by 戸田采女

 明和六年 四月末。

 三日ほど続いた卯の花くだしの雨が止み、夏めいた陽射しが庭先に差し込んでいた。

 江戸、小川町の高山藩邸内、留守居役・櫻田右近の役宅である。

 奥庭では楓や竹笹が風に揺れ、つくばいは清い水をたたえていた。役宅の先の主人、堀田又左衛門の好みを反映してか、庭には花木が少ない。堀田は菊作りが趣味だった。あっさりとしつらえた庭に自慢の菊鉢を並べ、悦に入る姿が今でも右近の目に浮ぶ。堀田は巣鴨の隠居所に移るとき、置き土産に小苗の鉢をいくつか残していった。多忙な右近は世話ができるか心配であったが、老僕の仁平が大切に育てている。植物もそれに応え、秋に華麗な花を咲かせるべく、精一杯、初夏の光を取り込もうとしていた。

 昼下がり、右近の役宅に藩主・結城惣一郎信元の姿があった。銀鼠の小紋をさらりと着流し、くつろいだ様子で縁側に腰かけている。上背のある立派な体躯だが、武芸に熱心というより、いかにも風雅の道を好みそうな貴公子である。

 小袖に袴姿でかたわらに控えるのは、役宅の主人、櫻田右近。藩校始まって以来の秀才と呼ばれ、剣は一刀流の免許を持つ。国許の筆頭家老・溝口主膳の覚えもめでたく、二十代で勘定吟味役を勤めた。昨年より江戸留守居役を拝命し、中級藩士の家の出ながらその栄達ぶりはめざましい。

 三十を前にしても、右近の端麗な容姿は老若男女の胸をときめかせた。深い闇色の眸は強い意志をたたえ、冴えた美貌ながら柔弱なところは一切ない。十代の頃は『花の香が匂いたつような』と言われたが、今の研ぎすまされた美しさは、家中一の美男と呼ばれるにふさわしい。

 激務の留守居役にはめずらしく、本日、右近は外出の予定もなさそうな気配だ。主従は時折目を見交わしつつ、和やかに談笑している。初めての出会いから十年、紆余曲折を経てここに至ったふたりは、和すること琴瑟の如し、である。

 惣一郎が亡き父の跡を継ぎ、十二代高山藩主となって以来、はや半年が過ぎていた。既に千代田のお城にも何度か登城し、藩主としての勤めをつつがなく果たしている。父君の死後、春まで江戸に滞在していた腹違いの弟・三郎が、後見の溝口誠之進や従者とともに国許へ帰ったのは、ひと月ほど前のことだった。

 それとほぼ入れ違いに、国許の筆頭家老・溝口主膳から惣一郎に書状が届いた。家老座を代表して国許の近況を新藩主に知らせつつ、一昨年、藩金流用のかどで罷免になった、次席家老・内藤帯刀の跡目についてお伺いをたててきた。

 新緑の楓を眺めながら、惣一郎が呟いた。
「…帯刀が嫡男、弥一郎家督の儀につき、主膳が了承を求めてきたわ」
「内藤家の一一」
家中の様々な事件の影には、常に内藤帯刀の存在がある。
主人・惣一郎に報告せず、右近ひとりの胸に収めた秘密もあった。
「そなた、いかがおもう」
惣一郎は肩ごしに右近を振り返った。

 未だ御国入りを果たしていない惣一郎は、弥一郎と一面識もない。

(大名家の世継ぎは生まれてからずっと江戸暮らし。藩主になって初めて、自分の領内に足を踏み入れるのが普通…かな)
かたや右近は国許育ちで弥一郎と年も近い。
政敵・内藤帯刀の息子ゆえ親しく付き合ったことはないが、筆頭家老への野心むき出しの父親と異なり、弥一郎は学問を好む温和な青年だった。
「別段、差し障りはないと考えまする」
右近は本心からそう答えた。
「さようか…」

 惣一郎の足下に雀が二羽降り立った。
ちゅんちゅんと鳴き交わしながら動き回る様を、惣一郎は面白そうに眺めている。

 右近は藩主の背に向かい、これまでの経緯を淡々と説明した。
「そもそも、帯刀殿が次席家老を罷免、閉門蟄居申し付けられた折り、帯刀殿は隠居、弥一郎殿を内藤家当主にという話にござりました。亡き殿も聡明な弥一郎殿の将来を潰してはならぬと。なれど弥一郎殿ご自身が『若輩ものゆえ…』と即座に家督することを拒み、ご家老の許しを得て旅に出られた次第で一一」
「そうこうするうちに、父上が病に倒れ代替わりとなったわけだ」
右近は小さくうなずいた。
「以来、内藤家跡目の話は宙に浮いたままにござりました」
「なるほど」

 惣一郎は大きく伸びをして息をついた。
「余に反対する理由もなし。認めてやるとするか」
「それがよろしいかと」
右近は力強く首肯した。
だが右近にはもうひとつの思惑があった。
早々に嫡男・弥一郎を内藤家当主とし、帯刀を藩政の舞台から完全に排除する。

(あの男に二度と地位や権力を与えてはならぬ…)

 右近は胸の裡で呟き、わずかに眉を寄せた。

「なれど、成人したとはいえ弥一郎はまだ若輩。今年いくつになった?」
「十九にござります」
「いきなり執政入りは無理じゃな」
「御意」
内藤家は世襲で家老を務める家柄なれど、弥一郎に出仕の経験はなかった。

「ならば役目はいかがする?」
「いかがするといわれましても…」
当然のように意見を求めてくる惣一郎に右近は苦笑した。

 藩主の信頼が篤いとはいえ、江戸・留守居役の自分が国許の人事に口を出すのは、いかにも差し出がましい。無論、内心では右近にも色々と考えがあった。いかに聡明な若者とはいえ、若いうちは別の役目につき経験を積むの望ましい。

(弥一郎自身は好人物でも…やはり帯刀の息子には違いない。御小姓組など藩主にあまり近い役目も考えものじゃ。武芸は苦手のようであるからにして、勘定方か右筆くらいが無難だが…)

 右筆というのは藩の機密を握る立場であり、そのあたり右近は正直ひっかかるものがあった。要は内藤家の人間が腹の底からは信用できないのである。

(いずれにせよ、私があれこれ悩んでもしかたない)

 右近は口元に薄い笑みを浮かべ、
「此たびはご家老に一任なされてはいかがです?」
「主膳にか」
惣一郎はいたずらっぽく片眉を上げた。
「はい。恐れながら、殿も御国入りを果たされぬうちは一一」
真面目に説き始めた右近を、惣一郎は軽い笑い声をたてて遮った。
「わかっておる。右も左もわからぬ新米藩主の分際で、国許の人事に口出しするなと言いたいのであろう?」
「そのようなつもりでは…」
ある意味図星を刺され、右近は微苦笑を洩らした。
「案ずるな」
何もかも心得たように惣一郎が微笑んだ。

 心地よい風が梢を揺らし、庭先の雀が羽音をたてて飛び立った。

 今度は石灯籠の上で鳴き交わす姿を眺めつつ、
「ところで右近」
惣一郎が一段低い声で呼びかけた。
「はい」
「帯刀は大人しく隠居するつもりかのう…」
「つもりもなにも、内藤殿に隠居以外の道はありませぬ」
右近は頬を引き締め、冷然と言い放った。
惣一郎はしばし無表情に庭を見つめていたが、ふと眉をくもらせ膝上で両手を組んだ。
「あの者には母上が…世話になったというか。随分無心もしたようじゃ」
「殿…」
「一一余と綾の婚礼の費用もな」
浅く息をついた惣一郎に、『それを申されますな』と右近は小さく首をふった。

 惣一郎の母・宝寿院と内藤帯刀の間には秘事があった一一。

 これを暴けば帯刀などたちまち死罪だが、宝寿院にも類が及ぶ。なにより右近は惣一郎の耳にだけは入れたくなかった。

 盟友・溝口誠之進にも知らせず、右近はひとり墓場まで持ってゆく覚悟であった。

「今頃、どこで何をしておるのだ?」
「上方あたりにご逗留と、風の便りに聞きましたが」

「風の便り…か」

 呟いた惣一郎が、縁側に腰かけたまま身体ごと右近へ向き直った。
わずかに熱を帯びた眸が、端座して控える右近を正面から捉えた。
「ちこう…」
主人に手招きされ、右近は一礼して惣一郎の側へ膝行した。

 惣一郎が顔を寄せ、右近の耳もとに囁いた。
「今宵…こちらへ参る」
「殿、それは一一」
なりませぬ、と言いかけた唇を、惣一郎がかすめ取るように奪った。

 柔らかく、軽く押し当てるだけの口づけに、右近はかえって名残り惜しさを覚えた。

(不覚…っ)

 身を離した主人を、追いすがるように見つめ返した自分が情けない。

 惣一郎はしてやったりと笑みを浮かべ、
「そなたこそ『奥』のことには口出し無用じゃ。夜を何処で過ごそうが、誰の指図もうけぬ」
あっさりと機先を制した。

 切れ者の右近も返す言葉がなかった。


つづく


序2
浄夜・目次 | TOP


背景は「kigen」さんからお借りしています。


Copyright © 2006 戸田采女
All rights reserved.