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雪国・高山にも本格的な春が訪れ、日差しに明るさが増してきた。週半ばのある日、午後の講義が終わった後、私は右近に道場で立ち合わぬかと声をかけた。
面と向かって声をかけたのはこれが初めてだ。相手がどうでるか、私は内心どきどきしながら返事を待っていたが、右近はあっさりと承知し、我等はそろって道場へ向かった。後からぞろぞろと見物がついてきたが、ひとたび竹刀を握れば、私も右近もそのようなものは無視して仕合に集中した。
正直、打ち合いになれば、相手が力負けすると踏んでいたが、なんの右近は意外に体力もあった。引き分けては仕切り直し、打ち合っては技を見切って離れ、再び対峙する。四半刻に及ぶせめぎあいの後、私が体勢を崩した一瞬の隙をつき、右近が鋭い刃風とともに、必殺の突きを私の喉元に決めた。
真剣ならば、確実に息の根をとめられていただろう。
「勝負あったな…」
勝手に審判のごとく付き添っていた小兵太が、思わず嘆息した。
同い年で、しかもこの体格で私を負かすとは…恐れ入った。
私はほとんど感動すら覚え、防具を外しながら素直に相手の強さをたたえた。
「おぬし、恐ろしいほどの剣の速さだな。こちらの弱いところを狙いすましたように突いてくる」
「…腕力だけでは勝てぬからな」
右近が…初めて私の目をみてかけた言葉だ。
「その通りだ」
私は感慨を込めて、しっかりとうなずいた。
すると右近は不思議そうに小首をかしげ、
「小賢しい剣とは、思わぬのか?」
「左様なことはない!私も今すこし、太刀の速さ、鋭さを磨きたいのだ」
「ふむ…」
視線を宙に泳がせ、ぼんやり呟く様が、普段とはうってかわって幼げでかわいらしい。
不覚にも一瞬ぼうっと見蕩れたが、
(よし、あと一息じゃ。ここで退いてはならぬ!)
私は懸命に真顔を作って右近に申し入れた。
「流派は違うが、これからも時々立ちおうてはくれぬか?」
私は漆黒の瞳をまっすぐに見つめた。
右近はふっと視線を逸らし、
「暇があれば付きおうてやってもよいが…」
いかにも渋々という口調でつぶやいた。
頬がかすかに血の色をはいたような気がした。
私は相手の気が変わっては一大事と、
「よし、約束したぞ! 決して違えるな!」
「あ、ああ」
怒濤の勢いで右近に「諾」と言わせた私は、まさに天にも昇る心もちだった。
「ではまた明日…」
右近は小さく微笑むと、防具を小脇に抱えて一足先に道場を出ていった。
やった…。
私は稽古場の中央に立ちつくし、強弓で的の中心を見事射抜いたような、爽快な達成感にひたっていた。
「おぬし…いったい、藩校へ何しにやってきたのだ…?」
舞い上がっていた私は、不覚にも小兵太に後ろをとられた。背中に貼付かんばかりにして、小兵太は私にだけ聞こえる声で囁いた。
「なるほどなあ…そういうわけか」
「おい! 気色悪いぞ、離れぬか!」
小兵太はわざと私が嫌がるように、後ろから私の肩に頬をすりつけた。
「ん? 右近になら…すりすりしてほしいか?」
「黙れ、馬鹿者! くだらぬことをほざくでないわ!」
「何じゃ、偉そうに…。しかし面白いことになってきたのう」
「小兵太!」
「おぬし、なかなかあざといというか、立ち合いを申し入れて相手の心を掴むとは…憎い手をつこうたな。…ほれ、手拭いを換えてくれと、いつ申し込むつもりじゃ?」
「小兵太、おぬし、何か誤解しておるようだな」
「照れずともよいではないか、俺には観念して白状しろ!」
「違う!」
私はしつこく背中にはりつく小兵太を肩で振り切り、くるりと反転して叫んだ。
「小兵太! 私はただ、右近と友になりたいだけだ! 夜這いをかけたとかいう、どこぞの不心得者と一緒にされてはたまらん!」
余程の大音声だったのか。
稽古場内が一瞬水を打ったように静まり返った。
私が己の失言を悟ったと同時に、あたりからしのび笑い声が洩れてきた。
(ええい、畜生!)
私は笑い声のする方をひと睨みすると、必要以上に胸をそびやかし、大きな足音とともに道場を出ていった。
*
数日後、再び道場へいこうと声をかけると、右近は素直に応じた。ふたりの稽古は自然と放課後の日課のようになっていき、やがてそこへ小兵太や佐久間も加わった。
(なんじゃ、おぬしらも結局右近と友になりたかったのではないか?)
呆れながらも、他の友人ふたりの参加を拒むほど、私は狭量ではないつもりだ。
それまで他と交わらずどこか超然としていた右近だったが、少しずつ我等になじむにつれ、口数も増え表情が明るくなってきた。小兵太や佐久間などちゃっかり勉強まで見てもらっている。佐久間はともかく、小兵太は学問はからっきし。言っては悪いがかなりのみこみが悪い。それでも右近は、感心するほど忍耐強く、小兵太を教えていた。
日が経つにつれ、ごく自然に四人の間に友情の輪が広がった。
こぼれるような右近の笑みが、私は眩しくて仕方なかった。
*
冴えた冬空から霞むような春の空へと、季節がうつろいでいた。
いつもの稽古をすませた帰り道。菜の花ゆれる土手を、私は右近とふたりで歩いていた。
小兵太は素読の出来が悪く、本日は補習。佐久間は気の毒がってそれに付き合っている。我等ふたりは道場で軽く打ち合った後、着替えて家路についた。
雪解け水が溢れるこの時期、川は豊かな水をたたえ滔々と流れている。静かな野辺に、水音に混じって時折うぐいすの声が響きわたる。まどろみたいような、のどかな陽気だった。
私と右近は稽古の後の心地良い疲労感に包まれながら、のんびりと川沿いの道を歩いていた。あと少しで道は川から離れ、右近の屋敷がある武家地・番町へつながる三叉路に出る。何となく別れがたかった私は、土手の上から岸を見渡し、
「少し…あそこで休んでゆかぬか?」
下草の柔らかそうな場所を指差した。
「よかろう…」
右近は軽く微笑むと、私と並んで土手を岸へ下り始めた。
「足下に気をつけろ」
意外な急勾配に私が顔をしかめると、
「心配無用じゃ」
右近は唇の端で笑うと、私の先にたち、足取りも軽く土手を下っていった。
我等は並んで草の上に胡座をかき、屈託のない空をぼんやり眺めていた。
「まことに気持ちのよい天気じゃのう…」
右近はたなびく雲を仰ぎ見るようにして、胸一杯に空気を吸い込んだ。
「春の匂いがする…」
言われてみれば、あたりに咲き乱れる名もなき花々が、甘い香りを放っていた。
私はといえば、当然目の前の花しか目に入らない。誰にも邪魔されず、こうして花を愛でられる幸せに酔っていた。
右近は何を思ったか、いきなり仰向けにごろりと寝転ぶと、教科書の束を枕がわりに頭の下に置いた。
私は傍らに座ったまま、右近の顔を見下ろしていた。すこし眩しいのか、右近は半ば瞼を閉じて空を見上げている。長い睫毛が時折かすかに揺れた。
「誠之進…。おまえ…兄弟は?」
「ん? 弟がひとりと妹がひとりだが…」
「なるほど思った通り、本物の嫡男だな」
右近が目を閉じたまま、くすりと笑った。
「何をいう、おまえも嫡男ではないか?」
「嫡男というても私は末子ゆえ…弟妹の世話をしたことはない。どちらかというと、ふたりの姉のおもちゃじゃ」
「私とて…別に弟妹の世話などは…」
「…では世話やきなのは生まれつきか?」
右近は片目をぱっちりと開け、悪戯っぽく私を見た。
何だ何だ…。私があれこれ小うるさいとでも言うのだろうか?
私が怪訝そうに見つめ返すと、
「…同じ家老の身内というても、内藤家のバカとは違うと思うていたが…」
「あたりまえだ! どうせ比べるなら堀藤十郎殿あたりにしてくれ」
右近は首だけ私のほうに向け、くすりと笑った。
「すまぬ…からかうつもりはないのだ。ただ…」
「ただ?」
「その…」
何やら言い難そうに右近が言葉を濁した。
「…うまく言えぬが、おまえといると…安心するというか、肩の力が抜けるような…」
「右近…」
「…何やら不思議な気分じゃ」
右近は深い溜息をつくと、
「今までは…よほど毎日張り詰めておったのだろうな…」
再び天を仰いで瞼を閉ざした。
登下校の際も、年長の者は隙あらば右近に近付こうとしていた。声をかけるだけならまだしも、数人で徒党を組んでお堂に連れ込んで、手篭めにしようとした奴もいるらしい。そんな事件があってから、気の毒に孫作は老体?にむちうって、毎日藩校までの道を送り迎えしていた。誠之進たちが右近と親しくなった後、行きも帰りも必ず三人のうち誰かが同道するからということで、孫作をお役御免にしてやったのだ。
右近は呟くように続けた。
「孫作も…随分楽になったろう…私のせいで…爺にはいつも苦労をかけてばかりじゃ…」
「まこと…孫作の忠義には頭がさがる。おまえが余程大切なのだな…」
「かたじけない…誠之進」
右近の声が消え入るように小さくなった。
「右近…?」
応えはない。
「…眠ったのか?」
顔を近付けてみれば、穏やかな寝息が聞こえてきた。
(今日は如何したのじゃ? 斯様なところで寝入ってしまうとは…。無防備すぎて見ておれぬぞ)
私は胸の中で苦笑すると、あらためて右近の寝顔をしみじみと眺めた。
目を開けているときは、右近の黒耀の瞳は強い光を放ち、決して女のようには見えない。だが、こうして瞳を閉ざしていると、細くすっきりした鼻梁の線、滑らかな頬、刻んだような桜色の唇…。優しい美しさばかりが際立ち、何やら胸がせつなくなる。
視線を顔からよそへ移すと、今度は草の上に投げ出された右手が目に入った。
白く繊細な指先に桜貝のごとき爪がついていた。この手で竹刀を握り、自分と互角に打ち合うとは…一体どこにそんな力が隠れているのだろう。
無性に触れてみたくなった。
私はそっと顔を近付けて寝息を確かめると、恐る恐る右近の指先に己の手を重ねた。
もっと冷たいかと思っていた。
右近の指先には柔らかく熱がこもっていた。私は重ねた手で軽く握り込んでみた。
えも言われぬ温もりが触れあった指先から流れこみ…胸が甘く疼いた。
突然、雲雀が空高く鳴いた。
見上げれば、紗のかかった青空の彼方へ、春告げ鳥が消えていく。
その姿を見送りながら、私はほっとため息をついた。
ふたたび静寂が戻ってきた。川のせせらぎだけが辺りに響いている。
私はいつまでも彼の手を離せないままでいた。
おわり
あとがき
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