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立ち合い当日、御用仕舞いで昼から暇なこともあり、道場には多数の見物人が詰めかけた。冷え込み厳しく昼近くになっても薄氷が張っていたが、道場の中も外も黒山の人だかりである。
なんじゃ…おぬしらもっと他にすることはないのか?
私は一足先に稽古着に着替えて道場に赴いた。野次馬に呆れ返りながらも、大勢の前で坂本を叩きのめしておけば、右近に言い寄る輩を牽制できるやもしれぬと、少し姑息なことも考えた。
お互い忙しかったこともあり、私は今日のことを右近に知らせてはいない。
軽く棒振りをしていると、まもなく約束の刻限となった。坂本が稽古着姿で小太りの皆川とともに現れた。坂本は私と同じくらいの背丈だが、四角い顎のせいでいかつい印象を与える。弱冠十八歳の私は、やはり肩幅や胸板の厚さでは坂本に及ばない。
だから威圧感を感じるかというと、それは全く別の話。私よりもさらに細身の右近と対峙する時のほうが、よほど緊張感がある。
道場の中央で防具をつけて用意を始めると、野次馬のひそひそ声が聞こえてきた。
『ふたり並べて見ると、誠之進殿はまだお若く身体ができておらぬ。力負けするのではないか…?』
『なに、図体ばかりでかくても強いとは限らぬぞ』
『そうじゃ、なんといっても誠之進殿は直心陰流の免許皆伝ゆえ…』
ろくに竹刀も振ったことのない連中が、自分と坂本の品定めをしているのを聞き、私は面の中で苦笑を浮かべた。
『誠之進殿が勝ったら、櫻田右近につきまとうな、という約束らしいぞ』
『ほう…それは見物だな』
皆、無責任に勝手なことをほざいている。ちらりと坂本の様子をうかがえば、見物人の多さに苛立っている様子だ。小手や胴を身につける動作もどこかぎこちない。
私と坂本は防具を付け終わると、無言のうちに道場の中程へ進みでて礼をした。
「三本勝負…でよろしゅうござりましたな」
「ああ。どちらかが先に三本とったら終りだ…」
「承知」
坂本は話し方は尊大だが視線があちこちへ泳ぎ、腰もどっしり座っていない。
(これで『馬廻り』とは…江戸藩邸の人事ももう少し考えてもらわねばならぬな)
私は思わず腹の中で生意気なことを呟いたが、すぐに気持を切り替えて勝負に集中した。
まともな勝負なら判じ役をつけるものだが、坂本から何も言い出さぬので私もそのまま捨ておいた。私は判定など必要ない、素人目にも明らかな、完璧な勝ちを納めるつもりだった。
(おまえなぞ、二度と右近の周りをうろつくな!)
軽く剣先を触れ合わせたのち、離れて間合いをとる。
「いざっ!」
私は腹の底から気合い声を発した。
三本勝負といいながら、一本目で小手を続け様に打てば、坂本はあっけなく竹刀を取り落とした。二本目は坂本が大上段に振りかぶって攻めに転じたが、がら空きの胴を抜くのは容易かった。三本目は慎重に間合いを取り私の出方をうかがっていたが、私は坂本の気が散った一瞬の隙をついて、面打ちをくらわせた。
赤子の手をひねるかのごとき勝負に、正直私は拍子抜けした。野次馬もあんぐりと口をあけて見ている。
「坂本殿、約束は守っていただきますぞ」
「…承知した」
悔しげに呟いたのは朋輩の皆川。
坂本本人は脳震盪を起こし、道場の床に大の字に伸びていた。
「御免」
私は片頬で笑い、面を小脇に抱えて竹刀片手に意気揚々と引きあげた。見物人の人垣がさーっと二つに割れ、私はその間を大股で歩いていった。
お…。
入口の引き戸の陰に隠れるようにして、羽織袴の右近の姿があった。その後ろには、あろうことか若殿の惣一郎が小姓たちを従えて立っていた。
なにゆえ惣一郎様まで斯様な場所へ?
訝りながら目を凝らすと、惣一郎は軽く右近の肩を叩いて何事かささやき、小姓を引き連れて去っていってしまった。
挨拶する間もなかったが‥。まあ惣一郎様のことはどうでもいい。
近付くにつれ、右近の表情がはっきりと見えてきた。
唇を真一文字に引き結び、わずかに柳眉をしかめている。
坂本との勝負、何が理由だったか既に知っているのだろう。
右近は仏頂面で開口一番、
「貴公…何ゆえ余計なことをする!?」
凛とした声音で抗議した。
「なに、退屈しのぎじゃ。気にするな」
「立ち合いなら私自身が応じたものを…。勝手に話をつけてしまうなど、私の立場がない!」
「固いことを言うな、右近。あの者が私に文遣いなぞ頼んでくるからいかぬのだ」
「誠之進…」
「なんだ、それとも一応取次いだほうがよかったのか?」
「誠之進!」
右近は声を荒げたものの、私が破顔すると、
「毎度毎度、貴公の手を煩わせずとも…私だって自分で断れる…」
右近の眉尻がわずかに下がった。
そのように睨んでも、ほら、もう声が丸くなっている…と微笑みかけた時だった。
ぐううと派手な音をたてて腹が鳴った。
「お…」
はっと鳩尾のあたりに手を当てると、右近が隣でぷっと吹き出した。
私はそのまま掌でぐるぐると腹をさすりながら、
「立ち合いがあるので昼餉は軽くすませたのだ」
「当然だな…」
「着替えるから、蕎麦でも食いに出よう」
「ああ」
右近も毒気を抜かれたのか、わずかに口元を綻ばせ、しっとりと濡れた瞳で私を見上げた。
思わず引き込まれるように、私は右近の目の奥を見つめ返した。
薄紅色の花びらが頬に触れるがごとき感覚に、胸が甘く疼いた。
右近…。
はよう…一人前の男になれ。
偉くなって皆をあごで使うような男になれ。
もっともっと剣の腕も磨き、私を叩きふせるほどの逞しい男になってくれ。
さもないと…私はおまえへの恋をふりきれぬ。
ともに元服し、おまえの前髪が取れてもまだ、切ない恋心は身の裡でくすぶりつづける。己の恋に封印をかけるかわりに、決して誰にも触れさせぬと誓った。おまえが女を愛したり妻をもらう日まで、きっと守り抜くと。
そのような、清清しくも艶やかな笑みで私を見つめてはならぬ…。
「誠之進、先程は見事な太刀筋だったな」
楽のような声音で囁いたりしてくれるな…。
それだけで身体が熱くなってしまう。私も坂本となんら変わることのない、ひと皮むけばおまえを抱きたくてたまらない、欲望まみれのただの男だ。己の内に棲む獣を飼いならし、身体の熱は他で散らすことを覚えただけ…。
衆道を忌み嫌うおまえに、私の本心など断じて知られてはならぬ。
だから、右近…おまえも早う大人になってくれ一一。
私が情欲に負け、取り返しのつかぬことをしでかさぬうちに。
恋しさ愛しさで、私が正気を失う前に。
右近の刻んだような横顔に、私は祈るような気持で語りかけていた。
並んで足早に長屋に向いながら、右近がふと呟いた。
「私も…朝稽古を再開せねば、貴公に遅れをとってしまうな」
「ならば新年早々から始めるか?」
「ああ、年始の登城が終わったらぜひ」
私は右近と目を見交わしてうなずいた。
右近は藩邸の者は皆弱すぎて、私以外の者では稽古にならぬという。確かに江戸藩邸には国許より柔弱の徒が多く、多分に世辞も入っているだろうが、右近の言葉は私の自尊心をくすぐった。
ふたりで無心に稽古に励むとき、右近は私だけのものだ。技と持てる力の全てで右近が私に打ちかかってくるとき、私は総身が震えるような高揚感に包まれる。
肌を合わせることは叶わずとも、気と気でぶつかりあい、激しく剣を交えるとき、我らはお互いを何者にも換え難い、唯一無二の存在として確認する一一。
私と右近が長屋に戻ると、入口の前に荷を積んだ大八車がとめてあった。
側についていた老僕の嘉助が、
「おお、誠之進様。つい先程、中村屋という商人が手代とともにこれを届けてまいりました」
「中村屋…?」
いくつも積まれた米俵に誠之進は小首をかしげた。
「中村屋とやらが申すには、正月前にこれを上屋敷の誠之進様にお届けするようにと、国許の御家老から仰せつかっていたそうで」
「ますますわからん…」
腕組みをして首をひねったところ、右近が控えめに言った。
「誠之進、中村屋とは今町の廻船問屋のことではないか?」
「おお、そうじゃ…。父上からちらりと名を聞いたことはあったな」
「江戸に出店があったはずじゃ」
右近の言葉に私はなるほどとうなずいた。
おそらく秋の航海で江戸へ運んでおいた米の一部だろう。
「御家老からのお手紙もついておりましたぞ」
「なんだ嘉助、それを早う申せ」
私は苦笑しながら嘉助が差し出す書状を受けとった。
急ぎ手紙に目を通せば、『其許(そこもと)が国許を離れ江戸で過ごす初めての正月じゃ。師走には越後の米で餅をつき、日頃お世話になっている方々に配れ』とあった。
ううむ、ちと過保護ではと私が首をかしげたところ、
「御家老も人の親だな…」
右近が何やら嬉しそうに微笑んでいる。
私は多少ばつが悪い思いをしながら、
「ふむ…お世話にというてものう」
ぽりぽりと頭をかいた。
「重役方に配れというなら、酒のほうがよかったものを」
「まあ、そう言うな誠之進。せっかくの御家老のお気持ちじゃ」
確かに父の心配りは有り難く思ったが、実際どうしたものかと考えた。
「そうじゃ」
私は妙案を思いついた。
「ん?」
「重役方よりも、軽輩の家に分けてやったほうがよいのではないか?」
広大な藩邸の敷地内には大小様々の長屋がある。
江戸家老や留守居の役宅は立派な屋敷であり、私の住まう上士の長屋もこの中では贅沢なつくりだ。だが徒士組や足軽など扶持の少ない者たちは、国許同様、江戸でも気の毒なほどの貧乏暮らしである。独り者が大半だが中には所帯持ちもおり、貧しい家に限って子だくさんだったりする。
藩邸でも早速今日から餅つきは始まっているが、どうせ軽輩の口にはろくに入るまい。
「子らは腹をすかせておろう。越後の餅はうまいぞ。ぜひ食わせてやりたい」
「うむ。それはいい!」
右近が晴れやかな笑顔で同意した。
「では明日の晩から用意して、三十日の朝から道具を借りてふたりでつこう!」
「おう!」
右近とふたり、息を合わせてぺったんぺったん餅をつく。
何やら楽しみじゃ…。
それだけのことに頬が弛んでしまう私だった。
(二九日は九/苦がつくので餅つきはできなかったそうです)
極月三十日。
御用仕舞いで暇になった右筆や事務方の朋輩にも手伝ってもらい、朝から私の長屋前で大量に餅をついた。米を蒸す役の嘉助も大忙しで、終わった頃にはかなり疲れた様子だった。後で腰でも揉んでやらねばと思う。
昼過ぎ、右近とふたり、荷車に木箱に詰めた丸餅や長方形の熨斗餅を積んで、軽輩の長屋まで引いていく。
「ほれ、越後の米でついた餅じゃ。今から皆でわけるぞ!」
私のよび声に反応し、外で遊んでいた子供らが歓声をあげて集まってきた。
「皆の者、よう聞け。この餅はな、国家老の溝口主膳様よりの下されものじゃ。ほれ、今から配るゆえそこへ一列に並べ!」
右近が凛とした声音で言い渡したが、年少の子らは押すな押すなの勢いでひたすら荷車に詰め寄った。
流石の右近もたじたじとして、
「これ、汚い手で触ってはならぬ! 誠之進、おまえもなんとか言え!」
「はは、よいではないか、右近。ほれ、皆好きなだけ持っていくがよいぞ!」
右近には悪いが、私は我れ先に餅を奪っていく子供らの姿が面白うて仕方なかった。
外の騒ぎを聞き付け、親たちも何事かと表に出てきた。
「これ。いやしい真似をしてはならぬぞ!」
貧しくとも武士の子。
親は見苦しい真似をするなと諌める。
なれど腹を空かせた子供は武士も百姓町人も同じ。
目を輝かせて群がる下級藩士の子供らに、『御家老の餅』はあっという間にもっていかれた。
丸餅がはけてしまった後、一軒にひとつずつ特大の熨斗餅を分け与えた。
軽輩の家族は目に感謝をたたえ、口々に礼をいいながら、長屋へと戻っていった。
嵐が去ったあと、私はからっぽの荷車の横で満足げに溜息をついた。
「…よいことをしたな、誠之進」
かじかんだ手をこすりながらしみじみとうなずく右近に、私の心もほっこりと暖くなった。
ああこの笑顔。
やはり他の何を捨てても失えぬ。
「さて…と」
私は両手をぽんと叩いて破顔した。
「我らも戻って餅を食うぞ」
「え…」
小首をかしげる右近に、
「おいおい。一口も食べずに、全部人にやってしまうわけがなかろう?」
「それもそうだが…」
「…私とおまえの分、ちゃんと長屋にとってある。嘉助にも食わしてやろう」
「誠之進!」
右近が童子のような笑みで声をあげた。
「せっかくの父上のお気持ちじゃ。我らもいただこうぞ」
「ああ、かたじけない」
「一緒に私の部屋で食おう!」
右近が目元を和ませてこっくりうなずくと、一歩先んじて私を振り返った。
「誠之進、寒うてかなわぬ。おまえの長屋まで競争じゃ!」
「お、おい! 荷車は?!」
「明日取りにくればよかろう!」
言い終えるなり、右近は身を翻して駆け出した。
ま…よいか。
普段几帳面な右近の意外な言葉に、思わず笑みが洩れた。
餅に押し寄せた子供らの無邪気さが、右近にも伝染したらしい。
私も童心に返り、思いきり土を蹴って右近の背を追いかけた。
「よし、負けたほうが炭をおこして雑煮の仕度をする。よいな!」
「承知!」
秩父おろしの乾いた風を頬に受けながら、右近と抜きつ抜かれつ、疾風のように藩邸の庭を駆け抜けた。
年が明ければふたり揃って十九歳。江戸留学二年目の春がやってくる一一。
おわり
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