番外編『初恋』



この巻の主な登場人物



本作品「初恋」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。


 夜の海は黒々と波高く、沖に浮ぶ烏賊釣り船の灯りが、木の葉のように揺れていた。

 夏とはいえ、夜の浜辺は冷える。
松林のあたりから拾ってきた木切れで小さなたき火を起こし、誠之進と右近は暖をとっていた。


***


 宝暦七年。
 十六歳の夏の終り、溝口誠之進は藩校の友人、吉田小兵太、佐久間彦四郎、櫻田右近とともに、遠乗りがてら今町湊へ遊びにきた。早朝出発した四人は、昼間海で泳ぎ、夜は今町最大の廓、『桔梗屋』で一夜を過ごすという、大きな企てをもっていた。

 城下にも当然その種の女を抱える店はあったが、軽輩の子弟はともかく、誠之進のように仮にも家老の嫡男となると、外聞もあるので、おいそれとめったな店に顔出しできないのだ。
 
 四人のうち、誠之進と小兵太はすでに童貞ではなかったが、佐久間と右近はまだ女を知らない。小兵太は晩生の友人二人を何とか男にするのだと意気込んで、今回の今町行きを計画した。

 誠之進と小兵太は、まだ十六歳の前髪だちのくせをして、いっぱしに馴染みの女を作っていた。小兵太は精一杯大人ぶって、晩生の友人二人のために、筆降ろしをしてくれる女を見繕ってくれるよう、妓楼の女将にかけあっていた。

 ところが、土壇場で右近が部屋に上がらぬと言い出した。
店先で押し問答が始まる。

「おまえ、ここまで来て何を言ってやがる?!」
「……気分がのらぬのだ。今日はやめる」
「右近!ったくもう…ここまで来て怖気づく奴があるか!おい、誠之進、何とか言ってやれ!」
「……」
小兵太にそう言われても、誠之進とて何と言葉をかけていいのかわからない。
困ったような眸で右近を見つめるばかりだった。

「ともかく、私はいい、どっかその辺で野宿でもするゆえ、皆は楽しんできたらよかろう」
「おい!右近!」
頭を掻きむしらんばかりに、小兵太が声を荒げた。
「案ずるな。冬と違って凍え死ぬようなことはない…。明日の朝、迎えにくる」
右近は嫣然と微笑むと、踵を返して店の外へ出ていってしまった。

「誠之進…引き止めなくていいのか?」
佐久間の案ずるような声音に、誠之進が振り返った。
「引き止めるというても…本人があれでは…」
珍しく煮え切らない誠之進を、小兵太と佐久間が訝しげに見た。

 二人の溜息が鈍く漂った。

「ぼっちゃんたち…どうなさるね。揚がっていくのかい?いかないのかい?」
たばこ盆に煙管をこつこつと打ち付けて、女将が早う決めてくれといわんばかりに尋ねた。

「…行くぞ」
誠之進は俯いたまま低く呟くと、いつもの相方を連れて二階へあがってしまった。

 一瞬顔を見合わせた小兵太と佐久間だったが、二人も今は友人の心配より、先程からちらつく紅い襦袢が気になって仕方ない。

 右近のことが気になりながらも、二人も目の前の誘惑に負けた。




 ことが終った後、誠之進は荒い息が静まるのを待ちながら、ぼんやりと天井を見上げていた。

 女はもちろん嫌いではない。

 こういう場所へ来るのは、当然、性欲処理のためだったが、かといって相手が誰でもいいわけではない。誠之進は十五歳のとき、縁あって最初に枕を交わした遊女、さぎりと、今でも続いていた。

 さぎりは三つ年上の十九歳。
黒目がちの濡れた眸に、柳腰で肌理の細かい肌が誠之進の好みにあった。
どちらかというと、無駄口をきかない静かな女だった。

 それが今日は珍しく、終ったあと、さぎりのほうから話しかけてきた。
「誠之進さま…」
「うん……?」
このまま眠ってしまいたい気分だった誠之進は、目を閉じたまま少しうるさそうに眉をよせた。
「大丈夫でしょうか……さっきの御友人」
「…え?」
誠之進の瞼が開いた。
「その…夜更けに、あのように美しい若衆が、おひとりで街に出られては…」
「どういう意味だ…?」
嫌な予感に駆られ、誠之進は片肘で支えて上体を起こした。
「…このあたりは、西国から来た、荒くれの船乗りもたむろしております…。すこし先には陰間茶屋もございますし…その…」

 藩校でも右近は常に年長者からそのような目でみられ、つきまとう輩を追い払うのに四苦八苦していた。

 右近がひとりで野宿するといって出ていったとき、正直ちらりと不安は感じたのだ。誠之進のほうにも『切羽詰まった』事情があったとはいえ、ひとりで行かせたことを今になって激しく後悔した。

 誠之進は布団をはねのけると、急いで身支度を整え大小を腰に佩いた。
「すまぬが、私はこれで…」
「いいえ。早く探しにいかれませ…」
さぎりは半身を起こすと、襦袢の襟をかきあわせてかすかに微笑んだ。
「すまぬ……今度また来るゆえ…」
ばつが悪そうに俯く誠之進に、さぎりは小さく頷いて応えた。




 妓楼の並ぶこの界隈も、こんな夜更けともなればすっかり灯も落ちていた。
店を出た誠之進は、月明かりだけを頼りに海沿いの道を走った。
湊のほうへは行っていないことを祈りながら、昼間泳いだ浜のほうを目指した。

 幸いにも、浜辺に小さなたき火を見つけた。

「あれか?!」

 一目散に砂浜を駆ける。
砂を蹴る足音に気付いたのか、人影がこちらを向いた。

「…誠之進?!」
「右近!」
息を切らしてやってくる友の姿に、右近は目を見開いた。
「…どうしたのだ。いったい…」
何故おまえがここにいるのだと、右近の眸が訝しげに見つめている。

 誠之進は砂の上にどっかと腰を降ろすと、大きく息をついた。
「……用事が済んだから、おまえを探しにきたのだ」
「…そのようなこと、頼んだ覚えはない」
抑揚のない声で右近が呟いた。
「…ひとりであのように出ていかれては、気になって眠れぬ」
誠之進は憮然として胡座をかいた。
「…ならば、なぜすぐに追いかけてこなんだのだ?」
先程より一段低い声で右近が問うた。
「そ、それは…」

 言葉に詰まった誠之進を、右近の漆黒の瞳が凝と見つめていたが、やがて堪えかねたような笑いが洩れた。
「そのように、本気で悩まずともよい。ちょっとからかってみただけだ」
「右近…」
安堵したような、呆れたような溜息を洩らす誠之進の横で、右近は愉しそうな笑い声をたてていた。

(探しにきてよかった…)

 誠之進は我知らず深い吐息をついていた。
さぎりの心配が外れていたことに、心の中で感謝した。

(やはり、右近は売り物の女人には触れたくなかったのだろうか…)

「右近…すまなかったな」
「え?」
「…今日、無理に誘うのではなかった。すまぬ」
「あ…ここへ来たことか?」
「ああ」
「それなら良いのだ。気にするな」
「右近…」
右近は微かに頬を赤らめていった。
「私も…その…少しは興味があったのだ。なれど、いざとなると足が竦んでしもうた」
「…そ、そうか」
右近の言い訳がまことかどうかはわからなかったが、これ以上追求するのも詮無いことに思えた。

 右近も話題を変えたいのか、努めて明るい口調で切り出した。
「ところで、誠之進」
「ん?」
「佐久間まで揚がってしまうとは…意外だったな」
「…ま、まあな」
誠之進は大きくうなずいた。

 言われてみれば、生真面目な佐久間がいったいどんな顔で遊女と相対したのか、想像しただけで笑いがこみあげてきた。

 おそらくは、艶かしい夜具の上に正座して、
『それがし、何ぶん初めてのことゆえ…不調法もござろうが…何卒、よろしくお頼み申し上げる』
などと、まずは折り目正しく挨拶してことに及んだのだろうか…。

 誠之進と右近は、同じような光景を想像して、くすくすと笑みを洩らした。
「それが佐久間の良いところだな」
「いかにも」
しみじみと呟く誠之進に、右近が同意した。右近の白い頬にいつもの笑みが戻っていた。


 夜が更け、海風がますます強くなってきた。
木切れを拾って起こした小さなたき火は、ほとんど消えかかっていた。

「このままここで夜明かしするわけにもいかぬな」
「…すまぬ、誠之進。私がひとり勝手なことをしたから…」
俯く右近に、
「何をいうか」
誠之進は破顔すると、軽く右近の肩を叩いて立ち上がった。
袴についた砂を払い、
「どこかに網小屋でもないかどうか、少し歩いてみよう」
「ああ」

 ふたりは火の始末をすると、夜更けの海岸を並んで歩いた。
沖に烏賊釣りの小舟が揺れている。
見上げれば、満天の空に星が降っていた。

 歩きながら、誠之進は右近の横顔を時々盗み見た。
何度見ても見飽きぬ美しい輪郭が、十四夜の月明かりを浴びて仄かに浮びあがっていた。

                                つづく




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写真は『moonlit』さんからお借りしています。

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