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「誠之進様、三郎ぎみがお戻りになりました!」
離れの自室で書き物をしていたところ、源蔵が大声をあげながら、まろぶように渡殿をやってきた。
源蔵が足音をたてて板の間に入ると、
「さようか。で、今どちらに?」
さらさらと筆を走らせながら、誠之進は目も上げずに尋ねた。
源蔵が袴の裾をさばき、板の間に座る音が聞こえた。
「『疾風』をつれて厩のほうへ」
「うむ。ではお部屋でお待ち申し上げる」
誠之進は硯に筆を置き淡々と答えた。
「厩まで迎えに行ってさしあげないので?」
源蔵が不服そうに語尾を上げた。
誠之進はようやく源蔵と目を合わせた。
「皆に黙っておひとりで出かけるなど…ほめられた行いではないぞ」
「なれど、それは一一」
思わず腰を浮かせた源蔵を、
「無事に戻られたからよいものの…何かあったら『疾風』を出した馬番はいかがあいなる?」
誠之進がぴしりと諭した。
「さりながら…」
源蔵は反論したくてもじもじしている。
誠之進は溜息をついた。
「おまえの言いたいことは分っておる、源蔵」
「誠之進様…」
「よい機会じゃ。若と膝を詰めてお話するゆえ、案ずるな」
「…きっとですよ、誠之進様」
恨めしげに見つめる源蔵に、誠之進はしかとうなずいた。
源蔵は三郎の乳兄弟で、今や一の近習だ。
三郎の心を誰よりも知っているとの自負がある。
江戸を発つ前から、三郎と誠之進の間がしっくりいっていないことを、源蔵はいち早く察知していた。そして原因が誠之進の側にあるのではと疑っている。疑うを通り越し、決めつけているふしがある。
江戸からの道中、そして高山へ戻ってからも、誠之進は源蔵からことあるごとに、詰るような視線を向けられていた。
(やれやれ…)
源蔵が離れを辞すると、誠之進は大きく肩で息をついた。
自分とて、ぎこちなくなってしまった三郎との仲を、修復したいに決まっている。
だが三郎は江戸でのことを何も尋ねない。尋ねないどころか、聞きたくないと拒んでいる。江戸からの道中、信濃の山中でも「疚しいことがないなら謝るな」と言わんばかりであった。
弁明も謝罪も拒まれた誠之進は、ひたすら日々の御奉公に励むものの、一向に三郎の憂い顔は晴れない。
誠之進としても考えあぐねていた時期だった。
*
「お帰りなさいませ」
廊下をやってくる主人の足音を聞き、誠之進は深々と一礼した。
三郎はそのまま誠之進の前を通り過ぎ、上座に座った。
「そなたこそ大儀であった。で、今町での首尾は?」
最近の三郎はいつもこうだ。
大人ぶったような、突き放したような声音で誠之進と相対する。
「おかげさまを持ちまして、中村屋との話し合いは上首尾に終わりました」
誠之進のほうもひたすら臣下として振舞うしかない。
「それは重畳」
かくして、また会話が途切れる。
「して…中村屋は息災であったか?」
三郎の声音がほんの少し和らいだ。
「はい」
「あの折りは…世話になったな」
三郎が伏目がちに呟いた。
去年の夏の、出奔の時のことを言っているのだ。
三郎とふたり、無理を言って、今町の海商・中村屋の蝦夷行きの船に乗せてもらった一一。
「蝦夷との商いも順調のようです…」
誠之進はあからさまに言及せず、あの時のことを匂わせるにとどめた。
三郎がさようか、とうなずいた。
「ところで」
誠之進は声の調子を変えて尋ねた。
「本日はどこまで行かれました?」
叱られるのかと思ったのか、三郎が一瞬身構えた。
「あ…荒井の向こう、小出雲坂のあたりまでじゃ」
「ほう。それにしては随分遅うなられましたな?」
三郎は脇息にもたれ、あさってのほうを向いた。
「…途中、寄り道もしたゆえ」
数回まばたきをした後、三郎が黙り込んだ。
「さようにござりますか」
誠之進は目を細めて三郎を見つめた。
「なんじゃ」
ちろりと目の端で誠之進を捉え、わずかに頬を赤らめる。
誠之進は破顔して、
「お腹がすきましたでしょう? 早めに夕餉を用意させまする」
小言を言われると思っていたところ、あてが外れたのか、
「…うむ」
三郎は怪訝そうにうなずいた。
「湯殿の仕度はできておりますが…先に湯を使われますか?」
「…ああ、そうしよう」
「では早速申し付けて参ります」
誠之進は丁寧に一礼すると、三郎の居室を後にした。
*
「さあさ、三郎ぎみ。たんと召しあがれ」
お福は満面の笑みで、三郎の茶碗にこれでもかと飯を盛っている。
三郎はわずかに腰を浮かし、
「お福、もうよい。そんなに盛ってはかえって食べにくいぞ」
「あれ、これは私としたことが」
お福は山盛りの飯を眺め、ちいさく首をすくめた。
「若、こちらは本日今町から持ち帰りました、クロダイにござります」
誠之進が膳の上の刺身と焼き物を指し示すと、
「ほう、うまそうだな」
割合素直に微笑む三郎を見て、誠之進は内心ほっと息をついた。
夕餉はいつものように、三郎の居室で誠之進が相伴にあずかり、お福と源蔵が給仕をする。
午後遅く城に戻ったとき、三郎の不在を知らされ、誠之進は近習たちを前に『誰も供をせぬとは何事か?!』と声を荒げた。しかし、こうして三郎も無事戻ったことだ。三郎本人に対しても今日はあまり叱らず、とりあえず話を聞こうと心に決めていた。
やはり空腹だったのか、三郎は飯や菜を気持いいほどに平らげてゆく。
三郎が潮汁をもう一杯所望すると、
「はいはい、ただいま」
お福は嬉々として吸物碗を盆で受け、台所へと戻っていった。
三郎の食欲が少し落ち着いた頃、
「若、荒井のあたり、田植えは大方終わっておりましたか?」
誠之進は何気なく、三郎の今日の行動を聞き出そうとした。
「ああ、苗も順調に根付いていたようだ」
「さようで」
誠之進は大きくうなずいて続けた。
「暖かい日が続いてほしいものですな」
「うむ。今年も豊作なら、百姓や藩士は随分楽になる…」
三郎がしみじみ呟く。
洪水に旱魃、二年続きの凶作は藩庫にも大きな打撃を与えた。
三郎は常に下々の暮らしを考えている。
義務ではなく、自然に、心から皆の幸せを願う姿に、領民たちが心動かされるのも当然だ。
(分家されたあかつきには…立派な領主になられるだろう)
誠之進の胸が暖かいもので満たされる。
しばし無言で三郎を見つめていると、お福が潮汁を盆に乗せて戻ってきた。
「さ、お熱いうちにどうぞ」
「ありがとう」
三郎が碗を手にとった。
ふたを取るとうまそうな湯気が立ち上った。
誠之進も静かに三郎を見守りながら、しばらくは食事に専念した。
*
食事の後、お福と源蔵は茶を入れると、一旦膳を片付けに台所へ退いた。後で水菓子を持ってくるという。
ふたりだけになった誠之進と三郎は、しばし無言で茶を啜っていたが、
「のう、誠之進」
三郎が手を止めて呟いた。
「実はな、そなたに報告することがある」
貌(かたち)を改めた三郎に、誠之進も茶碗を置いて真直ぐに向き合った。
三郎が語り始めたのは、知行地の百姓娘を手籠めにしようとした、奥野家家臣の狼藉であった。
中老・奥野将監の女好きは家中でもよく知られており、息子・小十朗も素行がよいとは言えない。誠之進の耳にも、ちらほらと噂は聞こえてきていた。知行地の領民は領主の管轄下とはいえ、あまりに無体な行いには、藩庁も処分や訓戒を行ったことがある。
娘を拉致しようとした若党ふたりを、三郎は刀を抜いて制し、娘を村びとたちの元に返してやったのだという。
真剣での立ち会い経験もないくせに、危ない橋を渡るものだと、誠之進は内心冷汗をかいた。だが一方で、弱い者を守るため、迷いなくふたりの男の前にたちはだかった三郎が、誇らしくてならない。
誠之進は三郎が言葉をつぐ度に、こくこくと大きくうなずいた。
(ううむ、これでは若の成長を喜び、目頭を袖口で押さえる爺やのようじゃ。孫作と変わらぬな)
久方ぶりに、守役としての喜びを噛みしめる誠之進であった。
三郎が話を終えたとき、
「若は正しいことをなされました」
誠之進は胸底からほっと息をついた。
「誠之進…」
「奥野家とは少々厄介なことになりますが…なに、ご案じめさるな。将監殿の素行にもいささか問題がありましたし、少々お灸を据えておくのもよろしいかと。私から父・主膳と目付に報告しておきましょう」
「うむ、くれぐれも百姓達が仕返しされぬようにな」
頼むぞ、と黒目がちの瞳が誠之進を見つめた。
「はい、心得ておりまする」
久方ぶりに、まっすぐに自分を見てくれた三郎。
誠之進の胸に何やら甘酸っぱいものが込み上げた。
「されど、あまり無茶をなさいますな」
「誠之進…」
「ふたりの侍相手に刀を抜くなど…お話を聞いて肝が冷えましたぞ」
「なれど!」
反論しかけた三郎を、誠之進は優しく目で制した。
「わかっておりまする。見過ごすわけにはいかなんだのでしょう?」
「そのとおりじゃ」
「私が若でも…同じことをしたと思います」
「誠之進…」
三郎の頬に、はにかむような笑みが広がった。
誠之進も思わずつり込まれて微笑み、視線がふと絡み合った。
今なら一一。
誠之進は三郎の心に、もう少しだけ踏み込んでみようと思った。
「ところで…明神池へはゆかれましたか?」
低く、囁きかけるように尋ねれば、
「え…あ、ああ」
三郎の目元がほんのり朱に染まった。
明神池には一昨年の夏から秋、ふたりでよく出かけた。
大人ぶってもやはりまだ十七歳。
いたずらを見つかった童子のごとく、伏目がちに押し黙る様子が初々しい。
その中に、秘め事を知る少年の色香がほんのりと混ざり、えも言われぬ表情に誠之進はしばし見蕩れた。
そこはかとなく、ふたりの間の空気が変わった。
誠之進は遠い目をして嘆息した。
「あのあたり、若葉の季節もさぞや美しいことでしょう。私も見とうございました」
「青葉が目にしみるようじゃった。鳥もたくさんいた…」
素直に答える三郎に、
「『花心亭』ならば、私がお供いたしましたのに」
誠之進はある含みを持たせて『花心亭』と言った。
「おひとりで参られても…つまらぬでしょう?」
『花心亭』は、ふたりが人目を忍んで逢瀬を重ねた藩公の別邸だ。
ひなびた茶室、雑木林の中、契って間もない頃の三郎に、誠之進はひとつひとつ手ほどきを一一。
少々不埒な思い出が誠之進の頭をよぎった。
三郎はそれを見透かしたかのように、
「そなたは今町に出かけておったではないか…それに」
「それに?」
「花心亭はついでじゃ!」
三郎が頬を染めて言いつのった。
「どんな様子か少しのぞいてみただけじゃ」
「で…?」
「どこもかしこも固く閉ざされ、中へは入れなんだ」
誠之進はさもありなんとうなずき、
「ならば…一度、掃除に行かねばなりませぬな」
「掃除なら、そなたが勝手にいくがよい」
ここへ来てまだ意地を張るのが、誠之進にはかわいくてならない。
「若は…お手伝い下さりませぬのか?」
「私が…なにゆえ?」
口元を引き結んでも、三郎の瞳は正直だ。
詰るようでいて、その実、どこか人恋しげに見つめてくる。
三郎の視線を静かに受け止めながら、誠之進は深い安堵を覚えていた。
だが、すぐにでも抱き寄せたい心とは裏腹に、
「気がすすまぬと申されるなら…結構にござります」
突き放した言葉が口をついて出た。
自分も結構あまのじゃくだ。
「それは一一」
三郎がわずかに腰を浮かせた。
「何事も…若のお心のままに」
「誠之進!」
三郎は眸を潤ませながらも、真正面から誠之進を睨んだ。
ここで焦れた三郎に体当たり、いや、押し倒されても本望な誠之進だったが、
「ではまだ仕事が残っておりますので、本日はこれにて失礼いたしまする」
わざとこの場は退いた。
誠之進は居住まいを正して一礼すると、三郎の居室を辞していった。
*
その夜、誠之進は離れの木戸に閂をかけておかなかった。
愛しいひとの訪いを待ちながら、誠之進は夜具の中で長い時を過ごした。
(今宵はきっとおいでになる…)
自信と願望が交錯するなか、誠之進はひたすら三郎を待った。
十六夜の月明かりが小窓からぼうと差し込み、夜風に乗って甘い藤の香が漂う。
花の香が、誠之進と三郎の初めての記憶を呼び覚ました。
いかに相愛とはいえ、お育てした若君と契ってしまってよいものか。
最後の最後まで悩んでいた誠之進の背中を押すように、三郎は寝間着姿で誠之進の寝所へやってきた。
大胆にも自分のほうから忍んできたくせに、閨のことなど何ひとつ知らなかった三郎。
いざ床入りすれば、艶を含んだ眸で心細げに誠之進を見つめていた一一。
今より少し幼顔で小柄だった、十五歳の三郎。
誠之進はしばし、懐かしく甘い追想に耽った。
*
三郎と契ったその夜から、誠之進には覚悟があった。
この先何が起ころうと、命ある限り三郎に仕え、守り続けると。
(信じてくだされ、若。この誓いを違えたことは一度もござりませぬ…)
そして、これらも決して違えることはない。
終生、三郎に身も心も捧げる覚悟は、少しも揺らいでいない。
江戸から戻って、はやひと月。
当初は三郎の気持ちがほぐれるのを、ひたすら待つつもりであった。許しを乞えない以上、臣下の自分から動くわけにはいかぬ。
江戸で過ごした最後のひと月、誠之進の心は藩校時代に戻り、しばし三郎を忘れかけた。決して三郎を裏切るつもりはなかったが、空白の時間が三郎をどれほど不安にさせ、傷つけたことか…。
以前にも一度、三郎とひと月近く離れていたことがある。ふたりの出奔が失敗し、誠之進が溝口の屋敷にて謹慎申し付けられた時だ。会えずとも心が結ばれていたあの時と、同じ屋敷で暮らしながら心が通いあわぬ今を比べれば、いずれが辛いかは言うまでもない。
まともに言葉を交わしていただけぬなら、いっそ閨で…と思わぬこともなかった。結局そこまで恥知らずなこともできず、今日まで何もできずにいた。
(だからこそ…今宵は逃したくないのだ)
夕餉の時の会話は、離れた指先が一瞬触れあったような、得がたい瞬間だった。
じりじりと三郎を待つうちに、夜は更け、月は中天に昇った。
静まり返った庭から、時折ほうほうと梟の声が聞こえた。
(あとしばらく待っていらっしゃらなければ…、私から寝所にお伺いしよう。宿直に不審がられても致し方ない)
誠之進は嘆息し、ふたたび寝返りを打った。
夜風にそよぐ葉ずれの音すら、誠之進の焦燥を煽る。
(…話をするだけでも構わぬ。どうでも今宵一一)
気持ちを伝えねばらぬ。
寂しい思いをさせてすまなかったと。
もはや何も案ずることはないのだと一一。
誠之進はたまらずに夜具をはねのけ、半身を起した。
浅く息をついた誠之進の耳に、梟の鳴き声に混じって、ひたひたと渡殿をやってくる足音が聞こえた。
(三郎ぎみ?)
足音はひそやかでいて、一歩一歩確実に誠之進の元へ近づいてくる。
じっと耳を澄ませながら、誠之進は甘い胸苦しさに吐息を洩らした。
(三郎ぎみ…っ)
足音が離れの前で一旦止まった。
ここまで来て、何を迷っているのだろう。
まさか引き返したりはせぬだろうな。
有明行灯の灯る薄闇の中、誠之進は眉を寄せ、祈りにも似た思いで呟いた。
『はよう…おいでなされ』
木戸の開く微かな音に、誠之進は潤みかけた眸をそっと閉じた。
「青葉の頃」 了
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