私とあいつの違いは、性別と性能の優劣くらいだったろう。 まったく同じ種類の能力を持ち、多くの思考を共有していた。 時に競い、時に侮蔑し、時に尊敬し、決して相手の領域には踏み込まず、 踏み入り探る必要が無いほど、我々は似ていたのだ。 いつから決定的に道が別れたのだろうか? 聖を冠する私が、世界の裏に忍び込み、 魔を有する彼が、世界の表に躍り出た。 どこからが裏で、何からが表かの境界は曖昧だ。 居場所の差異など取るに足らないこと。 我々クロニクルの真実を知る者たちが、 互いが合わせ鏡のような存在であった我々が、 袂を分かったことが問題なのだ。 私が人間側に。 あいつが精霊側に。 「私は、私が正しいと信じることをしよう。君が正しいと信じていることをしているように。 互いが何を信じて行動しているのかを理解する。 だから君は私を止めないし、私も君を止めない」 調合の手を止めずに、メルレーンは一人で流暢に声に出していた。 声に出すことで、自分に決定打を与えていた。 そうしなければこれからの行動に勇気が持てなかった。 昔は違った。不言実行、過程を無様に晒すことも無く結果だけを提示して生きてきた。 これから成すことが人生において最大の、そして最後の峠であろうことも 影響していたが、己の心が弱弱しくなったことも自覚していた。 メルレーン・ウシュは一見すると二十代前半、化粧をしない分だけさらに幼げに見えた。 「肉体は保てても、心の老いは止められない。精神が衰退する様を思い知らされるのは、 やるせないものだ……」 手元の緑色の液体を攪拌させた。 理想的な緑色だ。メルレーンは満足げに眺めた後、液体を瓶に小分けし始めた。 今後に必要な駒は揃った。 研究が終了したこの薬、黒の幼体、聖騎士の剣、生贄の少年、シルの塔の麓、 侵食が進んだ黒の霧。 あとは機会を待つだけだった。 待っている間は時間がたっぷりある。様々なことに思考を巡らせる。 その隙間に、昔の思い出がちらつく時もあった。 感傷に心許す隙を与えるのもまた、精神の衰退だ……。 「残念なのは……君と私が、決定的に敵同士になったことだな……」 とても残念。 ほんの少し、寂しかった。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 『902/168 ゼレス市立講堂二階 ワイズ・シーテ博士による魔法生物分類考察 ウェロー魔法力学博士,ヴァレイ アクラルアイ,王立アカデミー臨時講師 着席。 さて、諸君。本日は僕にとって最後の講義の予定だ。心して聞きたい者はそのように。 そうでない者は退席したまえ、お互いに時間の無駄だ。 ……では、はじめよう。僕の専門は魔法力学だが、今日は最後ということだし、 少し未来に向けた話をしよう。 僕が現在、王立騎士団の遊撃部隊に所属していることは知っていると思う。 だからこそ、ここゼレスに来ることができたわけだ。 遊撃部隊、通称『流星騎士団』は魔物を殲滅することを目的として再編成された部隊だ。 といっても、素人の集まりも同然だがね。 無理は無いと思う。諸君らも『魔物退治』なんて子供の夢と現の狭間で見習い騎士の少年が するようなものだと思っているだろう?ゼレス領のキングリオンに出現したと聞いても 何かの見間違いだと思う者がほとんどだろう。 そんな非・現実的なものに対して、自分の時間をわざわざ割こうなんて滑稽に見えるだろう。 実際、僕も時々自分が道化のように感じるよ。 君たちは精霊を信仰しているかい?信仰している者は手を挙げて。 ……フム、七割がたってところか。 僕は信仰はしていないが、精霊がいるということを知っている。 信仰している者たちは、精霊郷が僕らの世界を支えていると信じているのだろう? 精霊の存在を信じているだろう。その眷属の妖精も。 そして僕ら人間はこんなにうじゃうじゃいる。五つの種族のうち三つを確信しているのに、 どうして残り二つがいないと言える? いると考えてもおかしくないだろう? そもそも、魔物とは何であるかと決定付けるのは難しい。 言ってみれば、僕たち人間が何であるかを問うのと同じベクトルだ。 自分が何であるかという議論に関しては形而学の分野にあたるので、今日は触れない。 僕たち人間の中でも様々な区切りがある。 一番分かりやすいのは男と女。他にアルセナ民族、旧レイラント民族、イルグーラー、 アクラリンド民族と多少の顔かたちの差がある『民族』という分け方。『民俗』もまたある。 地域に捉われないわけ方に、僕のような魔法使いやそうでない者、幻術や祈祷を使う者などの 『職種』または『職族』と呼ばれるわけ方がある。すべての家系はなんらかの職族に連なっている はずだが、いかんせん、長い時の間に血と力は交じり合い、今ではあまり意味を成さなく なってしまったけどね。中には僕のように通り名がそのまま公的な姓名に適応されてしまった 家系もあるしね。 はい、なんだい?……そうだよ、言ってなかったかい?ワイズ・シーテは本名ではない。 長ったらしい名前だったから適当に短くまとめて名乗っているのさ。 ……脱線した。 さて、人間にも区切りがあるように魔物にも区切りがある。 君たちが一番よく知っている魔物はなんだろう? 黒の森に住む恐ろしいドラゴンか、ライカンスロープの森から生まれた人狼か。 ん……、ここはゼレスだったな。ならば、吸血鬼の森に挑んだ聖騎士の物語に登場する カオスバーンなんてどうだい? カオスバーン、飛行獣族の最上位の魔物であり学名はズロウムと言う。 高いと言うよりは長い鼻。物理法則と魔法法則を無視した飛行能力。 何より特徴すべきは、他の生き物の体力を奪い、取り込む能力。 レイラント帝国時代にこの閉鎖された城塞都市に現れ、人々の生気を吸って廻り、 一人の少女の手によって滅ぼされたという物語は、実に興味深い。 当時は感染症の認知度が低かったため、不用意に魔術師の真似事をした男が発症して 撒き散らしたという説が現代では有力で、聖剣を持った少女はその後の従軍の 履歴を考えれば、たまたま同時代に起きた事件を利用した英雄譚だろう。 魔物はいなかった。そう考えても、何も不都合は無い。 それはこのゼレス内に起きた事件のみで語ればのことだ。 カオスバーンを討ち取った少女はその後レイラント軍に従軍した。 その後の記録は残っている。 グランタロス護衛隊の一小隊長を務め、聖ベリアス樹海南部に分け入り、 しばしの戦闘の後タロスの髭へ向かったところで、小隊ごと消息を絶っている。 『しばしの戦闘』 何と戦った?この当時では、ここに敵対勢力はいない。集落も無い。 では、盗賊の類か? そんな程度の小物にわざわざ英雄譚を背負った聖騎士を向かわせる意味など無い。 勝って当然、負けると失笑ものだからね。 それに、精霊を信じる人々にとってグランタロスは不可侵の浄化の聖域だ。 聖ベリアスはグランタロスを守る茨の砦。 そこにわざわざ踏み入るなど、当時ならば背徳に等しい。 なのに、なぜ? 少女隊長の手にあった聖剣は彼女自身が鍛錬した退魔の剣だと伝え聞く。 それが、そこに、必要であり、背信の徒と罵られようとも、政治の中枢が、 若しくは、本人の意思で、赴かねばならなかったほどの、敵がいた。 それは、何だ? ……答えを出すことは僕らにはできない。 当時、アルセナ王国がや南部勢力と小競り合いをしている最中、 やはりベリアス樹海で部隊が異形の生物と遭遇し、ディアボロスの異名を持つ 大騎士が討ち取ったとの記録が残っている。 断片、おそらく触角と思われるものが持ち帰られ、学者に引き渡された。 不幸なことに、アルセナは内乱で忙しかったので、正体不明の個体よりも 眼に見える大勢のために時間を割いていた。 魔物の破片は混乱の最中に消えてしまった。 だが、学者たちは少ない研究の中でそれに名前をつけていた。 『アグレス』 古いアルセナ語で『攻撃をしかける』という動詞。 アクラリンド語で『攻撃』を表す名詞。 アグレッサーと現代風に発音すれば分かりやすいかな?『侵略者』と言う意味だ。 北方ウェローに残る辞書によると、アングロアス古語で『貪欲な抗体』……。 ただの獣に名づけるには仰々しいな。 それに獣なら他にも個体が見つかってもいい話だ。 ……何かを結論付けることはできない。現在では。 これは過去の話だ。 過去に不確かだったものは未来でも不確かとは限らない。 過去に曖昧だったものが未来でも曖昧とは限らない。 過去の例から学び、現代を通して未来に繋げたい…… 古きものが礎として、現在が警鐘として、未来を照らしたい。 それが、僕らの…………研究者や学者たちの目的であり、願いだ。 眼に見えないもの以外を信じない、それは当然だ。 論理的といえるが理知的とは言えない 魔物という不確定な存在には、僕らと同じように区切りがある。 差異がある。 対抗しようというのなら、相手に合わせて策を練らなくてはならない。 戦うには力が必要だ。だが、知恵や知識も必要なんだ。 闇雲に攻撃するだけでは、この強大な侵略者には勝てない。 それだけは、確定している。 。 この話を忘れないように、などとは言わないよ。 今日、僕が話したことがすぐに通過し消え去ってもかまわない。 君たちの思考の網に、次代への流れの中に、残骸が少しでも残ればいいんだ。 ははは、年寄りみたいな言い様だな。 何か質問がある者は後で来なさい。今日までは受け付けよう。 では、本日の講義はこれにて終了する。 お疲れ様。 -----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*----- 「シーテ先生、質問があります。よろしいでしょうか?」 狐につままれたような表情の者たちが顔を見合わせながら席を立ち始める前に 長い輝く紅い髪の女性が退室する魔術師を追って駆けていった。 あんな目立つ美人、この講義室にいただろうか? 「先ほどのお話、大変面白かったです。それで、質問をよろしいでしょうか?」 何人かが、その美しい後姿を思わず戸口まで見送りに出た。 背筋が異様にいい女性に比べて、ワイズ・シーテの背は疲れのせいか小さく見えた。 「指輪について、ご意見をお聞かせください」 魔術師が雷に打たれたように女性を見上げるのが見えた。 女性の横顔は、あれほど美しいにもかかわらず見るものを不安にさせた。 二人の影が黒く濃く、長く床に落ちていた。 前の話 次の話 |