第一幕*水と、精霊の都

 

   【序】

 

 ぼんやりと薄もやのかかる森の中を、歩いていた。

鳥の声が不気味に響く中、淡々と奥へと進んでいく。

そのまましばらく歩いていくと、次第に木々の波が途切れ、靄が晴れた。

現れたのは、巨大な鏡のように空の色を映す湖。

青空に浮かぶいくつかの綿雲が、どこかのどかさを感じさせ、しばらくぼんやりとその光景を眺める。

 やがて、湖の中央が大きく盛り上がり、あふれ出した水が足を濡らす。それは巨大な水柱を打ち上げ、今にも天に届きそうな勢いで立ち上ぼる。その中から何かが姿を現した。

 それは、巨大な水蛇だった。

 青黒い鱗に、魚のひれの様な耳、鹿の様な角。どちらかと言うと、蛟か竜に近い造形にも思えたが、己にはそれが蛇で、この場所の主であると分かっていた。

 一度、不本意な形で出会った事があるからだ。

 水蛇は頭を垂れ、まるで嘲笑するように一度目を細めた。僅かに覗く瞳は、爛々と金色にかがやいている。

『久しぶりだな、ユラ=シグド』 

低く、重い、地を這うような声が、ユラの脳裏に直接響いてきた。それが、目の前の水蛇のものだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

「久しぶり。私の夢に現るなんて、一体何の用?」

『贖罪のチャンスをやろう』

 ユラは思わず眉を顰めた。

「何のこと?」

『もう忘れたのか? この景色に、覚えはないか?』

「思い当たる事はある。でも、何で今更?」

『時が来たからだ』

 ユラが口を開く前に、蛇は元の水の塊に戻り、大きな音を立てて泉に波紋を作る。その勢いで溢れた水が、容易く己の体を飲み込んだ。遠くで揺らぐ水面が見えたかと思うと、もう一度大きな揺れを感じた。

 

 

 

 大きく頭が揺れた所で、ユラ=シグドは目を覚ました。

軽く頭を振り、ずり落ちた眼鏡を直すと、辺りを見回し、今自分が居る場所を確認する。

狭い馬車の中、小さな窓から覗く景色は今にも雨が降りそうなほどの灰色。地面も、ぬかるみや水溜り、何より土砂崩れなどで通れなくなっている所が多く、かなり道が悪い。何より入り込む風が、内地である王都、トルアロンでは嗅ぐ事の少ない潮の匂いが混じっている。

 徐々に頭がハッキリしてくると、目の前にいた同行者の青年――シグレが、少し暗い琥珀色の瞳で呆れたような視線を彼女に向けていることに気付いた。

もう遅いとは思いながらも、とりあえず体裁を整え、ユラはシグレに尋ねてみた。

「私、寝てた?」

「王都出てすぐ、寝入っていた」

「あー、マジで?」

「その証拠だ、口元」

 自身の口元を示しながら、彼はユラにハンカチを差し出した。だが彼女には、なぜシグレがそれを見せてきたのかが分からず、首を傾げる。そこで彼は、小さく溜息をつきながら一言、呟いた。

「涎」

「あ、うそ、ありがと」 

指摘され、ようやく気付いたユラは、指で軽く拭った後、空いた手でハンカチを受け取る。そのまま口元を拭ったかと思うと、恥らう素振りも無く大口を開けてあくびを繰り返す彼女に、シグレは呆れたように溜息をついた。

「今更恥らえとは言わないが、そんな大欠伸を繰り返しておいてよく顎が外れないな」

「最近寝つき悪くて寝不足なんだよ」

「お前が?」

「私が」

 ユラの返答に、シグレは意表を衝かれたのか、しばらくまじまじと彼女を見つめ、ポツリと呟いた。

「もっと図太い神経をしていると思っていたが、意外に繊細なんだな」

 このとき、大きく馬車が揺れる。

その振動で、頭を天井にぶつけたユラとシグレは、互いに悶絶した。

不意打ちだった分、余計に痛みがある。しかもユラは丁度口を開き掛けたところだったため、舌も噛んでいたのだ。痛みが大分引いた頃、ようやく彼女は頭を擦りながら問いかけた。

「何、私そんなに図太い人間に見える?」

 不貞腐れているようなその表情に、シグレはほんの少しだけ、呆れたように目を細めた。

結論から言えば、ユラは、彼の中にあった女性像を、完全にぶち壊してきた。

容姿は中性的、凹凸の少ない体系、機敏に動きやすいようにパンツスタイルを好み、艶の少ない黒髪はごく短いショートカット。仕草、口調共に粗野な部分が多く、声も少し低い為、何も知らない人には小生意気な少年にしか見えない上に、本人もそれを楽しんでいる節もある。

事実シグレも、最初に彼女を見たときは、どちらか分からず、真剣に悩んだ程だ。正直今でも、彼女の性別を疑う事が多々ある。

それでも、実際のユラは女性だ。

それは彼も、ある事件の際に偶然知る事になったのだが、早々簡単に納得できるものでもない。

「繊細な人は、馬車の中で堂々と、高いびきはしないと思うぞ」

 シグレが少し楽しそうに笑うと、ユラは憮然とした顔で窓の外に視線を移した。

 どうやら街の中に入ったのか、馬車の揺れが少なくなり、あれほど重く垂れ込んでいた雲が全く見えなくなった。

ユラとシグレにしてみれば、久しぶりに見る空の青さなのだが、なぜか不自然にまぶしい。

 彼女は、仇を見つけたように空を睨みつけた。

 

 

 

【1】

 

アルスバルトは元々、比較的に気候が安定している。

ただ、今の時期――冬の終りから初春にかけては、まとまった雨が降りやすくはあった。

だがここ数日は雨の日が続き、気がつけばついに、三週目に突入していた。

ここまで長期間に渡り、降り続けるという事は、ほぼ無い。

そのためか、普段は人でにぎわう王都の広場や港町などは閑散とし、作物や交易、家畜や人体などにも影響を及ぼし始めていた。

「大変です、山沿いの村より土砂崩れでいくつかの家屋が倒壊したと報告が入っております!」

「クロンド様! キャルバントの住人たちから、海が荒れて漁に出る事が出来ないと報告が!」

「河川の氾濫で、家屋や作物が流された地域が出始めました!」

 外套を脱ぐ間もなく、方々に散っていた伝令兵が、入れ替わり立ち代り城内を駆け回り、クロンドと呼ばれた青年へと報告を上げていく。

 どの兵士も疲労が激しく、長時間雨の中に居た為か寒さで身体を震わせていた。

「各地域ごとの詳細状況を、出来るかぎり集めろ。追って順次報告をまとめ、陛下に報告する!」

「――っ、はい!」

 クロンドの声が回廊に響き渡ると、彼らは己の頬を叩き、奮起させるように腹の底から声をだした。

城内の使用人たちも、彼らやクロンド他、重臣たちが足を滑らせないようにと床を磨いたり、濡れた兵士に代わりの外套を手渡したりと、引っ切り無しに動き回っている。

 そんな小さな戦場を、遠巻きに見つめていた魔術師――ユラは、大荷物を抱えたまま外套のフードを取り払うと、思わずポツリと呟いた。

「タイミング悪っ!」 

というのも彼女は、魔術師が守るべき数多くの制約のうち、ほんの些細な違反を犯してしまい、本来魔術師の立ち入りを制限しているアルスバルト城へ、『お使い』に来ていた。

内訳としては、王国騎士団宛てに、魔法防具の引渡し。近衛隊宛てに、実技演習用の魔法生物や植物を仕込む準備等。どちらも時間と手間が掛かるものなのだが、重く、嵩張る騎士団の方を優先させたらこの状況である。この慌しい回廊を抜けなければ、騎士団の詰め所にたどり着く事ができないのだ。

一応、城から入らなくとも、別途裏口的なものはある。だが、そういう所は大抵、立て付けが悪かったり、無駄に侵入者対策の罠があったり、運が悪ければ泥棒と勘違いされて一戦交える事になったりと、面倒臭い事になる。ただでさえこの国の魔術師は、貴族や近衛隊の面々から、『多少頑丈で博識な便利屋』と思われている節がある。そんな彼らが、一般人に向けて術を放つと、状況次第では文字通り、首が飛ぶ。

君子、危うきに近寄らず――というか、近づきたくも無い。

クロンドたちが固まっているのは、執務室付近。

しかも彼は今、自分に背を向けている。

対する己は、回廊の曲がり角から出てきたばかり。すぐに踵を返せば、見つからずに協会に戻れるだろう。

うん、と頷いたユラは、再び外套のフードを被り、顔を隠してクルリと踵を返した――のだが、奇しくもこういう場合の回避には、余り意味がない。

「ユラ=シグド、ちょうど良いところに来たな。大した事ではないが聞いてもらえないかな」

 どこかで時間を潰してからもう一度訪れよう。そう思った矢先、切れ者と謳われる宰相――クロンドから、振り向きざまに声を掛けられてしまう。

――……斡旋状もないのに働きませんからね。クロンド様」

逃亡不可と悟ったユラに、もはや嫌味を言う気力もない。あからさまにうな垂れて見せた彼女に、クロンドはずれた眼鏡を直し、僅かに笑みを浮かべた。

「いや、質問に答えるだけでいい。この異常気象は、何が原因だと思う?」

 思わぬ質問に、ユラは面食らった。

「気象学は、専門外なんですが」

「分かることだけでいい」

「しいて言うなら、精霊の悪戯じゃないですか?」

 ため息を混ぜて呟かれた単語に、クロンドは眉をひそめた。

【精霊の悪戯】 

それは主に、すべての異常気象のことを示す。

この地方では余り耳なじみのない言葉だが、連日の大雨や強風、そして日照りなど、これら全てを精霊が気まぐれを起こしたか、気分を害したかと考えるのだ。

 もっとも、精霊信仰の薄い地方ではこの考えは余り浸透しておらず、現に、アルスバルトでも一部を除き、長雨はただの気象現象でしかない。

「ずいぶん夢のある回答をしてくれたみたいだが、実際どうなんだ?」

「ただの長雨だと思いますよ」

 ここまで言って、ふとユラの脳裏にある街の名が浮かんできた。

「雨と言えば――ロエリウムには被害なかったんですか? あそこ、海上都市がありますから、この雨で何も無いって事はないと思うのですが」

「……まだ被害報告が届いていないな。誰か、至急ロエリウムにいる騎士団へ状況確認を!」

 クロンドの号令に、近くにいた兵士達の顔が引き締まり、すぐさま走り去って行った。

 ロエリウムは、王都トルアロンの南にある海上都市で、海の上に立つ大きな鐘楼塔が有名な観光地だ。歴史は古く、アルスバルトを含めた周辺国が巨大な王国だった時期に作られたもので、元は国を囲む巨大な城壁の一部だった。

ある時、地殻変動によりロエリウムの街が、城壁ごと一部分だけを残して海に沈んだ。

倒壊していた中、鐘楼塔だけが崩れること無くそのままの姿で海上にそびえていたのだ。後に、この鐘楼塔の鐘の音を気に入っていた水の精霊が、その一角を守ったという話が実しやかに流れた。それから街の人々は、精霊達に感謝し、日々の祈りを捧げるようになる。 

以降、ロエリウム地方だけは不思議と水害にあうことが少なくなり、国が四つに分かれた時分には、鐘楼塔は街の象徴として、【海上鐘楼】と呼ばれるようになった。

今その塔は老朽化のため、立ち入りが禁じられているが、少しずつ街の有志達の手で補修している最中だった。

「クロンド様、たった今、ロエリウムより報告が入りました! 街に水害は無し、天候にも大幅な崩れは見られないとの事です」

 息を切らせた兵士が、報告書を手にクロンドの元へ走り寄ってきた。よく見ると、兜の下の顔が、先ほど手配した者とは違う人物だ。ひとまず書類を受け取った彼は、僅かに溜息をついて兵士を労った。

「ご苦労、これで国内の状況は全て出揃った。君は一刻休息を挟んだ後、スエン元帥の指示を待つように」

 兵士は表情を引き締め敬礼すると、すぐさま己の宿舎のある方向へと向かった。

 その後姿を見て、ユラは気付いた。

「あ、しまった。ついでにこれ持ってってもらえばよかったんだ」

 あからさまに落胆した様子の彼女に、クロンドは軽く肩を叩いて労うと、すぐさま執務室の中へと消えていった。



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