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3 香る白バラ
結局、帝○ホテルは予約したものの、いつ右近に切り出そうか迷っているうちに、あっというまに二月十四日がやってきた。朝、遅めに家を出る私を、いつものように右近が玄関まで送る。靴を履いた私にコートを後ろからきせかけ、今日は冷えるよとカシミアのマフラーをしっかり巻いてくれた。
ふっふっふ。紛れもない新婚さんの光景だ。十分やさしくされてるじゃないか…。わ、私は幸せ者だ。
「右近…」
今夜、食事に出ようと言いかけたところ、先手を取られた。
「…今日は、何時頃帰ってこられる?」
少し伏目がちに、右近は私の答えを待っている。
「え…と、大体いつも通りかな」
バレンタインだよ。今日は。
他に予定を入れるわけないじゃないか。
クリスマスでさえ、すっぱり無視した右近だ。バレンタインなんかおかしくてやってられないのだろう。チョコレートをもらえないのは(かなり)悲しいけれど、それが右近のポリシーなら尊重しよう。でも、ふたりで食事に行ってお泊まりするぐらい…普通のデートと変わりないだろう?
心の中であれこれ呟きながら、私は右近をジッと見つめていた。どこか情けない笑みを浮かべた自分が、右近の漆黒の眸に映っていた。
「じゃあ、寄り道しないで帰ってきてください」
「え…あ、でも」
何か不思議な展開に、私は戸惑った。
「ごちそう作って待ってるから」
右近は微かに頬を染め、目を伏せたまま小声でさらっと言った。
そのまま玄関のドアを開けて私を促した。
「いってらしゃい」
「…いってきます」
私は内心首をかしげながらも、とりあえずいってきますの軽いキスをして部屋を出た。
エレベーターで下に降りながら、先程の会話を反芻する。
「ごちそう作るってことは…家にいるつもりなんだな」
ため息をつきながらも、私は頬が弛んでしまった。
もしや右近なりに、今日という日のプラン、何か考えているのかもしれない。
ふたりでゆっくり家で過ごそうというなら、私に異存があるわけもない。
「よくわからんが…とりえずスイートはキャンセルか…」
私は携帯を取り出すと、いさぎよくホテルに断りの電話を入れることにした。
*
惣一郎が出かけた後、右近は割烹着にたすきがけで(うそうそ)大掃除を始めた。暮れにも相当念入りに掃除したばかりなので、たいしてやることはないのだが、要は気持ちの問題。
気温は五度なさそうだが、天気は快晴。最上階の南向きだけあって陽当たりは抜群だ。年末に植えたビオラの花つきもよく、冬枯れのベランダに色を添えている。
クリスマスの頃、ツリーを抱えて帰宅した惣一郎につれなくしたことを、右近は悔やんでいた。せっかく忠臣蔵の余韻に浸っていたのを邪魔され、ちょっとむかついたのもあったが…。後で思えば惣一郎はあれでもクリスチャン。『うちでは西洋かぶれな祭りはやらないんだ』と一方的に退けたのはまずかった。
ばあちゃんが言うように、『うち』は惣一郎とふたりの暮らし。実家のやり方とは少しくらい違ったっていいんだ…。
バレンタインはクリスチャンの行事じゃないけれど、きっとイベント男の惣一郎のこと。クリスマスで懲りたのか、惣一郎はバレンタインのバの字も言わないが、内心ではチョコが出てこないかと期待しているはず。
(ばあちゃん…ありがとう)
右近は親の仇のようにごしごしと窓ガラスを拭きながら、思わず涙ぐんでいた。
バレンタインのチョコなんて、自分では恥ずかしくて買いに行けなかった。切羽詰まってばあちゃんに泣きついた。団地の近くにはろくな洋菓子屋がないので、ばあちゃんは膝が悪いにもかかわらず、右近のかわりにデパートまで買いに行ってくれた。
ばあちゃんのおかげでチョコは無事ゲットしたから、あとは手料理だ。
今夜は洋風のディナーに挑戦しようと思う。料理はまあまあ得意だが、レパートリーは和食が多く、洋食はソースの作り方など基本で不安な部分もあった。でも、こないだ美容院で見た『家庭○報』のレシピは完璧に覚えているし、頭の中でのシミュレーションもばっちりだ。昼から練習すれば、失敗しても夕食までに時間はある。
こうなったら、酒屋でシャンパンなんか買ってしまおうか。ええい、毒を喰らわば皿までだ。花でもキャンドルでも持ってこい!
惣一郎が喜ぶ顔が見たいなと、右近は素直に思った。
*
そして夕方。
買い物帰りの主婦ふたりがマンションのロビーで立ち話をしている。
その横を惣一郎が軽く会釈して颯爽と通り過ぎた。靴音を響かせ、早足にエレベーターに向う。
主婦ふたりの首がぐるんと180度旋回した。
エレベーターに乗り込む惣一郎をまばたきもせずに見送っている。
「ちょっと奥さん、今の見ました〜?」
「ええ、白バラでしょう!」
「こ〜んな一抱えもあるような花束!」
「あら〜、まだロビーにいい香りが…」
くんくんくんくん。
ふたりの主婦はしばらく鼻をひくつかせ、白バラの残り香を楽しんでいた。
結城家の真下に暮らす戸田さんちと、お隣の前川さんは仲良しである。仕事も趣味もあって、あまり人様の生活には関心のないふたりだが、最上階の東南角部屋に暮らす結城夫妻は別格。堂々とカミングアウトしたホモの夫婦とご近所なんて、そうあるものではない。ふたりともとびきりの美男とくれば、腐女子ごころが疼いてしかたないのだ。
主婦ふたりはうっとりくんくんしながら、買い物袋を抱えてエレベーターに乗り込んだ。
「あら、ここも…いい香り」
「うふふふ。右近さんてお幸せねえ…」
「うらやましいわア…」
ひと抱えのバラなど貰ったことがないふたり。
うちの主人はせいぜい五本だったわとか、秘かにため息をつきながら、今夜はいったいどんな風に過ごされるのかしら…、と各々に妄想たくましくするのだった。
*
確かに一抱えの白バラは目立った。駅前の花屋に今朝注文していったのだが、駅からの道すがら、いったい何人に振りかえられたことか。
自宅前に来ると、私はドアフォンを押さずに自分の鍵でドアを開けた。ちょっと右近を驚かしてやろうと思ったのだ。こんな花束、もったいないと眉をしかめるかもしれないが…。私は右近の反応が恐ろしくも楽しみで、抜き足差し足に廊下をリビングへと進んだ。
(さて、今日の夕食は…寒いから鍋かな? ごちそうって言うからにはフグあたりか…)
しかし近付くにつれ、何やらホワイトソース系の洋風な匂いが漂ってくる。
(はて、グラタンでも作ったか?)
レッドブラウンのドアにはまったガラスの隙間から、私はうきうきとリビングを覗き込んだ。
(あ…)
な、なんだなんだ、いつもと違う。照明も暗いぞ。
テーブルの上にはクロスがかかってるし、こぶりな花瓶に花が生けてある。テーブルの上で光ってるあれは…まさかキャンドルか!
う、右近っ… !
結婚以来、右近の料理のうまさには舌を巻いてきた。和食は玄人はだし。中華も上手だし、普通のお惣菜系はなんでもござれ。しかしフレンチやイタリアン系の料理を右近が自宅で作ることはなかった。(外食は右近も洋ものオッケーなのよ)
この乙女なテーブルセッティングはもしや…バレンタイン仕様?!
わ…私のためなのか?
私は花束を抱えたまま呆然と突っ立っていた。右近がこちらの様子に気付いたらしい。リビングのドアが開いた。
「おかえり…あっ」
この距離で白バラに気付かぬわけもなし。
右近は驚いたように目を見張ったが、
「ただいま…」
と差し出せば、柔らかく微笑み返して受け取った。
一瞬花束を懐に抱きしめるような仕種で、右近は「ありがとう」と呟いた。
ど、どうしたんだ、右近。何だか夢を見ているようだよ…。
私がぼーっと見蕩れていると、右近はすたすたとコーヒーテーブルに歩みよって花束を置き、今度はキッチンの戸棚を探し始めた。
「ほら、結婚祝にクリスタルの大きな花瓶もらったっけ?」
「え、ああ、そういえばあったかな」
思い出した。
私の天敵、古賀教授のプレゼントだ。
いったい家庭でいつ使うねん、というほど大きく派手なカットのアンティークガラスの花瓶だったが、ゴージャスなバラの花束にはこれくらいでないと負けてしまう。
右近は花瓶を見つけると、さっそく箱から出し、水を入れて持ってきた。
「料理途中なんだろ? 私がやっておくよ」
私はコートを脱いでソファにかけると、花束のラッピングを外しにかかった。
「そう、じゃ、たのむね」
右近は小さく微笑み、いそいそとキッチンへ戻っていった。
「今日はいったい何のごちそうだい?」
我ながらしらじらしい問いだと思ったが、私はキッチンに向って問いかけた。
右近はいたずらっぽく目を光らせ、
「それは後のお楽しみ。…まずは前菜から始めよう。惣一郎、シャンパンも買ってあるよ」
さらりとかわされた。
シャンパン…。日本酒党の右近がそんなものまで一一。
結城家ではこういうディナーは日常茶飯事だったが、花にキャンドル、シャンパンなんて、右近が嫌う『乙女な西洋かぶれ』・三種の神器じゃあないか?
おまえ、私を喜ばせようと、そこまで妥協してくれるのか?
私はソファの背もたれ越しに、キッチンで立ち働く右近を観察した。
ふむ…しかし嫌々ってわけじゃなさそうだ。何やら楽しそうだし…心境の変化でもあったかな?
つづく
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