しょせん、傀儡の花嫁
序・「約束を、守れますか?」
黄昏時、一人の男が、街の外れにある岬へと向かっていた。
岬までの細い道は、緩い傾斜を描いており、徐々に彼の足に負荷を掛けていく。それでも荒く息を吐きながら、男はどこか必死の形相で先へと進む。
ようやく彼が岬へたどり着くと、そこには小さな祠が立っていた。それは、潮風と年月で少しヒビが入り、苔むしていたが、周囲にゴミや汚れの類は無く、丁寧に扱われていた。男は、目的のものを見つけた嬉しさから、駆け足でそこまで近寄っていった。
ところが、あと少しというところで、全身がほんのりと青く光る、透き通った女性が目の前に現れた。
彼女は、耳と思われる部分に魚のヒレをつけており、風も無いのに、長い髪やワンピースのような服をゆらゆらと棚引かせていた。それはまるで、絶え間なく打ち寄せる波。
男が恐る恐る近づくと、深く青い目が、こちらを見つめ返す。強張る頬を軽く叩き、彼は少し声を裏返しながら彼女に問いかけた。
「失礼、ですが……道をあけていただけませんか。私は、その――祠に用があるのです」
女性は、チラリと背後にある祠に目を向けると、小さく笑った。
『あれは、私の家よ』
その声は、耳ではなく頭に響いた。水のせせらぎの様な、穏やかな波の音のような、そんな心地よさを感じる声だった。
「では、貴女が……水の精霊を統べる王、サラーシャ様、なのですか?」
『そう、呼ばれているわ』
微笑んだ彼女に対し、男は目的のものが唐突に現れた事に驚き、息を呑んだ。そもそも、彼がこの場所に赴いたのには理由がある。
ロエリウムという街は、アルスバルト王国の中では唯一、水の精霊を信仰している。
元々、キャルバント同様、港町として栄えてきた街のため、街を見下ろせる位置にある小高い丘に祠を建て、漁や、船旅の安全を祈っていた。そんなある日、海岸に面していた土地の半分が、ごっそりと海に沈んだ。まるで刳り貫かれたように、もしくはそこだけ齧られたように無くなってしまった。あまりにも突然の出来事に、人々は逃げる事も出来ず海へと飲み込まれ、残された人たちは、精霊に何かしてしまったのかと脅え、悩んでいた。
そんな中、一人の男が精霊の元へと向かって行った。
それが彼であり、ロエリウムの十代目領主、オレスティアだった。
彼は、震えそうになる声を抑える為、深呼吸を繰り返した後、意を決して彼女に告げた。
「でしたら――私は、あなたに聞きたい事があって、参りました」
『何かしら』
「なぜ、我らの土地の一部が、海に沈んでしまったのでしょうか?」
サラーシャは、静かに答えた。
『単純に、大地が寿命を迎えたのよ。
大地の精霊が、一気に数を減らしてしまったから、残った数少ないもの達では支えきれなくて、沈んでしまった』
思いも寄らない答えに、オレスティアは眉をひそめた。
「大地にも、寿命があるんですか?」
『もちろんよ。
大地を支えるのは、大地の女神様と、その精霊。
だから本当だったら、貴方の相談は――畑違いもいい所なのよ』
彼女の言葉に、男は叱られた子供のように肩を落とす。そんな彼の様子に、サラーシャは媚笑してみせた。
『貴方は、この土地を守りたいのね?』
その言葉の真意が読めず、彼は少し戸惑いながらも、力強く頷いて見せた。
「ああ。もちろん」
『それが、どんな手段でも?』
「――ああ」
男の決心が揺らがない事を確認すると、サラーシャは己の細く透き通った指を彼の額に伸ばし、優しく触れた。それはどうやら何かの文字を刻んでいるようだった。
『これでいいわ。
それじゃあ、私と二つ、【約束】して』
「約束?」
『ええ、とても簡単よ。
一つ目。貴方から繋がる子供が、一人でもこの土地に残る事。生まれてから、それこそ死ぬまでね。
二つ目。この土地に残る貴方の血族は、子々孫々、全ての生涯を私のために捧げる事。
この二つが守られている限り、私はこの土地を水害から守り、貴方の愛する人々を守ると約束するわ』
男は少しの間、考えた。
彼はロエリウムの土地を守り、預かる領主で、すでに婚約者がいる。己の血族を残す為の婚姻とはいえ、一族を預かる大切な使命でもある。
「一つ目は、必ず果たすと約束しましょう。ですが、二つ目の約束は、どのようにしたらよいのでしょうか?」
困り果てた顔のオレスティアに、サラーシャは楽しそうに笑った。
『何も結婚するなというわけじゃないわ。
この土地を守っているのが私であることを、貴方達一族が、決して忘れなければいいの。そして時々、私の話し相手になってくれればいいわ。
たとえ大切にされていても、ここに一人でいるのは、結構退屈なの。
どう? 守れるかしら?』
それは、まるで悪戯が成功した少女のような笑みで、精霊と言うには、実に人間臭い表情だった。
「……わかった。貴女の要求をのもう。そして約束しよう、貴女に私の全てを捧げようと」
彼は、勘違いしていた事を詫びるように、はにかみながらサラーシャに跪き、差し出された手の甲へ口付ける。それを、彼女は嬉しそうな笑顔で見つめていた。
* * *
「――えー、というわけで。これがかの有名な、ロエリウム『始まりの約束』のお話です。ここから、この土地は水の都として栄えるようになりました」
女性の朗々とした話し声が、青空の下、澄んだ海の上を響き渡る。小さな波音を立てながら、赤と白の二色で塗られた中型の水上ゴンドラが、滑るように石造りの町並みを抜けていった。
この辺り一帯は、水の上に残った建物を利用して、海上都市を築いていた。
白い石を積み上げられて建てられたそれらは、日の光りを浴びて神々しく輝いて見える姿は【真珠の街】と呼ばれ、海上鐘楼と呼ばれる崩落した巨大な城砦の一部や、水の精霊を称えた、歴史的にも価値のある様々な建造物とともに、ロエリウム地方観光の目玉になっていた。水面下には、当時の住居や道具が残っており、海草や珊瑚が生え、色鮮やかな魚たちが泳ぎまわる姿は、どこか幻想的な光景だった。
そしてゴンドラは他の小船たちとすれ違いながら、広場のように開けた所に出た。
乗客は同時に、感嘆の声を漏らす。それを見ていた船頭の女性――レミティが、後押しするように明るく声を張り上げて、彼らへ右手を振り上げて指し示した。
「領主様は、精霊との約束を守り続けることを忘れないよう、証を立てました。
それが、今皆様の斜め上に見えます、水精霊王、サラーシャの神殿です」
そこには、陽光に照らされ、白く輝く神殿が聳えていた。
下から見上げる様は、太陽へと伸びる白亜の塔。
とはいえ、建物の半分は水に浸かってしまっているため、実際の儀式等で使用しているのは、上の部分だけだ。それも、良く見ると神殿の周囲は海水の色が一段と深い青色をしている。つまり、神殿周辺は一段と深いのだ。
「さて、この神殿周辺、そして領主様の館の裏手にあります深い深い穴。
ここは、一説によると常闇の国に繋がっている、との噂があります」
急に声のトーンを顰めたレミティに、すぐ近くに座っていた少女が小さく悲鳴を上げ、隣にいた母親にしがみ付いた。
「とはいえ、しょせんは噂。
いるとしても、大昔に滅んでしまった種族が、こっそり生きていた――とかの方が、遥かにロマンがありますよね。
それに、この神殿にはもう一つ、素敵なお話があるんですよ」
少女を脅かしてしまったお詫びか、少し苦笑しながら彼女は神殿からゴンドラを遠ざけた。
「昔、海を統べる竜の王に気に入られ、竜王の花嫁という名の、生贄として選ばれたお姫様がいました。
彼女が、花嫁として捧げられるまで過ごしていたのが、あの神殿です」
すると、斜め前を進んでいたゴンドラから、いくつかの悲鳴が聞こえてきた。それに、レミティは小さく笑う。
「どうやら、他の所でも同じような話が出てしまったようですね。
それに、ここだけ聞くとどこが素敵なのか、と突込みが入りそうですが、その花嫁の話を聞いた一人の旅人が、彼女を哀れみ、その手から救いだそうと奮起しました。
その旅人は、まあベタな話かもしれませんが、近くを治める国王様で、誠実で実直な上に、数々の武勲を手にした勇気有る方でした。
そしていよいよ、花嫁が生贄としてあの神殿の上部、ここから見て、少し崩れていますが……海に向かってせり出した、バルコニーのような物が見えるかと思いますが、そこに、現れた瞬間。
巨大な竜がやってきました」
彼女は、ここで話を一旦止め、観客の顔を見回した。表情こそ様々で、中には退屈そうなポーズをとる者もいた。が、彼らの双眸は、強弱様々な好奇の光を宿している。
レミティは内心、ほくそ笑んだ。
「竜王が花嫁を見てにやりと笑い、その大きな口を開けたその時!
花嫁に化けていた王様がスラリと剣を抜き、竜王の目玉を一突き!
さらに残った方の目も一突き!
竜王は暴れ苦しみ、その時にこの神殿の下の部分を壊してしまった為、ここはより深く沈んでいるそうです。
しかも、一説によればこの神殿の下に、竜王が封印されている、なんて話もあります。
とはいえ、案外おとぎ話もバカに出来ません。
なにせ、なぜ精霊が一気に数を減らしてしまったのか、まだ解明されていないんですから」
その言葉に驚きを隠せないで居る乗客たち一同に、レミティはどこか芝居がかった仕草で、この話をこう締めくくった。
「そして、それを解明する為に海洋生物研究所がございます。
本当に神殿地下に、竜王が封印されているのか知りたいと言う方。
私の話を聞いて深海世界に興味を持った方。
巨大な水棲生物が見たいという方等おりましたら、ぜひともお立ち寄りください。
研究員一同、歓迎いたします」