一の巻
「青葉の頃」6




by 戸田采女

「誠之進様、三郎ぎみがお戻りになりました!」

 離れの自室で書き物をしていたところ、源蔵が大声をあげながら、まろぶように渡殿をやってきた。
源蔵が足音をたてて板の間に入ると、
「さようか。で、今どちらに?」
さらさらと筆を走らせながら、誠之進は目も上げずに尋ねた。
源蔵が袴の裾をさばき、板の間に座る音が聞こえた。
「『疾風』をつれて厩のほうへ」
「うむ。ではお部屋でお待ち申し上げる」
誠之進は硯に筆を置き淡々と答えた。
「厩まで迎えに行ってさしあげないので?」
源蔵が不服そうに語尾を上げた。

 誠之進はようやく源蔵と目を合わせた。
「皆に黙っておひとりで出かけるなど…ほめられた行いではないぞ」
「なれど、それは一一」
思わず腰を浮かせた源蔵を、
「無事に戻られたからよいものの…何かあったら『疾風』を出した馬番はいかがあいなる?」
誠之進がぴしりと諭した。
「さりながら…」
源蔵は反論したくてもじもじしている。
誠之進は溜息をついた。
「おまえの言いたいことは分っておる、源蔵」
「誠之進様…」
「よい機会じゃ。若と膝を詰めてお話するゆえ、案ずるな」
「…きっとですよ、誠之進様」
恨めしげに見つめる源蔵に、誠之進はしかとうなずいた。

 源蔵は三郎の乳兄弟で、今や一の近習だ。
三郎の心を誰よりも知っているとの自負がある。

 江戸を発つ前から、三郎と誠之進の間がしっくりいっていないことを、源蔵はいち早く察知していた。そして原因が誠之進の側にあるのではと疑っている。疑うを通り越し、決めつけているふしがある。

 江戸からの道中、そして高山へ戻ってからも、誠之進は源蔵からことあるごとに、詰るような視線を向けられていた。

(やれやれ…)

 源蔵が離れを辞すると、誠之進は大きく肩で息をついた。

 自分とて、ぎこちなくなってしまった三郎との仲を、修復したいに決まっている。

 だが三郎は江戸でのことを何も尋ねない。尋ねないどころか、聞きたくないと拒んでいる。江戸からの道中、信濃の山中でも「疚しいことがないなら謝るな」と言わんばかりであった。

 弁明も謝罪も拒まれた誠之進は、ひたすら日々の御奉公に励むものの、一向に三郎の憂い顔は晴れない。

 誠之進としても考えあぐねていた時期だった。




「お帰りなさいませ」
廊下をやってくる主人の足音を聞き、誠之進は深々と一礼した。
三郎はそのまま誠之進の前を通り過ぎ、上座に座った。
「そなたこそ大儀であった。で、今町での首尾は?」

 最近の三郎はいつもこうだ。
大人ぶったような、突き放したような声音で誠之進と相対する。

「おかげさまを持ちまして、中村屋との話し合いは上首尾に終わりました」
誠之進のほうもひたすら臣下として振舞うしかない。
「それは重畳」

 かくして、また会話が途切れる。

「して…中村屋は息災であったか?」
三郎の声音がほんの少し和らいだ。
「はい」
「あの折りは…世話になったな」
三郎が伏目がちに呟いた。

 去年の夏の、出奔の時のことを言っているのだ。
三郎とふたり、無理を言って、今町の海商・中村屋の蝦夷行きの船に乗せてもらった一一。

「蝦夷との商いも順調のようです…」
誠之進はあからさまに言及せず、あの時のことを匂わせるにとどめた。
三郎がさようか、とうなずいた。
 
「ところで」
誠之進は声の調子を変えて尋ねた。  
「本日はどこまで行かれました?」
叱られるのかと思ったのか、三郎が一瞬身構えた。
「あ…荒井の向こう、小出雲坂のあたりまでじゃ」
「ほう。それにしては随分遅うなられましたな?」
三郎は脇息にもたれ、あさってのほうを向いた。
「…途中、寄り道もしたゆえ」
数回まばたきをした後、三郎が黙り込んだ。
「さようにござりますか」
誠之進は目を細めて三郎を見つめた。

「なんじゃ」
ちろりと目の端で誠之進を捉え、わずかに頬を赤らめる。
誠之進は破顔して、
「お腹がすきましたでしょう? 早めに夕餉を用意させまする」
小言を言われると思っていたところ、あてが外れたのか、
「…うむ」
三郎は怪訝そうにうなずいた。
「湯殿の仕度はできておりますが…先に湯を使われますか?」
「…ああ、そうしよう」
「では早速申し付けて参ります」
誠之進は丁寧に一礼すると、三郎の居室を後にした。




「さあさ、三郎ぎみ。たんと召しあがれ」
お福は満面の笑みで、三郎の茶碗にこれでもかと飯を盛っている。
三郎はわずかに腰を浮かし、
「お福、もうよい。そんなに盛ってはかえって食べにくいぞ」
「あれ、これは私としたことが」
お福は山盛りの飯を眺め、ちいさく首をすくめた。

「若、こちらは本日今町から持ち帰りました、クロダイにござります」
誠之進が膳の上の刺身と焼き物を指し示すと、
「ほう、うまそうだな」
割合素直に微笑む三郎を見て、誠之進は内心ほっと息をついた。

 夕餉はいつものように、三郎の居室で誠之進が相伴にあずかり、お福と源蔵が給仕をする。

 午後遅く城に戻ったとき、三郎の不在を知らされ、誠之進は近習たちを前に『誰も供をせぬとは何事か?!』と声を荒げた。しかし、こうして三郎も無事戻ったことだ。三郎本人に対しても今日はあまり叱らず、とりあえず話を聞こうと心に決めていた。

 やはり空腹だったのか、三郎は飯や菜を気持いいほどに平らげてゆく。
三郎が潮汁をもう一杯所望すると、
「はいはい、ただいま」
お福は嬉々として吸物碗を盆で受け、台所へと戻っていった。

 三郎の食欲が少し落ち着いた頃、
「若、荒井のあたり、田植えは大方終わっておりましたか?」
誠之進は何気なく、三郎の今日の行動を聞き出そうとした。
「ああ、苗も順調に根付いていたようだ」
「さようで」
誠之進は大きくうなずいて続けた。
「暖かい日が続いてほしいものですな」
「うむ。今年も豊作なら、百姓や藩士は随分楽になる…」
三郎がしみじみ呟く。

 洪水に旱魃、二年続きの凶作は藩庫にも大きな打撃を与えた。

 三郎は常に下々の暮らしを考えている。
義務ではなく、自然に、心から皆の幸せを願う姿に、領民たちが心動かされるのも当然だ。

(分家されたあかつきには…立派な領主になられるだろう)

 誠之進の胸が暖かいもので満たされる。
しばし無言で三郎を見つめていると、お福が潮汁を盆に乗せて戻ってきた。
「さ、お熱いうちにどうぞ」
「ありがとう」
三郎が碗を手にとった。
ふたを取るとうまそうな湯気が立ち上った。
誠之進も静かに三郎を見守りながら、しばらくは食事に専念した。




 食事の後、お福と源蔵は茶を入れると、一旦膳を片付けに台所へ退いた。後で水菓子を持ってくるという。  

 ふたりだけになった誠之進と三郎は、しばし無言で茶を啜っていたが、
「のう、誠之進」
三郎が手を止めて呟いた。

「実はな、そなたに報告することがある」
貌(かたち)を改めた三郎に、誠之進も茶碗を置いて真直ぐに向き合った。

 三郎が語り始めたのは、知行地の百姓娘を手籠めにしようとした、奥野家家臣の狼藉であった。
 
 中老・奥野将監の女好きは家中でもよく知られており、息子・小十朗も素行がよいとは言えない。誠之進の耳にも、ちらほらと噂は聞こえてきていた。知行地の領民は領主の管轄下とはいえ、あまりに無体な行いには、藩庁も処分や訓戒を行ったことがある。

 娘を拉致しようとした若党ふたりを、三郎は刀を抜いて制し、娘を村びとたちの元に返してやったのだという。

 真剣での立ち会い経験もないくせに、危ない橋を渡るものだと、誠之進は内心冷汗をかいた。だが一方で、弱い者を守るため、迷いなくふたりの男の前にたちはだかった三郎が、誇らしくてならない。

 誠之進は三郎が言葉をつぐ度に、こくこくと大きくうなずいた。

(ううむ、これでは若の成長を喜び、目頭を袖口で押さえる爺やのようじゃ。孫作と変わらぬな)

 久方ぶりに、守役としての喜びを噛みしめる誠之進であった。

 三郎が話を終えたとき、
「若は正しいことをなされました」
誠之進は胸底からほっと息をついた。
「誠之進…」
「奥野家とは少々厄介なことになりますが…なに、ご案じめさるな。将監殿の素行にもいささか問題がありましたし、少々お灸を据えておくのもよろしいかと。私から父・主膳と目付に報告しておきましょう」
「うむ、くれぐれも百姓達が仕返しされぬようにな」
頼むぞ、と黒目がちの瞳が誠之進を見つめた。
「はい、心得ておりまする」
久方ぶりに、まっすぐに自分を見てくれた三郎。
誠之進の胸に何やら甘酸っぱいものが込み上げた。
「されど、あまり無茶をなさいますな」
「誠之進…」
「ふたりの侍相手に刀を抜くなど…お話を聞いて肝が冷えましたぞ」
「なれど!」
反論しかけた三郎を、誠之進は優しく目で制した。
「わかっておりまする。見過ごすわけにはいかなんだのでしょう?」
「そのとおりじゃ」
「私が若でも…同じことをしたと思います」
「誠之進…」
三郎の頬に、はにかむような笑みが広がった。
誠之進も思わずつり込まれて微笑み、視線がふと絡み合った。

 今なら一一。
 
 誠之進は三郎の心に、もう少しだけ踏み込んでみようと思った。

「ところで…明神池へはゆかれましたか?」
低く、囁きかけるように尋ねれば、
「え…あ、ああ」
三郎の目元がほんのり朱に染まった。

 明神池には一昨年の夏から秋、ふたりでよく出かけた。

 大人ぶってもやはりまだ十七歳。
いたずらを見つかった童子のごとく、伏目がちに押し黙る様子が初々しい。
その中に、秘め事を知る少年の色香がほんのりと混ざり、えも言われぬ表情に誠之進はしばし見蕩れた。

 そこはかとなく、ふたりの間の空気が変わった。

 誠之進は遠い目をして嘆息した。
「あのあたり、若葉の季節もさぞや美しいことでしょう。私も見とうございました」
「青葉が目にしみるようじゃった。鳥もたくさんいた…」
素直に答える三郎に、
「『花心亭』ならば、私がお供いたしましたのに」
誠之進はある含みを持たせて『花心亭』と言った。

「おひとりで参られても…つまらぬでしょう?」

 『花心亭』は、ふたりが人目を忍んで逢瀬を重ねた藩公の別邸だ。
ひなびた茶室、雑木林の中、契って間もない頃の三郎に、誠之進はひとつひとつ手ほどきを一一。

 少々不埒な思い出が誠之進の頭をよぎった。
三郎はそれを見透かしたかのように、
「そなたは今町に出かけておったではないか…それに」
「それに?」
「花心亭はついでじゃ!」
三郎が頬を染めて言いつのった。
「どんな様子か少しのぞいてみただけじゃ」
「で…?」
「どこもかしこも固く閉ざされ、中へは入れなんだ」
誠之進はさもありなんとうなずき、
「ならば…一度、掃除に行かねばなりませぬな」
「掃除なら、そなたが勝手にいくがよい」
ここへ来てまだ意地を張るのが、誠之進にはかわいくてならない。
「若は…お手伝い下さりませぬのか?」
「私が…なにゆえ?」
口元を引き結んでも、三郎の瞳は正直だ。
詰るようでいて、その実、どこか人恋しげに見つめてくる。

 三郎の視線を静かに受け止めながら、誠之進は深い安堵を覚えていた。

 だが、すぐにでも抱き寄せたい心とは裏腹に、
「気がすすまぬと申されるなら…結構にござります」
突き放した言葉が口をついて出た。
自分も結構あまのじゃくだ。
「それは一一」
三郎がわずかに腰を浮かせた。

「何事も…若のお心のままに」
「誠之進!」

 三郎は眸を潤ませながらも、真正面から誠之進を睨んだ。

 ここで焦れた三郎に体当たり、いや、押し倒されても本望な誠之進だったが、
「ではまだ仕事が残っておりますので、本日はこれにて失礼いたしまする」
わざとこの場は退いた。

 誠之進は居住まいを正して一礼すると、三郎の居室を辞していった。




 その夜、誠之進は離れの木戸に閂をかけておかなかった。
愛しいひとの訪いを待ちながら、誠之進は夜具の中で長い時を過ごした。

(今宵はきっとおいでになる…)

 自信と願望が交錯するなか、誠之進はひたすら三郎を待った。

 十六夜の月明かりが小窓からぼうと差し込み、夜風に乗って甘い藤の香が漂う。

 花の香が、誠之進と三郎の初めての記憶を呼び覚ました。

 いかに相愛とはいえ、お育てした若君と契ってしまってよいものか。

 最後の最後まで悩んでいた誠之進の背中を押すように、三郎は寝間着姿で誠之進の寝所へやってきた。

 大胆にも自分のほうから忍んできたくせに、閨のことなど何ひとつ知らなかった三郎。

 いざ床入りすれば、艶を含んだ眸で心細げに誠之進を見つめていた一一。

 今より少し幼顔で小柄だった、十五歳の三郎。

 誠之進はしばし、懐かしく甘い追想に耽った。




 三郎と契ったその夜から、誠之進には覚悟があった。

 この先何が起ころうと、命ある限り三郎に仕え、守り続けると。

(信じてくだされ、若。この誓いを違えたことは一度もござりませぬ…)

 そして、これらも決して違えることはない。

 終生、三郎に身も心も捧げる覚悟は、少しも揺らいでいない。

 江戸から戻って、はやひと月。

 当初は三郎の気持ちがほぐれるのを、ひたすら待つつもりであった。許しを乞えない以上、臣下の自分から動くわけにはいかぬ。

 江戸で過ごした最後のひと月、誠之進の心は藩校時代に戻り、しばし三郎を忘れかけた。決して三郎を裏切るつもりはなかったが、空白の時間が三郎をどれほど不安にさせ、傷つけたことか…。

 以前にも一度、三郎とひと月近く離れていたことがある。ふたりの出奔が失敗し、誠之進が溝口の屋敷にて謹慎申し付けられた時だ。会えずとも心が結ばれていたあの時と、同じ屋敷で暮らしながら心が通いあわぬ今を比べれば、いずれが辛いかは言うまでもない。

 まともに言葉を交わしていただけぬなら、いっそ閨で…と思わぬこともなかった。結局そこまで恥知らずなこともできず、今日まで何もできずにいた。

(だからこそ…今宵は逃したくないのだ)

 夕餉の時の会話は、離れた指先が一瞬触れあったような、得がたい瞬間だった。

 じりじりと三郎を待つうちに、夜は更け、月は中天に昇った。

 静まり返った庭から、時折ほうほうと梟の声が聞こえた。

(あとしばらく待っていらっしゃらなければ…、私から寝所にお伺いしよう。宿直に不審がられても致し方ない)

 誠之進は嘆息し、ふたたび寝返りを打った。

 夜風にそよぐ葉ずれの音すら、誠之進の焦燥を煽る。

(…話をするだけでも構わぬ。どうでも今宵一一)
 
 気持ちを伝えねばらぬ。

 寂しい思いをさせてすまなかったと。

 もはや何も案ずることはないのだと一一。

 誠之進はたまらずに夜具をはねのけ、半身を起した。

 浅く息をついた誠之進の耳に、梟の鳴き声に混じって、ひたひたと渡殿をやってくる足音が聞こえた。

(三郎ぎみ?)

 足音はひそやかでいて、一歩一歩確実に誠之進の元へ近づいてくる。

 じっと耳を澄ませながら、誠之進は甘い胸苦しさに吐息を洩らした。

(三郎ぎみ…っ)

 足音が離れの前で一旦止まった。

 ここまで来て、何を迷っているのだろう。

 まさか引き返したりはせぬだろうな。

 有明行灯の灯る薄闇の中、誠之進は眉を寄せ、祈りにも似た思いで呟いた。

『はよう…おいでなされ』

 木戸の開く微かな音に、誠之進は潤みかけた眸をそっと閉じた。


「青葉の頃」 了


「青葉の頃」5
浄夜・目次 | 書庫目次


写真は「空色地図」さんからお借りしています。

その夜のつづきは「青葉の頃」補遺で。


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