの将軍の瞳と、同じ色だ。 前の話 次の話 |