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誠之進と右近と私、三人で内神田の軍鶏鍋屋へ出かけた夜、右近が酔いつぶれた。
「珍しいこともあるものだな」
誠之進は苦笑しながら背後を振り返った。
右近は畳の上にひっくり返り、時折左右にごろりと揺れたかと思えば、口元に何やら幸せそうな笑みを浮かべている。
「…今宵は上機嫌だったのう」
私は誠之進と目を見交わして笑った。
「私も昔留守居部屋に勤めていたことがある。幕府や諸藩との交際は気疲れが多いものじゃ。特に右近のような真面目で繊細な男にはな…」
「市井に暮らす某には計り知れぬ世界だが…」
「うむ…」
「我らの前で気が緩んだか」
「そうだな」
誠之進はしみじみとうなずいた。
右近を見つめる誠之進の視線の優しさに、私は遠い昔を思い出す。あれは十六だったか十七だったか。元服前の最後の夏だったような気がする。
***
十四の春、藩校へ入学して以来、誠之進は周囲に溶け込もうと心がけ、上士風を吹かせるような振るまいは極力慎んでいた。だがひとつだけ例外があった。年長者であろうが、誰であろうが、右近に言い寄り無体を働こうとする輩に対しては、誠之進は己の身分を最大限に利用した。
その日、下城する馬廻りの若侍の一団を、誠之進は大手門の近くで待ち受けていた。心配で付き添っていた私に、誠之進は再三家に帰るよう促した。私を厄介事に巻き込むまいとしたのだろう。されど私は頑として譲らなかった。やがて目当ての相手が城門から出てくると、誠之進はきっと眦を決して前に進みでた。
相手も誠之進を認め、迷惑そうに鼻を鳴らした。用件は承知と見えた。
『…我らに何用じゃ』
『お手前がた、性懲りもなく櫻田を付け回すのはやめてもらおうか』
『付け回すとは失敬な。俺は手拭いを換えてくれと、きちんと手順を踏み、礼儀正しく申し込んでおるのだ。人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られて何とやら。おぬしこそ余計なお世話じゃ、ひっこんでおれ』
『ふん…礼儀正しくとは笑わせる。ひとりでは何もできぬゆえ…昨日も徒党を組んで、薬屋へ行った帰りの右近をっ』
『黙れ。我らは立ち話をしていただけ。山崎様が勘違いなさっただけじゃ』
『よくもぬけぬけと…』
さすがに誠之進が大刀の束に手をかけたとき、
『誠之進っ…』
私は慌てて誠之進の二の腕を掴んだ。
いくら誠之進が家老の息子でも、往来での藩士との斬り合いはまずい。
誠之進は一瞬息を詰めたが、
『案ずるな、彦四郎』
肩の力を抜き、刀の鍔から親指を離した。
誠之進は貌をあらため、
『これ以上櫻田に付きまとうたら、お手前がたの行状を目付に報告する』
若侍たちの嘲笑があたりに響いた。
『誠之進殿、いやはや身体は立派でも、おぬしもまだまだ幼いのう』
『目付も暇ではないのだ。斯様なことにいちいち構っていられるか』
口々に誠之進をからかったが、
『父・主膳も櫻田には大層目をかけておる』
眉ひとつ動かさず、誠之進は続けた。
『いずれ江戸に留学させ、将来は藩のために存分に働いてもらうと』
『ほう…それが?』
『家中一の美貌と謳われながら、稚児小姓としての出仕を免がれたのも、勉学に集中させようとの父の意向があったからじゃ。むろん殿も御承知のこと』
『と、殿が…』
筆頭家老・溝口主膳のみならず、殿様の名まで出され、さすがに若侍たちは押し黙った。
『櫻田は余計なことに煩わされず、学問に励めとの殿の仰せじゃ』
『うっ…』
『勉学に励む櫻田の気を散らすような真似、報告すれば父も激怒するであろう』
悔しげに歯がみする相手に向い、
『よろしいか。筆頭家老に睨まれたくなければ、お手前がたも身を慎むことじゃ』
誠之進は引導を渡した。
親の七光りを盾にするのは口惜しいが…、と誠之進がもらした。城下で頻繁に右近を巡って立ち回りを演じれば、右近も身の置き場がなかろう。少々汚いが、穏便に済ませるにはこの手が一番よいと。
小兵太を含めた我ら三人は、右近を大切な友と思っている。
なれど誠之進の右近への思いは、我らの友情とは比ぶべくもないほど深く一一。
私は心の裡に燻っていた問いを口にした。
『誠之進、おまえ右近のことが…?』
『ばかもの』
皆まで言わせず誠之進が遮った。
『彼奴らと一緒にするな。男同士で契るのなんのとは笑止。女を知らぬ者どものたわごとよ』
誠之進は間髪を入れずに否定した。常に懐中に忍ばせ、用意していたような答えに、私はその逆を確信した。されど当時の私はまだ年若く、加えて色恋に疎い野暮天ときては、ふたりの間に入ってお節介などできようはずもなく。
どれほど愛しく思うていても、指一本触れぬ。
誠之進がそう決めているのなら、私もひたすら口をつぐんで見守ろうと思った。
***
「弱ったのう」
揺すっても何しても、右近は起きる気配もなかった。
誠之進は眉を下げて苦笑しながら、
「留守居に門限はないとはいえ、朝帰りでは外聞も悪かろう」
「いかにも。なれどこれでは駕籠にも乗せられぬ」
「…仕方ない。私が背負うて帰ろう」
誠之進は膝を叩いて立ち上がると、大小を腰に佩いた。
*
深々と冷える夜道を、私は提灯片手に誠之進に付き添った。灯りがなくてはとても小川町の藩邸まで帰れまい。私は確実に朝帰りになってしまうが、こちらは町道場の婿という気楽な身分だ。妻『いく』の小言がちと面倒なだけだ。
静まり返った夜更けの街に、犬の遠吠えが細く長く響いた。
葉を落とした柳の枝が寒々と夜風に揺れている。
私は誠之進ととにも、しばらくは無言で黙々と夜道を進んだが、
「誠之進…」
突然、背後から右近の声が闇に響いた。
目をさましたのかと見やれば、相変わらずぐったりと誠之進の背にもたれている。
(何じゃ、寝言か…?)
細く凛とした声音はさらに続けた。
「三郎のことは…もういい。貴公の失脚を恐れてあれこれ諫言したが…。殿がお許しになった以上、もはや内藤にとってこの切り札は一文の価値もなし」
「右近…」
驚いたように振り返る誠之進だった。
だが提灯をかざして何度見ても、右近は目を閉じ、安らかな寝息までたてている。
さすが十年にひとりの秀才じゃ。
かくも理路整然と寝言を言うのかと、私は驚嘆した。
右近が誠之進の背でかすかに身じろぎし、ふっと息をついた。
「出奔などという無茶は…もう二度としないでくれ…」
甘く、懇願するような声音に、私まで胸がざわめいた。
前を向いたまま、誠之進が歩みを止めた。
「うむ。心配をかけて…まことに相すまぬことをした」
囁き返す誠之進の声も、熱く掠れていた。
肌身を許しあうことは、ついぞなかったふたりだが一一。
心と心がそっと頬を寄せ、抱き合うような瞬間を、私は垣間見た気がした。
おわり
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