連休のはざまの五月一日。
京都の学会へ出席中の夫・惣一郎は三日の夜帰る予定だ。せめて連休後半は一緒に過ごそうと、修善寺の温泉宿に予約を入れている。
みどりの日に出かけた惣一郎は、まず名古屋で講演をひとつこなしてから京都入りした。付き合いやら何やらで忙しいだろうに、必ず毎晩9時に電話がかかってくる。右近は毎晩電話しなくてもいいよと、苦笑しながらも、惣一郎の愛妻家ぶりを内心では憎からず思っていたりする。
三月のアメリカ出張とは違い、今回のはたった四日だ。亭主のいないうちに、部屋の片付けでもしようと張り切っていた右近だが、結婚して半年、すでに二人の生活に慣れてしまった今、一人で過ごす夜はチクタク響く時計の音がやけにむなしい。
おまけに、気になる隣の誠司は連休中ひとりのようだった。信明はどうやら家をあけているらしい。
大手メーカー勤務の誠司は、一週間くらいまとめて休みがとれるのかと思いきや、今朝も定刻に出勤していった。ベランダからこっそり長身のスーツ姿を見送りながら、右近はほっこり懐かしい気分に浸っていた。そういえば、昔も誠之進の背中をよく目で追っていたっけ…。前世の自分は今よりもっと見栄っ張りでプライドが高く、誠之進の前では、ストイックな葉隠武士の仮面をついに外すことはなかった。
恋する瞳で見つめるのは、いつも誠之進の後ろ姿ばかり。面と向かっては、想いを打ち明けることはおろか、クリスマス企画の誰かさんとは違い、潤んだ瞳で見つめることすらできなかった。
武士は己の感情を表に出さぬもの。
それが時代の空気だったし、自らを律するのは、右近なりの美意識でもあった。
だが、二十世紀の終りに再び誠之進の生まれ変わりに出会えて、右近は純粋に嬉しかった。今生の誠之進は見たところ順調な人生を送っているようだ。またもや年下の『おまけ』がついていることには、苦笑せざるを得ないが…それでも誠之進の幸せを心から願う。昔叶わなかった恋をどうこうしようという気はない。
どのみち、自分と惣一郎は九月には日本を離れる。隣同士の付き合いもあと四ヶ月足らずで終わるのだ。こうして、毎朝そっと見送ることくらい…かまわないだろう?
初夏の風に吹かれ、鉢植えのラベンダーの花穂が軽やかにゆれた。爽やかで甘い香りが鼻腔をくすぐる。誠司が交差点の向こうに消えていくまで、右近はベランダからその背をじっと見つめ続けた。
*
夕暮れ時、買い物をしに商店街へいく。
巡回コースである池田豆腐店と平岡青果店に立ち寄り、手作りがんもどきや大根など今晩食べたいものはゲットした。ひとりだし、量を買い込む必要はない。本屋の前をぶらぶら歩いていると、少し先の惣菜屋の店先に帰宅途中の誠司を見つけた。
(あれ、結構帰りは早いんだな…。連休中は仕事、暇なんだろうか?)
声をかけようか迷ったが、誠司がどんなおかずを買うのか興味が湧いた。そのまま本屋の店先から観察する。
「たけのこの木の芽和え…と、筑前煮。それから、いわしの天ぷらをふたつ」
惣菜を注文しているだけなのに、相変わらず誠司のバリトンは耳に心地よい…というか、腰にくる。
(い、いわしの天ぷらに欲情してどうするのだ…バカか、おのれは)
右近は料理雑誌の陰で思わず頬を赤らめた。
おかみさんが惣菜をパックに詰めている間に、
「あ、それと白い御飯も」
と、少し照れくさそうに誠司が追加した。
「今日はおひとりなんですか?」
「え…ええ」
ますます縮こまる誠司に、おかみさんがにっこり笑った。
「はい‥全部で980円になります」
誠司は支払いを済ませると、明るいおかみさんの声に送られて、足早に惣菜屋を後にした。
右近も「きょうの料理」をほうり出して慌てて後を追った。
(どうしよう…どこで声をかけようか)
誠司は長身でコンパスが長い。ゆえに足が速い。かなり急がないと追いつけない。右近はほとんど駆け出さんばかりに歩を速めると、折よく先の信号が赤に変わった。交差点で誠司が立ち止まっている。
右近は高鳴る胸を押えつつ、斜後ろから声をかけた。
「溝口さん…」
振り返る誠司の顔に、かすかな驚きが浮かんだ。
「あ…奥さん」
「おかえりなさい。GW中も平日は仕事あるんですね?」
「ええ…、工場は閉まるんですけど、事務系は一応出社しないといけないんで」
誠司は鳶色の瞳をなごませて、ふわりと微笑んだ。
(ああ…こんな表情も誠之進の時とそっくりだ…)
右近が思わず目を細めて見とれていると、
「あ、青になりましたよ」
誠司に促がされ、右近ははっと我に帰った。
買い物袋をしっかと胸に抱え、誠司について足早に横断歩道を渡る。
右近は甘い胸苦しさを持て余しながら、しばらくの間、無言で誠司と並んで歩いた。
そういえば、再会してからふたりきりになるのはこれが始めてだ。嬉しくないわけがないが、いざとなると何を話していいかわからない。黙っているのも気まずいし…。
(弱ったな…)
大通りを次の信号まで歩いて右折すれば、マンションはもうすぐそこだ。ふたりきりの時間などあっという間に終わってしまう。
(こんな得難いチャンスに、ろくに気のきいた会話もできないなんて…。情けないぞ)
「結城先生は、いつお帰りになるんですか?」
「え?」
話題を探してじたばたと焦っていたところ、唐突に尋ねられ、妙に声がうわずってしまった。
「そ、惣一郎ですか?」
「はい」
「三日の夜ですよ」
「やっぱ…さみしいですか?」
右近の顔をのぞきこむようにして、鳶色の瞳がいたずらっぽく笑った。
「べ、べつに…」
ぷいと横を向くと、
「冷たいなあ…結城先生、今頃くしゃみしてますよ」
誠司が喉の奥でおかしそうに笑った。
どうせ近所でいろいろ評判を聞いているのだろう。なんだかいたたまれなくて、目を伏せてしまった。誠司はそのまま前を向いて歩きながら、
「…うちも信明、連休中はずっと留守なんです。オーケストラ部の合宿があって」
「ああ、それで…。惣菜買ってるわけですね」
「おっと、見られてましたか」
今度は誠司がバツが悪そうに微笑んだ。
「信明くんも、休日返上で練習とは熱心ですね」
信明の話などどうでもよかったが、社交辞令で一応ひとこと返しておいた。
誠司は弾んだ声で、
「はい! ああ見えても、トランペットのパートリーダーなんですよ。あいつが行かないと、練習になりません」
鳶色の瞳の奥が、一瞬淡いオレンジ色の優しい光に包まれた。
夕映えのせいだろうか?
(バカだな、そうじゃないことくらい、本当はわかっている…)
「…溝口さんこそ、信明くんが留守だと寂しいですか?」
一瞬の間をおいて、誠司が呟いた。
「ええ…。あいつがいないと、火が消えたようで…」
右近ははっと胸をつかれたように黙り込んだ。
(臆面もなく、ハッキリ言うのだな…。他人にはとりあえず、『たまにはうるさいのがいなくてせいせいします』とか言うものだろう…)
あっという間に二つ目の信号を通り過ぎ、マンションはもう目の前にせまっていた。
正直にいおう。その時、右近の中で信明へのライバル意識がむくむくと頭をもたげていた。誠司にあんな目をさせる信明が憎たらしくなった。
右近は意を決したように面をあげると、
「そうだ…、もしよかったら、明日、夕御飯を食べにきませんか?」
「え?」
誠司は意外そうに眉をあげた。
「‥っと。今日はほら、溝口さん、惣菜も買っちゃってるし、私も残り物で簡単にすまそうと思ってたんで…」
「ええ、でも…悪いなあ、そんな」
「ひとりだと…ごちそう作ろうって気になれなくて、ついさぼっちゃうんですけど…。私もそろそろ美味しいものが食べたくなりました」
右近は誠司をかすかに見上げ、惣一郎なら一発で殺せるはずの、透き通るような微笑を浮かべた。
(これで落ちなきゃ男じゃないだろう…。←おいおい…)
「付き合って…くださいませんか?」
しっとりと誠司を見つめ、右近は返事をせまった。
誠司は相変わらず軽く目を見開いたままだ。
(何だろう、気がすすまないのだろうか? 私の作る飯など口にあわぬというのか…?←偉そうやなあ)
自信満々だった右近が不安を覚えはじめたとき、
「ほんとに…いいんですか?」
おずおずと念を押す誠司に、右近は気を取り直してにっこりうなずいた。
「…じゃ、じゃあ明日、会社から帰ったら速攻でうかがいます!」
子どものように目を輝かせて、誠司は勢いこんで言った。
本当は心臓がばくばくいっているくせに、右近は指先でこめかみの上のあたりをすき、
「…では、今くらいの時間にお待ちしていますね。少しくらい遅くなっても気にしないでください」
さらりと受け流す風を装った。
ほどなくマンションの入口にたどりつくと、管理人室から声がかかった。
「あ、溝口さん、お帰りなさい。お荷物預かってますよ…」
「あ、どうも」
「じゃ、溝口さん、私はこれで」
ここで未練たらしくまとわりついてはいけない。一分一秒でも一緒にいたい気持ちを、右近はぐっと堪えた。誠司に向かって肩ごしに微笑むと、先にエレベーターに乗り込んでいった。ドアが閉まる寸前、こちらを向いてぺこりと頭を下げる誠司の姿が見えた。
(食事に…誘ったぞ!)
思わずモニターカメラを見上げて微笑む右近だった。軽く微笑んだつもりが、際限なく頬がゆるんでしまう。これ以上崩れたら福笑いだ。
昔、ふたりで江戸詰めだった頃、毎晩のように食事を供にしていた。目を閉じれば、お長屋での暮らしが鮮明に蘇ってくる。
(ああ、そういうば、江戸にいるとき、誠之進は小柱やアサリを好んで食べていたな…。国許ではイワナや鴨肉も好物だったっけ…)
エレベーターの中、抱えた袋からのぞく大根葉にほおずりしながら、右近は記憶の糸をたぐりよせ、昔の想い人の好物を思いだそうとしていた。
第五回後編へ
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