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時は少し戻る。
高山城・大手橋のたもと、元次席家老・内藤帯刀の屋敷は、当主が罷免になった後も威風堂々たる門構えを誇っていた。
帯刀が罷免された理由を思えば、屋敷替えも致し方ないところだったが、内藤家は屋敷も知行地も安堵された。内藤家は結城家が高山入部前から仕え、代々藩に貢献してきた。そのような名家を改易にするには忍びない、帯刀は隠居、嫡男・弥一郎を当主にという、前藩主・結城因幡守信輝と筆頭家老・溝口主膳の意向があったからだ。
だが一歩門内に入れば、内藤家の命運が傾いたことは一目瞭然。樹齢を重ねた松は今でも堂々たる枝ぶりだが、広大な庭は手入れが行き届かず、雑草がここかしこに生い茂っている。
内藤家は名家ゆえ、跡継ぎの弥一郎が未だ無役でも一千石近い『家禄』があった。 (基本給のようなもの。お役につくとその分の俸給が加算されます)
即座に暮らしに困るわけはなかったが、八百坪をこえる屋敷の維持管理にはそれなりの人手と金がかかる。
弥一郎の祖父の代から仕えている老僕や下女は、帯刀が百日の閉門・隠居を申し付けられた後も律儀に屋敷に留まっていたが、内藤家をもはや落ち目と見限ったのか、若い奉行人の数は随分と減っていた。新しく雇うにも、なかなかこれという人間が集まらない。
もうひとり、用人の朝倉助次郎も屋敷に留まっていた。父・帯刀が失脚した後も奉公を続けているのは忠義だが、腹に一物も二物もあるこの男の真意ははかりかねる。弥一郎が物心ついた頃には、朝倉は既に内藤家に仕えていた。父とはほぼ同年輩。中肉中背、つやの良い丸顔で一見温和にも見えるが、時に細めた目つきは鋭く、弥一郎は幼い頃から朝倉をどことなく好きになれなかった。
明和五年の秋、江戸で父・帯刀と袂を分った後、弥一郎が彩之介を連れ高山へ戻ったときも、朝倉は眉ひとつ動かさず若主人を出迎えた。(江戸での顛末は青嵐『内藤家の男たち』を御覧ください)
「若様、無事のお戻り、祝着至極に存じます」
式台で深々と頭を下げる用人に、
「そなたこそわれらの留守中、ご苦労であった」
弥一郎も若主人として労いの言葉をかけた。
父・帯刀は藩から隠居を申し付けられている。家庭内の力関係がどうであれ、自分が新たな当主として振舞うことにいささかの差し障りもないはずと、弥一郎は己を鼓舞した。
しかし弥一郎の気負いをさらりと流し、老練な用人は続けた。
「先日、大坂の殿様からお手紙が届き…若様がお戻りになられたら、知行地や屋敷のことは全て若様にお任せするようにとの仰せです」
「父上が?」
弥一郎は頬をこわばらせた。
やはりというべきか。いずれ自分と彩之介が高山へ戻ることなど、父は先刻承知だったのだ。想定内の出来事ではあるが、再び父の掌で踊らされたような感覚が弥一郎を不快にした。
父との確執の末、夜逃げ同然に彩之介とふたりで国許を目指した。後ろ楯である田安の御前の怒りを買い、父は窮地に陥っていた。藩政に返り咲くことはおろか、下手をすれば切腹を命じられる恐れすらあった。自分はいわばそんな父を見捨てて江戸を離れた。内藤家の改易だけは何としても避けたいと、自らが早々に国許に立ち帰り、正式に家督することを考えたのだが一一。
「父上は…大坂におられるのか?」
「はい、桝屋の寮に逗留しておられます…桝屋は若様もご存知で?」
弥一郎は小さくうなずき、
「叔父上もご一緒か?」
「はい」
聞くまでもなかろうと、朝倉は微苦笑を浮かべた。
(ともあれ…父上は腹を切らずに済んだわけだ。叔父上もご無事で一一)
あれだけの目に会いながら、父の無事を聞き心のどこかで安堵している。弥一郎はそういう己の甘さが歯がゆい。ちらりと肩ごしに振り返れば、彩之介の案ずるような眼差しにぶつかった。
「そちらは?」
朝倉が少し伸びをして、弥一郎の後ろを伺った。
弥一郎は貌(かたち)をあらため、
「江戸に滞在中、小姓として雇った。彩之介じゃ」
半歩下がって身体を開くと、後ろに控える彩之介が一礼した。
朝倉は式台の上から彩之介にひたと視線を当てた。
「ほう…これは」
意味ありげな溜息に、
「なんじゃ」
弥一郎は過敏に反応した。
「いえ…べつに」
含み笑いを洩らしかけた朝倉を、弥一郎が大声で遮った。
「朝倉、足を洗いたい。早う濯ぎ桶を持ってこさせよ」
朝倉は改めて平伏すると、
「はっ…これは気がきかぬことで。茂吉!早うせぬか!」
台所に向かい、胴間声で下男を呼びつけた。
*
(父上が大坂においでとは…)
桝屋ならよく覚えている。この春、父と叔父と三人で世話になった。父が援助してきた廻船問屋・島崎屋と懇意な大坂の豪商だ。温和らしい福相をそなえた老人で、弥一郎のような若造をも決して軽く見ず、実に丁寧な態度で接した。
(田安の御前とはいかがしたのであろう?
切腹は免れたとはいえ、彩之介を本田家に差し出せなんだゆえ…相当ご機嫌を損ねたに違いない)
事は妾腹の藩主三男・三郎を本田家の養子にという、父・帯刀の計略から始まった。養子という名目で、三郎を若衆狂いの老人、駿河五万石の当主・本田忠直に差し出そうとしたのだ。三郎を疎んじる正室・お牧の方(現・宝寿院)に取り入るために父が書いた筋書きだった。お牧の方の兄、田安慶久をも巻き込み、三郎の父、藩主・信輝公に圧力をかけたが、信輝公は悩みぬいた末、この話は受けられぬとつっぱねた。本田家に対し仲介の労をとった田安慶久は面目を失うこととなり…。
田安慶久は三郎に面ざしのよく似た彩之介を、代わりに本田家に差し出せと父に命じたのだった。
江戸で雇ったことにしているが、彩之介は元々大坂の陰間茶屋にいた。行きがかり上、叔父についていった新町の『大和屋』で、弥一郎は藤若と名乗っていた彩之介に出会った。弥一郎が秘かに恋心を抱いていた三郎に似た容姿と、客あしらいに慣れぬ哀れな様子が、弥一郎の心を捉えた。元藤堂藩士の子と聞き、父・帯刀が不憫がって請け出したのだが…。彩之介を何かで利用しようとの思惑が、既に父の腹の中にはあったのだろう。
彩之介を小姓として召し抱え江戸で共に暮らすうち、弥一郎は心から彩之介をいとしむようになった。愛らしい姿形だけでなく、彩之介は気ばたらきもでき、何より側にいるだけで弥一郎を和ませてくれる。
ふたりは弥一郎の部屋で旅装を解いていた。
「弥一郎さま、お茶をお持ちしましょうか」
てきぱきと弥一郎の着替えを手伝いながら、彩之介がたずねた。
「うむ、彩之介、台所はどこかわかるか?」
「はい。探しまする」
薄いえくぼを浮かべて彩之介がうなずいた。
彩之介は後ろから弥一郎に小袖をきせかけ、帯を締めにかかった。
「先程、玄関に濯ぎ桶を持ってきた下男の茂吉と、おたけという婆がおる。どちらも私が赤子の頃から仕えておる忠義ものじゃ。わからないことがあったら、その者たちに聞くがよい」
弥一郎の帯を結び終えた彩之介は、
「はい。そのようにいたします」
膝立ちの姿勢で主人を見上げ、こくりとうなずいた。
弥一郎が目を細めて見つめると、彩之介の頬がわずかに染まった。
彩之介は一礼し、弥一郎の脱ぎ捨てた旅の衣服を片付け始めた。
弥一郎は自らも畳に膝をつき、彩之介を後ろからふわりと抱きしめた。
「彩之介…本日よりここがそなたの家ぞ」
「弥一郎さまっ」
彩之介が肩ごしに振り返る、
子鹿のような眸はしっとりと潤みを帯びていた。
「表向きは小姓だが、そなたは私の弟とおもうておる」
胸に抱きこんだまま、後ろから前髪に頬を寄せれば、
「…もったいのう、ござります」
彩之介が声を詰まらせた。
「何を言う」
彩之介の柔らかな頬に、弥一郎はそっと唇を押し当てた。
「そなたは私の宝じゃ」
「弥一郎さま…っ」
「ゆめ、忘れるでないぞ」
言い聞かせるがごとく、弥一郎は抱きしめる腕に力を込めた。
つづく
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