(本当に) 両手で顔面を覆ったままの巨人は団長の接近に気づかない。 (魔物だ) 耳に雷が直撃したのだ、音でも気取られていない。 震えながら激痛の為に地団太を踏む敵の動きを読みながら、団長は加速した。 (峠が見えない) 前面はかがみこんでるせいもあり、懐に入るのは困難だ。 丸まっている広い背中がさらけ出されているのが目に入った。 右手を突き出して尾骨の上、腰髄の辺りに突剣を食い込ませた。 グォアァアアアッ!! 魔物の咆哮に合わせて脊髄がS字に捻った。 団長は柄に体重をかけて切っ先を深く沈めた。 (体の構造は人間に似ているんだな) ボサボサでチリチリになった体毛を避けながら見上げた。 肩の辺りの筋肉の着き方など、人間にそっくりだ。急所も同じだろうか。 「エル団長!」 アディの声が聞こえた。視線を少し左にずらすと、肩越しに睨みを利かせた魔物の目と合った。 暗く濁り、淀んだ穴のような目だった。右足を敵の臀部にかけ、全身で剣を抜こうとした。 彼女の武器はフランベルグであった。波刃は筋繊維を引っ掻き回し、攻撃を与えることには 有効となったが、その肉が脱出を困難にした。もう一度柄を握りなおそうとしたが、 巨人の右肘が眼前に迫ってきていた。 仕方ない。 剣を諦めて後方へ二、三歩と跳んだ。四歩目に差し掛かった時、先ほど魔物が放り出した 丸太に当たってしまい、よろけてその上に座る形になった。 魔物は腰から勢いよく回転したおかげで、グリムグラムの剣はすっぽ抜けたが、 団長の剣がますます腰の内部を破壊した。 団長は丸太から立ち上がった。 アディは魔物の左から走ってきた。 エルヴァールはさらにその向こうからナイフを投げた。 眼下に飛び込んだアディを振り払おうと下を向いた絶妙のタイミングで、エルヴァールの ナイフが左の首筋へと命中した。彼の一、ニ撃目と同じ個所だ。 固い皮膚はさすがに破れ、黄色い液体を零し始めた。 アディはグリムラムの剣が作った脚の切れ目に右手を伸ばし、手首を返してから 左手でその剣を引きずり後ろへ飛び退った。 左手の剣はそのまま後ろへ横投げをした。 ガランガランと乾いた音を立て、大剣は回転しながら石畳の上を滑って行った。 右手が不自然に前に残っているアディは、右手をそのままで後ろへ体重をかけた。 巨人の太ももにじわりと黄色い輪ができた。 それはゆっくりと広がっていく。皮膚が捲れあがって行く。 それと共に、アディの右手の指先からも、赤いものがポタリポタリと落ちた。 魔物は肩膝をついて脚を押さえた。そして、何かが自分の脚に巻きついているのに 気が付いた。それは冒険者の右手へと続いている。 これを手繰り寄せれば……。 細いその絆のようなものを掴んだ。 「!」 アディは右手を開放しようとしたが、手袋越しに自分に深く食い込んで逃れられなかった。 「アディ!」 団長はブーツに仕込んであった短剣を抜き、巨人の手に向かって投げた。 しかしそれは外れ、街路に甲高い音を立てて跳ね返った。 だが、ほとんど同時にアディと魔物は二人そろって後ろへ尻餅をついた。 団長の視線の端をエルヴァールのナイフが掠めていった。 エルヴァールはアディに駆け寄った。彼は左肘をついて立ち上がった。 右手は力なく垂れ下がっている。肩の辺りは細かく震えていた。 「どうやった?」 「ヒミツ」 「怪我したくせに」 「……ヒミツ」 団長も駆け寄ってきた。 アディの右手とエルヴァールの五分の三になってしまったホルダーを見た。 団長の両手は何も持っていなかった。クロスボウは腰の後ろに刺してある。 尻餅をついてくれたおかげで、取り残された団長のフランベルグは、豪華な柄が見える だけとなっていた。魔物の右手が丸太を探り当てた。 力を篭めてそれを握り締めるのが見えた。 拳に怒りが満ちているのがよく分かる。 ここは隊列を入れ替えなくてはいけない。 魔物は丸太を杖代わりに立ち上がった。 三人はそれを見上げた。魔物の背後には灯台が夕日を受けて戦場に影を落としていた。 「エル、後退だね?」 エルヴァールが早口で尋ねた。 団長は灯台を見上げたまま言った。 「二人は後退して下さい。私はもう少し時間稼ぎをします」 「そんな、丸腰に等しいのに!」 エルヴァールの抗議を右手で彼の口を塞いで止めた。 「ほんのちょっとだけ。すぐに私も後退するから。アディをお願い」 一瞬だけ視線を残して、団長は駆けて行ってしまった。 巨人は丸太を振り上げる。 エルヴァールは三本目のナイフをホルダーから取り出した。 アディは彼の邪魔にならないように移動した。 右手をそっと覗いた。指が動かない。 左手で背負っていた弦楽器の存在を確かめた。 団長は振り下ろされた丸太を転がりながら避け、先ほどの外した自分の短剣の元まで 辿り付いた。巨人は怒りに任せて再び丸太を振り下ろした。 這いつくばるような姿勢で短剣を拾い上げていた彼女の左腕を直撃した。 「〜〜っっ!!!」 痛さのあまりに声も出なかった。体が反射で涙を分泌した。視界がぼやける。 こんな時に! 固く目をつぶり涙を追いやった。流れ出て顔に光の筋を描いた。 狙いを決めたエルヴァールの三本目が飛んできた。 再び左の首筋に命中した。 「エル兄!」 団長は当人を見ずに叫んだ。 「狙うなら脚を!二人が攻撃した腿に!!」 団長は右手で短剣を投げるために振りかぶった。 巨人との間合いを量りながら、灯台の上も視界に入れておく。 灯台の中に人がいるのだ。 気づいたのは前衛に出てからだった。 物見台から様子を伺ったのだろう、峠が団長の視界に入った。 この眼は石造りの壁や塀は透過して見えないらしい。 今は、まだ、の話だ。 魔物に彼らを気取られないように、こちらに気を引くよう立ち回った。 彼らも怯えているようで顔を出したらすぐに引っ込んでしまった。 団長が塔の真下の丸太に腰をかけるまでは。 灯台守たちは怯えていたが、塔を離れるつもりは無かった。 ここを彼らが守り抜いてきたことにより、イグラス近海の船の航行を守ってきたのだ。 それは、これからもずっと続く職務だ。 イルグールの町の中で一番目立つもの。それがこの灯台だ。 魔物が現れてから二十日ほど、何度も狙われた。時に火矢で、時におぞましい匂いの煙で 撃退はすることに成功したものの、敵はそれを遊びと捉えるかのように 笑いながら何度も何度も襲ってきた。 相手が魔物と言えども、引くつもりはなかった。 部屋の片隅に放置してあった埃がべっとりとついた帆布をめくった。 過去の大戦で何隻もの軍船を沈めた大型の兵器の残りだ。 これを毎日通っては修理していたのだ。 しかし彼らは平和な時代の灯台守。 無縁な兵器をどう修理していいか試行錯誤するうちに、今日という日になった。 見慣れない一団が橋を渡ってくるのを一人が遠眼鏡で発見した。 盗賊団かと思い、警鐘を鳴らそうとしたが、先陣を切った騎士が魔物を灯台から 引き離してくれたのだ。 どこの馬鹿かと思った。 遠眼鏡で見ると、アルセナの紋章をかかげた騎士だった。 隣の大柄な戦士も、一目でアルセナ人だと分かった。 ありがたい。 彼らが勝手に来て、勝手に魔物と戦っているのだ。 ならばその隙にこの兵器を昔の状態に戻す作業を続行しよう。 後少しで物になりそうだ。 相手は魔物だ。この兵器が必要なのだ。 数人の集団、しかも平和ボケしたアルセナのやつらに倒せるわけが無いのだ……。 それにしても、どうせならもう少し灯台から離れて暴れてくれないだろうか。 もう一度外の様子を伺った時に、女の子が剣を魔物の腰に刺しているのが見えた。 アルセナの女は鬼女だな。 ……。 ……。 いや、あの子は。 見ろ、イグラスの子だ。 我らと同じ耳を持つ、同胞だ! でもなぜアルセナの紋章を掲げている? なぜアルセナのやつと共に戦っているのだ? なんであれ、同胞だ。 同胞が我らの為に戦っているのか! ならば、我々も援護しなくては! 弾込めはこうだろうか? いいや、こうじゃないか? こっち向けるな、危ない! こうだ。きっとこうだ。ほら、ここから発射できる。 よし、では物見台まで移動させるぞ。 せーの! ヨイショ!ウォイショォッ! あの子は無事か? 一人怪我をしてるみたいだが、大丈夫、あの子は無事だ。 角度、こうか? もうちょっとあのでかいの、歩き回らないでくれないかな。 おい、あの子は引かないみたいだぞ。 こっちを見た! オレらに気づいているのか? 急げ! 急げ!足止めしてくれている! 急げ! エルヴァールのナイフが巨人の内腿に命中した。 負傷した脚でがくりと膝を突いた。 その姿勢で固まるのを待っていた。団長は短剣を投げた。 剥き出しだった魔物の腱を切った。 歯と歯の隙間から、水と粘液を孕んだうめき声が漏れた。 「撃てェーーーーーーーーーーーーーーっっ!!」 男の号令と共に爆発音が響いた。 風を切って何かが飛んでくる甲高い音が追いかけてくる。 団長は右腕で顔を庇いながら後退した。 水平線に飾られた夕日よりもまぶしい光が視界を奪った。 戦場に面している家々の窓がびりびり震えた。 遠く路地で子供を誘導していたイガーナは光を見上げた。 シュウガの羽織った赤い外套の紋章の金糸が鈍く反射した。 通りをひとつ分下がった場所で結び始めていたワイズの魔法は、桁違いの魔法力にかき消された。 (何が起こった?!) 「マリウス様!」 視界は白く閉じたままだった。 聞いたことの無い男の声だ。イグラスの言葉だ。 「伝書が届きました」 「読み上げよ」 「ヘルヘレム隊、フォッケル隊、全滅。ミズリ隊はメロウラックのみ生存確認」 「メロウラックはそのまま小隊長に。先のカロク隊の生存者と合流させよ」 「はっ!」 「将軍!」 「うむ」 「リルメットより伝書です」 「読み上げよ」 「カントレル砦は守りきったようです」 「そうか。功を労ってくれ」 「……ぁ」 「なんだ?」 「続きが……」 「読み上げよ」 「……は。マルヴェラ様が……」 「妻が?」 「砦の攻防戦で、お命を落とされたそうです……」 「……」 「ご遺体は、辱めを受けないよう、そのまま海に」 「……海に生まれし者が海に還ったのだ」 「将軍!敵襲です!騎兵です!少なくとも三小隊確認!リッコル工作隊の罠を突破した模様です!」 「メイルーン隊と援護にフィルリット隊、そして我が隊が参る!」 「御自ら?おやめください!敵に後がないと気取られますぞ」 「やつらも馬鹿ではない、分かっているのだろう。それに、将が前線に出ることで兵の 士気が上げられるだろう」 「しかし!」 「お主の隊は灯台を守れ。あれが照らすのは船の道だけではない。我らがイグラスの 未来への希望を照らす象徴なのだ。あれがあの形のまま無事なら、アルセナに 支配される屈辱の日々でも、我らはイグラスの誇りを忘れない。そのために、 あそこには高い金を出して買った兵器がある。上手く使ってくれ」 「マリウス様……」 差し出した手を両手でぎゅっと握られた。皺の刻まれた手は透明な暖かいもので濡れていた。 「マリウス、ここから見る夕日はとても綺麗でしょう?海全体が輝くようで!小麦畑みたいで! 私のとっておきの場所なの!」 「ほぅ……月を眺めるのもよさそうだ」 「この灯台がアクラルの最西端にある塔よ。アクラルで一番最後まで太陽を見ていることが できる塔なの」 「アクラルの、西の果て、か」 「ねぇ?ここから先、もっと西に進むと、他にも大陸があったりするのかしら?」 「あるかもしれないな。そこの大陸はここと違い、争いが無く人々が楽しい食卓を囲む 地であるといいな」 「アクラルもいつかそうなるわ」 「そうだな」 「そうよ。あのね、それよりも、だ、大事な話があってね、マリウス……」 頭に羽飾りをつけた長い髪の女性が振り返った気がした。 (マリウス……?) 団長の視界が戻ってきた。鼻を突く異様な匂いがする。 細目を開けると、見えてきたのは石畳の目地をどろりと流れる黄色い液体。 えぐられた石畳の瓦礫。その上に突っ伏している巨人・ジャイアント。 腹には大きな穴が空いている。 そこから黄色い液体と白い煙が音を立てて溢れていた。 思わずついてしまった左手が、刺激を神経に与えてくれたおかげで、体全体が ショックで動き出した。辺りには魔物の吐く煙と爆煙の名残、それと、 魔法の弱い団長でも目に見えるほどの魔法力の残骸が漂っていた。 「これは……」 煙は場に留まるように沈み渦巻いていた。上部の方は夕焼けが見えた。 灯台を確認した。灯台守たちは兵器の威力に腰を抜かしていた。 周囲の家々を見回した。ガラスが割れたり瓦が飛んだりはしているが、 致命的なダメージを受けているものはないようで、ほっとした。 魔物の死体を横目に、エルヴァールとアディのいた方へ歩いて行った。 石畳の破片を足に食らったので上手く歩けない。 霞んだ視界の中に、倒れこんでいるエルヴァールと彼を覗き込むアディが現れた。 「……ケホッ」 見た光景になんと声を出していいのか分からずに咳き込んだ。 その音にアディが振り返った。団長に見えるように体をずらす。 エルヴァールの胸に火傷のような痣が溶岩のようにできていた。 「団長……」 アディの呟きが遠く聞こえた。 白く濁った視界も、上に広がる鮮やかな夕空も、色んなものが遠ざかる。 右手を腰の後ろに回して、矢筒に共に挿してあった黒い錫杖を取り出した。 アンクの先で空中に魔法陣を敷き始めた。 「団長は、魔法は使えない聞いたよ」 「今は場に魔法力が満ちている。私の力添えがあれば、この身体でも使えるだろう」 「エルを助けられる?」 団長は答えずに魔法陣を描き続けた。 魔法に長けていないアディには分からなかったが、現代では滅多に敷かれることのない 高度で複雑な魔法陣であった。 白い煙の上からゆっくりとオレンジが侵食してくる。 オレンジの上から、夜が闇を引き連れて降り始めている。 煙が薄れると同時に、魔法力の残骸も拡散していってしまう。 マリウスは足元に横たわる青年を見下ろした。 長身の金髪で典型的なアルセナの顔立ちだ。 (でも、よいだろう?彼はこの町を共に守った、戦友だ) 最後の一手を描いて、彼の回復魔法が発動した。 柔らかい空気がアディとエルヴァールを包んだ。 ヴァーグナルとティモアが三人を確認したのはほぼ同時だった。 それぞれが別の方向を目ざして駆け出したのは、実戦経験によるものだった。 二呼吸ほど遅れてワイズが追いついた。さらに二呼吸遅れてグリムグラムが。 ヴァーグナルは盾を構え、身を低くして三人の前に立ちはだかった。 ワイズは防御補助魔法の送り先を入力し終えた。 グリムグラムは尊敬する騎士の背中を口を開けて見ていた。 ティモアは剣を半身の下段で構え駆け続けた。 巨人・ジャイアントは大きな掌を頭上に振り上げ、三人を叩き潰そうとしていた。 腹に空いた穴は相変わらず白煙を吐いていたが、肉が蠢き絡み、穴を縁から ふさぎ始めていた。 魔物の拳と団長の後頭部の軌跡上にヴァーグナルと盾が介入した。 そこに場の魔法力を吸収したワイズの防御魔法が完全な球を描いて届く。 くぐもった衝突音と共に、ヴァーグナルの全身に圧力がかかった。 盾を構える腕が震える。右手も盾に添えて耐える。 「うぐっ……」 さらに一瞬だけ負荷が加わった。 全体重をかけてヴァーグナルを固定していた魔物の両拳の上を、ティモアが蹴って跳んだ。 加速させた大剣を振り上げ肉と骨を砕き首を跳ね飛ばした。 フゴ? と、頭部と一緒に宙に飛んだ口から漏れた。 そして全身から白煙が爆発的に漏れ、瞬きをするとすでに肉体は消え去っていた。 薄れていく白煙の中、首と一緒に薙いだ体毛が切れ切れに漂った。 ティモアは着地して、魔物の体があった場所をまじまじと見つめた。 そんな夕焼けを背負ったティモアが、グリムグラムには眩しくて仕方なかった。 踏ん張っていたヴァーグナルは枷が無くなり、後ろにひっくり返った。 そのまま団長の背にぶち当たり彼女はエルヴァールの上に倒れた。 「ゲホッ!いつつ……」 将棋倒しを食らったエルヴァールは首を持ち上げた。 団長より素早く、アディがその首にしがみついた。 団長はエルヴァールの指の一本一本に自分の指を絡めた。 冬の寒気の中、冷え切っていたが皮膚の下に血が流れていることを感じ取った。 「よかった……」 絡めたままの手を自分の頬に当てた。 エルヴァールは焦点の定まらない瞳で彼女を見てから、後方のティモアを見、 また彼女を見た。 「……結局、おいしいところは取られちゃったな……」 「そんなことない。エルがいなければ、ボクはダメになってた」 アディが首にしがみついたまま言った。 ヴァーグナルは起き上がって左右に振って首を鳴らした。 ワイズが予想に反して足取り軽やかにやってきた。 「すごい、すごいぞ!今のは書物の中でしか存在しないと思っていた大戦中の 拡散型魔法兵器だ!現存していたとは!この身で威力を体感できるとは!ああ、旅に出て良かった!!」 浮かれた調子でくるくる回りながら声に出した。 ティモアは取り残された団長の突剣を拾い上げて、記憶を手繰り寄せた。 (……身に過ぎた魔法力を受けると、精神が絶好調状態になると聞いた覚えがある……。 より敏感な魔法使いのほうが影響を受けやすいと聞いていたが……) 崩れた石畳を年甲斐もなくいそいそと跳びはねるワイズの動きが時々ぎこちなく揺らぐのは、 彼の理性の訴えだろう、ということにしておいた。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 「それでは、我ら流星騎士団の初勝利を祝しましてぇ〜〜っ」 「ミュージック・スタート!!」 ヴァーグナルの下手くそなピアノのフライングにより、 久々のヴィーナス・アンド・ブレイブスの演奏が始まった。 狭い酒場の狭い吹き抜けに、陽気な音楽が所狭しとこだました。 アディの右手は多少は痛みが残るものの、今までとなんら変わらず動き、 繊細な音を醸し出していた。ホノカはワイズ同様、過剰な魔法を受けたおかげで 妙にハイで、ノリノリで熱唱していた。動きもいつもよりサービス過剰。 勝利に酔うグリムグラムはホノカの艶姿にますますだらしなく溶けていった。 魔物の息の根を止めた立役者であるティモアは、普段と変わらず無口なまま 弱めの酒を飲んでいた。このジグー出身の寡黙な功労者には近寄りがたく、 代わりに親しみの持てる同胞である団長を、灯台守たちは取り囲んで あれやこれやと話しかけたり酒を注いだりとちょっかいをかけていた。 「ハイハイ、順番順番。ハイ、押さないで。急がなくてもあなたの団長は逃げないよ〜」 シュウガは流暢なイグラス語でそれを仕切り、エルヴァールは苦笑いしながら 眺めていた。時折心配そうな視線を送る彼女には手をひらひら振って応えた。 彼の後ろではワイズがフェルフェッタに杖についての文句を言ったり、 高度な触媒である過去の兵器の構造体についての意見叙述に白熱していた。 二人とも精神状態が吹っ飛んでいるので、恐ろしいほどのマニアックな論議に エクレスは頭が痛くなって席を移した。 「エル、怪我はどうなの?」 かっぱらってきた肴の皿を差し出しながら尋ねた。 「少し痛いくらいだよ。もう大丈夫」 「ほんとに?」 「嘘ついても意味ないだろ。どういう理屈かは分からないけれど、彼女が魔法を 使って治してくれたんだ」 団長に視線をチラリと投げてから、皿から燻製をつまんだ。 「あの子、魔法は使えないはずなのにね。昨日の戦いと言い、さっきの爆発と言い、 不思議ね……。ここがイルグール島であの子がグーラーだから?」 「それか、彼女が流星騎士団の団長だからか。ま、なんにせよ、終わりよければ 全てよし、だよ」 団長を取り囲んでいた一人が何事か大声を上げて彼女に抱きついた。 周囲もやんやと喝采を浴びせた。通訳したシュウガもいっしょに盛り上がっている。 団長自身は諦めたような表情で注がれた酒をあおった。 「いいの、アレ?心配じゃな〜い?」 エクレスはにやにやしながらエルヴァールを覗き込んだ。 エクレスが手酌するのを制して、彼女のゴブレットに注いでやった。 「自分の好きな相手が人に認められるのを見ているのは、気持ちがいいよ」 自分のゴブレットをぶつけて、乾杯をした。 「あれま。余裕だねぇ」 アハハハと笑いながら乾杯をし返した。 外から酒場の様子を伺っていた人々が、口々に何かを言いながら内部になだれ込んできた。 手に持っていた瓶やら干物やらをテーブルに山積みし、団長の周りにはますます 分厚い人だかりが出来た。 「だーっ!順番!こいつはなぁ、イグラス語は完全には分からねぇんだよ!」 「ひっこめ!言葉が通じなくてもハートが通じればいいんだ!なぁ、団長さん?」 「シュウ、この方はなんとおっしゃったのですか?」 「ひゃぁー!本当に女の子が団長なんだ!こっち向いてー」 「はい、笑ってー」 「戦う女性の長か。まるでヴァルキリーだな」 「これ、うちのハンペンなんだけど、一口食べてくれよ。そうしたらうちの店にも 箔がつくってもんだ!」 「こっちの酢も頼むよ。ちょっとこう、肴にかけるとぐっと深みが増してだね」 「握手してもいいですかぁー?」 群がる人々に押し出され、シュウガは気がついたら輪の外にいた。 やれやれと頭をかきながら、乾いた喉を潤すために山のなかから瓶を一つ手に取り 直接あおった。 「う〜、キク〜〜!」 「ちょっと、あたしにもよこしなさいよ」 歌い疲れたホノカがグラスをぐいっと突き出した。 グリムグラムが注ごうとしたのを無視して、シュウガに注がせた。 一気に飲み干し、再び差し出す。 「そうガツガツ飲むなよ。いつものお前らしく、お優雅に飲んだらどうだ?」 「ふぅ。アレを見てるとイライラするの」 人の群れをあごで指した。 「大人気のエレオノーレちゃんを見るのがウザいってか」 「べっつに。エレオノーレちゃんがってわけじゃないの」 シュウガを色っぽく上目遣いで眺め、人差し指を彼の鼻にあてた。 「あたしじゃないってのが、ム・カ・ツ・ク・の!!」 「痛ェッ!」 そのまま素早くシュウガの鼻の頭を指で弾いた。シュウガは思わず鼻を押さえた。 「ふふん。次はあたしも編成に組み込んでもらうわ。そうすれば、結果は 一目瞭然よぉ?……ねぇ、そうよね?トランタン君?どぅお?ヒーローになった 感想は」 「へ?あ、いやその、ひ、ヒーローってんなら、ティティティ・ティモアさんな わけで……ホ、ホノカちゃんがそう言ってくれるなんて、えへ、えへへへへ……」 ホノカの気まぐれに振り回されながらもグリムグラムは幸せそうだった。 静かな演奏に入ったので、出番の無くなったイガーナもシュウガの隣へ降りてきた。 彼女は酒は飲まないので、代わりに冷めかけたお茶に口をつけた。 シュウガは魚のパイ包みを切り分けてやった。 「お疲れさん。そういや、まともに楽団の演奏を聞いたのは初めてだな」 「ありがとうございます。どうですか?感想は?」 「よかったぜ。でもヴァンタ卿は、へったくそだなぁ」 アディと二人でセッションをしているヴァーグナルを見やった。 「ヴァレイではキャナルが先生でした。ねぇシュウ?ひとつ聞いてもよいですか?」 「あん?」 「あの赤い外套の刺繍と同じ模様を町のあちこちで見ました。あれはどういうものか 知ってますか?」 「俺も気になったから、町のやつに聞いた。あれは昔の戦でイグラス諸島連合の時の 最後の将軍マリウス・ムルジャルボの印だそうだ」 「昔の戦……。アクラリンドと交流する前の大陸統一戦争ですね?」 「そうそう。ここら辺の島は結局アルセナ王国に併合されたんだが、最後まで下るのを 拒否したもんだから、けっこうひどい戦になったみたいでな。マリウスが将軍に 就いたのは、わずか16歳の時だったらしいぜ」 「16……。私よりも若いです。まるでエル団長みたいですね」 人だかりの隙間から見え隠れする頭を、ちょっと背伸びをして見つめた。 「若いカリスマだったらしいが24の時に降伏。人心を支配するためにわざと処刑はせずに グラル島の南部の罪人の島に二十年くらい幽閉されて、そのままだとさ」 「……気の毒な、方ですね」 「そうさなぁ。でも今でも紋章が町のあちこちで大事にされてたり、マリスベイの町の 名前にも冠されたりと、イルグールのやつらに大切にされてるのは確かだな」 皆の武器はまとめて暖炉の隣に立てかけられていた。柄の細い飾りがひしゃげてしまった 団長の剣の隣に、錫杖は静かに並んでいた。黒い表面は焦げてできたものだった。 腐食と混じり、最初から黒い物質だったように見えた。 団長に群がってた人々の輪は、ついに寡黙なティモアにまで広がろうとしていた。 特に男性は魔物に引導を渡したティモアを羨望の眼差しを向けていた。 ちなみに、女性はヴァーグナルの音程の狂った演奏に心をくすぐられていた。 どんなに薦められても自分のペースでしか呑まないティモアに対して、 断る意志の弱い団長は許容量の上限近くまで来ていた。 一年近く前に酒の失敗で前団長といきさつを肝に銘じつつも、言葉が通じない分 より断り辛かった。頭がぼうっとする。 十年も使っていなかった言葉だ。 騒がしく四方から繰り出される言葉の洪水の中、聞き覚えのある単語がちらほらと花火のように 認識できるだけだ。 水、犬、走った、昔、キャベツ、雪、町、食べる、音楽、結婚、泳ぐ、空、オーブン、母、寝る…… 誰の話に耳を傾けるべきか。 灯台、遊ぶ、本、魔法、干す、道、ヴァルキリー、子供、海、開ける、夢、日付…… 全員の話を聞いてみる。 わっか、影、指輪、髪の毛、渡る、馬、叩く、羽根、にしん、船、津波、ヴァルキリー 誰の話も聞いていない。 (君が「ヴァルキリー」のようだと言っているのだよ) (この島には動物に乗って戦う習慣が無かったのでね。大陸の騎兵を相手に弓で戦った 女性の勇姿に敬意を篭めて、戦乙女の名をなぞらえたのだ) (戦時下の支配で、我々はその存在を見失ったと思っていたが、君が名と実と共に帰ってきたと) (お帰り、イグラスの子、ヴァルキリー・エレオノーレ) 「ヴァルキリー……?」 口の中で反唱してみた。 「ぃよっ!ヴァルキリー!」 「ありがたやありがたやあいふぁふぁひゃ」 「じいさん、入れ歯が零れたぞ」 「団長さん!こっちの酒も飲んでくれ〜」 注ぐ側の手元もなんだか定まらない。人々の輪は結局団員全員までに広がり、 酒場はごった混ぜの宴会になっていた。耳の長い女性たちがヴァーグナルを取り囲み、 地元の楽器を持ち込んだ中年男性が、アディと即興で弾き比べをしていた。 ホノカの洗練されたファッションに若い娘は興味津々。エルヴァールの隣のエクレスは 人垣の合間からちらちらと若い男達に盗み見られていた。グリムグラムは船をこぎ始め、 ワイズとフェルフェッタはますますヒートアップをして、言語を無視した専門用語を 繰り広げ、より遠い次元へと突入していた。それを町の魔法使いが聞き逃さないように メモをとっていた。類は友を呼ぶ。 (こんな光景を、私は見ているようで見ていなかった。望んでいたものだったのに) (もはや私の戦は過去なのだ。そして、新しい戦いの時代が来たのだな) (君たちの時代なのだな……) 「マリウス?」 手元のグラスに団長の顔がゆらゆらと映りこんでいた。 (私の未練と後悔が私をここに縛っていた。だが、今なら精霊郷に旅立てそうだ……) (この自責の念が、いつから始まったのか、いつ終わるのか、無限にループするような 恐れに彷徨っていた) 「峠が無限につづいても、ひとつづつゆっくり乗り越えていけばいいではないですか」 (うむ。君は君の越えるべき峠を。私は私の辿るべき道を。……お別れだ、ありがとう) (最後にひとつ。昨日は君を試す真似をして、すまなかった) 「……さようなら、イグラスの誇り、マリウス将軍……」 (ありがとう……) 首がガクッと下に落ちたことで、団長は目を覚ました。 宴は続行していたが、ダウンした者は暖炉の前に寝かされていた。 団長もいつの間にかその仲間入りをしていた。足元ではグリムグラムが 口を半開きで寝っ転がっていた。団長は例の赤い外套をかけてもらっていた。 暖炉に新しい薪をくべて、宴の輪に見つからないように身をかがめて こっそりと外に出た。途端に寒さで肩が震えた。 掴んできた錫杖がごと、外套をぴったりと巻きつけて寒気を防いだ。 夜といっても完全な暗闇ではない。 月の光が海面に反射して、灯台の輪郭をぼうっと浮き上がらせていた。 酔い覚ましに、そちらを目指して歩き始めた。 戦闘で崩れた石畳を回り込んで避け、灯台の入り口までやってきた。 布の下で手をもぞもぞ動かし、守護の塔と呼んだ錫杖を取り出し扉に立てかけた。 「将軍を縛っていたのは、ご自分の意志だけではないのでしょうか」 白い息を吐き出し、塔を見上げた。 「この島の人々も、将軍の存在を縛っていたのではないでしょうか。きっとこれからも。 これが、あなたの無限の峠の謎に私が出した答えです。女神、正解ですか?」 「あなたが正解だと思うのなら、そうなのでしょう。全ての事象に答えがあるとは限りません」 抑揚の無い声が隣から聞こえた。 いつもと同じ格好の女神が立っていた。 「女神、寒くありませんか?」 「いいえ」 見ているだけで寒くなってきたので、団長は前であわせた外套の隙間をさらに閉じた。 「エレオノーレ・エヴァンス」 「はい」 「初戦、よくぞ勝利しました。見事です。この調子で頼みますよ」 女神は相変わらず無表情なままだった。 「はい」 巻き付けすぎて芋虫のようになっていた団長は、軽く頭を下げた。 東がほんの少し、青く色づいてきていた。 前の話 次の話 |