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小兵太らと合流した私は、まずは文教棟へ向かった。年齢によっておおまかな組分けがなされていることを、今日初めてきいた。とりあえず同い年の小兵太と共に動いていれば間違いなかろう。
日割り表がはり出されている前に、すでに大勢の生徒たちが群がっていた。小兵太はいかにも渋々といった様子で、まじめな佐久間は黙々と、日割り表を書き写している。私もさっさと矢立てを取り出して写さねばならなかったが、つい、目当ての人物が人だかりの中にいないかどうか、目が泳いでしまう。
(む…まだ来てはおらぬのか?)
礼儀正しく学問好きの「彼」が、初日から遅刻してくるとは思えない。
(いかがしたのであろう…。身体の具合でも悪いのだろうか?)
「おい、誠之進。さっさと写しちまえよ。武術棟や馬場のほうへ案内してやっからさ」
小兵太は一刻も早く文教棟から立ち去り、道場へ行きたくてうずうずしている。
「どうせ今日は講義はないんだし…こんなところでぐずぐずしてても仕方ないだろう?」
すると、今まで黙っていた佐久間が、小兵太をまあまあと宥め、
「ところで誠之進、おぬし、新入生であろう? 役所や教授方に挨拶していかずともよいのか?」
「…あ。確かに」
『彼』を探すことにばかり気をとられていて、肝心なことをすっかり忘れていた。父上から話はいっているはずだが、当然、きちんとご挨拶にうかがわねばならぬ。
「佐久間、よう言うてくれた。何やら、見るもの何もかもが珍しゅうて…すっかり失念しておった」
思わず苦笑してごまかすと、佐久間が大まじめな顔でうなずいた。
「用事が済んだら、あちらの武術棟へ来るといい。吉田と剣術場におるゆえ」
「心得た。すぐに参る」
「じゃあな、誠之進」
二人と別れた私は、文教棟の端にある役所へと向かった。まずここへ顔を出してから、教授方控え室へ案内してもらおうと思った。
「御免‥」
一声かけて引き戸を開けると、
(お…っ)
中にいた事務方の役人と来客らしき人物、計四人が、一斉に土間に立つ私を見た。
その中のひとりと目が合った。黒耀の玉のごとき瞳が、ひたと私をとらえた。
(う、右近だ…)
心の臓が一瞬飛び出るかと思った。
「何用か? 受講票ならほれ、表で係の者が配っておるゆえ、そちらへ参られよ」
板の間から役人の一人が顎をしゃくって促した。
「あ、某は本日より入学いたした、溝口誠之進にござる…」
「お、おお!御家老の…。これはこれはご無礼つかまつりました」
私が何者か分ると役人の口調が変わり、途端に親切になった。
「お待ちしておりましたぞ、誠之進様」
私は役人に挨拶に来た旨を告げ、教授方控え室への案内を乞うた。実はその間も、板の間に端座する彼=右近が気になって仕方ない。隣にいるのは家令か何かのようだった。もう一人の役人に熱心に何ごとか頼み込んでいる様子だ。無礼とは思ったが、私は思わず聞き耳をたててしまった。
「しかし、爺やどの。右近殿は昨年、御進講の栄誉にまで預かった、藩校一の秀才であるぞ。せっかく十二歳で素読吟味に受かり、年長組にて受講しておるものを、なにゆえ、今さら進度の遅い年少組に戻りたいと申されるのじゃ?」
「それは…先程も申し上げましたように、年長の方々に混じって始終講義を受けるのは、まだお若い白菊様には気疲れも多く…。年の近い子弟に混じってのびのび過ごしたいという願い、どうか聞き入れてはいただけませぬか…」
爺やと呼ぶにはいくぶん若い、五十がらみの家令は、役人に向かって切々と訴えていた。
(なるほど…これが噂の「孫作」か)
今日が初対面だったが、誠心誠意、右近に仕えているのがよくわかる。しかし『白菊丸』とは幼名だろうか? あまりにはまりすぎていて、私は思わず吹き出しかけた。
「誠之進様、いかがされました? 案内いたしますゆえ、ささ、参られよ」
「え…ああ」
私は話の結末が知りたくて、何となくぐずぐずとしていた。
すると、
「孫作…はっきり申し上げるがよい」
凛とした楽の音のような声が割って入った。
「な、なれど、白菊丸様!」
「よいのだ。曖昧な言い方ではおわかりいただけぬ」
右近は家令に向かって小さくうなずくと、居住まいを正した。
「既に噂はお耳に届いているやも知れませぬが、年長組の生徒の中に、不埒な目的で私につきまとうものがおります」
幾分低めの声で右近がぴしりと言った。
「無論、何度もきっぱりとはねつけましたが、同じ組に入ってからは、講議の合間にもうるさく付きまとい、甚だ迷惑いたしておりました。昨年は辛抱しましたが、さすがに我が屋敷に夜這いをかけられたときには、堪忍袋の緒が切れました…」
(な、なに…夜這い?!)
聞き捨てならない言葉に、私は思わず目を見開いた。
「う…右近殿…」
役人も薄々事情は心得ているようだ。
柳眉をつり上げた右近の迫力に押され、ぐうの音もでない様子だった。
「…あのような汚らわしい輩と机を並べるくらいなら、幼年組で素読を教えているほうがましにござりまする」
抑えた声音が返って怒りの激しさを物語るようだ。
「…お、御事(おこと)の言うことにも一理あるが…」
「お聞き届けいただけねば、私は明日から藩校へは参りませぬ」
「右近殿!とりあえず、校長先生にご相談せねばならぬ。某の一存では決めらぬゆえ…」
「あいわかり申した。では、今日のところはこれにて。お返事お待ちしておりまする。孫作…帰るぞ」
右近はすっと立ち上がると、先に立って板の間から土間へおりようとした。
「で、ではよろしゅうお頼み申しましたぞ」
孫作は半ば申し訳なさそうに役人に念を押し、右近のあとに続いた。
一歩、二歩、右近が戸口のほうへやってくる。
いかがしよう…声をかけようか、かけまいか…。
ああ、近くで見ると…まこと京人形のごとく…透き通るような肌じゃ…。
唇は紅梅の花びらのごとく…可憐で、清らかで。
だ、だめだ、頭に血がのぼって何も言えぬ…。
そんな私の脇を、右近はただの一瞥もくれずにすり抜けていった。
役所の入口で、木偶のごとく立ち尽くす私に、
「誠之進様、先生方がお待ちですぞ…」
「あ、あいわかった」
右近に見とれて陶然とする輩など、嫌になるほど見ているのだろう。役人は『おまえもか』と言わんばかりの溜息を洩らした。
私の藩校初日はそんな風に幕を閉じた。
*
数日後。
なんのあれしき。
打たれ強い私は改めて作戦を練り直し、再び右近と近付きになろうとした。
結局、年少組に降りたいという右近の願いは聞き入れられ、右近は皆より三日遅れて授業に出てくるようになった。
ただ同じ年少組といっても、始終同じ教室で同じ講義を受けるわけではない。生徒が各自、親と相談して決めた時間割りにそって受講するため、右近と私は同じ講義に出ている時間帯もあれば、そうでないときもあるのだ。しばらくは遠くから姿を眺めているだけだった。
今まで自分が見聞きしたことや、小兵太からの情報によると、右近には文を届けたり、『手拭いを換えてくれ』(念友になってくれという意志表示)と迫っても、冷たくあしらわれるだけらしい。右近は何度か危ない目にあったこともあり、衆道関係を忌み嫌っているという。
誤解してもらっては困るが、私は何も右近を念友にしたいなどとは言っておらぬ。ふ、普通の友でよいのだ。供に武芸や学問に励み、仲良く語りあえれば…。
(そうじゃ、それにはやはり正攻法でいくのがよい。ここは一番、立ち合いを申し入れてみよう…。)
以前、右近が寺の境内で、言い寄る若侍三人を退けたのを見た。武芸に励んでいるのが一目瞭然の、鋭い身体のキレ。年長者三人を恫喝して怯ませた気迫。容姿が美しいだけの柔弱な少年でないことは、あのとき十分わかった。
だが、小兵太から『右近はああ見えても相当遣う。十歳から一刀流の道場に通ってるんだと。かくいうこの俺様も奴にはめったに勝てねえ…』と聞いたとき、正直半信半疑だった。
あの華奢な身体で、小兵太と互角に打ち合い、しかも一本も取らせぬだと?
酒井道場に通う同年代の子弟の中で、私と小兵太、佐久間は頭抜けて強かった。年長のものにも滅多に負けぬ。
流派が違うゆえ今まで接触がなかったが…右近がいかなる剣を遣うのかおおいに興味が湧いた…。
春霞3へ
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