暗く長いチューブの中は淀んだ空気に満たされていた。 緩やかな曲線の向こうから、ひとつの影が這い出してきた。 汚れの染みで赤とも黒ともつかない厚手の布を被り、顔には異臭を遮断するための 特殊なゴーグルをつけていた。鼻の部分がとがっており、きつつきのようだ。 細い体には不釣合いな皮鎧をベルトで巻きつけていた。こちらも黒ずんでいる。 右手にはランタンを、左手には釣竿を持っていた。 彼は水上都市の胎内である地下水路を網羅していた。 明かすことはできないが、この複雑な地下水路のとあるところを住処とし、 地下の情報を活かすことで生活を成り立たせていた。 外気の当たる地上ですら、この街は美しくひずんでいる。 端麗な水路と凝った意匠のアーチ、そして明るい町並みに反して影が濃い。 好んで汚泥が溜まる地下水路に入りたがる者は少なかった。 それでも地下に用がある者は、代理として彼のような者を雇う。 例えば失せ物を探す時。 大切な思い出の品。行方知れずになった猫。投げ捨てたが惜しくなった贈り物。 犯罪の証拠。人の遺体。 さまざまな物が生活の排水と共に地下に屯っている。 彼らにはどこでどれくらいのものを落とせば、地下のどこでひっかかっているかを 簡単に割り出すことができた。 例えば運搬の案内のために。 表ではとても運べないような物を運ぶ際、地下水路は非常に有効であった。 夜の闇に紛れて、黒より暗い地下水路を小船が行き交うことなど、珍しくもなかった。 そして、薬草の調達。 腐敗と悪臭が漂う中でさえ、生が芽生えている。 毒を制するのは毒なのか、それらの中には貴重な薬草やカビがが存在するのだ。 彼らの高収入源だった。売る相手は選ばない。それが人を救う妙薬になるのか、 死に至らしめる猛毒になるのか。彼らの知ったことではなかった。 (今日は、どこでこいつを売ろう) ベルトについたポーチの中の、今日の収穫を売りさばく相手を吟味しながら彼は歩いていた。 冬から春へと変わる微妙な気候の時にしか採れないカビを発見できたので、 発生源ごとナイフでこそぎ落としてきたのだ。どこに売ってもしばらく食うには困らない。 それでも少しでも高く値段を釣り上げたかった。 弱々しいランタンの光が濁った水面に鈍く反射していた。 のろのろと一定方向に流れていく。 ふと立ち止まった。瞳を一旦閉じて、ゆっくり五つ数えた。 そのままランタンを口元に持っていき、火を吹き消した。 さらに三つ数えてから目を開けた。 暗さに視覚が馴染んでいた。釣竿を素早く振り回した。 ヒュヒュッと空気を裂く音がした。水音と反射音を頼りに、再び歩みだす。 聴覚に意識を集中する。近くの水路に誰かがいる。 同業者と馴れ合うつもりは毛頭無い。 情報の独占こそが大金を得る要なのだ。 そして、誰がいつどこで何をしていたか、知っておくことは重要であった。 彼は足音を消す歩き方を徹底的に叩き込まれていた。 音を出しさえしなければ、暗闇の地下で彼を見つけることは極めて困難であった。 ボソボソと話し声がするほうへ、ゆっくりと慎重に近づいた。 曲がり角から様子を伺い、そっと顔を覗かせた。 小船が停泊していた。通路に一人、船上に二人の男がいた。 船上の一人は同業者だった。残りの二人が何やら大きな積荷を船から下ろしているようだった。 細い鎖が何重にも巻きつけられている、球形の荷物だ。 覗き見ている彼は目を見張った。 (あれは、魔封じの結界じゃないか。こんなところでそんなものを降ろして、 どうする気だ?) この近くには地上へ通じる出口も、地下室も無かったはずだ。 男の片割れが杖で壁をコツコツと叩いた。すると、まるで初めからそこに扉があったかのように、 四角い入り口がぽっかりと空いた。 彼は驚いた。この地下で彼の知らない間にこのような工作をできるとは信じられなかった。 同業者も同様のようだった。入り口をしげしげと見上げていた。 そして、ゆっくりと壁にもたれかかり、膝から崩れ落ちた。 船上の男が、倒れた人間から刀をずるっと引き抜き、肉の塊を水路へ蹴り落とした。 宙で一度振り、血を掃ってから鞘に収めた。 目の前を水の速度で移動していく同業者を思わず目で追ってしまった。 隙だらけだった。 はっとして意識を戻した時はすでに遅かった。 喉元を刀の鞘で固定されて身動きができなくなっていた。 鯉口から白い刃がちらりと見えた。 殺人者の冷たい瞳が見下ろしていた。 「待て、ハルヒ」 杖を持った男が声を出した。 「そいつは殺すな」 「子供だからか?甘いな、カロク」 「老いぼれじゃないからだ。使える。顔を見せろ」 刀の男は動かず、杖の男が髪をわし掴んで彼のゴーグルを引っぺがした。 顔をねじるように覗き込んできた。それからポーチの中を探ってきた。 例のカビを包みを見つけて、眉を曲芸のようにあげて見せた。 「おや、お前は。知ってるぞ。ウシュ女史から聞いている。お前はギィだろう?」 動けない彼は目で頷いた。 「そうと分かったらますます殺せないな。これは女史のお気に入りだ。 連れて行こう」 杖の男は喋りながら彼からランタンと釣竿を奪い取った。 刀の男は流れるような動作で鞘を下げ、同時に彼から間合いを取った。 力が抜けて壁に寄りかかった彼の肩を、杖の男はガッシリと掴んだ。 「さぁ、行こうか?」 歪んだ笑顔で彼を誘った。 逃げることは死を意味していた。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- はいよ、らっしぇい! おや、トウカちゃん。お使いかい?いい子だねぇ。 んん?お母さんはあとから来るのかい。分かったよ、それまで何か話をしてあげよう。 いいんだよ、どうせ暇だしな。 んん?こっちの兄ちゃん? おうおう、お客さんなんだが、ちょうど今、交渉が終わったからこれからお帰りなのさ。 「交渉」?あ〜っとなぁ……ヒトとヒトがそれぞれにお得になるように話し合いして 色々決めることさ。 んん?そうそう、お買い物もひとつの交渉さ。お金と肉をそれぞれにお得になるように 話し合ってるのさ。 んーんー?この兄ちゃんはな、ゼレスよりもも〜っと遠くから来たもんで、 そこの珍しいお肉とうちの肉を交換してくれってんで来たのさ。 んんー……?すまん、兄ちゃん。ヴァレイからどこへ行ってからライカンウッドに 行って来たんだっけ?あ、そうそう。イルグールだったな。 んん?そっかー、トウカちゃんはゼレスから出たこと無いからな。王都なんて 本当にあるなんて、信じられないか。ハッハッハ! んん?おい兄ちゃん。そっちから名乗ってやれよ。小さくてもこの子は女の子だから。 エルヴァールか。小洒落た名前だな。この辺りじゃ聞かない名前だ。 んんー?トウカちゃんは母親がスクーレの出なんだよ。この辺りの街女と違ってな、 そらーもう、スタイルがグンバツのべっぴんさんなんだよ、イヒヒヒ。 んっんー!ウホン!さ〜てっ、今日はなんの話をしようかねぇ……。 なんだい、兄ちゃんも聞いてくのか?ムフー、まっ聞きたいならしょうがない。 ん〜ん。そうだな、じゃぁさっきちょこっと話に出た村、ライカンウッドの話にしよう。 この街に伝わるふる〜いお話にも繋がる、ちょっとこわぁい話だ……。 んんー?兄ちゃん、話の腰を折らないでくれよ。この街で一等有名な話ってったら、 メルヴァイクの悲恋の話さ。それは、ちょっとさ、こう置いといて。 んん!さてさて、ライカンウッドとは、この城塞都市ゼレスよりも歩いて四、五十日かかる 森の中にあるちんけな村だ。 んん?ちんけってのは、ショボイって意味だよ。ふか〜いベリアスの森が、そっと息を飛ばした かのような黒々とした森の中で、村の人たちは木を切ったりして暮らしてましたとさ。 日が昇ると起きて、一日働いて、日が沈むとお疲れさん。 人々は毎日静かに静かにマジメに暮らしていました。 そんな静かな村にも、戦争がやってきました。 森はあっという間に枯れてなくなり、黒かった景色はくすんだ茶色になりました。 戦争は通り過ぎて行き、アルセナの高慢ちきな騎士団を大レイラントが誇る 鉄壁の騎士団と筋骨隆々の剣闘士軍団が下して、北へと攻めて行ったのです。 彼らの勇ましかったこと!迫りくる敵をちぎっては投げ、弾いては投げ! そうして大レイラントはますます栄えて……。 んん?おっとっと。すまねぇ。こりゃ別の話だ。 あ〜っと。戦争が通り過ぎたあとのライカンウッドには、ぺんぺん草も生えないほど ひどい有様だったようだ。 村の人たちはみんな疲れ果ててたんだが、村も森もとても愛していたので、 村と森を治すために前よりもいっそうマジメにせっせと働いたそうな。 植えた木の苗がようやく村を覆い始めた頃、またまた戦争がやってきました。 今度はアルセナがコシャクにもゼレスに攻めてきたんだな。バカヤロー。 また森も村も焼けてしまうとライカンウッドの人たちは泣きくれました。 軍隊がすぐそこまで来たある日の夜に、ひとりの女が村を訪れました。 長い紅い髪に、黒い外套の女でした。 アルセナ風でもレイラント風でもありません。 手に持ったランタンが暗闇の中で妖しく光ってました。 彼女が言うことには、村の人たちがあんまり泣くもので、泣き声がグランタロスに こだまして、精霊郷にまで届いたのだと。 そう!彼女はなんと!精霊さまだったのです! その証拠に、ああなんと!彼女の背中にはうつくすぃ〜羽があるではありませんか! 嘆く彼らを憐れに思い、力を貸しに来たのです! 精霊さまは、村の中で一人、村を守るための勇者を募りました。 魔術を勉強していた若者が名乗りを挙げました。 膝まづく彼に、精霊様は黒い杖を取り出してこう言いました。 「あなたに、力を授けましょう。ただし、十回だけです。人には過ぎたる力だからです。 それ以上力を求めれば、あなたは報いを受けるでしょう」 黒い杖の先から光がふわ〜りと飛び、若者の指に届きました。 すると、なんとそこには緑の石の見事な指輪がはまっていました。 皆が驚いて見ている隙に、精霊さまの姿は掻き消えていました。 彼は半信半疑でしたが、次の晩に村を襲いに来た兵隊と戦いました。 すると、ど〜でしょ〜! 一騎当千とはまさにこのこと。 彼一人で一小隊を叩きのめしてしまいました。 村の人たちは諸手を挙げて彼を称え、敵は転げながら逃げていきました。 それから幾度か小隊が送り込まれてきましたが、すべて返り討ちにしました。 しかぁし……。敵はあとからあとからやって来ます。 約束の十回目の戦いの後も、村は危険にさらされたままでした。 若者は悩みました。 精霊さまを裏切りたくは無い。でも、このままでは村は大ピンチなのです。 悩んで悩んで悩んだあげく、彼は村を取りました。 礼拝堂の前でざんげをしてから、勇ましく戦いに出ました。 村の人たちは彼の背を涙を流しながら見送りました。 その日はいつもより敵が大勢いました。 若者は必死に戦いました。 それでも、あまりに多勢に無勢でした。 若者は泣きながら戦いました。 悲しいからか、悔しいからかは分かりません。 その涙が指輪に落ちた時でした。 「これ以上を望むの?」 どこからか声がしました。 若者はそうだ、と答えました。どうしても村を守りたいと答えました。 「君自身が地獄に堕ちても、それでもその望みは変わらない?」 若者はそうだ、と答えました。 「分かった。輪の外に堕ちることも厭わないのなら、このシロンが手を貸そう」 指輪がピカーッ!と光りました。 若者は悲鳴を上げました。肩の肉が競りあがり、何かが彼を食い破りました。 たまらず地面についた手も、皮膚が裂け、骨がきしみました。 そしてすごい勢いで固い毛が生え始めました。 爪がニョキニョキッと伸びました。 苦しくて叫びましたが、なんだか声も変でした。 ぶるぶる体が震えて、耳の奥でざあざあと音がしました。 その音の中で、くぐもった声が聞こえました。 「さぁ、共に戦おう」 声は耳のすぐ側でしたのです。若者はそちらを見ました。 そこには……。 長い耳と尖った顎に凶悪な牙を取り揃えた、おぞましい狼のような魔物がいたのです! 彼は驚いて飛びのきました。しかし、魔物はピッタリと自分についてきます。 それもそのはず。 その魔物の首は、あろうことか彼の肩から生えていたのです。 彼自身の顔も、その狼の魔物と瓜二つに変わってしまっていました。 ズタズタになったローブをひっかけているところが、唯一人間の名残でした。 涙を流そうにも、狼の目では流せませんでした。 意を決して、彼は、いいんや、彼らは大軍に挑むために地を蹴ったのです……! 突然現れた強力な番人、いや、番犬にアルセナ軍はあわてふためき、 軍を引き上げました。 若者の望みどおり、村は守られたのです!! しかし、彼はもうもとには戻れませんでした。こんな姿のままでは村に帰ることもできません。 それでも、村を離れてしまえばまた襲われるかもしれません。 彼は村の周りの森にそっと身を忍ばせました。 その後のアルセナの南征がある度に、彼は村を守るために戦いました。 いつしか、アルセナ軍は彼を恐れ、彼が住む森のことを『人獣変化の森』、すなわち、 ライカンスロープの森と呼び、南征の際には避けるようになりました。 森はますます濃く茂り、村には永遠の平和が約束されたのでぇす……。 んんっ!どう?こわかった? え?どこがって?魔物になるときのハクシンの演技だったろ?そことか。 ……んん〜……。……そっか。ま、面白かったってんなら、それでいいさ。 なんだよ兄ちゃん。ニヤニヤしちゃって。感じ悪いなぁ、ヘッヘッヘ。 んん?トウカちゃんもあんまりこわくなかったのかい……。肝ッ玉座ってるのは お母さん譲りかもなぁ。 んん?お父さん譲り?あ〜ん……でもなぁ、ワイマールさんはちょぉっと、 頼りないんだよなぁ。 んんっとぉ、ウワサをすればナントヤラ、らっしゃい、ナギさん。 トウカちゃん、お母さん来たよ。 んん?兄ちゃんはもう帰るのかい。気をつけてな。またゼレスに寄ることがあったら 来てくれや。え〜っと、エルマール・ネルドだったかな? んん〜……エルマール殿、ご武運を!! -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- カランカランとドアベルが鳴り、重厚な木製の扉が開いた。 午後の日の光が弱々しく室内に入り込んだ。 ひょろりと背の高い人影が室内に入ってきた。 「よぅエル。そっちはどうだった?」 「無事に交渉は済んだよ。でも、面白い話を聞いちゃった」 エルヴァールがバスケットいっぱいに詰まった燻製肉を、かけ布をちょいと上げながら 言った。 「面白い話なら大歓迎。俺にも教えろよ」 「あのさ、この前ライカンウッドでヘルハウンドと戦っただろ?」 「シィーッ!お・し・ず・か・に!気が散るではないか!」 ヴァーグナルが振り向きもしないで二人に釘を刺した。 真剣にカウンターの上に並べられた白い布を吟味している。 白い布の上にはこげ茶色の細かいものがそれぞれ乗っていた。 「……ヴァンタ卿は何してるのさ?」 エルヴァールはシュウガに小声で尋ねた。 「レディへのお土産を選んでらっさるのさ。すげぇよな。土産買ってくから!って 言ったコの分、ぜぇんぶ買って帰るそうだ。マメだねぇ」 「全部って言っても、二、三人じゃないの?」 「ふふん、エル、甘いな。エリラ、ミマ、マルレイン、キャナル、ティア、ベルリッサ、 ファルル、シュナ、アズリットの全員に、別々のものをプレゼントするのだよ。 それぞれのイメージに似合う紅茶の茶葉を、それぞれに!」 ヴァーグナルが得意げに振り返った。 「……ご苦労様」 「ようやる……。俺のほうはもう交渉は済んでるんで、先帰るぜ」 どうぞと言わんばかりにヴァーグナルは手をしっしっと振った。 シュウガは肩をすくめてから、カウンターの向こうにいる店主へ手を差し出した。 「それじゃ、これからジンギ屋をよろしく。ワイマール・ティーさん」 「こちらこそ。よろしくお願いします、シュウガ・ジンさん」 人懐っこい笑顔を浮かべて、店主はシュウガの手を握り返した。 再びドアベルを鳴り響かせてから二人は表へ出た。 シュウガが首をコキコキ鳴らしながら言った。 「さっきの店主さぁ、ちょっとぽや〜っとしてそうなんだが、結構したたかで 騙されるとこだったぜ。あぶねぇあぶねぇ」 「へぇ。人は見かけによらない?」 「ああいう人畜無害そうなヤツが、商人の間では一番やっかいなんだ」 階段を降りてる途中に、下から登ってきた母娘連れの娘がエルヴァールに向かって手を振った。 エルヴァールも背を丸めて振り返した。母親は軽く頭を下げた。長い金髪がサラリと こぼれた。 通り過ぎた後、振り返りながらシュウガはエルヴァールを小突いた。 「おい!どこであんな美人と知り合ったんだ!」 「肉屋でちょっと。そうそう、さっきの話なんだけどさ……」 二人の声より少し遠い、立派な省舎の一室にワイズは通されていた。 ゼレスに到着して早々に訪れたのだが、ずっと待たされっぱなしで、 少し苛ついていた。呼吸のうちの数回は、ため息にも似た荒い鼻息を立てていた。 ウォルタランドとは違い、リオン地方は春といえども乾燥している。 左手で鼻を弄っていると、ようやく奥の扉が開いた。 灰色の短髪の中年の男性が現れた。後ろ髪の一部だけ伸ばしてくくっている。 ワイズは重そうに立ち上がり、名を名乗った。 男はかなり背が高かった。深々と頭を下げた。 「お初にお目にかかります。ゼレス魔法管理課のR・R・ジョカミです」 「話は伝わっていると思うが念のため。直接この街の伝書魔法使いに話がしたい」 「伺っております。しかし、そのご要望にお応えできないことを伝えに参りました」 ワイズは大げさに目を見開いて見せた。 「僕には、各都市法律を無視できる越権がある。王の手形も見せたはずだ」 「存じております。……その上で、シーテ博士にお話したいことがあり、参じたのです」 男はワイズに椅子にかけるように促した。 ワイズは立った時の正反対の動作で腰を下ろした。 それを見届けてから男も正面の椅子に腰掛けた。 「博士は『シロンの指輪』のことをご存知ですか?」 「国宝を知らないほど無知ではない」 「失礼しました。しかし、それがヴァレイの宝物庫から消えたことはご存知ですか?」 「……初耳だ」 「そうですか」 男は右足でタンッと床を叩いた。 部屋の両脇にあった扉に金属音が響いた。 「では、ゆっくりその旨をご説明いたしましょう」 男は深々と背もたれに沈み、指を組んだ。 ワイズも同様にもたれてから、親指と人差し指の爪をこすった。 乾燥しきっていて、ささくれがよりえぐれて薄っすらと血がにじんだ。 前の話 次の話 |