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東京に梅雨入り宣言が出て三日。
夏のバーゲンには少し早いが、御中元の手配もあるしと、右近は午後デパートに買い物に出かけた。惣一郎の下着を選んでいたら思いのほか時間がかかり、夕方のラッシュに巻き込まれながら六時少し前に駅についた。
電車に乗っている頃から嫌な空模様だったが、駅につく二、三分前から夕立ちが降り始めた。あっというまに驟雨となり、紙袋を三つも抱えた右近は改札を出たものの途方に暮れた。
ビニール傘なら売店でいくらでも売っているが、この荷物では傘をさしてもびしょ濡れだ。外の様子をうかがってみたが、雨脚は強くなるばかりだった。タクシーの乗り場も近くにあるが、濡れていって並ぶのも億劫だ。おまけに既に15人ほどが列を作っている。
ま、いいか。止むまで待とう…ほととぎすだ。
右近は駅舎の中に戻った。携帯でお迎えを呼んでいる中高生に混じって、壁にぼんやりもたれていると、六時半を過ぎた頃、誠司が改札から出てきた。ふたりはほぼ同時にお互いの姿をみとめた。
「あ、右近さん!」
「誠司さん…」
見つめあう目と目!
またまたこんな所で会うなんて…運命かしらと右近の胸がときめく。
「雨宿り…してらしたんですか?」
「はい…三十分ほど前はもっと酷かったんで…」
「小降りにはなってきたようですけど」
言いながら外へ出て確かめる誠司の後に右近も続いた。
先程より空もだいぶん明るくなり、夕立ちはじきに納まりそうな気配だった。
帰宅途中のサラリーマンやOLも、これくらいならと走っていく人も多い。
「右近さん…何だったら一緒にタクシーに乗りましょう」
「え、そ、そんなの悪いです」
「俺が並んできますよ。大声で呼びますからここで待っててください。」
誠司は右近に断る暇を与えず、かばんを頭にのせ、雨の中へ走り出ていった。
右近はハート目でぼおっとスーツの後姿を見送った。
ひとりなら走って帰れるのに、せ、誠之進、私のために…?
右近の瞳は潤み、頬が熱く萌えていた。
まもなく順番が回ってきたのか、誠司が乗り場から右近を呼んだ。
「右近さ〜ん、早く早く!」
「は、はい!」
タクシーの傍らで大きく手を降る誠司が微笑ましい。
いいなあ…一生懸命な年下(攻め)って。
右近は紙袋を抱え、小走りにタクシー乗り場へと急いだ。
ふたりで後部座席に乗り込むと、バタンとドアが閉まった。
何も密着して坐っているわけではないが、右近は胸の動悸が異様に高まるのを感じていた。
考えたらこんなに近くに坐るのははじめてだ。
右近は目の端でちらちらと隣を伺いながら、紙袋を抱えて身を固くしていた。
ど、どうしよう、もしこのままホテルへなんてことになったら。
わ、私はまだ心の準備が…。
そ、それに今日はパンツがイケてない…。
こ、こんなことなら…あわあわあわ!!
…んなことになるわけないのに。
右近はひとり動揺し、頬を染めていた。
「植物園の手前の××ってマンションなんですが」
誠司が少し前屈みになって運転手に行き先を告げた。
「ああ、知ってますよ。あの高級マンションね」
禿げた運転手が車を発進させると、誠司は後部シートに身をしずめた。
なんだ、やっぱり家に帰るのか…。
イチゴシャンパンのような甘い妄想も、一瞬にして泡と消えた。
車が発進してしばらくの間、ふたりは無言だった。
この距離でなければ気付かないほどの、ほのかなコロンの香りが漂う。爽やかで無難なグリーンノートだった。
男前なんだから…もう少しいいのをつければいいのに。
大きなお世話と知りつつも、アルール・オムのスポーツあたりがお勧めかも、と右近はひとりごちた。
「今日は、デパートに…いかれたんですね」
伊予丹の紙袋を見つけた誠司が微笑んだ。
「ええ…『九州うまいもの展』をのぞいて、あと惣一郎の夏の下着を少し…」
つい正直に答えてしまってから、右近は歯がみした。
ば、ばかものめ。惣一郎の好物はともかく、下着なんて言うんじゃなかった…。
所帯臭さ丸出しじゃないか…最悪。
右近はうつむいて情けなく肩を丸めた。
横顔に誠司の視線を感じる。目の端で見遣ると、誠司は相変わらず暖かい笑みを浮かべたまま、右近をじっと見ている。見つめられているのが嬉しい反面、あまり長い間続くと息がつまる。
信号で車が止まった。
右近は気分転換に別の話題を探した。
「こないだはせっかく来ていただいたのに、とんだ邪魔が入っちゃって…申し訳ありませんでした」
「え、ああ、お姑さんたちのことですか?」
右近のバラ色の午後を台無しにした、姑の真紀子と家政婦の富士子。
強烈な二人組を思い出し、誠司も可笑しそうに喉を鳴らした。
「右近さんも大変ですねっ」
思い出すほどに腹がよじれるほどおかしいのか、誠司はフキだしたいのを堪えている様子だった。
「誠司さん…おもしろがってますね?」
右近が睫の隙間からちろりと睨むと、
「いえいえ、とんでもない。ああいうお義母さんによく仕えてらっしゃると」
営業スマイルで誠司がフォローした。
「…姑たちはどうでもいいんです」
右近は上目使いにきっと誠司を見上げた。
せっかくの二人きりの時間、姑の話なんかで時間を無駄にしてたまるか!
『きっと見上げた』から一転して、
「誠司さんのチェロ…ほんとに素敵でした」
右近は蕩けるような笑みを浮かべ、心をこめて呟いた。
「また聞かせてください♪」
「は、はあ…俺なんかのでよろしければ」
誠司はしきりに照れくさそうに頭をかいていた。
信号が青に変わり、車が発進した。
誠之進も…文武両道、なんでも出来て、褒められることに慣れきっているのかと思った。ところが意外にそうでもなく、右近が素直に賞賛を口にすると、いつも照れたような笑みで、
「私なぞ、まだまだじゃ…」
と白い歯を見せた。
そんなところも誠司は誠之進にそっくりで…。
思わずぼおーっと見つめていると、
「右近さんに気に入ってもらえたのは嬉しいんですが…俺の理想とする音には全然手が届かなくて…」
「え…誠司さんの理想?」
誠司は膝の上で軽く両手を組んで、こっくりとうなずいた。
「もう亡くなりましたけど、フルニエっていうフランスのチェリストがいます」
「あ…名前くらいは聞いたことが」
「俺は…ああいう音が理想なんですよ…」
「誠司さんの音色も深みがあって暖かくて…私はとてもいいと思いましたが…」
誠司は嬉しそうに微笑みながらも、小さく首をふった。
「フルニエの音はね、硬質で透明感があって…、そう、一本ぴーんと筋の通った音といったらわかりますか?」
誠司や惣一郎ほどのクラシックファンでない右近には、音自体のイメージは持てなかったが、誠司の言わんとすることは理解できる気がした。
「演奏スタイルも気品があって、歌いすぎなんて弾き方はまずしません。大変抑制のきいた演奏というか…ロストロポーヴィッチのような派手さはないですが、もっと深いところから聞き手の心をゆさぶります」
ふむ…。要はノーブルでストイックなものが好きというわけか?
もしや、そりは侍時代の私のこと?と、右近が胸をときめかせた時だった。
あっ!!
誠司の肩越し、雨にけぶる窓のむこうに少年の姿が見えた。
白いポロシャツにチェックのズボン。信明の学校の夏の制服だ。少年はビニール傘をさして足早に道をゆく。当然、タクシーは一瞬で少年を追いこし、右近はリアウインドウ越しにちらりと目の端で確認した。
やっぱり信明だ。
立ち止まって車を凝視しているところを見ると、タクシーに乗った我々に気付いたのだろう。
誠司からは死角になって見えなかったはず。右近は一瞬後ろめたく思ったものの、信明が道を歩いていたことを誠司に告げなかった。
信明を一緒にのせてやる気には到底なれなかった。
心の狭い自分を嫌悪しながらも、右近はたった5分でも誠司を独占したい誘惑に負けた。
右近は何食わぬ顔で音楽の話を続けた。
「もしかしたら…惣一郎がCDかLPを持ってるかもしれません」
「結城先生が?」
「あれ…知りませんでした? 惣一郎はほとんとオタクレベルのファンですよ。妹もバイオリニストですし」
「え〜、そりゃ知らなかったなあ…」
「東都フィルで弾いてます」
「おお、ばりばりのプロなんですね!」
一応身内を褒められたわけなので、右近は軽く会釈してこたえた。
「私も…聞いてみたいです、フルニエの演奏」
「ええ…ぜひ。きっと…右近さんも気に入るとおもいますよ…」
鳶色の瞳が右近の目の奥をじっと見つめていた。
「せ、先生…?」
さっき追いこしていったタクシー。
後部座席には確かに誠司と結城右近が乗っていた。
笑みを交わしながら、楽しげに語りあうふたり。
あ、雨だから、近所だし一緒にタクシーにのった…。
わかってる。客観的に見ればそんなとこ。別に何があるわけじゃない。
でも…ほんとにそれだけなら、こんな思いにはならない。
信明は小雨のなか、放心したように歩道に立ち尽くしていた。
隣の奥さん…。絶対先生に色目使ってる!
初めて会った時から気に食わなかったんだ。
初対面なのに、先生のこと目うるうるさせて見つめてたし。
結城先生っていう立派な旦那がいるくせに。
近所中の笑いものになるほど(ですか?)、結城先生はあんたにべた惚れだっていうのに。
なんで僕の先生にまで色目使うんだよ!
もしかして…旦那がへな○んだから、若い先生を狙ってるんだろうか?
連休のあたりから、先生も…何か様子が変だ。
だって…冷凍庫にカレーが一回分残ってた。
はじめは友だちと外食でもしたのかと思ってたけど、僕…聞いたんだ。
近所のおばさんたちがこないだゴミステーションで噂してた。
『ねえ、ちょっとちょっと。溝口さんたら、結城先生の奥さんにあさりの鍋をごちそうになったんでしょう?』
『出汁が泣けそうにうまいって、何度も言ってたわねえ…』
『ごちそうになったのは鍋だけかしら…?』
『あら、いやねえ、奥さんたら!』
「ほっほっほっほっほ…』
先生…隣で御飯食べたこと、僕に内緒にしてた。
隠し事なんて…今までしたことなかったのに。
先生…なんでだよっ?
悲しくて、悔しくて、その場にへたりこんでしまいそうだった。
が、
「…こうしちゃいれらない。早く帰らなくちゃ」
やはり信明は負けん気が相当強かった。
一秒でも早くマンションに辿り着き、ふたりがまだくっちゃべってたら邪魔してやるんだ!
信明はビニール傘を放り投げ、猛ダッシュでマンションを目指した。
おわり
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