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連休が終わり、浮かれていた世間も粛々と日々の仕事に戻ったようだ。
隣の信明は毎朝七時前に家を出る。五月の連休あけに高校生の学生オーケストラ・コンクールがあり、信明の学校は予選を通ったそうだ。本選は七月だという。そういうわけで六月に入った今も朝練は続いているらしい。
出がけに洗濯を済ませているのは優秀だが、相変わらず、あの干し方はなんとかならんのかと思う。隣のバルコニーに忍び込み、せめて誠司のトランクスの皺だけでもぴしぴしと伸ばしてやりたい気がする。
そんなわけで、最近は誠司のほうが遅い時間に家を出る。ゴミ出しも誠司の分担に決まってしまったようだ。月曜と木曜、ほぼ同じ時間に出かける誠司に合わせ、私もゴミを出しにいく。一応、朝八時までに出すようにとのことなので、その時間帯に出ていっても惣一郎に訝られることはない。
偶然のようにエレベーターに乗り合わせ、一緒にゴミを出しにいく、短くも胸ときめく時間。
『いってらっしゃい…誠司さん』
『いってきます…奥さん』
礼儀正しく頭を下げ、仕事に出かける誠司を見送るしあわせ。
誠司の鳶色の瞳が去り難げに見つめているのは、やはり私の気のせいだろうか…。
うん…気のせいだ、きっと。私の妄想のなせる技だ。
連休中に食事に招待した時、一度は「右近さん」と呼んでくれていたのだが、最近また「奥さん」に戻ってしまっていた。誠司にとって、私はやっぱり「結城先生の奥さん」なのだな…。
まあ、それは事実だし、すねてみても始まらないか…。
それでも週に二度、短い短いふたりだけの時間を私は心待ちにしていた。
今朝も私は隣のドアの音を聞き付け、いそいそとゴミをまとめて出ていこうとした。
「右近、どれ、今日は私が持っておりてやろう」
背後からかかった声に、私は心臓が飛び出るほど驚いた。
「え…ど、どうして?」
普通に応えたつもりが、まるで「バー帯刀のママ」のしゃべり方ように、声がひっくり返ってしまった。
「いや…今日は昼まで研究室にいけばいい日だし? たまには手伝ってやろうと思っただけだが?」
惣一郎はリビングのソファで新聞片手にふんぞり返っていた。
鷹揚な笑みを浮かべた顔から、その下の本音はなかなか伺えない。
どうしたものかと迷っている間にも時は過ぎ、おそらく誠司はもうエレベーターで下へ降りてしまっただろう。
一分でもずれたらもうだめだ。どうせ今日は間に合わない。下手に意地をはっても仕方ないと思った。
「じゃあ、…お願いするよ」
にっこり微笑んだつもりが、地割れを起こしそうなくらい、口元の肌がぴきぴきとつっぱるのがわかった。
惣一郎はうなずいてソファから立ち上がると、キッチンにいる私の側へ歩みより、私の手からゴミ袋をうけとった。
「これだけ?」
「え、ええ…」
「…じゃあ寝室のゴミも片付けておこう」
「あ…」
「ティッシュの山ができてるだろ?」
にやりと片頬で笑われ、私は憮然としてうつむいた。
*
バタンとドアが閉まり、惣一郎が出ていった後、私は力なくソファに座り込んでいた。
連休以来、惣一郎との間が実はしっくりいっていない。
その原因はすべて私のほうにあった。
惣一郎は何も悪くない…。
こんな気持になってしまった私が…いけないのだ。
*
連休後半、旅行にいった修善寺温泉でも私はどこか上の空で、夜も食事のあと、何だか疲れたからと、ひいてもらった蒲団に早々ともぐりこみ、ひとりで寝てしまった。惣一郎のことだ。きっと部屋つきの露天風呂Hを堪能した後、羽二重の蒲団の上で二回戦に突入!などと、楽しい予定を組んでいたに違いない。忙しいスケジュールをやりくりして予約した温泉なのに、さぞやがっかりしたことだろう。
申し訳ないとはおもっている。だが、その気になれないものはどうしょうもなかった。
旅行のあとも私がそんな調子だから、数日前、惣一郎は妙なものを通販で取り寄せた。夫婦の夜の生活に刺激をいうやつだ。倦怠期か何かと誤解したらしい。まだ新婚なんだから、普通そんなわけはないだろう。
夕べもそのグッズで弄ばれ、なかなか寝かせてもらえなかった。
以前なら断固拒否するところだったが、今、惣一郎に対して負い目のある私は、渋々言いなりになった。玩具なんてとバカにしていた私だったが、近頃のものは性能がいいのか、身体だけは容赦なく高められ、あっけなく遂情させられた。その後も妙なゼリーを塗られた挙句、惣一郎のものでさんざんに…こほん。
身体がだるくてたまらなかったが、今日は木曜でゴミ出しの日だから張り切って起きたのに…。バカらしくなった私はソファで居眠りすることにした。
リビングで皮張りのソファに寝転び、大きく伸びをした。
最上階だから風通しは抜群だ。半分あけたバルコニーのガラス戸から、初夏の風がレースのカーテン越しに吹き込んでくる。梅雨が来るまでのひととき、一年のうちで一番好きな季節かもしれない。
『おはようございます、奥さん! 先日はごちそうさまでした』
『い、いえこちらこそ…楽しかったですう…』
『ほら、あの浅蜊と大根の鍋。あんまりうまかったんで、うちでもトライしたんですが、なんか今いちうまくいかなくて…』
『あ、そうなんですか? とっても簡単なのに…?』
『いや〜、やっぱ奥さんの腕がいいからでしょう』
『あ、あらそんな…』
目を閉じれば、こないだの月曜の会話が鼓膜の中で蘇る。誠司の照れたような笑顔がまぶしかった。
誠司には簡単だ、なんて言ったけど、ぢつはちょっとした秘けつはあるんだ。
まずは上等のだし昆布を使うこと。こいつがしょぼいと話しにならない。
それから…いきなり強火で煮たりしたらダメなんだ。
弱火でまずはじっくり昆布の出汁をだして…次に大根。
大根があらかた煮えた頃に、あさりを入れたらさっと煮過ぎないように注意して…。
それと醤油。これは絶対薄口じゃなきゃダメだ。
湯浅あたりのキレのある薄口醤油に決まり。
それをほんの少し仕上げにたらす。
ふ…三郎(信明)にそんな芸当ができるわけがない。
あいつのことだ、どうせ一度に材料すべてを放りこんで、ぐらぐら煮てしまったに決まってる。あの洗濯ものの干し方をみれば、おおよそ見当がつくというものだ。
浅蜊の鍋なんて…いつでも作ってあげるのに。
誠之進が欲しいっていえば、私はいつだって…。
「ばかだな…」
私は特大の溜息をつき、ソファの上で寝返りをうった。
ひじ掛けを枕がわりに横を向き、胎児の様に膝を丸めた。
浅い眠りの中、誠之進との初夏の思い出が、溢れんばかりに脳裡に浮んだ。
藩校時代、剣に馬術に弓…。毎日のようにともに武芸に励んだ。
川にどじょうや海老もとりにいったっけ。
江戸詰めになってからは、よく街をふたりで散策した。
端午の節句や両国の川開き…。
誠之進との煌めくような友情の思い出は、どんなに時がたっても色褪せない、私の宝物だ。
だが一。
二百年前の片恋をもう一度くり返すほど、私は馬鹿ではないはずだった。
偶然再会できただけでも僥倖だ。お隣さんとして仲良くなれたし、誠之進の順調な今の生活を垣間見ることもできた。
それに、どうせもうじき私たちはアメリカへ行く。別れはもう数カ月後に迫っている。今さら何ができるというんだ? 愚かなことは考えないほうがいい。
今度も遠くから、ずっと誠司の幸せを祈っていこう…。あの時も、そうしたように…。どんなに離れていても、死ぬまで誠之進のことを忘れなかったように一。
*
「右近?」
誰かに肩をそっと揺すられ、私は重い瞼を開けた。
「惣一郎…」
「どうしたんだ?」
「あ…うたた寝してた?」
惣一郎は無言でうなずくと、
「…何を泣いている?」
「え…」
言われて片手を頬にあてれば、しっとりと泣き濡れた跡がついていた。
「あ、やだな…どうしたんだろ?」
「夢でも見てたのか?」
「…よくわからないや」
私は苦笑しながら小さくかぶりを振った。
指先で涙をぬぐって微笑むと、
「まだ出かけないんなら、もう一杯コーヒーをどう?」
惣一郎の瞳が私の目の奥をじっと見つめていた。
「いや…そろそろシャワーを浴びて仕度するからいい」
「わかった…」
うなずく私に惣一郎は口元だけを軽く綻ばせた。
惣一郎は私の心の揺れを敏感に感じ取っている。
バスルームに消えていく後ろ姿を見つめながら、
「ごめん…」
私は胸の中で惣一郎に詫びた。
*
さて…と。
こうしてソファでいじけていても始まらない。
ハーブに水でもやろうと、私はバルコニーに出た。
花の盛りを迎えたラベンダーは増々強く薫り、風に揺れる度に爽やかな香気をあたりに運んだ。
連休前に植えたバジルの苗もぐんぐん育っている。この分だと夏の収穫は期待できそうだ。惣一郎の好きなバジルと松の実のソースもたくさん作れるだろう。
夏場にかけてまた出張が多いと聞いた。夏ばてしないように、精のつくものをいっぱい食べさせてやろう。…とはいっても、つきすぎない程度に(汗)。
そうだ…久しぶりに演奏会のチケットでもとっておこうかな。それとも歌舞伎かなんかでも。うん、そっちのほうがいいかもしれない。今回渡米したら当分帰ってこないはずだし…。
余計なことを考えないように…ふたりであちこち出かけよう。惣一郎との今生の思い出は、これからふたりで作っていくのだから…。
見上げる空は抜けるように青く、夏の訪れを告げる入道雲が広がっていた。
おわり
+第七回予告+
「どうしたんですか!右近さん…泣いたりして…?」
誠司はソファに坐った右近の足下に跪き、熱っぽい瞳で見上げた。
「あ…す、すみません…あうっあうっ…」
「あの…俺、何かいけませんでした…?」
右近はぶんぶんと頭を振り、
「あんまり…素敵だったもので…つい」
大きく洟をすすり上げた。
「…そんなに、良かったですか?」
「は…はい」
「…どんな風に?」
「うまく言えないんですけど…。何だか私…身体が震えてしまって…」
惣一郎の主張中、またまたふたりが急接近?! 近日アップ!
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