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番外編『初恋』 本作品「初恋」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。
夏とはいえ、夜の浜辺は冷える。 松林のあたりから拾ってきた木切れで小さなたき火を起こし、誠之進と右近は暖をとっていた。 宝暦七年。 十六歳の夏の終り、溝口誠之進は藩校の友人、吉田小兵太、佐久間彦四郎、櫻田右近とともに、遠乗りがてら今町湊へ遊びにきた。早朝出発した四人は、昼間海で泳ぎ、夜は今町最大の廓、『桔梗屋』で一夜を過ごすという、大きな企てをもっていた。 城下にも当然その種の女を抱える店はあったが、軽輩の子弟はともかく、誠之進のように仮にも家老の嫡男となると、外聞もあるので、おいそれとめったな店に顔出しできないのだ。 四人のうち、誠之進と小兵太はすでに童貞ではなかったが、佐久間と右近はまだ女を知らない。小兵太は晩生の友人二人を何とか男にするのだと意気込んで、今回の今町行きを計画した。 誠之進と小兵太は、まだ十六歳の前髪だちのくせをして、いっぱしに馴染みの女を作っていた。小兵太は精一杯大人ぶって、晩生の友人二人のために、筆降ろしをしてくれる女を見繕ってくれるよう、妓楼の女将にかけあっていた。 ところが、土壇場で右近が部屋に上がらぬと言い出した。 店先で押し問答が始まる。 「おまえ、ここまで来て何を言ってやがる?!」 「……気分がのらぬのだ。今日はやめる」 「右近!ったくもう…ここまで来て怖気づく奴があるか!おい、誠之進、何とか言ってやれ!」 「……」 小兵太にそう言われても、誠之進とて何と言葉をかけていいのかわからない。 困ったような眸で右近を見つめるばかりだった。 「ともかく、私はいい、どっかその辺で野宿でもするゆえ、皆は楽しんできたらよかろう」 「おい!右近!」 頭を掻きむしらんばかりに、小兵太が声を荒げた。 「案ずるな。冬と違って凍え死ぬようなことはない…。明日の朝、迎えにくる」 右近は嫣然と微笑むと、踵を返して店の外へ出ていってしまった。 「誠之進…引き止めなくていいのか?」 佐久間の案ずるような声音に、誠之進が振り返った。 「引き止めるというても…本人があれでは…」 珍しく煮え切らない誠之進を、小兵太と佐久間が訝しげに見た。 二人の溜息が鈍く漂った。 「ぼっちゃんたち…どうなさるね。揚がっていくのかい?いかないのかい?」 たばこ盆に煙管をこつこつと打ち付けて、女将が早う決めてくれといわんばかりに尋ねた。 「…行くぞ」 誠之進は俯いたまま低く呟くと、いつもの相方を連れて二階へあがってしまった。 一瞬顔を見合わせた小兵太と佐久間だったが、二人も今は友人の心配より、先程からちらつく紅い襦袢が気になって仕方ない。 右近のことが気になりながらも、二人も目の前の誘惑に負けた。 ことが終った後、誠之進は荒い息が静まるのを待ちながら、ぼんやりと天井を見上げていた。 女はもちろん嫌いではない。 こういう場所へ来るのは、当然、性欲処理のためだったが、かといって相手が誰でもいいわけではない。誠之進は十五歳のとき、縁あって最初に枕を交わした遊女、さぎりと、今でも続いていた。 さぎりは三つ年上の十九歳。 黒目がちの濡れた眸に、柳腰で肌理の細かい肌が誠之進の好みにあった。 どちらかというと、無駄口をきかない静かな女だった。 それが今日は珍しく、終ったあと、さぎりのほうから話しかけてきた。 「誠之進さま…」 「うん……?」 このまま眠ってしまいたい気分だった誠之進は、目を閉じたまま少しうるさそうに眉をよせた。 「大丈夫でしょうか……さっきの御友人」 「…え?」 誠之進の瞼が開いた。 「その…夜更けに、あのように美しい若衆が、おひとりで街に出られては…」 「どういう意味だ…?」 嫌な予感に駆られ、誠之進は片肘で支えて上体を起こした。 「…このあたりは、西国から来た、荒くれの船乗りもたむろしております…。すこし先には陰間茶屋もございますし…その…」 藩校でも右近は常に年長者からそのような目でみられ、つきまとう輩を追い払うのに四苦八苦していた。 右近がひとりで野宿するといって出ていったとき、正直ちらりと不安は感じたのだ。誠之進のほうにも『切羽詰まった』事情があったとはいえ、ひとりで行かせたことを今になって激しく後悔した。 誠之進は布団をはねのけると、急いで身支度を整え大小を腰に佩いた。 「すまぬが、私はこれで…」 「いいえ。早く探しにいかれませ…」 さぎりは半身を起こすと、襦袢の襟をかきあわせてかすかに微笑んだ。 「すまぬ……今度また来るゆえ…」 ばつが悪そうに俯く誠之進に、さぎりは小さく頷いて応えた。 妓楼の並ぶこの界隈も、こんな夜更けともなればすっかり灯も落ちていた。 店を出た誠之進は、月明かりだけを頼りに海沿いの道を走った。 湊のほうへは行っていないことを祈りながら、昼間泳いだ浜のほうを目指した。 幸いにも、浜辺に小さなたき火を見つけた。 「あれか?!」 一目散に砂浜を駆ける。 砂を蹴る足音に気付いたのか、人影がこちらを向いた。 「…誠之進?!」 「右近!」 息を切らしてやってくる友の姿に、右近は目を見開いた。 「…どうしたのだ。いったい…」 何故おまえがここにいるのだと、右近の眸が訝しげに見つめている。 誠之進は砂の上にどっかと腰を降ろすと、大きく息をついた。 「……用事が済んだから、おまえを探しにきたのだ」 「…そのようなこと、頼んだ覚えはない」 抑揚のない声で右近が呟いた。 「…ひとりであのように出ていかれては、気になって眠れぬ」 誠之進は憮然として胡座をかいた。 「…ならば、なぜすぐに追いかけてこなんだのだ?」 先程より一段低い声で右近が問うた。 「そ、それは…」 言葉に詰まった誠之進を、右近の漆黒の瞳が凝と見つめていたが、やがて堪えかねたような笑いが洩れた。 「そのように、本気で悩まずともよい。ちょっとからかってみただけだ」 「右近…」 安堵したような、呆れたような溜息を洩らす誠之進の横で、右近は愉しそうな笑い声をたてていた。 (探しにきてよかった…) 誠之進は我知らず深い吐息をついていた。 さぎりの心配が外れていたことに、心の中で感謝した。 (やはり、右近は売り物の女人には触れたくなかったのだろうか…) 「右近…すまなかったな」 「え?」 「…今日、無理に誘うのではなかった。すまぬ」 「あ…ここへ来たことか?」 「ああ」 「それなら良いのだ。気にするな」 「右近…」 右近は微かに頬を赤らめていった。 「私も…その…少しは興味があったのだ。なれど、いざとなると足が竦んでしもうた」 「…そ、そうか」 右近の言い訳がまことかどうかはわからなかったが、これ以上追求するのも詮無いことに思えた。 右近も話題を変えたいのか、努めて明るい口調で切り出した。 「ところで、誠之進」 「ん?」 「佐久間まで揚がってしまうとは…意外だったな」 「…ま、まあな」 誠之進は大きくうなずいた。 言われてみれば、生真面目な佐久間がいったいどんな顔で遊女と相対したのか、想像しただけで笑いがこみあげてきた。 おそらくは、艶かしい夜具の上に正座して、 『それがし、何ぶん初めてのことゆえ…不調法もござろうが…何卒、よろしくお頼み申し上げる』 などと、まずは折り目正しく挨拶してことに及んだのだろうか…。 誠之進と右近は、同じような光景を想像して、くすくすと笑みを洩らした。 「それが佐久間の良いところだな」 「いかにも」 しみじみと呟く誠之進に、右近が同意した。右近の白い頬にいつもの笑みが戻っていた。 夜が更け、海風がますます強くなってきた。 木切れを拾って起こした小さなたき火は、ほとんど消えかかっていた。 「このままここで夜明かしするわけにもいかぬな」 「…すまぬ、誠之進。私がひとり勝手なことをしたから…」 俯く右近に、 「何をいうか」 誠之進は破顔すると、軽く右近の肩を叩いて立ち上がった。 袴についた砂を払い、 「どこかに網小屋でもないかどうか、少し歩いてみよう」 「ああ」 ふたりは火の始末をすると、夜更けの海岸を並んで歩いた。 沖に烏賊釣りの小舟が揺れている。 見上げれば、満天の空に星が降っていた。 歩きながら、誠之進は右近の横顔を時々盗み見た。 何度見ても見飽きぬ美しい輪郭が、十四夜の月明かりを浴びて仄かに浮びあがっていた。 つづく 初恋2へ
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