序「春宵」1

by 戸田采女


 宝暦十一年、弥生。

 こんもりと薄紅色の花をつけた桜が、仲の町の通りを豪奢に埋め尽していた。
花の季節も間もなく終わる。名残りの白雪が春風に舞っていた。

 高山藩士、櫻田右近は朋輩の溝口誠之進とともに、通りに面した引手茶屋の店先で主を待っていた。右近は藩主・結城因幡守が嫡男、惣一郎の側近である。

 時刻はまもなく六ッ半(午前七時)。
昨夜、惣一郎は吉原・京町一丁目の 大見世、『久喜萬字屋』に揚がった。馴染みの花魁、呼び出し の夕霧がいる。明け六ッ(午前六時)に茶屋から迎えがいったはずだが、半刻たっても戻ってこない。

 縁台に腰かけ、散り行く桜をぼんやりと眺めながら、誠之進が思わず出かかった欠伸をかみ殺した。気心の知れた右近の他、誰が見ているわけでもないが、誠之進はすぐさま頬を引き締めて表情を整える。誠之進の端正な横顔を、右近は目の端でそっと眺めていた。

 男らしいきりりとした眉に澄んだ眸子。鼻梁の線はすっきりと高く、少し薄めの唇は刻んだように形がよい。整った顔だちだが冷たい印象は与えない。常人より少し明るい瞳の色が、柔和な雰囲気をかもし出していた。

 「惣一郎様はまだかのう? 随分お名残りだな」
誠之進は大きく伸びをすると、立ち上がって表に出た。陽光を浴び背筋を伸ばして立つ。友の後ろ姿を見つめ、右近は眩し気に目を細めた。

 誠之進の身の丈は六尺近い。肩幅は広いが背中から腰にかけては引き締まっている。剣術で鍛えた身体は動きに無駄がなく、多少寝不足であろうが所作に緩慢なところは一切ない。京町の方角に目を凝らしているが、惣一郎の影も形も見えないらしい。

 溜息まじりに誠之進が右近を振り返った。
「早く藩邸に戻ってひと風呂浴びたいのだが…」
美丈夫の情けない表情が可笑しくて、
「供が先に帰るわけにはいかぬだろう。辛抱しろ、誠之進」
右近は口元を柔らかくほころばせた。




 今年二十歳になった櫻田右近と、同い年の溝口誠之進は、ともに越後高山藩の藩士で江戸屋敷の長屋に暮らしている。誠之進は上席家老、溝口主膳の嫡男、かたや櫻田家の家格は中の下。勘定方を務めていた父親はすでにこの世にない。母親と二人の姉がいる右近は、齢十三才にして当主となった。

 身分こそ違えど、藩の将来を担う俊英と誉れの高い二人は、藩主・結城因幡守から 江戸勤番を命じられた。留学も兼ねた江戸詰めだ。勤めは週に三〜四日、それも四ッ(午前十時)から正午までである。午後は週に数回、湯島聖堂で幕臣に混じって講議を受ける。

 越後から出てきた若い二人にとって、江戸の生活は知的刺激に満ちていた。

 学問のみならず、両人とも剣もかなりの腕前だ。誠之進は直心影流、右近は一刀流の免許を得ており、藩邸内の道場で朋輩に稽古をつけるのが日課となっていた。

 時には三才年上の若殿、惣一郎のお供で芝居見物や吉原に繰り出すこともあった。主が大見世で遊んでいる間、右近ら供の侍や中間たちも、それぞれ分相応な見世で遊ぶのが習いである。

 吉原と一口に言っても遊女や店の格は様々だ。当時の遊女の最高位、呼び出しを買うには、表向きの花代、一両一分に加えて、食事、宴席に呼ぶ芸者衆、祝儀、さまざまな経費込みで、けちけちに見積もっても二十両、気前よく振る舞えば、一夜で五十両は消えてなくなった。庶民や勤番侍には高嶺の花である。

 誠之進が馴染みとなった生駒は座敷き持ち という、大見世でも三、四番目くらいのランクの遊女だった。

 敷き居の高い大見世に対して、大門近くの伏見町にはお手ごろに遊べる小見世が集中していた。最下等は東と西の河岸である。若旦那の取り巻きや、武家の下僕御用達といったところだろうか。

 誠之進も昨夜は久喜萬字屋の生駒のところに揚がり、主より一足先に茶屋へ戻っていた。興が乗らなかった右近は、惣一郎の宴席で相伴に預かった後、茶屋で一夜を明かした。





 一陣の風が桜並木を揺らした。
吹き散らされた桜花を誠之進が仰ぎ見る。
柔らかい光の中、薄紅色の花弁が中空を舞い、幾枚かが誠之進の鬢に舞落ちた。
節の長い指で不器用そうに取ろうしているのを見かね、右近はどれ、と歩み寄った。
「すまぬ」
誠之進は自分より少し背の低い右近に合わせて身をかがめた。
刀を握るとは思えない繊細な指で、右近は薄紅色の花びらをひとつ、ふたつとつまみ取っていった。




 「…ふむ。なかなか絵になるのう。そのように黙って立っておれば、
心映え美しき小姓に見えぬこともない」

 五間ほど先から惣一郎の軽口が聞こえてきた。
茶屋の迎えと一緒に通りをこちらに向かって歩いてくる。
誠之進は慌てて主の方へ向き直ると、右近と並んで一礼した。

 惣一郎も五尺九寸と長身である。薄墨色の紗綾形の着物の上に、霰(あられ)小紋の黒い羽織りを粋に着こなしている。髪型を変え、腰の二本差しを外せば、遊びなれた大店の若旦那で通りそうな容貌だ。昨夜の首尾は上々であったのか、惣一郎はご機嫌の様子である。

 「そのほう、今少し、気性が穏やかであれば、元服前に将軍家か御老中に小姓として献上したものを。しみったれのわが藩からはろくな貢ぎ物や付け届けができぬと、母上がいつもお嘆きじゃ…。この際、家中の美童でも差し出す他はなかろうに…、そなたほどの者はなかなかおらんわ」
惣一郎は、明るさにいくばくかの虚無を滲ませて、笑った。

「惣一郎様、お戯れを…」
この手の冗談が嫌いな誠之進は、嗜めるように主人を見た。

 一方、当の右近は意に介した風もなく、艶然と微笑みながら切り返した。
「それは惜しいことをいたしましたな。 御物上がりと呼ばれようが、柳沢美濃守様のように老中まで登り詰めれば、栄耀栄華は思いのまま…。末は高山藩を凌ぐ大藩の藩主になったやもしれませぬ。柳営でそれがしが上司となり、惣一郎様をいたぶる機会を逃しましたか…」  「よさぬか、右近」
誠之進は右近の肘を捕らえて諌めた。
右近は鼻先で笑うと誠之進の手をそっと引き剥がした。
「いずれにせよ、今の公方様には田沼様がおられますゆえ、その手は通用しますまい。それがし、もう少し早く生まれるべきでしたな」
「右近、いい加減にせぬか」
誠之進が語気を強めた。

 惣一郎は誠之進と右近を交互に見ると、皮肉っぽく口元を歪めた。
「…まあよい。おぬしの毒舌を聞かぬと一日が始まった気がせぬわ。しかし、斯様(かよう)な物言いをしながら、よう今まで首がつながっておったな。
そう思わぬか誠之進」
「…ひとえに殿や若殿の御寛容のおかげかと」

 目を伏せて生真面目な答えを返す誠之進のかたわらで、右近は愛想笑いを浮かべて惣一郎を見ていた。誠之進はこのような場に居合わせると心穏やかでないらしい。若殿付き小納戸衆の右近は、近寄り難い美貌に加えて冷笑僻がある。上役からは煙たがられ、同僚からは敬して遠ざけられた。加えて、主の惣一郎に対してもこの口の聞きようだ。傍で見ている誠之進は気が気でない様子だ。

 『今のところ惣一郎様は貴公の言動を面白がっておられるが…、頭にのって度を越せば、いつご勘気をこうむるやもしれぬ。それに、周りに敵を作り過ぎると足をすくわれるぞ』
なぜもっと素直に人に接することができないのかと、誠之進は折りにふれて右近を嗜めた。




 父親を亡くし十三歳で家督をついだ右近は、母や姉に恥じをかかせまいと、子供ながらに当主としての矜持を強くもって生きてきた。だが、なまじ美貌であったゆえ、己の容貌を鼻にかけての驕慢と誤解されがちであった。つい不要な反感を買ってしまう損な性分である。

 誠之進と藩校で始めて出会ったとき、家老の嫡男、絵に書いたような好男子の誠之進を、右近は正直うさん臭く思っていた。そんな彼とある日、藩校の道場で立ち会った。四半刻に及ぶ互角の打ち合いの後、一瞬の隙をついて仕掛けた突きが決まり、右近は辛くも勝利を納めた。

 すでに直心影流、酒井十太夫の愛弟子と評判の高かった誠之進。おそらく同年代の少年に負けたことはなかっただろう。初めての他流仕合で、しかも小姓のような美少年に負けて、さぞ悔しかろうと思いきや、防具を外しながら屈託なく話しかけてきた。

「おぬし、恐ろしいほどの剣の速さだな。こちらの弱いところを狙いすましたように突いてくる」
「…腕力だけでは勝てぬからな」
負けたくせに脳天気な奴よ、と右近はからかい半分に答えた。
「その通りだ」
誠之進は相手の目を見てしっかりとうなずいた。
嫌味を言ったつもりが、あっけらかんと肯定された。
右近はいつもと調子が狂って戸惑った。
「…小賢しい剣とは、思わぬのか?」
「左様なことはない!私も今すこし、太刀の速さ、鋭さを磨きたいのだ」
「ふむ…」
「流派は違うが、これからも時々立ちおうてはくれぬか?」
「暇があれば付きおうてやってもよいが…」
「よし、約束したぞ!」
「あ、ああ…」
何となく誠之進に押し切られて始まった、二人の友誼であった。




 以来、二人は剣友として、長じてからも公私に渡って親しく付き合ってきた。
長年の付き合いで友の本当の姿を知る誠之進は、右近が不用意な言動で誤解されるのが忍びなく、あれやこれやと口うるさく注意する。特に江戸へ出てきてからがそうだった。

 小姑のようだぞと、右近は辟易した風を装いながら、本心では煩わしく思ってなどいない。自分に意見する誠之進の真摯な眼差しが好きだった。

 今も、そうして欲しいものを得た右近は、桜色の唇に柔らかい笑みを浮かべた。
目線を惣一郎のほうへ移しながら、
「若殿のせっかくの仰せなれど、それがし、もう大分とうが立っておりますゆえ…さような栄達の道はもはや望めますまい。この上は高山藩に骨を埋め、殿や若殿の御ために一命を投げ打つ所存にて、何卒、末永くお引き立てのほどを…」
言い終わると、主に向かって深々と頭を下げた。


 つかの間、艶やかな笑みに見蕩れていた惣一郎だったが、
「…こいつ、ぬけぬけとよう言うわ」
からりとした笑い声をたてると、すれ違いざまに白扇で右近の頬を軽く叩いた。
「参るぞ」
「はっ」
先に立って大門へと向かう惣一郎を、右近と誠之進も足早に追いかけた。

つづく


写真は『空色地図』さんからお借りしています。


 
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