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番外編『初恋』3
(ふたたび今町の海岸) 誠之進は藩校へ入学して以来、みごと右近の友情を勝ち得て、親しく付き合い始めた。 誠之進の剣友、吉田小兵太と佐久間彦四郎は八歳から藩校に通っており、右近のことは勿論知っていたが、やはりあの頭脳と美貌に恐れをなして?、興味はありながら気軽に声はかけられない状況だった。 そこへ誠之進が入ってきたことで、小兵太たちも一気に右近と親しくなった。 絶対来ないだろうと思っていた『どじょう取り』も、右近は誘えば喜んで参加する。何よりこんなによく笑う奴だとは思わなかったと、小兵太も彦四郎も嬉しい驚きを禁じ得ないようだった。 剣の流派は違ったが、四人はときどき藩校道場で居残って自主的に稽古をしたり、登下校もほとんど一緒に行動するようになっていた。 右近にとってこれは願ってもない状況だった。 今までは何処へ行くにも爺やが付き添っていたのだが、もはやその必要もなくなった。年長組の生徒や若侍たちも、腕のたつ誠之進たち三人が右近に始終「貼り付いて」いては、うっかり手を出すわけにもいかない。 だが、当然それを苦々しく思う者たちもいた。 右近が十二歳の時から、しつこく念弟になれと迫っている男がいる。 次席家老を務める内藤家の次男、嶺次郎だ。 一度は右近の屋敷に夜ばいまでかけたと噂が広まったくらい、その執心ぶりは藩校中に知れ渡っていた。 右近と誠之進が友となり一年あまりが過ぎた、十五歳の夏。 朝から蝉時雨の賑やかな暑い一日だった。 盆休み前の最後の授業の日。 誠之進たち四人は夕方まで残って道場で激しい稽古をしていた。 小兵太がようやく右近から一本とったと狂喜乱舞したところで、陽も傾いてきたことだし、そろそろ終いにしようと佐久間が言った。 四人は井戸端で汗を流した後、控え室で着替えて家路についた。 藩校の門を出かかったところで、 「…あ!しまった!」 右近が小さな叫び声を上げた。 「いかがした?」 誠之進が歩を止めて尋ねた。 「夏目先生にお借りしたご本を、風呂敷包みごと置いてきてしもうた」 「控え室か?」 「おそらく……。取って参るゆえ、先にいっていてくれぬか?」 「それは構わぬが…ここで待っていてもよいのだぞ」 「大丈夫だ、すぐ追い付く!」 右近は踵を返すと、一目散に道場のほうへと駆けていった。 もうまもなく日没だ。 西の空が茜色に染まっている。 ゆっくりと坂を下る誠之進たちの頬を、夕風が心地よく撫でていった。 ところが一向に右近が追い付いてこない。 「遅いのお…」 小兵太が首をかしげた。 「厠にでも行っておるのではないか」 彦四郎が呑気に欠伸をした。 三人は歩を止めて藩校のほうを振り返った。 坂を降りてくる人影はなく、ひぐらしが五月蝿いくらいに鳴いていた。 誠之進は眉を曇らせて低く呟いた。 「…迎えにいってくる」 「…では我らも」 一緒にといいかけた佐久間を誠之進が制した。 「おまえたちはここで待っていてくれ」 誠之進は藩校への坂を駆け上りながら、漠とした胸騒ぎを感じていた。 長屋門をくぐり、白砂を蹴散らして校庭を横切る。 息を切らして武術棟に駆けこむと、控え室の引き戸を開けた。 (何?!) 引き戸が開かない。 心張棒か何かで開かないようにしてある手応えだ。 「右近!いるのか?!」 大声で叫ぶと、中で人の動く気配がした。 右近の応えはない。 最悪の事態が目の前にちらつき、誠之進の頭にかっと血がのぼった。 「おのれ…!」 誠之進は引き戸に体当たりをくらわせた。 一度では開かない。 夢中で何度もぶちあたると、ようやく戸が外れ、誠之進は戸と一緒に倒れこむように中へ入った。 「右近!」 見渡せば、薄暗くなった部屋の一角に人影があった。 よく見知った年長組の生徒三人が、いまいましそうに誠之進を振り返った。 その足下に、後ろ手に縛られた白い裸体が横たわっていた。 「内藤…またお前か!性懲りもなく……右近に何をした!」 「おのれ誠之進…、今日こそはものにしようと思うていたのに。我らの邪魔ばかりしくさって…」 嶺次郎が吐き捨てるように言った。 誠之進は傍らにかけてあった竹刀を掴むと、三人にいきなり打ちかかった。 話し合う意志などさらさらない。 三人も応戦しようと身構えたが、藩校で一、二を争う遣い手の誠之進の敵ではなかった。鬼面のような形相の誠之進にあっという間にめった打ちにされ、三人はほうほうの体で逃げ出した。 「二度とこんな真似をしてみろ! 今度は木刀で面をかち割ってやるぞ…覚悟しておけ!」 先を争って逃げる三人に竹刀を投げ付けると、誠之進は右近のもとへ駆け寄った。 裸で床に転がされた右近は、猿ぐつわまでかまされていた。 薄暗い控え室の中、白くほっそりした姿態が誠之進の眼前に横たわっている。 吸い寄せられるがごとく、誠之進はまばたきもせずに右近の裸体を凝視した。見てはならないのに、目が離せない。 突き上げてくる衝動に、誠之進は眉をしかめた。 心臓は早鐘のように鳴り、みるみるうちに下半身に血が集った。 (斯様なときに……冗談ではないぞ!) 誠之進は大きくかぶりを振ると、深呼吸をして右近の傍らにひざまずいた。 猿ぐつわをはずしてやると、右近が苦しそうに息をついた。 下帯が無事なところを見ると…。 大丈夫…汚されてはいない。 誠之進はほっと安堵の吐息を洩らした。 後ろに回って、縛られた手を自由にしてやる。 右近はとりあえず助けられて安心したものの、あられもない姿を誠之進に見られて狼狽した。慌てて落ちていた小袖を掴んで身にまとう。 襟元を掻きあわせる指が小刻みに震えていた。 気持を察した誠之進は、右近に背を向けていった。 「こちらを向いておくゆえ、早う着替えるといい」 背後で右近がうなずく気配がした。 衣擦れの音に混じって、時折押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。 余程恐かったのだろう…。 強がっていても、こうしょっ中、あのような輩に付け回されていては、神経が参ってしまう。 「すまぬ…誠之進。もう大丈夫だ…」 弱々しい呟きに振り返って見た。 衣服を整えた右近が、誠之進に背を向けるようにして、膝を立てて床に座り込んでいた。 「夢中で本を…探していたら、いきなり後ろから…教われたのだ。普段ならこんなことはあり得ないのに…。油断した…」 肩を震わせながら右近は悔しげに言った。 誠之進は右近から一間(約1.8m)ほど離れて立っていた。 華奢な背中はあまりにも儚げで、誠之進は思わず抱きしめてしまいそうになるのを、両の拳を握りしめて懸命に堪えた。 「誠之進…」 「…うん?」 「私が…やはりいけないのだろうか?」 「何?」 「やはり、想いをかけられたなら、返してやらねばならぬのだろうか?」 「そ、それは…」 相手によりけりだろう、と誠之進はひとりごちた。 「相手をひとりに決めず、男たちを惑わせて楽しんでいるのかと言われた…」 「ばかな!」 思わず誠之進は拳を振り上げた。 「そんな勝手な言い種があるか! 内藤の言うことなど気にすることはないぞ!」 右近が洟をすする音が聞こえた。 「私は…他人の想いを弄んでるつもりはないのだ」 「あたりまえだ!」 「なれど…、どうしても我慢できぬのだ…」 涙声で右近が続ける。 「嫌なのだ…。誰もかれも人の顔を見れば、やれ美しいの念弟になれのと、近付くものはみなそうじゃ」 「右近…」 「私は…女ではないし、誰ぞの慰み者にされるなど真っ平御免だ!」 喉元に白刃をつきつけられた思いで、誠之進は絶句した。 「男同士で契るなど…鳥肌が立つ。人をいったい何だと思っているのだ!」 右近は喉声に叫ぶと、立てた両膝に顔を伏せて、静かに肩を震わせていた。 右近が声を殺して泣いている。 誠之進は射すくめられたように、その場から動けずにいた。 震える肩を今すぐにでも抱きしめてやりたい。 しかし…。 今、触れたら…。 自分はおそらく内藤と同じように、着物をむしりとり、右近を床に組み伏せてしまうだろう。 何のことはない。 偉そうなことを言っても、自分も内藤と同じ穴のムジナなのだ。 竹刀で叩きふせるべきは内藤たちではなく、己の浅ましい本性ではないか? 友になりたかったのは純粋な動機からだ。 しかし、一旦親しくなると、誠之進の右近への傾倒は加速度的に深まった。 誰にも心を許さなかった右近が、自分を信頼し友として認めてくれた。 自分たちといるときだけ、右近は心を蕩かせるような、天上の笑みを見せてくれる。 あの笑顔を守るためなら、誠之進は自分の命すら惜しくはないと思った。 もちろん右近は強い心を持ち、剣の腕も自分と互角だ。 庇護されねばならぬ弱々しい存在ではなかった。 しかし、それでも誠之進は右近を守りたかった。 この世の全ての苦しみから、自分の両腕で右近を守ってやれるなら…それに勝る喜びはない思った。 だがいつの頃からか、その純粋な気持に濁った欲望が混ざり始めた。 それは些細なきっかけで叛逆を起こし、暴走しかねない、危うい均衡の上に立っていた。 右近を守りたい…。 その一方で、右近の白い躯に欲情する己が…いた。 ひとしきり嗚咽を洩らすと、右近は誠之進が固まったままなのに気付いたらしい。右近は座ったまま、誠之進のほうへ体の向きを変えた。泣き濡れた瞳が立ち尽くす誠之進を見上げた。 「誠之進…、なれど、おまえは違うぞ」 「…え?」 「おまえだけは…違う。真の友だ」 「……」 息を呑む誠之進を前に、右近は自分の台詞が恥ずかしくなったのか、ほんのり頬を染めた。 「も、もちろん、小兵太や佐久間も大事な友達だが…、おまえが初めてだったのだ」 「…初めて?」 鸚鵡返しのように呟いた。 「同じ男として対等に見てくれたのは、おまえが初めてだ。…友になろうと言ってくれたとき、私は本当に……嬉しかったのだ」 「何をいまさら…あたりまえのことではないか…」 喉がからからに干上がっていた。 不自然に上ずりそうな声を抑え、誠之進は懸命にいつもの笑顔を作った。 誠之進の内部では、うねりのように突き上げてくる劣情と、大切な友を汚してはならぬという自制心が、死にもの狂いで闘っていた。 「誠之進…これからも…友でいてくれるのだな…?」 おずおずと瞳を揺らして尋ねる右近に、 「ああ…もちろんだ」 誠之進は大きくうなずいた。 右近が泣き出しそうな顔で微笑んだ。 切ないほどの愛しさが込み上げて来る。 それほどまでに、自分との友誼が大切なのか─。 右近が欲しい。欲しくて気が狂いそうだ! 音をたてて脈打つ身体中の血管が、のたうち、泣き叫ぶ。 このままでは破裂する─。 しかし──それ以上の強さで。 「誠之進…」 楽の音のような声が自分の名を呼んだ。 「戻ってきてくれて、ありがとう…」 右近を決して失えないと思った…。 会話が途切れた。 どれほどの時間、言葉を交わさず向き合っていたのだろう。 ひぐらしの鳴き声もいつしか止み、窓の外には暮色が迫っていた。 誠之進の内部で激流のように逆巻いていたものが、その頂点を極め、徐々にゆるやかな流れへと変わってゆく。 たとえ『契らずとも』、心と心で結ばれていれば─。 誰よりも側近く、魂が寄り添っていれば─。 「…元服して、成人してからも…。生涯……友でいようぞ」 涙で目元はくしゃくしゃだったが……右近の白い頬に満面の笑みが広がった。 あの時の右近の笑顔を、誠之進は一生忘れることができなかった。 寄せては返す波の音。 規則正しい安らかな寝息。 穏やかな寝顔を見下ろしているだけで、誠之進に至福が訪れる。 この恋は…葬らねばならない。 この身勝手な想いは…どんなことをしてでも殺すと誓った。 右近が自分に寄せる全幅の信頼…。 それを裏切ったら人として終りだ。 この世の誰よりも美しい、愛しい右近。 身も心も狂うほどにおまえを求めている。 されど、私はこの恋に封印をかけよう。 本心を言えば、今でもおまえが欲しくて欲しくて堪らない。 だが誓ったのだ。 おまえが触れるなと言うならば─。 全身の血を流してでも、己の内に巣食う獣を飼いならしてみせると…。 ああ…寒くなってきたな。 もうすぐ夜が明ける。 おまえは寒くないのか?右近。 …決して、何もせぬ、何もせぬと誓うから、 夜が明けるまで、こうして寄り添っていても構わぬか? 背中から伝わるおまえの温もり、髪や肌の匂い…。 忘れずに憶えておきたいのだ。 もう二度と触れたりはせぬから…、 今だけ、夜が明けるまで、眠るおまえの側に─。 身を切り裂かれる思いで葬った恋の代わりに、 約束してくれ…、未来永劫の友情と信頼を私にくれると…。 約束してくれ…右近。 ![]() 廃屋の板壁の隙間から、弱々しい朝日が差し込み始めた。 右近の瞼が開いたら、切ない魔法の時間が終る─。 『恋死なん、のちの煙にそれと知れ、つひにもらさぬ中の思ひは』
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