
番外編『初恋』2
本作品「初恋」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。
誠之進が初めて右近を『見た』のは、三年前、十三歳の秋。
毎年、藩校では秋の試験の後、席次が発表される。
主席となった生徒は、藩主の御前で「御進講」申し上げるのが習いとなっていた。
十二歳で素読吟味に合格し、今年の秋の試験でも主席をとった右近は、高山城本丸で藩主・信輝公の御前で『大学』を講じた。
御進講の席には、藩主のみならず、家老、中老ら、重臣やその子弟も列席する。
上席家老の嫡男である誠之進は、父・主膳に連れられて、本丸の大広間の一角に端座していた。
同い年とはいえ、自分よりひとまわり骨細な少年が、藩公の御前に進み出た。
少年は背筋を伸ばした美しい姿で着座し、澄んだよく通る声音で、澱みなく『大学』を講じている。その自信に満ちた口調と楽の音のような声に、誠之進はしばし聞き惚れていた。
少年が講議を終えて退出するとき、初めて顔を正面から見た。
頬のあたりに幼さは残っているが、優美な曲線を描く眉の下、冴えざえとした漆黒の瞳、すっきりとした鼻梁、触れてみたくなるような桜色の唇に、誠之進は一目で心臓を射抜かれた気がした。
心身共に比較的早熟だった誠之進は、すでに自慰を知っており、女人に対して性的な興味と仄かな憧れも抱いていた。
しかし、凛としながらも、咲きかけの花のような右近の美貌の前に、そのようなものは跡形もなく消えてしまった。
(何と言うことだ…寝ても覚めてもあいつの顔ばかりが頭に浮ぶ…)
武家の青少年の間では、『知音』を結ぶことは珍しくなかったが、誠之進は元来男など眼中になく、そのような関係は御免被りたいと思っていた口だった。
斯程にひとりの少年に心を奪われるとは……誠之進にとって、まさかの事態だった。
二度目の邂逅は、意外にも早く訪れた。
誠之進は六歳頃から城下の儒者、佐伯羅山の私塾に通っていた。溝口家の屋敷は城のすぐ西側。羅山の私塾は城の南側、外郭の重臣屋敷の一角にあった。
剣は直心影流の酒井道場に幼い頃から通っていたが、これも大手門を出てすぐのところにあり、誠之進の日常の行動半径はあまり広くはない。
藩校のある『けやき平』や、下級藩士が暮らす東側の『番丁』へは、あまり足を運んだことがなかった。それゆえ、同い年とはいえ、藩校に通わなかった誠之進は、右近とほどんど接触する機会はなかった。
私塾の先輩たちが時々右近の噂はしていたが、実際に目にしたのは『御進講』の時が初めてだった。それまで若侍たちが胸をときめかす『美少年』の話題になど、全く関心がなかった誠之進だが、あれ以来、佐伯塾で右近の噂がもれ聞こえるたびに、息を詰めて盗み聞きするようになってしまった。
雪がちらつき始めた、晩秋のある日、佐伯塾の玄関先が妙にざわついていた。師匠の羅山は所用で外出中。門人たちが自主的に討論会を開いていたところだった。年少ながら誠之進もその場に加わっていたが、
「おい! あいつが門前に来ているぞ!」
息せき切って教室に駆け込んできた者がいた。
「あいつって…?」
「右近だよ!」
「まことか!?」
それまで車座になって、しかつめらしい顔で激論を戦わせていた者の九割が、一斉に席を立ち玄関先に走った。
(何なのだ…おまえたちは!?)
先輩たちの呆れた変わり身の速さに、誠之進は嘆息した。
とはいえ、気になって仕方ないのは誠之進もご同様で、先輩たちに遅れながらもこっそり玄関先へ向かった。
頭一つは大きい若侍たちの人垣の間から、誠之進は右近を一目見ようと、左右に身体を動かしたり爪先立ちになったり、涙ぐましい努力をしていた。
ようやく見つけた隙間からのぞくと、右近が塾生の代表に書を何冊か渡している。
「…では羅山先生にくれぐれも宜しくお伝えください」
右近の凛とした声が響いた。
誠之進のまわりで囁きが交わされる。
『お、今日はひとりで来たのか?』
『いつもの爺はどうした?』
『いや、一緒じゃないぞ』
『…藩校の教授の使いで、書を返しにきたんだと』
『…右近もわが塾へ入ればよいのにな…』
『まったくだが…隙あらば言い寄ろうという不埒な輩が多いからな。警戒しているのではないか?』
『何をいうか、おぬしだって!』
耳を済ませば、こんな会話ばかりが聞こえてきた。
(これではどこにいても、おちおち勉学にも励めぬな…)
誠之進は少し右近が気の毒になった。
同時に、様々な雑音に悩まされながら、毎年主席を取る右近 をあらためて尊敬した。
右近が礼をして辞去すると、塾生たちは途端に色めきたった。
どうやら、右近は外出する際、孫作とかいう『爺や』が常に付き添っているらしい。それが今日はひとりだということで、早速、三人ほどが後をつけ始めた。
「あいつら、抜け駆けする気か?!」
玄関に残っていたひとりが不満の声をあげたが、
「御事(おこと)ら、いい加減にせぬか!さっさと教室へ戻れ!」
塾長代理の鶴の一声で、皆はしおしおと奥へ戻っていった。
誠之進は一瞬迷ったものの、後をつけた三人のことが気になり、さらにその後を追いかけるように佐伯塾の門を出た。
上士の屋敷が連なる追手町を過ぎ、街道に出る。右近はそのまま真直ぐ、大店の並ぶ通りを行き、薬種問屋に立ち寄った。誠之進は三人の塾生の十間ほど後ろを、はぐれないよう慎重につけていた。
右近は薬屋を出ると、左に折れ、大工町、桶屋町を経て、城の東側へと家路を急ぐ。町人町と武家地の境目のあたりに、浄心寺という寺がある。寺の築地塀に沿って歩き始めたころ、三人はいきなり歩を速めて右近に追い付いた。
「おい、櫻田右近。ちょっと話がある。そこまで来てもらおうか?」
元服したての長身の青年が、後ろから右近を追い越して行く手を塞いだ。
後のふたりはすばやく右近の左右に回り込み、脇を固める。
誠之進は寺の隣にある民家の生け垣の陰に身を隠し、様子を伺っていた。
大柄な青年ふたりに両肘をとられた、華奢な後ろ姿が痛々しい。
何かあればすぐにでも出ていこうと、脇差の鍔に指をかけたまま、誠之進は息を詰めた。
「誠に申し訳ござりませぬが、先を急いでおりますので、今日のところはお許しを…」
礼儀正しく頭を下げる右近だったが、
「ふん、その手は食わぬぞ。…よいから我らと一緒に参れ」
両側からがっしと肘を捕まれ、右近が境内の中へと連れ去られた。
誠之進は生け垣の陰から飛び出すと、後を追うべく走った。
境内の中へ駆け込むと、本堂脇の木立の中から青年たちの声が聞こえてきた。
誠之進は足音をしのばせて、できるだけ近くまで移動すると、建物の陰に身を潜めた。
三人が右近を取り囲むように立っていた。
「あれほど丁重に何度も文を遣わしたものを、一切文は受け取らぬ、門前払いとはいかなる了見か?」
「そなた、己の美貌を鼻にかけて、少し天狗になっておるのではないか?」
「想われたなら、情けを返すのが武士の心得というものではないか?」
身勝手で居丈高な物言いに、聞いている誠之進も腹がたってきたが、
「…私は、念者・念弟などという関係は好かぬのです。これからも誰とも契る気はありません。それゆえ、どなたからの文も一切受け取らぬと決めているのです」
おそらくは、何十回とくり返してきたセリフなのだろう。
淡々とした中に、いい加減にしてくれという苛立ちが滲んでいた。
それが勘に触ったのか、ひとりが右近ににじり寄った。
「こいつ!」
「…どうか、ご放念下さい」
右近は深く頭を下げ、
「……御免」と三人の輪をすり抜けようとした。
そうはさせじとひとりが肘を掴んだ。
もうひとりも反対側から羽交い締めにしようとしたが、
どすっ、どすっと鈍い音が二回したかと思うと、
「ううっ、おのれ…」
二人が鳩尾のあたりを押さえてうずくまった。
「おい!いかがした?!」
三人目が慌てて友人たちのもとに駆け寄る。
誠之進が目を凝らして見ると、右近が鞘ごと抜いた脇差を手に、三人目を見下ろしていた。刀の鞘と柄で、二人に強烈な突きを喰らわせたようだ。
「お通し願えねば、次は抜きますぞ」
鯉口を切る音と、眦を吊り上げた右近の形相に恐れをなしたのか、
「おのれ…覚えておけ!」
悔しげに唇を震わせながらも、三人は地面に膝をついたまま、捨て台詞をはいた。
右近は脇差を腰にさすと、踵を返して足早に境内を出ていった。
誠之進は惚けたように右近の後ろ姿を見送っていた。
(何という度胸…。何という矜持…)
自分が助けに出ていかずとも、右近は気迫で不心得者たちを退けたのだ。
誠之進は右近の容色だけでない、鋼のような芯の強さに、たとえようもなく惹きつけられた。
誠之進の中にひとつの決心が芽生えた。
(決めた!ぜったいに…あいつと友達になる。父上にお願いして、春から藩校へ通うぞ!)
翌年の春。誠之進は家老の父・溝口主膳を説き伏せて、計画通り藩校に入学した。
早速、右近と近付きになるため、誠之進は剣の立ち合いを申し入れた…。
これが二人の十年余に及ぶ友誼の始まりとなった。
つづく
ふたりが始めて立ち合うシーンは、「序」1にあります。右近視点です。
初恋3へ
Copyright © 2003 戸田采女 All rights reserved.
|