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次の月曜、今日こそはと胸ときめかせてゴミ出しに出れば、同じ時間に誠司の姿はなかった。
なんだ…今朝は早い電車にのったのかな…。
それだけのことなのに、私は地の底まで落ち込みそうなくらい凹んでいた。
嫌になっちまう…。
そんなにゴミ出しが楽しみとは、情けなさすぎる…。
でも誠司の顔を見てにっこり会釈し、ふたことみこと交わすだけで、その日一日幸せな気分になれる。
まるで好きな先輩が教室から出てくるのを、廊下の陰で待ち伏せする、レトロな女学生のようだ。
今どきの中坊だってこんな恋愛しないのでは?
恋…?
これって…やはりそうなのだろうか?
初恋の誠之進に巡り合えて、懐かしさで浮き立っているのだと思ってた。男同士、掟破りの夫婦とはいえ、今生の私はきちんと惣一郎の戸籍にも入っている。れっきとした?配偶者なのだ。指輪もしてる。
他の男に恋なんて…していいはずがない。
つい四日ほど前、もっと惣一郎のことを考えよう、惣一郎との暮らしを大事にしようと、心に決めたはずなのに、ゴミ出しで誠司に会えなかっただけで、胸がしくしく痛むほど切ないとは…。
ぼんやり立ち尽くしていると、コンクリート塀にとまったカラスがカァと鳴いた。
われ、なめとんのか!とひと睨みすると、敵はばたばたと羽ばたいて去っていった。
(ふん…口ほどにもない)
勝ったとはいえ、カラスにまであたる自分が哀れだった。
私はゴミ袋を力なくコンテナに放りこみ、あきらめて部屋へ戻った。
人気のないリビングはがらんとして妙に広く感じた。
昨日の夜の便で、惣一郎はふたたびワシントンDCへ向かった。一週間ほどで戻る予定だ。もちろんJ・ホプキンス大学に用があるのだが、今回は9月に入居するアパート探しも目的らしい。
着々と進んでいく渡米の準備だった。
誠司との別れもあっという間にやってくる一。
*
気を取り直していつもの家事をこなし…。昼前になってひと息入れた時、留守のはずの隣からバルコニー越しに物音が聞こえてきた。物音というよりは音楽のようだ。
(なんだろう?)
興味を覚えた私はバルコニーに出て隣をうかがった。
どうやらあちらも窓をあけているようで、音が中から洩れ聞こえてくる。
(え…チェロ?)
ところどころ間違うからCDではない。だが、朗々とした豊かな響きが奏でる曲は、私の耳をそばだたせるに十分だった。よく聞けば、曲はバッハかなんかのようだった。私はクラシックオタクではなかったが、惣一郎が相当なマニアで、オーディオルームには山程CDがある。結婚して以来、ぼちぼち聞いているうちに、私もそれなりに曲を覚え、耳も肥えてきていた。
それにしても、なかなかイイ音だ。
しかし、誰が弾いているのだろう? 信明はトランペットだったはず。
え…まさか?
心臓が…期待に震え、静かに脈打ち始めていた。
普通なら誠司が月曜に家にいるわけないが、もしや代休かなんかをとったんだろうか?
そういえば誠之進は鳴り物(楽器)はやらなかったが、深い朗々とした声の謡に、私はよく聞き惚れていたものだ。
そう、この音は…誠之進の声に似てる。きっとそうだ。誠司がチェロを弾くなんて初耳だったが、このおおらかで包み込むような優しさは…。ずっといつまでも聞いていたいような、音に抱かれていたいような…。
*
しゃっ!
思わず頬を赤らめた私は、室内に戻ってカーテンを勢いよく閉めた。
ソファに身を鎮めて思案する。
どうしよう…、とりあえずピンポンを鳴らして確かめてみようか…。
惣一郎は出張でいない。
隣ももしかして、誠司ひとりだったら…?
それに今なら…チェロという口実もある。
訪ねていっても不審に思われることはないだろう…。
そうだ!
うちへ呼んでお茶でもごちそうして、チェロを弾いてもらっても♪
な、なんという至福の午後!
バラ色の妄想はとめどもなく膨れ上がり、私はもういてもたってもいられなくなっていた。残念ながら昼食は残り物の茄子の煮物と素麺ですまそうと思っていたので、昼御飯に呼ぶわけにはいかない。こんなことなら、しっかり買い物にいっておけばよかったと、私はエプロンの裾を千切れるほど握りしめた。
しかし、もう…だめだ。とてもこの誘惑には勝てそうもない。
お、お隣へいこう…。
私はいそいそと洗面所にいって、髪を整えると、エプロンを外してドアの外へ出た。
*
ピンポーン…。
いざドアフォンを押す前に何度ためらったことか。
私は何度も深呼吸をして、とりあえずパニくらないように酸素を補給しておいた。
まもなくドアが開き、誠司が顔をのぞかせた。
自分の顔が満面の笑みに崩れていくのがわかる。チェロを弾いていたのが信明だったりしたら、シャレにならないが。
「奥さん…」
鳶色の瞳が少し大きくなった。
「こ、こんにちは。今日は…お休みだったんですね」
「はい…。連休に休日出勤しましたから、そのかわりです」
私は両手を後ろで組み、軽く会釈した。
「あのお…」
黙ってにこにこしている私が不可思議なのか、誠司が小首をかしげた。
私は思いきって聞いてみた。
「もしかして、さっき…チェロを弾いていたのは…誠司さんですか?」
誠司は途端にバツが悪そうな表情を浮かべた。
「…っと。聞こえちゃってましたか。窓…開けてたしな」
「はい。バルコニーに出たら聞こえてきました」
「すみません、午前中からうるさかったですよね」
「いいえ!とんでもない!!!」
私は思いきりぶんぶんと頭を振った。
「あんまり素敵な音色なんで…」
「い、いやあ、俺なんか」
「御迷惑でなければ…側で聞かせてもらえないかと」
ふふ、上出来。言ったぞ!
「え…」
そんなに意外だったのか、誠司はぽかんとしてその場につっ立っている。
よし、こうなったら押しの一手だ。土俵際に追い詰めて、押し倒せばこっちのもの。
「よかったら…午後、うちのほうへいらっしゃいませんか?」
「お、奥さん…ほんとに聞きたいんですか? 俺、しばらく練習してなかったから、さっきリハビリしてたんですよね。…なんか照れくさいなあ」
「あ、そうなんですか? そういえば誠司さんのチェロの音を聞いたのは…今日がはじめてですね」
「はい、引っ越しのとき、とりあえず実家に置いてきちゃったんですよ。どうせ忙しいし触る暇ないだろうと思って」
私がこくこくうなずくと、誠司は照れたよう笑みを浮かべて続けた。
「俺、大学の時、オケで弾いてたんです」
てっきり体育会系だと思ってたから、正直、楽器をやってるというのは以外だった。なるほど…信明のやつ、誠司の影響を受けてオケ部に入ったんだな…。お手軽な奴め。ふん。
「社会人になってからは、純粋な趣味の時間って…なかなか持てなくて」
「ええ、わかります…」
「でもなんか、最近無性に弾きたくなって、とうとう昨日実家から持ってきたんですよ」
「そうだったんですか…」
で、で、うちへ弾きに来てくれるのかな?
早く答えを聞きたい気持を押え、私は誠司のペースに合わせて会話を続けていた。
「じゃあ、奥さん、後でうかがってもいいんですね」
「ええ、もちろんです!」
やった…。これでまたふたりきりになれる…。
頬がだらしなく緩むのを押さえられなかった。
睫の先まで桃色に染まりそうな気がした。
「じゃあ、…二時頃でどうです?」
「誠司さんの都合のよい時間でいいですよ」
「よしっ!」
握り拳で気合いをこめる姿が男らしくて爽やか…と、胸が甘く疼いた。
そんな私を前に、
「せっかく右近さんに聞いてもらうんだから…俺、二時まで必死でさらいます!」
屈託のない笑顔で誠司はぺこりと頭をさげ、
「じゃ」
と、あっさりドアを閉められてしまった。
ばたん。
あっ…。
ま…来てくれるんだから、いいけど…。
私はくすりと笑って、足取りも軽く自宅へと引き返した。
私に聞かせるために、『二時まで必死でさらいます』なんて…。
なんてかわいいんだ♪
一生懸命な年下(攻め)っていいなあ。
幸せな午後の予感に、私は身体中が浮き立っていた。
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