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楽器を抱えて約束の時間ちょうどにやってきた誠司は、リビングへ入るなり仕度をはじめた。まずはお茶でもと思っていた私はちょっと面くらったが、誠司はやる気満々のようである。
まず楽器をケースから出し、エンドピンとやらを楽器のお尻から引き出した。次に椅子にすわって楽器を足の間に構える。床を傷付けないようにと、円盤型の何かを取り出して置き、そこにエンドピンを刺した。構えた時の楽器の高さを調整してるらしい。
私は物珍しさもあって、誠司の動きをつぶさに見守っていた。普段なら「奥さん、そんなにじっと見ちゃいやだなあ」とか言いそうなものなのに、今の誠司は真剣そのものだ。楽器の用意ができたら次は弓を取り出すと、弓元のほうのねじをくりくりして毛を張った。
何だか…弓を扱う繊細な指の動きが、とてもセクシーだと思った。
私の期待は嫌が上にも高まった。ソファに腰掛けた膝の上で両手を握りしめ、食い入るように誠司を見つめた。
さらさらっと五度で調弦した後、
「ではっ」
誠司は私に軽く会釈した。
「さっき必死でさらったやつをお聞かせします。俺の大好きな曲です」
「バッハの無伴奏…でしたよね?」
間違ってたら大恥だが、私は思わず口にしていた。
誠司は大きくうなずき、
「Gーdur(ゲー・ドゥア:ト長調)の プレリュードです。地味っていやあ地味なんですが…まずはこれを聞いてください」
言い終えるなり弓を構えた。
私は息を詰めて音の出を待っていた。
聞こえてきたのは、深い音色のト長調のアルペジオ。
テンポは早すぎず遅すぎず、中庸なのがいい。
16分音符8つの同じ音型が、和音を変え、調を変えて延々とくり返される。単調なようでいて、分散和音のつくり出すハーモニーは、驚くほど多彩な色と光を放ち、様々なストーリーを聞かせる。ある時には静かに穏やかに流れ、ある時には奔流のごとき激しさで聞き手を圧倒し…。
ああ…これは。
誠司の奏でる音色は、紺碧の夏の海を想起させた。
曲が佳境に向かうにつれ、いつしか私の瞼の裏に、遠い昔に見た海の情景が広がっていた。今町の…夏の海だ。凪ぎの時の蒼くきらめく波。満ち潮の時の押し寄せる大波。岩にあたってくだける波飛沫。
エンディングに近くなったのか、輝かしいパッセージが続いている。高いポジションを取るときの、楽器を後ろから抱き込むような姿に、私の目は釘付けになっていた。
あんな風に…誠之進に背中から抱きしめられたことが、一度だけあった。
決して声高に叫ぶのではなく、訴えかけるような音色と、遠い記憶の彼方、かすかに覚えている誠之進の腕の力強さと温もりが、私の中で重なりあっていた。
アルペジオの音型が頂点を極め、Gーdur(ゲー・ドゥア)の和音の重厚な響きで、曲は幕を閉じた。
誠司は弓を丁寧に弾き切り、あとは自然な左手のビブラートで余韻を残している。
音がかき消えていくのを全身で追いながら、私はまばたきもせずに誠司を見つめていた。
白日夢の中、消えていく誠之進の幻に、私は声を涸らしてよびかけていた。
「どうしたの!右近さん…泣いたりして…?」
気がつけば、誠司はソファに坐った私の足下に跪き、熱っぽい瞳で見上げていた。
「あ…す、すみません」
「あの…俺、何かいけませんでした…?」
私は頭を振って否定した。
「あんまり…素敵だったもんで…つい」
「…そんなに、良かったんですか?」
「は…はい」
「…どんな風に?」
「うまく言えないんですけど…。何だか私…身体が震えてしまって」
「右近さん…」
誠司の右腕があがり、かっちりとした手がためらいがちに私の肩へ伸びてきた。
(あ…っ)
思わず目をつぶりかけた瞬間だった。
*
「う…右近さん!」
女の叫び声とともに、突然リビングのガラス扉が開いた。上等だがきつい香水の匂いがリビング中に漂う。
「あなたって人は…昼間から…いったい何をしているの?!」
「奥様! 私もこの耳でしかと聞きましたぞ!」
「惣一郎が自分の出張中、右近の様子を見てきてやってくれと言うもんだから、こうして来てみれば…」
「まだ新婚だというのに…夫の留守中に男をひっぱりこんで。ああ、惣一郎ぼっちゃまがおいたわしい…」
文字どおり「出たっ」としか言い様がなかった。
あれほどやめてくれと言ったのに、惣一郎は実家の母親に合鍵を渡したままだった。今日もそれでずかずかと人の家に入ってきたわけだ。
姑もたいがい勘に触るが、あの家政婦の富士子!
歌舞伎の女形のような、芝居がかった『よよよ泣き』はやめろと言いたい。
「う、右近さん…あの濃いおばさんたちは?」
「成城の姑と家政婦です…」(配役はデ○夫人と○原悦子くらいで)
「何かすごい誤解をしておいでのようですが…」
「のようですね…」
私はソファに坐ったまま、リビングの入口で仁王立ちになったふたりに、
「お義母様に富士子さん、お隣の方にチェロを弾いてもらってただけですよ。そこに楽器があるじゃないですか!」
おチェロ様が目に入らぬかバカものめ、と鋭く顎をしゃくった。
姑の真紀子はチェロを一瞥し、家政婦の富士子はふんと鼻を鳴らした。楽器を見たくらいでは、ふたりの「間男疑惑」は拭えないようだ。
「ともかく…おすわりください。お茶でもいれますね」
ふたりはソファに腰を降ろし、これ見よがしに室内を見渡した。
富士子なぞ、鼻をひくつかせて匂いを嗅いでいる。(何をチェックしとんじゃ…)
姑は紙袋をコーヒーテーブルの上に置くと、溜息まじりに首をふった。
「せっかくマルメゾンのケーキを買ってきたあげたのに…」
「男をひっぱりこんでいるとは…」
絶妙のタイミングで富士子が相づちをうった。
富士子は姑が娘時代から仕えている女中で、結城家に骨をうめる覚悟だ。忠勤ぶりはなかなかに立派だが、姑とつるんで常に私のあらを捜そうとする。男の嫁ということに輪をかけて、私が中流の出なのが気に入らないらしい。まあ言ってみれば天敵みたいなもんだった。
私は軽くいなしてやれと、ふたりの嫌味を無視し、
「丁度、ダージリンのファーストフラッシュがありますよ…お義母さま、お好きでしょう?」
「じゃ、それ、いれてちょうだい」
私は姑に向かって大人しくうなずくと、淡々とお茶の仕度を始めた。
明らかに居心地最悪の誠司は、暇乞いをするころ合いをはかっているようだ。
弓の毛を緩めながら、ソファに腰掛けた二人にむかって愛想笑いをしている。
「あ、あの、結城先生にはいつもお世話になってます!」
一文字眉の二枚目が、にっこり笑ってぺこりと頭を下げる姿が何かおかしい。
営業か何かで大分鍛えられたのだろうか?
そんな誠司を姑の真紀子は相変わらず厳しい眼差しでにらみつけていた。
「あなた…ちょっと弾いてごらんなさい」
いきなり命令口調で言われ、誠之進がは?と目を上げた。
「本当に右近にチェロを聞かせてたなら、私たちの前でも弾けるでしょう?」
「はあ…」
「…ほんとうは、換気扇フィルターか何かのセールスマンじゃないの?」
富士子はひつこく誠司に不審な目を向けていた。
誠司は呆れたように苦笑し、
「そんなにおっしゃるんなら」
ふたたび弓の毛を張って楽器を構えた。
右近がすまなそうに誠司を見やると、誠司はふわりと目を和ませ、「大丈夫」と小さくうなずいた。
誠司はすうっと深く息を吸うと、そっと弓を弦にあてて弾き始めた。
ゆったりした弓の動きとともに、メランコリックでたゆたうような旋律が聞こえてきた。
「ほお…」
姑と富士子は一度そう呟いたきり、大人しくチェロの音に聞き入っている。
今弾いてるのはラフマニノフの 「ヴォカリーズ」
だった。
くぅぅ、これも震えがくるほど…いい。
元は歌曲だから、やはり楽器でやるにしても弦楽器が一番ぴったりくる。特にチェロはええ。
私は姑たちに背を向けながら、キッチンでひとり身悶えしていた。
うう、しかしこやつ、女心と受けの股間を鷲掴みにする術を心得ておるのか。あのハンサムな顔で時々相手の目を見て微笑みながら、こ〜んなメロウな音で演奏されたら…。普通はころりと…いくだろう。
三郎もこれでころりとやられたか?
学生時代もさぞかし…入れ食い状態だったに違いない。
そういえば誠之進も女にもてた…。
ソファの姑たちをみやると、案の定、目を潤ませてうっとりと聞き惚れていた。
*
結局、姑たちは持参のケーキでお茶を飲みながら小一時間ほど居座り、誠司に色んな曲を弾かせて帰っていった。クラシックだけでなく、果ては「与作」や「ソーラン節」まで、よくもまあ次から次へと呆れるほどのレパートリーだった。
守備範囲広いですね、と感心すると、
「ああ、あれはね。老人ホームとか病院の慰問用なんです」
と、誠司は片目をつむってみせた。
ふふふ。老人ホーム用の曲でうっとり帰っていくとは、姑も富士子も他愛無いわい、と私はひとりほくそ笑んでいた。
「じゃあ、俺も、そろそろ失礼します」
今度こそ楽器を片付けようと、誠司が立ち上がった。
あ…まだいいじゃないですか?
喉まででかかった言葉を私はのみ込んだ。
もっと一緒にいたい…。今日はチェロをいっぱい聞かせてもらったけど、まだあまり話をしてないし…。
私は懸命に引き止める口実を探していた。
その間にも誠司は楽器を拭きあげて、弓とともにケースにしまった。無情にも蓋を閉じる金属音がかちゃりと響く。
「じゃ、奥さん、お邪魔しました…」
たてたケースの脇に立ち、長身の誠司がぺこりと頭を下げた。
「あ…」
引き止める言葉を紡げず、ソファに坐った私はただぼんやりと誠司を見上げていた。誠司は楽器ケースを肩にかつぐと、玄関へ向かった。仕方なく私も後に続く。
ポロシャツの広い背中…。すがってしまいたい衝動を懸命に堪えた。
誠司はスニーカーを履きながら、
「これから夕飯の買い物にいくんです」
「誠司さんが?」
「はい、今朝、信明から買い物メモを渡されてましてね。酢豚なんですよ、今夜」
「そうですか…」
力なく相づちをうつ私に、
「部活が終わったら速攻で帰ってくるらしいので、材料だけでも揃えておいてやろうと」
「…やさしんですね」
私は懸命に薄い笑みを浮かべようとした。
「俺が料理作れたらもっといいんでしょうけど」
ふわりと目元を和ませる、誠之進と同じ笑顔が胸につきささった。
いかないで…ほしい。
買い物なんて、どうでもいいじゃないか。
何だよ、酢豚なんか…!
「パインアップルの缶詰を忘れるなって、うるさいんですよ」
思い出し笑いに誠司の頬が弛んでいる。
「…お宅は、そんなの酢豚に入れるんですか?」
何だか悔しくて、小馬鹿にしたような物言いになってしまった。
「ええ。お宅は入れないんですか?」
「…うちは、大人ふたりですから」
嫌な言い方…。
私は自分のこういうところが大嫌いだった。
誠司は嫌味もさらりと受け流す。
「ふふ、うちは作り手がお子さまですからね。ま、あわせるっきゃないですよ」
「あ…私ったら」
『そんなつもりじゃ…』
口にするのはあまりにしらじらしくて、私は黙って曖昧な微笑を浮かべた。
とうとう誠司がくつを履き終えてしまった。
再びケースを担ぎ直して私に向き直る。
「じゃあ…また」
「…また、遊びにきてくださいね」
私は俯きながら、ようやくこれだけ口にした。
誠司はしばらく黙って私を見つめていたようだが、
「…お邪魔しました」
少しばかり神妙な顔でうなずくと、ドアを開けて出ていってしまった。
ぱたん、と空しく閉まるドアの音。
帰ってしまった誠司。
信明と暮らす部屋へ、戻っていってしまった誠司。
こんなあたり前の事が、もはや受け入れられなくなっている。
誠司の近くで暮らしていたら、私は…いったいどうなってしまうんだろう?
二百年前の前世で、私は最後まで気丈にふるまった。誠之進と友としての役割を演じ切った。どれだけ三郎が羨ましかろうが、憎かろうが、誠之進の前で、死んでもそんな言葉を口にすまいと心に決めていた。
でも…今の私はあそこまで強くはない。
悲しいかな、侍時代の意地とプライドにはとても及ばないのだ。
「…軟弱になったものだな」
私は自嘲的な笑みをもらしつつ、さみしくリビングへと引き返した。
おわり
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