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葉桜の季節、三郎主従一行は無事高山へ戻り、再び西の丸の暮らしが始まった。
先の藩主、結城因幡守信輝が江戸で亡くなって半年あまりが過ぎていた。藩邸に居合わせた三郎主従は、四十九日の法要まで江戸に留まり、それを区切りに国許へ帰るつもりだった。信輝公の遺言状公開の席で正室・宝寿院から理不尽な悪意を向けられた三郎は、本音を言えばすぐにも江戸を離れたかった。しかし「真冬の街道旅は難渋するゆえ、春まで待って帰国してはどうか」と、三郎の異母兄である、新藩主・惣一郎が気づかいを示した。惣一郎の心を無にするわけにもいかず、江戸で新年を迎えた一行は、桜の季節の終りにようやく帰国の途についたのだった。
帰国後しばらくは、挨拶に訪れる重臣たちへの応対に、三郎は忙しい日々を送っていた。昨年の秋、江戸へ発った時は錦に染まっていた山々が、今は萌葱色の新芽に覆われている。町を取り囲む平野部では用水路の清掃が終わり、田植えに備え水が入り始めた時期だった。
季節がうつろったこと以外、城下の風景は何一つ変わっていなかったが、本丸の藩主の居間に、もはや父君の姿はない。
三郎はある日、乳兄弟の源蔵のみを伴い、亡き父・信輝公の居室へ忍び込んだ。信輝公自身の手による絵画、好んだ襖や調度はそのままに、ありし日の暮らしぶりを伝えている。上座にぽつりと残された脇息が、三郎と源蔵の新たな涙を誘った。
兄・惣一郎は三郎にこっそりと父・信輝公の遺髪を渡し、母・おひろの側に埋めてよいといってくれた。
江戸からの帰り道、三郎の行列は母の墓所・国昌寺のある関川を通ったが、結局、誠之進にも言い出せずに通り過ぎてしまった。
それゆえ信輝公の遺髪は未だ三郎の元にあった。
(父上、いましばらくお待ちください。必ずや母上のもとへお連れいたします一一)
三郎は瞳を潤ませながら頬を脇息に押し当て、しばし無言で父との思い出をたどった。
*
乳母のお福は父を亡くした三郎を労り、以前にも増してかいがいしく世話を焼いた。思えば三郎もはや十七歳。来年には元服という、半ば大人の仲間入りを果たした年頃だ。あまりに構い倒すのもいかがなものかと思うが、お福は三郎の食が細くなったと案じ、三郎の好きな菜(おかずのこと)をみつくろい、団子やぼた餅作りにいそしんでいた。まるで九歳の三郎が、初めて城へ来たときのようである。
三郎の後見、溝口誠之進は眉尻を下げて苦笑しながらも、お福の好きにさせている。西の丸の館に詰める近習の心はみな同じだ。乳兄弟の源蔵も、剣術指南の吉田小兵太、学友の筧松之助、警護を務める神原倫太郎、下男下女にいたるまで、沈みがちな三郎の気分を引き立てるにはいかがすればよいか、日々考えているのだった。
三郎の父、亡き信輝公の遺言で、三郎は分家と決まった。領内より知行八千石を賜るが、その場所について信輝公はお決めにならなかった。後は現藩主で三郎の兄、惣一郎に委ねられた。惣一郎の初の国入りまで、おそらく沙汰はないだろう。三郎の側としてはただ待つより他はない。
そうとなれば、三郎も元服前の最後のひとときを、自由きままに過ごしても良かろうと、誠之進はおもう。今はまだ父君を失った悲しみが尽きぬとも、いずれふたりで領内をくまなく旅したいものだ。
現在、誠之進は三郎の後見、西の丸の諸事を司る『用人』という立場だ。己もまた信輝公の遺言で、早晩、父・主膳の後を襲い、家老座の筆頭を務めねばならない。三郎と同じ屋敷で暮らすのもあと一年あるかなしか…。
無論、別の屋敷に住まうようになろうと、ふたりの絆は一一。
*
突然、からからと、地面に木刀が転がる音がした。
しばし物思いに耽っていた誠之進は、はっと音のした方を見やる。
木刀を叩き落とされた三郎が、地面に片膝を付き、悔しげに小兵太を見上げていた。
青葉繁り日一日と空の蒼さが増す、卯月も末の昼下がり。剣術指南の吉田小兵太と庭先で稽古に励む三郎を、誠之進は縁側から見守っていた。
「小兵太っ、もう一本じゃ!」
木刀を拾い立ち上がろうとする三郎に、
「こら、『まいりました』の挨拶が済んでおらぬ」
小兵太は仁王立ちで胸を張った。
なおも不服そうな三郎に、
「誠之進が相手なら、素直に言う事を聞くくせに?」
小兵太が軽口をたたく。
三郎は一瞬小兵太と目を合わせ、きっと眦を決した。
三郎は素早く木刀を小脇に抱え、
「まいりました」
片膝を地面につき、小兵太に礼をした。
ふてくされてはいないが、いささか挑戦的な眸だった。
「ふむ…」
小兵太は不精ひげをこすりながら、やれやれと溜息をつく。
誠之進にも、三郎が稽古熱心というより、なにやら意地になっている風に見えた。
再び正眼に構え直した三郎が、
「いざっ」
と声を上げた。
小兵太も仕方なく木刀を構え直したところ、
「さあさ、皆様。ひと休みなされてはいかがです?」
場違いなほど長閑な声がした。
三人が振り向くと、お福がよもぎ餅の盆を押し頂いて現れた。
「源蔵がすぐにお茶をもって参りますよ」
山盛りのよもぎ餅の後ろで、お福の満月のような顔がほころんだ。
三郎の気を散らすには丁度よかった。
誠之進は大きくうなずきながら、
「おお、うまそうじゃの。さ、ふたりとも小休止じゃ」
ふたりに向かって手招きした。
草餅の良い香りが辺りに漂う。
小兵太はさっさと構えを解き、縁側へ歩みよった。
「どれ」
さっそく一つを手づかみで頬張った。
もぐもぐと口を動かしながら、小兵太は『うまいぞ、ほれ、三郎。おまえも早くこい』と顎をしゃくった。
「三郎ぎみ、おいでなされませ」
誠之進も三郎と目を合わせ、穏やかに声をかけてみた。
黒目がちの眸が誠之進を一瞬ひたと捉えた。
ところが三郎はすぐに視線を流し、無言で縁側へ歩み寄るとお福の側に腰かけた。
口の中のものをようよう飲み下した小兵太が、
「おい、源蔵、茶はまだか!」
奥に向かって声をはり上げた。
「お茶が出るまで待てない、いやしんぼはどこのどなたですか?」
ぱたぱたと軽い足音とともに、源蔵が茶の用意をして現れた。
「お行儀よくしないと、ご家老は志保様を下さりませんよ」
「てめっ…」
志保をネタにした源蔵の逆襲に、小兵太は振り上げた拳を降ろしそこねていた。
筆頭家老・溝口主膳の息女、誠之進の妹の志保は、以前から兄の友人である吉田小兵太に思いを寄せていた。器量良しで少々勝ち気だが、娘らしく一途に慕ってくる志保を、小兵太も内心では憎からず思っていた。しかし徒歩組の吉田家と代々家老の溝口家とでは家格が違いすぎる。普通ならば縁組みなどありえる話ではなかったが、誠之進の懸命の説得により、先頃ようやく、主膳は渋々ながら首を縦に振った。
志保も二十歳を超え、主膳の眼鏡にかなう年頃の男子が、釣り合いのとれる家にいなかったのも一因だろう。行かず後家になるよりはと主膳もあきらめたに違いない。
誠之進と小兵太は酒井十太夫道場の同門で、長年身分の違いを超えて親しい付き合いをしてきたが、型破りで奔放な小兵太は、主膳の覚えがめでたいとは言いがたかった。主膳が認めているのは小兵太の剣の腕だけである。
さても調子にのった源蔵は、皆に茶をついで回りながら、
「何といっても当藩きっての名家、溝口家の親族になるんです。盆正月に法事、一族のお集りには必ず出なくてはなりません」
「そのようなもの、黙って座っておればいつかは終わる」
誠之進は一応助け船を出した。
「羽織袴できちんとお膳の前に座って…ご家老が能を舞われるのを鑑賞したりするわけですね」
「ま、まあたまにはな」
「うう、考えただけでもお気の毒です。小兵太さん、ところで白足袋なんてはいたことあるんですかね」
源蔵はここまで言って間を取ると、急にしなを作り、
「いやはや…逆玉もご苦労なことじゃのう〜」
芝居の女形のごとく、張りのある裏声で締めくくった。
無表情に腰かけていた三郎が、この時ばかりはぷっと吹き出した。
江戸で芝居の味を覚えて以来、源蔵は何かというとこの技を繰り出す。
「これ、源蔵っ」
いかに相手が小兵太でも失礼なと、お福が思わずたしなめた。
「くううっ…ひとの足下を見やがって…」
自分の抱く不安をことごとく露呈され、小兵太は歯がみするしかない。
だが言われっぱなしも業腹なのだろう。
「おう、源蔵。逆玉たあ何だ!俺は婿入りなんかしねえぞ。志保ちゃんが俺んとこへ嫁にくるんだ。そこんとこ間違えるなよ!」
小兵太は肩を怒らせてみたものの、
「同じことですよ。ふっふっふ…」
うまそうに餅をほおばる源蔵に、あっさり流された。
気の毒だが、当分源蔵にこのネタでやられるなと、誠之進は苦笑した。
「誠之進、この無礼者に何とか言ってくれい!」
「さてな…」
誠之進はそしらぬ顔で茶をすすると、よもぎ餅に手を伸ばした。
(小兵太のやつ、先が思いやられるが…ま、それがしができるだけ庇うてやるゆえ)
誠之進は笑いを噛み殺すべく、よもぎ餅をゆっくりと頬張った。
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よもぎ餅と源蔵親子のおかげで座が和んだが、餅を食べ終え茶を喫する三郎の横顔は、ふたたび憂いを帯びていた。
誠之進は談笑の輪に加わりながらも、目の端で三郎の表情をしかと追っていた。
(あたりまえだな…。やはりお怒りなのだ)
父君を亡くした悲しみだけではない。
三郎から晴れやかな笑顔を奪ったのは一一。
誰に言われずとも、その理由は誠之進自身が一番よくわかっていた。
つづく
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