「ナナル王妃様。先程、国王陛下が息を引き取られました」
「分かりました。すぐに、参ります」
ナナルは、少し愁いを帯びた表情で頷くと、すぐに王の眠る寝室に向かった。
途中。回廊から見えた夕日が、まるで王の死を悼んでいるように見えた。
この国の王は、生き過ぎた。
無理も無い。
彼女が、世継ぎを授かるのに十年。王の血を引く子供が生まれるまで、六十年近くを費やしたのだ。
それまでにも、ナナルの前に三人の女性が国王の元に嫁いだ。
だが、その誰もが度重なる不幸に見舞われ、子を産めぬ体になるか、最悪の場合死を迎えていた。
当時は、次々と不幸な目に合う王妃達の姿に、国中が不安に駆られる。
――王族は、『本当の意味』で呪われているのではないか。
それを払拭する為に、彼女は、ナナルは、婚約者を亡くして日も浅いのに、王妃の座に就いたのだ。
「お父様……!」
不意に、娘のルナリアの咽び泣く声が聞こえ、ナナルは我に返った。
物思いに耽っているうちに、王の寝室にたどり着いたようだ。
中には、王に縋りつき、涙で目を濡らした娘と、深刻な表情で寝台を囲っている大臣達の姿があった。
ふと、息子の姿が見えない事に気付いたが、ナナルは静かに、眠る夫の元に向かう。
それに気付いた者達は、彼女の為に道をあけた。
ロエル=アルウェン=セルヴァンス。
八十六年の生涯を終えた、小さな老人の姿がそこにはあった。
ナナルは小さく祈りの句を述べ、そっと傍らに跪き、その瞼に口付けた。
そしてスッと立ち上がると、皆の方を振り向き、素早く指示を出した。
「レイブラン。すぐに葬儀の手配と、国民にこの事を伝えて頂戴。それとノースイッドは、レベラリア、アルスバルト、グローヴェランの三国に書状を」
「はい」
「かしこまりました」
その後も、テキパキと臣下たちに指示を出していき、気がつけば部屋は彼女と娘の二人になっていた。
「ルナリア、貴女は部屋に戻りなさい」
「そんな、お母様は……」
「私にはまだ仕事が残っているわ」
そう言って小さく笑ったナナルに、ルナリアはそれ以上何も言えず、小さく肩を震わせたまま部屋を後にした。
扉が完全に閉まるのを確認すると、彼女は糸が切れたようにその場に蹲った。
我慢をしていたわけではない。
でも、一人になって、また一人で置いていかれた事実を突きつけられて、ナナルは子供のように泣き叫んだ。
それより数刻ほど、時は遡る。
セルヴァンス王国国境付近の結界に、何者かが侵入したと報告が入った。
場所は、レベルグロー山脈の山頂付近。
そこは『王国の入り口』と呼ばれる、とてつもなく巨大な岩盤で出来た自然の門、レグー峡谷を築く山の一つだ。
山頂近辺は一年中雪に覆われている上に、晴れている日が極端に少ない。
それでも一部だけ平らな場所があり、極限られた動物や植物が細々と生きていた。
そんな場所に、人間が来る事はめったに無い。
あるとすればそれは──。
「ん?」
ふと。一面の雪野原の中、何やら黒い物が見えた。
ひらりと体を翻し、まずは様子を見るためにその場を一回り。それが微動だにしない事を確認すると、滑るようにその近くに飛来した。
その黒い物は、僅かな空気の流れにそよそよとなびいている。
人間だ。
でも、服装が軽すぎる。
「不法入国か?」
大鷲は人の姿を取ると、呼吸と脈を測る。
どうやら発見が早かったようで、かなりゆっくりではあるが脈はあった。
とりあえず、身に付けていたマントを横たわる人にまきつけ、ここに来た時より一回り大きなサイズの大鷲の姿をとり、それを掴み飛び去った。
幸いな事に、城に戻るまでの間にこれと言った障害は全く無かった。それでも、崩れやすい天候や飛来物に対して、注意するに越した事は無い。
大鷲が城の真上の位置に近づくと、しばらくして、点滅を繰り返す光が見えた。
それに対して、彼は一つ高らかに鳴き声を上げると、合図を送った青年に近づくと同時に、足で掴んでいたものを離した。
「おっと、もう少し丁寧に落としてくれないかな」
青年は、苦笑しながらも鷲の落としていったものを抱きとめた。
そしてその荷を包んでいた布を剥いだ所で、鷲に姿を変えていた青年が人の姿に戻り彼に近づいた。
「すまないシグレ、あの高さならギリギリ大丈夫かと思ったんだが」
「ルイゼル、あんまり僕を過信しないでよ。失敗したらどうするつもりだったのさ」
「失敗しても大丈夫な高さにはしてある。後はこいつの運次第だ」
ルイゼルと呼ばれた青年は、少し不機嫌な様子でチラリとシグレと呼んだ青年の腕に居る者を見た。
それをシグレは、苦笑交じりで肩を落とした。
「とりあえず、この子は僕の部屋で預かるよ。それより、君は先に、陛下の所に行ってきなよ――もう、危ないらしいから」
「――そうだな」
少し沈んだ表情で、ルイゼルは鉄の板を持ち上げた。
その下は階段になっており、そのまま城の内部に降りられるようになっている。
先にシグレを中に入れると、それに続く形で彼が階段を降り、蓋を閉めた。
同じ頃。
ロージア城では、着々と『送り出しの儀』の準備が執り行われていた。
使用人も、大臣達も、皆が慌しくあちらこちらに走り回っている。
だが、そんな中でもある一角だけは誰も寄り付かなかった。
第五の塔、神格域。
用事が出来なければ、なるべく近寄りたくないその場所は、ここだけ切り取られたようにひっそりとしていた――はずなのだが、どこからか歌が聞こえてきた。
『森の小鳥は歌います。
ここに死体が埋まってる。
森の風は歌います。
ここに財宝が眠ってる。
さらに小鳥は歌います。
私は正直、風は嘘吐き。
さらに風も歌います。
私は正直、小鳥は嘘吐き。
正直ものは、さてだあれ?』
煌々と光が部屋に差しこむ中、少女が佇んでいた。
灰色の使用人服を身に包んだ彼女の、その右手には鈍く輝くナイフが。左手は、男の口を塞いでいる。
これから何が起こるのか理解した彼は、何度も身を捩って逃げようとするのだが、体の自由が全く利かず、ただ虚しくのたうつだけだった。少女は、その様子を見ながら、楽しそうに笑みを浮かべ、その喉にナイフを突き立てた。
飛び散る血が、彼女の顔を、手を、服を汚す。
それでも彼女は、歌いながら何度もナイフを振り下ろした。くぐもった男の声は徐々に小さくなり、ついに痙攣し始めると、彼女は部屋の中心に描かれた魔法陣まで引きずって行く。そこには、同じように滅多刺しにされた男女の死体が何体も折り重なっていた。
よく見ると、刺された箇所がそれぞれ違う。
少女は、その積み重なったものを見ながら、同じ歌を口ずさみ、本を広げた。
『小鳥は歌います。
死体が多いわ。
風は歌います。
宝が多いわ。
もういっぱい。
もうたくさん』
すると、魔方陣から、禍々しい色の光が溢れだし、耳をつんざく様な鳴き声を放つ、一羽の鳥が現れた。全身を漆黒の翼で覆い、燃えるような赤い瞳を持つ、カラスだ。それが、先ほどの死体と同じ数だけ現れた。
「成功、ね」
満足気な表情を浮かべ、少女は本を閉じ、大烏の嘴を撫でた。
それは、セルヴァンスが短い秋を迎えた時のことだった。