〜注文の多い客人〜
美しい森に囲まれた、白亜の壁を持つ大きな屋敷。
その前庭には、三色スミレやスイトピーなどの花々が咲き乱れ、かぐわしい香りを漂わせている。
それが今は、朝もやに囲まれ、昇り始めた日の光りを浴び、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。
窓越しにその光景を眺めながら、一人の少年が、重い瞼を擦りながらゆっくりと体を起こした。
景色のいい窓際にある、狭い寝台の上でそのまま猫のような姿勢で大きく伸びをすると、関節が鳴る。
あくびを繰り返しながら、黒く短い髪の毛を掻くと、彼――クロムは傍らに寝ている青年の体を揺さぶった。
「ギル、起きろ」
だが、ギルと呼ばれた青年は、何事か呟くと、そのまま少年の腰の辺りに腕を伸ばし、抱きついてきた。寝巻き越しに伝わる体温に安心するのか、彼は安心したようにそのまま顔を寄せる。一連の猫のような行動に、少年は呆れながらも、少し癖のある彼の金色の髪を撫でた。
所謂、屋根裏部屋と呼ばれるここに、彼の部屋があるのだが、実の所ギルことギルベットとは同室ではない――厳密に言えば、衝立で間仕切りしてあるだけだが、それでも一応、別々に寝台があり、簡単な壁もあると言う事で別室扱いになっている。
だが、クロムが覚えている限り、風邪等の病気でない時は、大概気付いたら一緒の寝台に居た。それぐらいなら彼も許容範囲内なのだが、この同衾相手は、非常に起こし辛い。
単純に言うなら、寝起きが悪い。の一言に尽きる。だが、常平時悪いわけではない。
痛みを伴わない起こし方ならば、彼は機嫌よく起きてくれるのだ。それでも、寝坊や急用などで急いでいる時には、悠長な事は出来ないので、すぐさま寝台から蹴落とすか、頭を軽く叩いて強引に起こす事になる。
とはいえ、普段からここまで寝汚い訳ではない。
ただ、昨日まで少し面倒臭い仕事をさせられていた為、疲労が溜まっていたのだろう。
幸い、時間はまだある。
そう思って、クロムももう一度寝ようかと横になった瞬間、部屋の扉が開いた。
「クロー、ギルー、朝だぞー。って、何してんだお前ら」
入ってきたのは、使用人仲間の少年、アリィだった。
白いシャツに黒いベストとパンツ、首には簡単なタイをした典型的な使用人服に身を包んだ彼は、本来なら二人の後輩にあたる――というか、二人が一年前にこの屋敷に連れてきた。何でも、仲の悪い家の人間と恋に落ち、駆け落ち途中で何者かに引き離され、放心状態で居た所を悪い人たちに襲われかけ、必死に逃げていたら買い物途中だったクロムたちと出会ったとの事。初めて話を聞いたときは、あまりにもベタな展開に本気にしなかった二人だったが、彼の憔悴具合から、信じる事にした。そして、ちゃっかりそのまま屋敷に連れて来て、使用人として雇ってもらう事になったのだ。
初めこそ、どこかよそよそしい態度だったが、年が近いためか、すぐに彼は砕けた口調でクロム達に話しかけてくるようになった。
あまり職場の上下にこだわりを持たないクロムは、すぐに慣れた。だが、騎士団に属していた事のあるギルベットは、最初のうちはかなり戸惑っていた。それでも、月日が経ってしまえば結局彼も慣れてしまった。
そんな彼らだが、アリィたち使用人仲間たちには伝えていない事もいくつかある。
例えば、こうしてギルベットが頻繁に己の寝台で寝ていると言う事。
「ちょっとギルが寝ぼけてるだけだよ。それよりアリィ、今日は早いな」
「二人が遅いんだよ。っていうか、ディディさんが言ってたぞ。使用人の原則は主人より早く起きることだ、って」
さりげなく話を逸らした筈なのに、振る内容を間違えてしまったようだ。
使用人頭の名前を出されてしまうと、クロムも言葉に詰まってしまう。
ディディとは、三十代半ばの使用人頭の女性で、恐ろしく真面目で、妥協を許さず、他人にも自分にも厳しい性格をしており、しかも細身で猫のように吊り上がった目から、よりいっそう、性格がきつい印象をうけるのだ。
クロム自身、彼女の事は仕事に対する姿勢を尊敬しているが、苦手な人物でもある。
「――すぐ行く。でも、支度するのに五分は頂戴」
「分かったよ。ただ、あの人もんの凄い顔して待ってるから、早く来いよー」
ひらひらと手を振りながらアリィが去ると、クロムは軽く、ギルベットの頬を叩いた。
「おい。聞いてたんだろ、早くこの腕どかしてくれ」
すると、僅かにむずがりながらも、彼は余計に強く抱きついてきた。
「僕は病欠って伝えておいて」
寝起きで少し掠れた声が艶を感じさせるが、それどころでは無いクロムは、少し強引に拘束を解いた。
「伝えようにも、こんな状況じゃ無理だろ。ほら、起きろ。ディディさんおっかないんだから」
素早く寝台から下りると、彼は衝立に引っ掛けてあった使用人服を身に付けた。
それは、アリィのものとほぼ同じなのだが、クロムのものだけ、膝丈のズボンに、ハイソックスと皮のショートブーツいうスタイルなっている――屋敷の主人曰く、こっちのほうが似合うと思った。とのこと。
屋敷の中で、主人に次いで背の低い彼は、最初にその話を聞いて唖然としたが、渡されてしまった以上断る事も出来ず、今に至る。
「いつ見ても似合うね、半ズボン」
「嬉しくないけど、ありがとよ。ほら、元気なら着替えろ」
クロムはタイを結ぶと、振り返ってギルベットの腕を引いた。
「んーちょっとまって」
彼がされるがままでいると、掛け布が落ちてしまい、薄っすらと筋肉のついた、彫刻のような体があらわになる。
思わずクロムは濃紺の双眸を泳がせ、掛け布を投げた。
正直、見るのはこれが初めてではないが、明るい所で見る事は少ないので、彼は頬を薄っすらと赤らめて顔を背ける。
そんな初々しい反応が楽しくて、ギルベットは青碧色の瞳を細めて笑った。
「クロムも仮病使う?」
「つかわねーよ、つーか、寝るときは服着ろっていってんだろ!」
「着替えるの面倒臭くなっちゃったんだ」
そう言って肩を竦めると、ようやくギルベットも自分の部屋へと戻り、クロム同様衝立に引っ掛けて使用人服へと着替えた。
ようやく屋根裏部屋から下りて来た二人だったが、約束の五分はとうに過ぎてしまっていた為、ディディより、こってりと絞られてしまった。
* * *
この屋敷の正式名称は、
入ってすぐに見える大階段と、その奥に有る大広間のある中央館を挟むように、東館と西館があり、使用人達は用途に合わせ、東館か西館に振り分けられている。とは言うものの、実際はアマンダしか住人がいない為、西館を使うのは、調理場担当の女中や料理人たちくらいで、あとは時々、近くの森で迷子になった旅人たちを、一時的に休ませるくらいだ。
つまり、少女一人で住まうには、この屋敷は広すぎた。使用人たちの間に流れている話によれば、元々は王族の避暑地として使っていた物を、アマンダが譲り受けたということらしい。これ以上の詳しい事は、クロムたちのような新参者の使用人は知らされていない。とはいえ、口を噤んでいると言うよりも、尋ねればきっと、アマンダ自信がきちんと答えてくれるだろう。
聞かないのは、クロムたちなりの、彼女への忠誠心のあらわれだった。
「――手が、しびれた」
「うん、さすがに雑巾絞るのがこんなに辛いって、初めて知ったよ」
あの後、遅刻した事の罰として、ディディから屋敷全体の窓掃除をさせられた二人は、まだ昼前にも関わらず、疲労困憊になっていた。
何せ、館全体かつ、曇りなく磨き上げると言う、果てしなく根気の居る作業に加え、人一倍厳しいディディからの監視付きという有様。
何十回にも及ぶ駄目出しの中、ようやく彼女から許しが出た為、行儀が悪いとは思いつつも、調理場から近い空き部屋で遅めの朝食を取っていた。
クロムは、いくつかのサンドウィッチから、ハムだけを取り除き、自分の食べる分の中に挟みこんだ。
代わりに、輪切りにされた燻製卵を入れ、ギルベットに渡した。
そして、彼がサンドウィッチを細かく確認した後、口に含んだ所で、クロムもようやく手に持っていたそれを食べ始めた。一口食べた所で、彼はポツリと呟いた。
「俺、こんなにサンドウィッチが美味いって思ったの、多分初めてだわ」
「僕も、野菜がこんなに美味しく感じるのは、今日が初めてかも」
外は快晴で、窓は開け放っている為、そよ風が花や木々の香りを連れて入り込んでくる。窓枠には、パンくず狙いか小鳥も数羽、よってきた。
そんなのどかな朝食の時間をぶち壊したのは、扉を蹴破る轟音だった。
「クロム、ギル、二人に仕事よ!」
そう言って、部屋の入り口で仁王立ちしていたのは、可憐な美少女。
彼女こそが、齢十四にしてこの緑茨館の主、アマンダだった。
僅かに赤みの有る金色の髪を、頭の上のほうで二つに結わえ、少し吊り上がったアーモンド形の瞳は、宝石を思わせるような、鮮やかな緑色をしている。
そんな彼女が身に付けているのは、黒いベルベット生地に、白いレースをふんだんにあしらったワンピース。
そこまで沢山衣装を持っているわけではないのだが、これは、クロム達の見た事の無いものだった。目を丸くした二人の前に靴音を鳴らして近づくと、形のいい唇をにっと引き上げる。
それは、童話に出てくる猫のように見えた。
「あの、お嬢様。そのドア、壊れやすいんですよ。もう少し優しく開けてあげて下さい」
ギルベットが、困ったように笑いながら苦言を呈しても、彼女は鼻で一蹴した。
「あら、私の屋敷なんだから、私がどう扱ってもいいじゃないの」
少し胸を張りながら、アマンダは拗ねたように頬を膨らませる。そして彼女の矛先は、未だにサンドウィッチを頬張っていたクロムに向いた。
「ちょっとクロム、いつまで食べているのよ。仕事よ、し、ご、と!」
耳元で喚かれ、クロムは嫌そうに顔を顰め、仕方なく食べるのをやめた。
「聞こえてますって。でも、何で俺たちがここに居るって分かったんですか」
「アリィから聞いたのよ。それより急ぎなの。ねえ、二人に頼みたい事があるの!」
地べたに座っていた二人にあわせ、アマンダも二人の前で膝立ちになる。
さすがに、主を床に膝立ちにさせるのは忍びなく、クロムとギルベットは顔を見合わせて立ち上がり、さりげなく彼女に手を差し出した。
アマンダが二人の手を取って立ち上がると、溜息を吐いてクロムは彼女に尋ねた。
「俺達に頼みたい事って、何ですか?」
アマンダは、ワンピースに付いた埃を軽く払いながら答える。
「あのね、アンヌが腰を痛めちゃったみたいなの。だから、二人に買い出しに行って来て欲しいの」
二人は、目を丸くした。
アンヌとは、この屋敷の料理番をしている五十代くらいの恰幅のいい女中なのだが、皆には母親のように慕われている。特に、母親というものを知らないアマンダは、ちょくちょく彼女の後については、お菓子の作り方等を習ったり、彼女の家族の事や、故郷のことを聞いたりしていたのだ。
「それは、僕等にしか出来ない事なのですか?」
「私は、買出しに行ってくれるなら誰でもよかったんだけど、ディディが、二人に頼んだ方がいいって言ってたの。だからお願い、クロム、ギル。二人で行ってきて頂戴」
彼女の言葉に、二人は内心溜息を吐いていた。
どうやら、まだ二人への罰は続いているらしい。
「ねえ、私が美味しいお菓子とか作ってあげたら、アンヌは喜ぶかしら?」
そんなクロム達の事情を知らないアマンダは、無邪気に彼らに問いかける。それに二人は、顔を見合わせながら答えた。
「いいと思いますよ、アンヌさん甘いもの好きだし」
「お嬢様が作ったものなら、喜んでくれると思いますよ」
「本当に?」
ほんの少しだけ、不安そうに瞳を揺らす彼女に、クロムもギルベットも笑顔で声をそろえた。
「もちろん」
二人の後押しで、満面の笑顔を浮かべた彼女は、「ありがとう」と礼を言いながら部屋を後にした。
残された二人は、とりあえず手に持っていたサンドウィッチを食べてしまうと、アマンダに遅れて部屋を出た。