|
一ツ橋門近くの藩邸に戻った誠之進は、望み通り朝風呂に入ると、四ッ時(午前十時)までに身支度を整えて出仕した。誠之進の職掌は留守居役見習いである。上席家老の嫡男として、藩の外交官たる留守居役の仕事ぶりを学んでこい、という父、溝口主膳の意図であった。
誠之進が留守居役の御用部屋に出向き、同僚と言葉を交わしていると、ほどなく高山藩・江戸留守居役、堀田又左衛門が姿を現わした。平伏する部下たちに型通りのあいさつをすると、早速、奥の間に誠之進を呼びつけた。
(うっ…朝帰りがばれたか。若殿のお供ゆえ、見てみぬふりをして下さると思うていたが…)
後ろ暗いところがある誠之進は、同僚たちが忍び笑いをもらす中、きまり悪そうに奥の間に入室した。
小言をくらうのかと覚悟していた誠之進に、堀田は意外にも愛想のよい笑顔で座るよう促した。堀田又座右衛門は、かれこれ二十年あまり留守居役を務めていた。
最近では白髪まじりの鬢も薄くなり、髷を結うのもやっとのようだ。今年還暦と聞く。
しかし、老練な堀田は幕閣の重臣とのパイプも太く、今まで高山藩が大掛かりな助役を免れ平穏無事にやってこられたのは、堀田の功績によるところが大きい。
誠之進は、上座に座った堀田の正面に腰を降ろすと、両手をついて一礼した。
「誠之進殿、実は夕べ遅く国許から飛脚が届いての」
誠之進は顔をあげて留守居役をひたと見た。
堀田は懐から書状を取り出すと、おしいただくようにして誠之進の前に差し出した。
「殿からの書状じゃ」
誠之進はかしこまって両手で書状を受け取ると、堀田に目礼して中身を取り出した。
藩主からの書状に目を通し最後の花押まで確認すると、誠之進は茫洋とした眼差しで留守居役を見た。
君命である。むろん否も応もなかったが、自分がなぜこのお役を申し付けられたのか、正直、納得がいかなかった。
「堀田様、少しおたずねしてもよろしいでしょうか?」
「うむ」
「殿のご三男とありますが、いったい…今までいずこにおられたのでありましょう?」
藩主、結城因幡守信輝からの書状には、『子細あって母方の里で暮らしていた三男、三郎・信尭を高山城内の屋敷に引き取ることに決めたゆえ、守役として三郎の養育にあたってほしい』という内容が記されていた。現在九歳というから、誠之進が十一歳の時に生まれた若君である。
しかし、自分もまだ幼かったとはいえ、そのような噂を耳にした記憶はない。当時の一部重臣の間での秘事だったのだろうか? 父親の主膳なら間違いなくいきさつを知っているだろう。こたびの君命は父も承知のことなのだろうか…。
「私も詳しいことは知らぬのだが、八、九年前に、関川の本陣の娘が殿のお情けを受け、城中に召し出された話は聞き及んでおる。一時は城で暮らしていたはずだが、お方様のお怒りにふれ、困った殿が再び里へ戻されたとか…。その時のお子であろう」
「…そんなお話が。初耳でした」
「しかし、殿も貴公を後見に抜擢するとは、よほどそのお子が可愛いのであろうな」
誠之進は首を小さく横に振った。
「それがしのような若輩者に、守役 なぞ勤まりましょうか?」
謙遜でも何でもない。素朴な疑問であった。普通なら守役はもっと年配の、人生経験豊かな人物が勤めるのが習いである。誠之進は我知らず溜息を洩らしていた。
「殿が貴公を選んだのじゃ。余計な心配をせずとも、真心で勤めればよいのではないか?」
「…それはそうでござりますが」
珍しく煮え切らない誠之進に、堀田は、
「いつもの貴公らしくないの」
と苦笑した。
誠之進は返す言葉が見つからず押し黙っていたが、
「…江戸の生活に未練がござるか?」
白髪まじりの眉の下から、堀田は見透かすような目で誠之進を見た。
図星を言い当てられ誠之進の頬がかすかに色を刷いた。
「さもあろう。若い者にとって先進地・江戸での暮らしは捨て難かろうな」
「…恐れいります。なれど、それがし、殿の命には慎んで従う所存で…」
「わかっておる。貴公を責めてはおらんわ」
若者の正直さが好ましかったのか、堀田は破顔した。
「卯月には国許に戻るように、とのお達しじゃ。出立までに半月ほどあろう。名残りを惜しんでゆかれるがよい」 留守居役は平伏する誠之進にそう言い残し、執務に戻った。
*
留守居役や家老など高位の武士は『役宅』が与えられるが、一般の江戸詰藩士は『御長屋』と呼ばれる藩邸内の住居で暮らしていた。単身赴任のものがほとんどだ。若い右近と誠之進も御長屋で一部屋ずつあてがわれていた。しかし、ここにも身分・家格の差は歴然と現れ、家老の嫡男と中級藩士の右近とでは間口の広さに大きな差があった。
誠之進の部屋は、国許の邸宅には比ぶべくもなかったが、広々とした二間続きの部屋で、小体な庭までついていた。四季折々の花が咲き、笹の茂みの陰にはつくばいまであった。
日暮れ時、誠之進は右近を部屋に招いた。誠之進は午後から暇になったが、右近はつい先程まで仕事に追われていたらしい。下働きの老爺に簡単な酒肴を用意させ、誠之進は友を待っていた。行灯に火を入れていると、ほどなく右近が現れた。
「お、今日は伏見か?」
右近は上がり框に置かれた徳利の文字を、めざとく見つけて言った。
江戸での生活を楽しみながらも、基本的にお国びいきの誠之進だが、こと清酒に関しては上方からの『下り酒』を好んだ。国許では地元かせいぜい加賀の酒しか手に入らぬが、江戸の居酒屋や料亭で供される酒は『下り酒』が主流となっていた。痛飲はせぬが酒をたしなむ誠之進は、自分の長屋にも下り酒を常備していた。
誠之進は微笑むと、
「まずは一献」
と、右近に杯をとらせた。
杯を満たしながら、
「…今日は道場にも姿を見せなんだな?」
「ああ、書庫の整理なぞ仰せつかってしまったのだ。これが始めると面白いものが次から次へと出てきてな。手をとめて斜読みなぞしていたら、あっと言う間に日が暮れてしもうたわ」
「貴公らしいな」
誠之進はふっと口元を緩めた。
「しかし惣一郎様が、書物を御所望とは珍しい」
「いや、若ではのうて、江戸家老の武村さまじゃ。以前、朝廷から勅使が来られたとき、わが藩が饗応を仰せつかったことがあるらしい。その記録を捜してこいというわけだ」
「見つかったのか」
「ああ、埃を被っておったがな。寛延元年というから、我らがまだ子供の頃だな」
「また、饗応を仰せつかるような話が出ておるのか?」
「はて…。そのような話は、貴公の上司、留守居役殿のほうが余程御存知なのでは?」
「それもそうだが…」
沈思に落ちた誠之進に右近が返杯した。
誠之進は杯を受け取り、ゆっくりと飲み干した。喉越しのよい清酒が臓府に心地よくしみわたった。 「実はな…」
誠之進はおもむろに切り出した。右近を呼んだのは他でもない、国許からの書状の件だった。しかし、相手の反応が予想できるだけに、酒の力を借りても誠之進の口は重かった。
「殿から書状を頂戴した」
「…ほう、それは」
「…君命だ。国許へ戻らねばならぬ」
右近が小さく息を飲んだ。
「今月末には江戸をたつ」
「……そうか」
肌理の細かい頬が色を失っている。
「殿のご三男の守役をせよとのお達しだ。それがし、国許に殿の男子がいる話なぞ初耳だったが、貴公、存じておったか?」
「さて…左様な話、聞いたこともないわ。大方、御手付き女中の子かなんかであろう?」
右近はわずかに顔を背け、興味なさげに呟いた。
「今年、御年九歳だそうだ。母親は本陣の娘で、先頃病でみまかったらしい」
「それで、手元に引き取るというわけか」
「ああ」
「…殿も、おやさしいといえば聞こえはよいが、面倒なことをしてくれたものだな」
「しかし、殿のお胤に間違いないのであれば、町家に置いておくわけにもいくまい。それがしのような若輩ものに守役が勤まるかどうか不安だが…」
「ご謙遜だな」
「そうではない…本当に戸惑っておるのだ」
「…世継ぎならともかく、貴公に妾腹の三男の守役をせよとは…。殿も何をお考えか…。まこと、人材の無駄使いよの…」
悔し気な呟きの中に、すでに諦めが色濃く漂っていた。どんなに不服であろうと、君命に逆らえぬ事は右近も承知している。
誠之進は秘かに溜息を洩らした。
江戸藩邸内で、右近には自分の他、親しい友と呼べるものがいない。早くに父を亡くした右近は、母親や姉達の期待を一身に背負い、将来はそれなりのお役につけるよう勉学に励んできた。女と見まがう美貌のせいで、男として軽んじられることを嫌い、剣術や馬術も人一倍熱心に稽古した。
周りは右近を天才肌だと思っているが、誠之進は右近が陰で積み重ねた努力を知っている。気性とて周りが言うほど驕慢ではなかった。ぼんくらな上級藩士の子弟には手厳しいが、目下の者に威張り散らすのを見たことがなかった。
だが人付き合いな下手な右近は、江戸藩邸内でも一目置かれながら、他の誰とも打ち解けない。上司との衝突も多く、何度か間に入って取りなしたこともある。『私がいなければ右近はダメだ』と、そこまで自惚れる気はなかったが、誠之進は自分が国許へ帰った後のことが案じられてならない。
伏し目がちに押し黙っていた右近が顔をあげた。
愁いを含んだ漆黒の双眸がまっすぐに誠之進を見た。
「…ともあれ、お母上は久しぶりに貴公の顔が見られて、お喜びであろう」
しなやかな手を徳利に伸ばし、右近は再び友の杯を満たした。
誠之進はうなずいて杯を口に運ぶと、
「貴公の家にも、帰ったら早々挨拶に伺おう。何か土産があればことづかるが」
「ああ、見繕っておくゆえ、よろしく頼む」
右近は透き通るような笑みを浮かべてうなずいた。
会話が途切れたのを潮に、右近が立ち上がった。
濡れ縁に出て、朧月を仰ぎ見る。
やがて誠之進に背を向けたまま、ぽつりと言った。
「…つまらぬな」
友の背中を誠之進は黙って見つめた。
「道場に行っても互角に打ちあえる者がおらぬ…」
感情を殺した乾いた声音だった。
(すまぬ…。殿の命ではいたしかたないのだ)
寂しげな後ろ姿に心の中で詫びた。
誠之進は手にした杯に視線を戻すと、独り言のように呟いた。
「…次の参勤の折りには、殿に随行して国許に帰れるよう私から父上に頼んでみよう」
「ああ、かたじけない」
「…便りをよこせよ」
「貴公もな…」
半月後、誠之進は国許に向けて旅立った。華やかな江戸の生活に未練はある。右近のことも気がかりではあったが、国許の家族や旧友との再会にやはり心が踊った。
三郎ぎみとは…どのようなお子なのだろう」
まだ見ぬ主に思いを馳せながら、誠之進は春の信濃路を北へと急いだ。
春宵 了
|