夏の針葉樹は他の季節よりもわずかながら緑に色づいていた。
食堂が見下ろせる渡り廊下に、小柄な少年が立っていた。
魔術師の三角帽が夏の日差しから彼を守っていた。
体躯の割には大きすぎる帽子のせいで、遠目から見ると黒い円錐に手足が生えて
立っているように見える。
手には白い封筒を持っていた。
ヨーウィはじっと耳を済ませていた。
高い位置をひょうひょうと風切る音。
学生たちが授業で朗読をする声。
黒の木々の葉ずれの音。
彼を呼びつける教授の苛立った声。
ヨーウィは顔を上げて呼び出しのかかった部屋へと歩き始めた。

(どうせ、また伝書ができるかをつまらない内容で試すんだろうな)

ため息をつきながら、町全体を覆う魔法の天蓋を眺めた。

(この何十人分の魔法の網を抜けて声をやり取りするのは、とても疲れるんだけど)

ヨーウィの目の下の隈が濃く見えるのは、日差しからのコントラストのせいだけではなかった。

(言っても分かってくれないし、……やだな。
 それに……)

封筒を帽子の下に押し込み、両手でつばを引き目深く被りなおしながら
太陽とは反対方向の遠くを見つめた。

(教授たちの頭をいたくしている、あの魔物のこと。
 僕がヒミツを知っていることを、教授たちは知らない)

本人も気づかないうちに、ヨーウィはにんまりと笑っていた。
下界からの手紙に次いでの、秘密という名の彼の持ち物だった。
わずかな反抗心からだった。
教授たちは安全な結界の中から遠眼鏡の中の豆粒大の白炎の村を観察しては、
襲っている魔物についてあれこれ議論を交わす。
交わしては意見がまとまらず、また観察をしての繰り返しであった。
補助の能力が主の魔法使いたちは非力だった。彼らだけで白炎の村に赴いても
結果は火を見るよりも明らかだった。

魔法使いたちは、かつての大戦では強大な攻撃魔法や魔法兵器を駆使して前線に
赴くこともあったが、それはあまりに人命を消耗する焦土戦を引き起こした。
我の強い魔法使いたちもさすがに疲弊し力におののき、技を故意封印し、未来へ
伝えることを止めてしまった。封印の禁を破る者が現れなかったわけではない。
その者には忌むべき称号『ダークソーサラー』を与え、人間の枠から外した外道として
全力を持って暗殺された。近年ならばベルリッサ家の魔女が封印に手を出し、
『ダークソーサラー』よりも不名誉な『リッチ』の忌み名を与えられ、黒き災いとして
人々を恐怖に陥れた。そして、ベルリッサ家は家系抹消の憂き目を見た。

だがそんな歴史は、伝書魔法を使うことしか許可されない少年とは縁遠かった。
髪の間にかさかさ当たる封筒の感触を気にしながら、考えた。

(このヒミツ、この手紙をくれた子になら、教えてあげたいな)

字が書けないヨーウィは相手に返事を一度も出せていなかった。
伝書魔法で直接声を届けようとしたが、相手が特定できないと、不用意に秘密が
漏れてしまうことになる。
それでも、ヨーウィに宛てられた手紙はもう二桁に届いていた。
扉の向こうから教授たちのピリピリした気配が、魔法の波動となって感じ取れた。
ノブに手をかけると静電気が走った。
指の先にチリリと不快な衝撃を感じた。
ヨーウィはもう一度大きく息を吸ってから、観念して吐いた。

-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----*-----

「よう!久しぶり!生きてたな、よーしよーし」

門にもたれかかていた青年が片腕を挙げた。
街を南へと出発した時とまったく同じ仕草と声色だったが、その時よりも肌が小麦色に焼けたことが、
時の経過を感じさせた。

「このヴァーグナルが死んだらば、幾人の女性が切ない涙を流すと想像するだけで胸が締め付けられ、
 そしてその甘い苦しみが戦う力を私にくれるのだ!」

ゆるい巻き髪の騎士は芝居がかったステップを踏みながら天を仰いだ。
シュウガはたまらずに噴出した。結った髪の先が豪快に揺れた。

「あーっはっは!相変わらずだなお前さん、安心した!」

「なんの!シュウこそ、その顔は儲けた顔だろう?なぁ?その稼ぎで疲労困憊の騎士団に
 ちょっとしたねぎらいをしても損が無いのではないか?」

シュウガは首に手を当て、音を鳴らしながらニッと笑って見せた。

「フッ……気が利く俺様は、ちゃぁんとその辺もぬかりなく手配済みなわけよ。
 酒場を鐘五つから抑えてある。楽しく食って飲める」

「ワ〜ォ!さっすが心の友よ」

「寄るな汗臭い!」

シュウガは両手を広げたヴァーグナルの腹に軽く足蹴を入れた。チュニックの下の鎧の感触が
足の裏に跳ね返った。

「それもね、あたいが伝書を飛ばしておいたおかげだわさ。感謝してよね、ヴァン」

じゃれあうヴァーグナルの外套をフェるフェッタがぐいっとひぱったので、騎士は
後ろによろけて魔女にぶつかった。

「やだー、重い!どいて!」

「フェルが引っ張るからだ!」

フェルフェッタに突き飛ばされたヴァーグナルをシュウガはひょいっと避けた。

「カルフラン女史もお元気そうで何より!」

「ありがと。前に連絡しておいたけど、あたいとあたいの護衛のヴァン以外はちょこっと
 到着が遅れるわさ。鐘ひとつ分くらいで追いつくと思うけど」

「了解。団長は大丈夫そうなのか?」

シュウガにしては珍しく、瞳を少し曇らせながら尋ねた。
フェルフェッタはため息をつきながらそれに答えた。

「本人が大丈夫だとしか言わないのよさ。客観的に見れば……うん、体は大丈夫そうに見えるん
 だけどね。友たちとして見たら……大丈夫には見えない」

フェルフェッタの中途半端な物言いに、シュウガは続きを催促しなかった。
なんと返してほしいかは予想がついたが、それを口にするほどシュウガはお人よしではない。
代わりにお人よしのヴァーグナルが返した。

「どうしてそう思うのだ?」

「それは……」

エレオノーレは自分の瞳に何が映るかを団員には明かしていない。
秘密を知っているのはフェルフェッタとワイズ、それにエルヴァールの四人だけだ。
ゼレスまで数日と迫ったところで、団長は突然顔を覆って地面にしゃがみこんだ。
慌てて助け起こそうとしたエルヴァールの手を払うほど動揺していた。
団員たちがおろおろする中、R・Rだけが冷静に彼女の脇に膝まづいて何事か囁いた。

『こんなことにも耐えられないのですか?』

ゆっくりと彼を見上げた団長の瞳は怒りと後悔に滲んでいた。
焦点はR・Rその人というよりも、彼の紅い外套に結ばれいてた。
団員たちには紅い髪の精霊は見えていなかった。
R・Rがゆっくりと静かに何かを声をかけていたが、聞き取れなかった。
団長は自分の膝と、その先にある乾いた大地を眺めるばかりだった。

フェルフェッタが口をつぐんだこともシュウガは予想していた。
団長やその周りがまだ何かを隠していることは見当がついていたし、フェルフェッタが
それを漏らすほど情に薄くないとも読んでいた。
今朝方、商人寄りの情報屋から聞いた情報の内容をいやでも思い出した。

『一ツ、ハーレイの村が魔物の手により壊滅した。
 一ツ、凍土の森が魔物の巣窟化した様子。
 一ツ、ティゴル谷にヘルハウンドが現れた。
 一ツ、リーヴェ修道院が呪術師の襲撃に遭った』

(ま、どれかが当てはまるか……もしかしたら全部を知っている、かだな。
 難儀なお嬢ちゃんだよなぁ)

本人が言い出さないなら、シュウガから聞き出すような真似はしない。
そこまで深くエレオノーレに関わるのは危険であったし、彼女のためにならない。
自分で言い出すことが、長として必要だと思うからだ。
それに、その役目はエルヴァールの役目だ。他の誰にも務められない。
そんなようなことを素早く計算しながら、ふとシュウガは我に返った。

(……なんだ、これじゃ俺もシーテ先生やフェルみたいに過保護だな。
 先生としばらく過ごして、感化されすぎたか……?)

自然と鋭くなっていた目元を緩め、フェルフェッタの帽子をひょいっと持ち上げた。
ちょっと!と口を尖らせるフェルフェッタに正しく帽子を直してやった。

「で、先生は今は旅籠で過ごしてるよ。行ってやんな、一番弟子。
 正直、こっちの方が大丈夫じゃないと俺は思う」

フェルフェッタは弾かれたように顔を上げ、帽子のつばを引いた。
ヴァーグナルが差し出した手に荷物を放り投げるように預け、
砂塵が溜まった石畳を駆けていった。
ヴァーグナルが女性の荷物を丁寧に背負いながらシュウガを横目で眺めた。

「シーテ先生はそんなに具合が悪いのか?」

「いんや」

シュウガはしれっと答えた。ヴァーグナルは安堵のため息をついた。

「ゼレス市の扱いは丁寧だったし、物もちゃんと食べてる。夜はちょっと眠れてないみたいだな。
 まぁ、ここの夏はヴァレイやウェローよりも暑いかったからな。バテてるくらいで
 体の方は大丈夫なんだけど……、病気になたみたいに何かを書きまくっては破り捨てて
 書きまくってた」

「む……、ああいう知識畑の人間の行動は、分からんな」

「そ、俺らじゃ分からんし、先生が畑違いで青二才な俺らに頼ったりもしないだろうさ。
 ただな、あれは研究とかに没頭してるって感じじゃなくマズそうだったんでな。
 団の中では唯一、フェルフェッタだけが先生の領域に踏み込めるだろ?」

「ああ見えてフェルは脚が早いからな、ついていくのが大変だったよ。
 というかな、こんだけフェルが素早く歩いけたのは先生絡みだからだな。
 予想はついていたのだが、このお供でしかと理解したのだよ」

「何を?」

「フェルはシーテ先生に惚れてるのさ」

「あ〜……」

シュウガはひげが少し残っている顎をなでながら、2度ほどうなづいて見せた。

「フェルも大変だな。あっちもこっちも悩み事だらけだ」

「だが、恋や憂いは女性を美しくさせる。正直、先生と離れている間にフェルフェッタは
 美しくなったぞ!ああ、心がこちらに向かないのが残念だ!」

「そうか?あんまり変わってないように見えたぜ」

「わずかな女性の変化も見逃さない男、それがこのヴァーグナルだ」

「へいへい」

立ち往生をしている間に、門の影が二人から離れて眩しい日差しが照りつけていた。
フェルフェッタの荷物を自分が持つと言い張るので、シュウガはヴァーグナルの荷物を
持ってやりながら、市街へと歩き始めた。

「女性の変化と言えばだな、シュウ。お前に以前にリークしてもらったスリーサイズ情報は
 すでに過去のものとなったぞ!」

「あれはヴァレイを出るころのネタだったからな。……お前さん、もしかして更新情報を
 持ってるの、か……?」

シュウガが唇を不穏に歪ませるのを見て、ヴァーグナルは鼻の穴を膨らませた。
情報通のシュウガは女性のデータに関しても詳しかった。
それがヴァーグナルにとっては少し面白くなかったのだが……。

「知ってるか?リオン荒野は地熱を利用して、温泉が沸いている地域だあるのだ」

「…………ゼレスからキングリオンまでの間には無かったはずだ」

「ふ〜っふっふっふ。うっはっはっはっは」

「………………入ったんだな?………………見たんだな?」

「むっふっは。紳士の口からは言えぬ!」

「アホゥ!覗きは紳士のやることじゃねぇだろ!」

スイッチが入って笑いが止まらなくなったヴァーグナルだが、背中に名誉で不名誉な
ホノカによる強烈な一撃が未だに赤く痣になっていることは決してシュウガに話さなかった。
シュウガは当然知らずに、同じ箇所を手のひらで勢いよく叩きながら叫んだ。

「こんのっ!裏切り者ーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!」

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黒い粘性の触手がのろのろと這い寄って来る。
少年は触手の根元、油の溜りのような箇所を目掛けて、手に持っていた鶏を投げ入れた。
飛べない鳥は足元の捕食者から逃れるべく、宙で羽をばたつかせたが、
触手が一本、二本とその体を絡め取った。一気に残りの触手も獲物へと集中する
もがき暴れて散る羽毛の中、一番外側の触手が少年の方へと鎌首をもたげた。
少年は身にまとっていた分厚い布でそれを弾いた。
生き物のように巧みに布を扱い、触手の矛先を獲物へと戻した。
鶏の骨を触手が繭のように包み込んでいった。
少年はその様子をじっと観察していた。
ごぼごぼと表面が泡立ち、盛り上がり、黒い鶏が現れた。
すぐにずるりと母体へと崩れ落ちる。
他にも何羽も何羽も模して造っては壊してを繰り返していた。
まるで退屈しのぎに遊んでいるかのようだった。

窓の無い石造りの部屋の中には少年と黒い塊だけだった。
入り口はひとつだけ。頑丈な鉄の扉で外側からしか鍵をかけられない。
少年は毎日この部屋へ来て餌をやり、その後の様子を観察して報告することが仕事だった。
この塊が何かは知らない。
餌や自分を狙うのは、本能なのか意思なのか。
この部屋に充満する気配は、悪名高いスクーレにおいても異質なものだった。
けれど、強いて言えば知っている気配に似ていた。
彼自身を育てた、ボロキレのようなあの男に。

「扉から下がれ」

不意に耳元で声がした。
塊との間合いを測りながら扉から離れると、内開きの扉が動き、人間が一人入ってきた。
白っぽい防護服とバード・ヘルメットで完全に体を覆っていた。
一見すると聖廉な騎士のようだった。

「見ていろ」

聖騎士は触手を掴み、反対の手に持っていた剣で無造作に切り落とした。
本体から切り離された触手は蠢き、メルレーンの腕に絡み付いていたが、やがて動きを止め
ぼとりと床に落ちた。それに塊本体からの新たな触手が飛びつく。
やがて塊はまたひとつに戻り、のろのろと少年に触手を伸ばした。
少年は不快そうに先ほどと同じようにそれを跳ね除けた。

「見ました」

少年が感情を殺して言った。
メルレーンは今度は手に持った剣を塊の中心に突き刺した。
ゆっくりと深くねじ込んでいく。
塊は剣を避けるように穴を空けた。
メルレーンは一気に引き抜いた。広がっていた塊は慌てて互いに寄り添った。
刃に何も付着していないことを確認し、再び一つに融合した塊に素早く斬りつけた。
塊は今回は避ける間もなくぱっくりと傷口をつくった。

「見ていろ」

メルレーンは再び少年に命令した。
少年はけだるそうに見下ろしていた。
塊にできた傷口は塞がらない。
開いた傷の端からめくれ落ちるように、ぐずぐずとだらしなく床に広がっていく。
メルレーンは持ち込んでいた瓶の栓をひねった。
中の緑色の液体を降り注いでやった。
少年は目を見張った。
傷口は勢いよく盛り返し、触手が恐ろしい速度で部屋中に満ちた。
少年は思わず顔を庇いながら息を飲んで下がった。

「動くな」

メルレーンは微動だにせず立っていた。
彼女の周囲に球状の光が見えた。少年は辛うじて球の内部に踏みとどまっていた。
メルレーンは再び固まりに剣を突きたてた。
蜘蛛の巣のように部屋に張り巡っていた触手は落ちて床に放射状の模様を描いた。
ずるりと中央部へ引き戻されていく。

「さて、感想は?」

防御補助魔法を解いて、メルレーンは少年を振り返った。
鼻の上まで上げていた布を下ろして、少年は大きく肩で息をついた。

「……こいつは……魔物でしょう?」

ためらいながら答えた。

「続けろ」

「こいつは、餌を食べて大きくなっている。子供、という表現は可笑しいけれど、
 魔物になりかけている魔物。奈落は餌を与えて育てている」

僕を使って。
後に続く言葉を飲み込んで、上目でメルレーンを見た。
隙の無い防護装備に比べて少年は無防備すぎた。

「答えは出ているんだろう?言葉にするのも勇気だ」

メルレーンの声は無表情だった。
少年は鼻の頭にしわを寄せて睨み付けた。

「……僕自身を、最終的にこいつの餌にするのが、奈落の目的だ」

「お前が賢い子供でよかった」

声色が愉快そうに変わった。
少年は塊と聖騎士からできる限り遠ざかった。

「さて……」

メルレーンはバード・ヘルメットの格子を上げた。
長い黒髪が額にひと房かかっていた。

「お前はこのまま、死にたいか?」

彼女の左あごに黒いあざのような物が見えた。
少年はその黒と床の黒を見比べた。


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