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春先に大坂へと旅に出て以来、屋敷に戻ったのは半年ぶりだった。とりあえずは帰国の報告をせねばならない。弥一郎の足は当然のように筆頭家老・溝口主膳の屋敷へ向かった。堀割り沿いの楓並木は今年も燃えるように鮮やかだ。下城の時刻を見計らって訪うと主膳は在宅していた。弥一郎は即座に書院に通され、客人として鄭重な扱いを受けた。
主膳は弥一郎の帰郷を祝着至極と喜び、江戸ではどこぞの塾に通われたのか、などと滞在中の様子を尋ねた。お互い礼儀正しく無難な会話を続けながらも、主膳は父・内藤帯刀の動向を知りたかったのだろう。あからさまではないが、端々にそれが滲み出るのを弥一郎は肌で感じとっていた。
だが主膳も本日の用向きは察しがついていたと見え、弥一郎の挨拶が済んだ時点で切り出した。
「さて、弥一郎殿。国許へ戻られたとなれば、そろそろ正式にお役についてはいかがかな」
弥一郎は平伏し、
「ありがたき幸せにござります」
自分から乞い願わずにすんだことを感謝した。
「取急ぎ江戸の殿に書状を送り、貴殿の家督の儀、お願い申し上げる」
「ご配慮、痛みいりまする」
「なに、案ずることはない。殿も帯刀殿がお役を退いた時点で、そなたに跡を継がせるお考えであったゆえ」
「はっ」
「お役目のことも、改めて殿にご相談申し上げておく」
「それがし、城中のことは何もわからぬ若輩もの。よろしくお引き回しのほど、お願い申しあげます」
あくまで低姿勢な弥一郎に主膳は好感を持ったらしい。
「うむ。弥一郎殿はいずれ藩政の一角を担うお人じゃが、お若いうちは色々な経験を積むことが肝要じゃ」
鷹揚な笑みを浮かべてうなずいた。
弥一郎は丁寧に一礼したのち、主膳の前に居住まいを正した。
「溝口様。本来ならば藩金流用は大罪。父はもちろん、それがしも連座の罪にて切腹仰せつかるところにござりました」
弥一郎の凛とした声音に主膳も貌(かたち)を改めた。
「弥一郎殿」
「殿や溝口様の御寛容は終生忘れませぬ。正しい政(まつりごと)のなんたるかを肝に命じつつ、一心に御奉公をいたす所存にござります」
弥一郎は一旦言葉を切ると、
「それがし、父の轍は踏みませぬゆえ」
「…殊勝なお心がけじゃ」
上座の主膳が感じ入ったようにうなずいた。
*
夕暮れ時、溝口邸から屋敷に戻り着替えたとき、脱ぎ捨てた襦袢はかなりの汗を吸っていた。内藤家当主として主膳に侮られまいとの気負いから、我知らず、背中にじっとりと汗をかいていた。弥一郎は新しい襦袢に袖を通しながら、己の青さを笑った。
(何と言うざまじゃ)
彩之介は訝しげな顔で襦袢を手にとりながらも、余計なことは尋ねない。
「弥一郎さま、夕餉の前に湯をつかわれますか?」
「うむ、そうじゃな」
「では用意してまいります」
弥一郎が何も言わずとも、彩之介は主人の状態を察して動く。
少しひとりになりたかった弥一郎は、そういう意味でも救われた気分だった。
陽が沈みあたりが夕闇に覆われると、黄味がかった行灯の明かりがぼうと浮び上がってくる。弥一郎はほっと肩の力を抜いた。
溝口主膳が政敵の息子である自分を評価し助命を決めたことに、弥一郎は心から感謝していた。されど感謝はしても溝口家に媚びへつらう気持ちは毛頭ない。今の主膳と自分の『格』の差は歴然だが、泰然と余裕を見せる筆頭家老を前に、弥一郎は精一杯の矜持で対峙した。
我ながら上首尾と思うたが、その実、襦袢は冷や汗まみれ。全くもってお笑いぐさだが、弥一郎は今日のことを胸に刻んでおこうと考えた。
ふと思う。
十九の時の誠之進殿が同じ立場なら、いかがしたであろう…と。
代々、溝口家と内藤家はいわば対立関係にあった。胸襟を開いて友となる相手ではなかったが、年のそれほど離れておらぬ筆頭家老の嫡男・誠之進は、藩校時代から文武に秀で、執政の家に生まれた者はかくあるべしという、弥一郎の中の規範になっていた。
だが弥一郎にとって誠之進は、尊敬の対象と同時に若君・三郎をめぐる恋敵でもあった。三郎と守役の誠之進の間には、何人たりとも割り込めぬ絆があった一一。
本日溝口家を訪れ、誠之進と三郎が自分を入れ違いに江戸へ発ったことを知った。ふたりに相まみえる心の準備はできていたつもりだ。三郎への淡い恋は終わったのだ。わが『弟』は彩之介ひとりと心を決めた。それをふたりに会って確かめたかった。不在と知り、弥一郎はむしろ落胆を覚えた。
*
秋の気配は日に日に深まっていった。入れ代わりに冬が足早に近づいてくる。田畑や農家の軒先ではすでに冬支度が始まっていた。
内藤邸に落ち着いてから数日後、弥一郎の身の周りの世話をする合間に、彩之介はひとり庭掃除を始めた。どうせすぐに雪に埋まるのだから捨ておけと、弥一郎がいうのも聞かず、彩之介は来る日も来る日も広大な庭の立ち枯れた雑草を抜き、落葉を集め、せっせとたき火で燃やしている。数の減った奉行人たちは自分の受け持ちの仕事で手一杯。用人の朝倉は手伝ってやるでもなく、止めるでもなく、『精が出ますな』と彩之介の好きにさせていた。
彩之介は毎日くたくたになるまで働いた。慣れぬ外仕事で彩之介の両手が荒れ始めた。これから厳しい冬がくる。水仕事で彩之介の可憐な手はさらに荒れるだろう。小姓のはずが、人手不足ゆえに今や下男の仕事まで手伝っている。夕餉のあと学問を見てやろうと思っても、文字を追っているうちに彩之介の瞼は重くなってしまう。文机につっぷした彩之介の背に、自分の羽織をそっと着せかける弥一郎だった。
領内がすっかり冬景色となった十一月半ば、高山藩に激震が走った。江戸の信輝公が心の臓の病でみまかった。秋口から発作を起し、何度か持ち直したものの、とうとう力尽きたのだと城下ではもっぱらの噂だった。藩士領民が喪に服し、重臣一同が対応に終われるなか、弥一郎の家督の儀は一時棚上げとなった。
藩主の死による情勢の変化は、弥一郎にはいかんともしがたい。
お役目を賜らぬまま年を越し、雪に覆われた冬を耐え一一。
そして春はふたたび巡ってきた。
内藤屋敷の庭も雪が溶け、ふたたび地面が顔をのぞかせた。昨年の秋、彩之介が懸命に手入れをした介あって、木瓜などの花木だけでなく、地面を覆うカタクリヤすみれが一斉に芽吹きを迎え、次々とかわいらしい花を咲かせた。
雪解け水が滔々と流れ、城下の桜もすっかり葉桜になった頃、三郎信尭と従者の一行が帰国した。
弥一郎は用人の朝倉とともに、門前にて一行を出迎えた。乗り物の側につく、三郎の後見、溝口誠之進がいち早く弥一郎の姿を目に止めたようだ。目深にかぶった笠を持ち上げ、遠くから弥一郎に黙礼した。
弥一郎は黙礼を返し、蹲距(そんきょ)の姿勢で行列を見送ろうとしたところ、誠之進が内藤屋敷の門前で歩みを止めた。
「弥一郎殿。お迎えご苦労にござる」
きりりとした一文字眉の下、鳶色の眸が暖かい色を帯びた。
間をおかずに乗り物の小窓がするすると開き、三郎が顔をのぞかせた。
即座に誠之進が六尺に命じ、乗り物を止めさせた。
近くで三郎の顔を見るのは、ほぼ一年ぶりであった。
少し見ぬまに随分と大人びた様子だ。
「弥一郎。久しいの」
三郎は乗り物の中から親しげな笑みを向けたが、気のせいだろうか。
いつもの晴れやかさがないように思えた。
案じた弥一郎は、乗り物のほうへ一歩踏み出した。
「三郎ぎみ…」
「息災であったか?」
「はい。お陰さまを持ちまして。三郎ぎみこそ此のたびは一一」
言いかけて、弥一郎は思わず言葉に詰まった。
殿のご逝去から半年近くたったとはいえ、三郎は父・信輝公を亡くして傷心の帰国だ。
(さぞお力落としのことだろう。以前のように屈託なく笑えるはずもない…か)
三郎は弥一郎の胸中を読んだかのように、
「うむ。突然のことで、初めは何が起こったかようわからなんだが…」
「三郎ぎみ」
「皆がよう支えてくれた。江戸の兄上にも色々とお心使いをいただいたゆえ」
健気な三郎の物言いに、
「それはようござりました」
弥一郎は胸を詰まらせながら、静かに頭を垂れた。
行列は先程から内藤屋敷の前で止まっている。
ややあって誠之進が控えめに促した。
「では…これにて」
弥一郎は深々と一礼し、門前へと退いた。
三郎は小窓の引戸に手をかけ、
「弥一郎、一度ゆるりと話がしたい。改めて使いをやろう…」
「はっ。ありがたき幸せにござります」
弥一郎が恐縮すると、三郎は小さく微笑んでするすると小窓を閉めた。
誠之進の号令とともに再び行列は前進を始めた。
行列は粛々と大手橋を渡り城門の中へと吸い込まれていく。供奉する最後のひとりが見えなくなるまで、弥一郎は自邸の門前から静かに見送った。
*
長い冬の後、待ちかねたように訪れた春だった。
新たな芽吹きの季節に、三郎が江戸から戻った。
百姓は田植えの準備に忙しく、船の往来や物資の流通が盛んになり、商人たちもこれからが稼ぎどきだ。
江戸育ちの信輝公嫡男・惣一郎のことは、過去に派手な暮らしぶりが噂になったが、藩士領民はそのひととなりを知らない。故・信輝公は慈悲深い藩主として敬愛されていたが、
『なに、実際の政務を司るのは家老座じゃ。ご城代さま(溝口主膳のこと)が健在なかぎり、儂らの暮らし向きが大きくかわることはなかろう』
領民や下士の本音は大方このようなものだ。
天候に恵まれ、日照りや洪水もなく、秋に稲穂がたわわに実れば、今年も民の暮らしはたちゆく。
願わくは、穏やかな年であってほしいとおもう。
父君を亡くした三郎に、新たな苦難が降りかからぬように一一。
そのために自分も力を尽したい。一日も早い出仕を望む弥一郎であった。
弥一郎はしばし城門を見つめたまま、門前に立ち尽くしていたが、
「若様…」
用人・朝倉の声に、夢から覚めたように振り返った。
「そろそろ中にお入りなさいませ、冷えてまいりました」
「うむ」
春のおぼろな空が、いつしか淡い夕暮れの色に染まっていた。
了
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