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「溝口…誠之進殿?」
聞き慣れぬ声に、背後から改まった調子で名を呼ばれた。
本日、師走十三日は高山藩江戸藩邸、家中あげての煤掃きの日。
私の勤務する「留守居部屋」では、皆、襷をかけ袴の腿立ちをとり、果たし合いにでも行くような格好で忙しく立ち働いていた。一間(1.8m)はあろうかという笹竹を手に、伸び上がって天井や梁の煤を払っていたところだ。正直後にしてくれと思ったが、十八歳の私は藩邸では弱輩者。とんだ失礼があってはならぬと思い直し、笹竹を降ろして声をかけてきた人物に相対した。
「いかにも。某が溝口誠之進にござりますが」
と、一応丁寧に頭を下げた。
目の前の若い藩士ふたりは、私より十ほど上だろうか。
暖かそうな綿入れを着て、留守居部屋前の広縁につったっていた。
「うむ。おぬしにちと頼みたいことがある」
上背のある四角い顎の男が、何やら好色な笑みを浮かべて懐に手を入れた。
『この忙しい時に。しかも名前も名乗らずに無礼であろう』
私は喉まででかかった言葉をのみ込んだ。私は国許では家老の嫡男だが、江戸藩邸では留学中の半人前。役目も留守居部屋の見習いだ。むろん、重臣たちは私が何者か心得ているが、中級以下の江戸詰め藩士に対しては、問われれば正直に答えるものの、自分のほうから出自を明かす気はなかった。朋輩の櫻田右近とともに、国許からの一介の留学生として振る舞うよう、国家老の父にも因果を含められていた。
私はむっとした気配を表に出さぬよう慇懃に相対した。
「某に頼みとは、何でござりましょう?」
「おぬし、櫻田右近とは親しいのであろう?」
「左様にござりますが…」
「なに、遣いを頼まれてくれ」
男は意味ありげに微笑むと、懐から文を取り出して私の眼前に差し出した。
私は目顔で問いながらも、文から漂う、たきしめられた香の匂いを嗅ぎとっていた。
「この文を…右近にでござりますか?」
「これだから浅葱裏は…。野暮なことを聞くな」 (*浅葱裏=田舎者の意)
男は鼻で笑うと、乱暴に私の手をとって文を押し付けた。
「なかなか本人に渡す機会がのうてな」
小太りな連れも私を小馬鹿にしたように笑っている。
もはやこの時点で、私は二人組に言い知れぬ嫌悪を感じていた。
皆が忙しく立ち働いている日に、ぬくぬくと綿入れを着て藩邸内をぶらぶらと。
おまけに右近への文遣いを、よりによってこの私に頼むとは… !
「なに、黙って渡してくれるだけでいいのだ」
手前勝手な言い種に、いい加減私も頭に来ていた。
「これはもしや…恋文にござりますかっ?」
詰問口調で相手を見上げれば、
「ならばいかがする?」
田舎者には付き合っておれぬとばかりに、ふたりは含み笑いを洩らした。
人が下手に出ておればいい気になりおって。誰がおまえらの手助けなぞするものか!
私は腹を決めて、大きく息を吸い込むと声を張り上げた。
「右近は男から文なぞ受け取りませぬ!」
「おぬしの考えなぞ聞いてはおらぬ」
「国許にもその手の不心得者はごろごろとおりましてな」
「何だと!こうしてきちんと手順を踏んで頼んでおるものを…我らを不心得者呼ばわりするとは、聞き捨てならぬぞ!」
気色ばんだふたりを前にしても、私はなんら動じるところはなかった。
「右近は男同士で契るの何のとは笑止、鳥肌がたつと申しております!」
私は国許でも何十回と繰り返してきた言葉を、腹の底から大音声でぶつけた。
「斯様なもの、断じてお預かりできませぬ!」
私は相手の胸元に文を叩き返した。
「おのれ…」
畳の上に落ちた文を拾い上げ、四角い顎の男は憎々しげに私を睨み上げた。
遠巻きに様子をうかがっていた留守居部屋の朋輩も、何事かと近くへやってきた。
綿入れの二人組は、
「溝口氏、おぬし年長者に向ってその態度はなんだ!」
「無礼は許さぬぞ!」
弱い犬のごとく、口々に吠え立てた。
ほう…。
私は内心つぶやいた。
一人前に脇差の鍔に手をかけてはいるが、こやつら、真剣など抜いたこともなかろう。真剣はおろか、まともに道場で棒振りをやったのかどうかも怪しい。身体の動きを見ていればすぐわかる。
「ならばこの始末、立ち合いで決着をつけてはいかがか?」
「なんだと…?」
「お手前様が勝てば、この溝口誠之進、庭先で土下座してお詫びし、改めて文遣いの役目承りましょう」
私はわざと留守居部屋の朋輩や先輩方に聞こえるよう、晴れやかな声音で言い放った。
『ほう、潔いことよの。正々堂々と勝負するがよかろう…』
ざわざわと周囲から声が洩れ聞こえてくる。
綿入れのふたりもこれで引くに引けなくなったはず。
歯噛みしながらも反論できずに押し黙っている。
「なれど、万一某が勝ちましたら…」
文を書いたほうが、固唾を飲んだ。
「櫻田右近がことは御放念くだされ」
「ぐっ…」
「二度と右近につきまとわないでいただこう」
私は胸をはって言い渡した。
「よろしゅうござりますな」
もはや証人も大勢いる。
立ち合いで決着をといわれ、それを言を左右にして断れば士道不覚悟である。
「…し、承知」
擦れた声で呟いた文の主に向い、私はゆっくりとうなずいた。
「まだ…お名前を承っておりませなんだな」
「…坂本又之助と申す」
「では坂本様、御用仕舞いの二十八日、未の下刻、藩邸内道場にてお待ち申し上げまする」
私は深々と頭を下げ、
「御免」
と、ふたたび煤払いの作業に戻った。
国許、越後の冬は雪掻きに追われ、吹雪いた日の出仕は困難を極める。事を決めても実際に行うのは全て春になってから。不測の事態が出来せぬかぎり、城も役所も開店休業状態であった。
一方、江戸の師走は慌ただしい。十三日の煤掃きに始まり、留守居部屋に詰める私は、上司の堀田又座右衛門ともに諸藩の藩邸、幕閣の要人の屋敷を巡り、歳暮の挨拶に明け暮れていた。おびただしい量の高価な進物のやりとりに私は瞠目した。国許でつましく暮らしている藩士・領民たちを思うと、正直私は理不尽を感じ、腹立たしさすら覚えた。
されど、この付き合いこそが藩の命運を握っている。領地をつつがなく納めることも重要だが、柳営で藩主が賜ったお役目をいかに卒なくこなすか、また、出費の多い面倒な賦役をいかにして逃れるか。根回しの成否が明暗を分ける。要人への進物をけちって、江戸城石垣の普請などを申し付けられてはかなわない。結局は大損だ。その辺りの情報収集と折衝をうまく行うのが江戸留守居役の仕事であり、事実上、江戸表でもっとも重要な職務と堀田は説いた。
「儂も度が過ぎた賄賂はいかがなものかと思うが、物事を穏便に運ぶため、世間並みの付け届けは必要じゃ…。まだ若いお手前には得心がいかぬかもしれぬがのう」
堀田は私の胸中を察し、穏やかに諭した。十八歳の私はその場では納得がいかなかったが、後日、堀田の言葉が身に染みて理解できるようになるのだった。
ともあれ、年の瀬は慌ただしく過ぎ行き、坂本と約定した二十八日が間近に迫っていた。
十三日以来、私は歳暮の挨拶の合間をぬって道場で稽古に励んだ。
坂本が大した遣い手だとは思わない。なれど侮って自らが稽古を怠れば、そのしっぺ返しはかならずくるもの。私は己の慢心を諌めつつ、日々棒振り、型の稽古に励んだ。
本当なら右近相手に打ち込み稽古もしておきたかったが、あちらはあちらで御用繁多である。正月三日には江戸城へ各藩の世嗣が登城し、将軍家に年始の挨拶を行う。惣一郎の小納戸衆を勤める右近も雑事に忙殺されていた。とても稽古に突き合わす暇などなかったのだ。
皆が多忙な時期のはずだが、なぜか私と坂本の立ち会いの噂は水面下で広がり、老僕の嘉助が耳打ちしれくれたところによると、藩士の一部で賭けまで行われているらしい。
江戸藩邸の者たちは一部を除き、斯程に暇なのか…?
結構な身分よのうと、私は思わず溜息を洩らした。
『二度と右近につきまとわないでいただこう』
「くそっ、若僧め、ほざきおって!」
苛立たしげに叫ぶと、坂本は茶碗酒をあおった。
ここは小川町の藩邸にほど近い、煮売り酒屋である。
「坂本、もうそのくらいにしとけ…」
小太りの朋輩、皆川が坂本の手から徳利を取り上げようとした。
「…うるさい、女将、酒だ!早う持ってこぬか!」
「…ちょいとお侍さんがた、ちゃんとお代は払ってくれるんだろうね?」
「無礼なことを申すな! 正月前に耳を揃えて払ってやる!」
「そういうって踏み倒していくお人が後をたたないんですよ」
まるっきり信じていない顔で、女将は渋々酒を徳利に注ぎ足した。
「溝口誠之進め…前髪が取れたばかりの浅葱裏のくせして、偉そうに…。ああ、思いだしただけでも腹が煮えるわ」
手酌で並々と茶碗に酒を注ぎ足し、坂本は一気にあおった。
「…なれど、彼奴、国家老の溝口家の嫡男であろう? 今は若僧でも将来は国家老じゃ。あまりつっかかるとおぬしの出世が…」
「ほざけ、俺は親爺の代からずっと江戸詰めだ! 国許の家老の世話になどならぬ!」
「それはわからぬぞ…」
坂本よりは皆川のほうが若干分別があるのか、おろおろと朋輩をなだめようとしている。
「なに、立ち合いで決着などとは言うことが青臭いわ。あのような若僧、こてんぱんにのしてやる」
「そういうなら飲んだくれてないで、少しは稽古したらどうだ」
「ふん。おぬしも先程から言うことが説教臭いぞ、酒がまずうなる」
「坂本…。おぬし、このままでは分が悪いぞ。聞くところによると、溝口誠之進は直心陰流の使い手らしい。十六で目録、今は免許皆伝だと」
「なに…」
坂本は一瞬手をとめて皆川を凝視した。
「なんの、田舎道場の免許などくそくらえじゃ」
言葉だけは勇ましいが、坂本の茶碗を持つ手が微かに震えた。
十八で免許というのは確かに恐ろしい。
「くそお…人が鄭重に文を出そうとしたのに」
坂本が大きな音をたてて、卓に突っ伏した。
「坂本…」
「おぬしが溝口は櫻田の念友ではないというから、文遣いを頼んだものを…」
「まこと、あのふたり、始終一緒におるが出来てはおらぬらしいぞ」
「ふん、あやしいな…。溝口のやつ、俺のものに手を出すなといわんばかりの表情じゃった」
お人好しの皆川も、いい加減、妄想まじりの坂本の繰り言には飽いてきた。
「ともかく、やはり櫻田は高嶺の花じゃ。惣一郎様も秘かに御執心との噂もある」
「…え、まさか、もうお手がついたのか?」
坂本の喉がごくりと鳴ったが、
「まだその気配はないらしいが…」
朋輩の言葉にほっと息をいた。
「ならば結構。既に惣一郎様のお手付きなら、右近に触れれば打ち首だが…、今ならまだ間に合うわけじゃな」
「おぬしもしつこいのう…」
「なに、念者になどなれずとも、一度だけでもいいのだ。あの雪白の肌に顔を埋め、細腰を抱いて明けの烏の声をきければ…」
「坂本…」
「ふん。文などとまどろっこしい手を使わず、最初から茶屋へでも誘い出して、手ごめにするのだったな」
「おい、それはあまりに卑怯ではっ…」
「なに。ひとたび儂の手管にかかれば、おぼこい右近なぞひとたまりもない…ふっふっふ」
血走った目でうっとりと虚空を見つめる坂本に、皆川はもはやかける言葉がなかった。
つづく
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