by 戸田采女


 ピン…ポ〜ン。

 三回目は少し長めに押した。答えはなかった。
情けなかったけど、僕はドアに耳を押しあてて中の気配を伺おうとした。 …いつまでたっても物音ひとつ聞こえてこない。

(やっぱり留守なんだ…)

 もう一回電話してから来ればよかった。普通、考えればそうするはずだった。なのにさっきまでの僕は、先生に会いたい気持ちが先走って、後先考えずに駅に走り電車に飛び乗った。

 チキンはただの言い訳…。

 会いたかったんだ…。どうしても、今日。

 幸い先生の部屋は角部屋で、僕はとりあえず廊下の隅に座り込んだ。土地柄、このマンションには学生が多い。流石にイブとあって電気のついている部屋は少なかった。よく考えれば、下宿してる学生なんて、彼氏彼女がいなくても、イブは友達と適当に盛り上がって過ごすのが普通だろう。

 チキンの袋を胸に抱え、僕は急に惨めな気分に襲われた。

(こんなことして…ばかみたいだ…)

 あきらめてさっさと帰ればいいのに、僕はその場から動けなかった。ドアの脇に座り込んで、忠犬ハチ公みたいにひたすら先生を待ってるなんて…。馬鹿すぎて涙が出そうになった。

 うずくまるようにして、立てた両膝にきつく額を押し付けた。

(先生…、早く帰ってきてよ。先生…!)






 どれくらい時間がたったのだろう。何度かエレベーターが開き、この階の住人が部屋に帰っていく足音がした。エレベーターホールも廊下も建物の中なので、外気に曝されることはなかったが、ずっと火の気のない所に座り込んでいたせいで、僕の手足は氷のように冷たくなっていた。

 いい加減にしなきゃと思った。帰らなきゃと思った。だけど、立ち上がって歩く気力が失せていた。

 ぼんやりした頭で再びエレベーターの開く音を聞いた。どうせ先生じゃないやと思い、顔を上げもしなかった。

 すると、コツコツと足音がこちら側に向かってきた。
一応上目使いに確かめると、ロングコートを着て、ネイビーのチェロケースをかついだ先生が僕の視界に入ってきた。

「信明…?」
「先生…」
「こんな所で何してるんだ…?」
先生の声が少し掠れていた。きっと呆れかえっているんだろう。

 僕は思わず先生の背後に目を凝らした。
よかった…誰もいない。先生がひとりで帰ってきたことに僕は安心し、次の瞬間、嬉しさがじんわり込み上げてきた。

「先生…」
先生はドアの前まで来ると、楽器ケースを降ろし、僕の前にしゃがみこんだ。
「…お父さんは? イブには帰ってくるんじゃなかったのか?」
「飛行機が…トラブって…」
「え…」
先生が一瞬息を飲んだ。僕は慌てて、
「あ、でも大丈夫。ハワイに緊急着陸したんだ。事故ったんじゃないから」
「あ〜、おどかすなよ。一瞬びびった…」
先生はふうっと肩で息をついた。
「それで今日は帰れなくなったんだ…」
「そうか…クリスマスなのに…そりゃ寂しかったな」
僕はこっくり頷いた。
大きな手がぽんぽんと僕の頭を叩く。掌の温もりが、ほんわりして…嬉しい。
目を細めていると、手のひらが僕の頬に触れた。
触れた途端、先生はちょっと真面目な顔になって、
「バカだな…こんな冷たくなって…」
小さくため息をついた。

 気がついたら、また先生の顔をうるうると見つめてた。だけど、気のせいかな…。先生も僕のこと、何だか熱っぽい目でじっと見てる。寒いとこにいたから頭がおかしくなったのかな、僕…。

「ほら、いつまでもそんなとこにいたら風邪ひくぞ! 中へ入ろう」
先生はちょっと取ってつけたようににっこり笑うと、僕の肘をとって立たせた。




 部屋に入ると、先生は速攻でエアコンをつけた。人心地ついた僕は、好奇心いっぱいで室内を見回した。
学生の住まいにしては結構ぜいたくな、8畳のワンルームだった。ベッドと机とガラステーブルに本棚。TVとミニコンポ。必要最低限の家具に、モノトーンのシンプルなインテリアだった。妙に可愛いものがおいてないか、女の気配がないか、しっかり確認するあたりがちょっと情けない。

 部屋が少しあったまってきたので、僕はダウンを脱いだ。先生も着替えを始めた。コートの下はネクタイこそ外してたが、結構きちんとドレスアップしている。
僕が問うように見上げれば、先生は手を止めて楽器のほうへ顎をしゃくった。
「今日は病院でちょっと弾いてきたんだよ」
「病院…?」
「ボランティアのロビーコンサート。8人の小編成でクリスマスの曲をちょこっとね」
「あ…そんな予定があったんだ…」
「うん、だから家庭教師は休ませてもらった。打ち上げがあったんだけど、二次会はやめにして帰ってきたんだ」
「え…どうして?」
「ん?…何となく気分がのらなかっただけだよ」
先生は曖昧な微笑を浮かべ、今度こそ着替えを始めた。

 男同士だから…、それにワンルームだし、先生が目の前で着替えるのは当たり前といえば当たり前なんだけど、僕にとっては心臓に悪い出来事だった。

 なるべくまともに見ないように、僕はラグの上で座る角度を微妙に変えた。だけど正直、見たい気持ちもあって、目の端でちらちらと先生の動きをうかがってしまう。先生はシャツを脱ぐと、上半身裸でクローゼットから半袖のTシャツとざっくりしたセーターを引っ張り出した。

 広い背中に引き締まった腹筋。二の腕もムキムキじゃなくて、しなやかな筋肉に覆われていた。先生がTシャツを頭からかぶり、見蕩れるような身体が覆われてしまったとき、僕はがっかりしたような、ほっとしたような…複雑な気分だった。

 先生がコーデュロイのパンツに履き替えるときは、流石に息苦しくなって目を逸らせてしまった。このまま会話のないのも辛い…。何か言わなくちゃと思ったとき、ようやく紙袋のチキンを思いだした。

 「先生…晩ご飯はもう済んだの?」
「ああ、軽く飲んだから、一応食ってきた」
ジーンズをはき終わった先生は、スーツをハンガーにかけながら答えた。
「じゃあもうお腹いっぱい?」
紙袋からごそごそとタッパーを取り出すと、
「ん?何だ?」
先生がこちらにやってきて僕の手元を覗き込んだ。
ちょっと照れたけど、僕は自慢の料理を差し出していった。
「これさ、ローストチキンなんだけど…今日父さんが帰ってくると思って焼いたんだ…」
「え?」
先生は思わず目を輝かせてタッパーをあけた。
「なんだこれ!おまえが作ったのか?!」
香ばしい皮のついた胸肉の端切れを、つまんで口に放り込んだ。
「おい、美味いぞ、これ!?」
「ほんと?」
やった…。先生はやっぱりこの手の肉料理が好きだ…。僕は頬が緩むのを押さえられなかった。

 「でも信明…これ、お父さんの分じゃなかったのか?」
「大丈夫、半分明日にとってあるよ。でもせっかく焼いたから、先生に一口食べてもらおうと思ったんだ」
「おまえ…」
先生はタッパーを膝上に抱えたまま、黙り込んでしまった。大好きな鳶色がかった瞳が、まっすぐに僕のことを見ている。
「それで…あんな寒いとこで待ってたのか?」
「え…あの、その…」
「ばかだな…電話くれればよかったのに」
「だって…僕、先生の携帯の番号…知らないよ…」
僕はほんの少しだけ、恨みがましく呟いてみた。
「う…そっか…教えてなかったか」
先生はぐっと言葉に詰まったが、次の瞬間
「悪い悪い…」
笑ってごまかしながら、机の上にあった付箋紙に番号を書いてよこした。

 「電話しても…いいの?」
「ああ、何かわかんないことがあったら、正月でもいつでもかけてきていいぞ」
「う…うん!」
携帯の番号…教えてもらえた。第一関門突破だ…。


つづく








 




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