*  *  *

 

 

二人が馬車を降りると、より強く潮の匂いを感じた。

しかも、降りてみて分かったのだが、どうやらすっかり夕方になっていたようだ。 

夕日で、眩く輝く白亜の街並みがオレンジに染まる中、街の奥へと進んでいくと、巨大な泉の真ん中に跳ね橋があり、その先には、荘厳な造りのロエリウム領主の屋敷があった。その背後には、屋敷から続く神殿の屋根の一部が見えており、近くに滝があるのか、激しい水音が聞こえてくる。

二人は屋敷を見上げ、感嘆の溜息を零した。

「さすが、大きいね」

「あの後ろに見えるのは、神殿か?」

「そうだよ。んで、今からあそこに行くわけだけど、シグレは高いとこ平気?」

 突然の質問に、シグレは首をかしげた。

「平気でなければ、鳥に意識を移し変えようと考えないと思うぞ」

「だよね。それならいいんだ、ついてきて」

 苦笑したユラは泉から離れ、その淵にそって歩いていく。シグレが彼女の後を追っていくと、そこは断崖絶壁だった。

「おい、何をさせる気だ」

「別に飛び降りろとは言わないよ」

 言うなり、ユラは近くの崖から姿を消した。慌てて彼が近づいて見ると、崖に沿う形で、人工的に作られた細い道があった。人一人がやっと通れるようなそれは、正直、高所恐怖症でなくても肝が冷える。

「どうしたのさ、やっぱり高いところ駄目だった?」

「――お前の肝がどれだけ据わっているのか、再確認した所だ」

 それだけ言うと、シグレは少し震える手で壁に手を添え、海鳥に呷られながらも、何とか下まで降りていった――ちなみに、ユラは両手を離して平然と進んでいた。

そこには、海の上に浮かんでいるような小さな街と、その合間を進む色鮮やかなゴンドラがあった。それを目にした瞬間、先ほどまで青い顔をしていた彼の表情が、見る間に生き生きとしだした。

「次はあれに乗って移動するのか?」

 だが、ユラはあっさりと首を横に振って、目の前で口をあけているものを指差した。

「まさか。私たちが行くのは、すぐそこの洞穴。あれには乗らないよ」

――そうか」

寂しそうに呟く彼の姿が、ある人物と重なり、彼女は微妙な表情をしながら溜息を付いた。

「王室育ちって、みんなこんな感じなのかな」

「何か言ったか?」

「なんでもないよ。そうだね、研究所で話し聞き終わったら、それのお世話になろうか」

観光に来たわけじゃないのにな――とは思いつつも、表情の変化が少ないシグレが、嬉しそうに口元を緩める姿は何となくこちらが照れくさくなってしまう。

 ユラは曖昧な表情を浮かべると、彼の腕を掴んで洞窟の奥へと進んだ。

 

 

 

 洞窟内は、潮の匂いで満ちていた。

ほの暗い入り口から少し進むと、等間隔に明かりが灯されており、時々、岩肌から伝う水滴が二人の頭に降ってきた。それを振り払いながらしばらく進むと、潮風ですっかり錆び付いた鉄制の扉があった。

その上には、擦れた文字で【海洋生物研究所】と書かれた看板が揺れている。

ユラはノックもせずに、いきなり扉の取っ手を引いた。すると、扉の前で少し驚いた表情の女性が立っていた。

「あら、早かったのね」

「そう? もう夕方だったけど」

「だって、多分来るとしても明日だと思ってたのよ。今の時間だと、他の人たちは観光案内中だしね」

ユラと同じようなパンツスタイルではあるのだが、白く細身のパンツと高い位置で結んだ長い髪を揺らした姿が、より颯爽とした雰囲気を醸し出していた。 彼女が苦笑して見せると、その胸元では、水と、何かの爪が入った小瓶が揺れている。

ユラは少し気まずそうな表情をした後、背後に居たシグレに声をかけた。

「シグレ、この人はアリネア。海洋生物に詳しい人。んでアリネア、こっちはシグレ。最近アルスバルトに来た、魔術師」

「ああ、この子がシグレなのね。虎の子ならぬ、鳥の子」

 そう言って笑うアリネアに、シグレはなんと返せばいいのか分からないで居たが、彼女に、部屋の奥へと案内され、言い返しそびれてしまった。

 案内されたのは、数枚の資料が乗った、丸いテーブルだった。ユラ達が腰掛けたのを見ると、アリネアは二人の側を離れ、すぐにお茶を持って現れた。

「ごめんなさい。今、赤豆茶は切らしてるから、白昆布茶で我慢してね」

「これ、ヌルヌルしててあんま好きじゃないんだけど」

「このヌルヌルが、お肌にいいのよ」

 文句を言いながらも飲むユラに、アリネアは苦笑した。

 その時ふと、シグレが口を開いた。

「ユラ、そろそろ説明してくれないのか?」

「え? 何を?」

「なぜ、魔法使用者協会ではなく、この研究所と言う所に来たんだ」

 彼の発言に、ユラは小首を傾げた後、ああと思い出したように手を叩いた。

「あ、説明まだだったね。ロエリウムの協会は、ここなんだ」

「どういうことだ?」

 よく飲み込めない、という表情をした彼に、アリネアが小さく笑いながら付け加えた。

「元々ロエリウムは、大きな港町だったの。しかも、潮の流れがいいのか、多くの海洋獣を観察できたわ。そこで、何時からか魔術師や街の人たちと協力して、それらの生態を観測する施設を立ち上げた。それがここ、海洋生物研究所よ」

 本来ならば、海に面している土地を多く占めて居たのはロエリウムの方だった。

土地の崩落があるまでは、アルスバルトの窓口として、多くの客船や漁船、商船が行き交っていた。ところが、崩落の際には多くの港町が沈み、研究所も一部施設を残して巻き込まれてしまったのだ。

 ただ、当時の一般研究員及び魔術師達は、施設の心配よりも海洋生物達の生態系が変化しないかと気を揉んだ。それに関しては杞憂に終わったが、些細な変化を逃すものかと、領主の許可の下、神殿のすぐ近くにあった洞窟へ、研究施設と協会を併設させたのだ。

ちなみに、巡回にくる騎士団員の評判としては、『研究所に限るなら、ここが一番マシ』と評価を受けている。

「そして彼女が、若くしてこの研究所の館長兼、魔法使用者協会ロエリウム地方部署協会長さんです」

 シグレは、少し考えながらも、納得したように頷いて見せたのだが、ユラが付け加えてきた発言には、目を白黒させた。

「協会長?」

「といっても、ただの留守番役ですよ」

少し困ったように笑うと、アリネアは一瞬押し黙った後、おずおずと話を切り出した。

「ねえユラ、トルアロンで……いえ、アルスバルトで何か起こっているの?」

「何で?」

「……アグロアや、他の海洋獣たちの様子が変なの。皆、慌ててたり、脅えてたり……でも、私には何も言ってこないから」

 アリネアは、戸惑った表情でユラを見た。彼女は、少し考えた後、口を開いた。

「ここ以外で、長雨が続いてる。気象学に詳しい人も、精霊の悪戯と言ってるような状態なんだ。でも、その割には海の水が全く汚れていない」

「そうだったのね」

 一つ小さく溜息をつき、彼女は席を立った。

「ユラ、シグレさん。ついてきてもらえませんか」

 二人が案内されたのは、二重の扉で守られた、研究所の最深部。

 そこには一人の青年が、こちらに背を向けて、座って居た。しかも、部屋に入った途端、施設内ではしなかった、強い潮のにおいがする。

「アグロア。貴方、この国で起こってること、黙ってたのね!」

 アリネアの言葉に、アグロアと呼ばれた青年は振り返った。深い海の底を思わせる青い瞳と、僅かに鱗の跡が見える青白い肌。そして、彼の腰から下は、魚のものだった。ただ、不思議な事に彼の右腕は、少し日に焼けた女性のような細い腕をしており、肩口には少し引き連れたような傷跡がある。

彼は、無表情のまま、目の前にあった穴に飛び込み、そこから顔だけを出した。

「言ったらアリネアは、ここから出て行くだろ?」

「出て行くって……トルアロンには貴方用の穴もあけてあるじゃない。それに、私だって魔術師である以上――」

「俺は、アリネアと離れるのは嫌だ」

 拗ねたように彼は小さな水音を立てて、潜ってしまった。慌てて彼らが近づくと、小さく波を立てた水面があるだけだった。

アリネアは、溜息をついてユラたちに視線を向けた。

「どうします? 一応、この中で一番精霊に詳しいのは、彼なんですが……」

「ちょっとまってて」

そう言うと、徐にユラが水面に向かって声をかけた。

「ねえアグロア。そんなに拗ねてると、このままアリネア攫ってくよ」

 彼女の言葉が終わると同時に、彼が物凄い形相で顔を出してきた。

「はい、お帰り。んじゃあいくつか聞きたいんだけど――」

「それより、アリネア攫うってどういうことだ!」

「協力してくれないんなら、一番水系に強い彼女の知識が必要だし。もちろん、アグロアが、知ってることぜーんぶ洗いざらい吐いてくれるな、ら、話は別だけどね。お話、してくれませんかね?」

 どこか人を食ったような笑みで話す彼女に、アグロアは唸り、歯噛みしながらも、渋々口を開いた。

「今、水の精霊が、代替わりの準備を始めている」

「代替わりの」

「準備?」

 ユラとシグレが顔を見合わせて尋ねると、どこか面倒臭そうな面持ちで、彼は穴の淵に手を置き頬杖をついた。

「精霊の王が、もうじき代わる。ただ、時期が早いから、後釜が全く決まってなくて、混乱してて、こうなったってこったよ」

「つまり、悪戯より深刻?」

「後釜が見つかれば、問題は無い……けど」

 突然歯切れ悪くなったアグロアに、一同は首をかしげる。

「けど、何?」

「サラーシャ様の考えが、全く分からない。あの方は、代替わりするにはまだ若すぎるし、かといって、最近力を使いすぎた、と言う事もない」

 ここでシグレが口を挟んだ。

「若いというが、精霊の王は大体何年で代わってしまうものなんだ?」

「さあね。少なくとも、サラーシャさまはまだ三、四百年位しか王位に付いてない事は分かるぜ」

 アグロアが、肩を竦めて鼻で笑うと、しばらく黙考していたユラが突然呟いた。

「まあようするに、うちの陛下が突然、『王様辞めて、商人になるぞ!』とか言い出すようなもんか」

「いや、なにかが違わないか、それ」

 微妙に賛同できない意見に、シグレは呆れながら思わず苦言を呈した。そこへふと、アリネアが口を開いた。

「――もしかしたら、領主様の代替わりが近いからじゃないかしら。今の領主のグランストン様は、最近体が弱っているみたいだから、第一子のバルドルート様が、ここを取り仕切っているの」

彼女の言葉に、ユラは思わず、目の前で不貞腐れているアグロアの肩を掴んでを問い詰めた。

「え、じゃあ領主の交代と共に、自分も引退するっての? 何でさ? 今までこんな事なかったんでしょ?」

 彼はそれを煩わしそうに払い除け、苛立ったように淵を殴りつけた。

「そこまで俺が知るか! 大体、何だってお前がいるんだ、ユラ!」

「うちの協会長様の命令ですよ。ま、用事終わればすぐ帰るよ。用事終われば、ね」

「何にせよ、俺が知ってるのはこれぐらいだ。後は上でふんぞり返ってる奴等に聞くんだな」

 それだけ言うと、再びアグロアは水に潜り、今度はなんと呼びかけても浮かんで来てはくれなかった。

 


























 <その後の5行あらすじ>


 ・表向きは、煌びやかな世界

 ・南の国からこんにちは

 ・思いがけない再会と、ひと時の休息

 ・陰謀、欲望、おいでませ

 ・ただ、無力さに嘆く



   __この続きは、本でどうぞ。








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