一の巻
「青葉の頃」2




by 戸田采女

 昨年の夏、藩校を辞めて以来、三郎は儒者・佐伯羅山を屋敷に招き、ひとつ年下の学友、筧松之助とともに講義を受けていた。三郎が江戸へ発つ前は羅山自身が出向いてきていたが、この冬の寒さが堪えたらしく、高齢に加え近頃は病がちだという。よって佐伯塾の高弟が交代で訪れることとなった。

 佐伯羅山は若い頃、江戸の林家の塾で学んだ。その縁で、ちょうど三郎たちが戻るひと月ほど前、江戸から若い学者が高山を訪れ、この土地が気に入ったらしく逗留を続けている。その学者が今日初めて西の丸を訪った。

 名を早坂甚斎という。年の頃は三十前後、誠之進らと同世代だ。

 本日は挨拶を兼ねての短い訪問だった。半刻ほど三郎と松之助に『中庸』の一節を講じたのち、しばらく江戸の話などして西の丸を辞去した。

 誠之進や小兵太とは違い、学究肌の早坂は武芸はいかにも苦手に見えたが、話し上手で知識も豊富というのが三郎の第一印象だった。
 
 折しも誠之進は所用で今町まで出かけており、早坂との対面は後日に持ち越された。

 早坂が辞したのち、三郎はしばらく松之助とふたりになった。書見台を片付け、三郎は畳の上に大の字に寝転んだ。松之助は一応臣下なので、かたわらにきちんと正座している。夕風が奥庭の笹竹を揺らし、さわさわと耳に心地良い葉音が部屋の中まで聞こえた。

「すまぬな…松之助」
天井を見上げたまま、三郎が切り出した。
「ふたりきりで講義を受けるより、まことは藩校のほうが楽しいであろう? 私に付き合わせているのが、時々申し訳なくなる…」
「そのことですか」
松之助はふっと口角を上げて微笑み、
「私は、こちらへ呼んでいただいてよかったと思っています」
「まことか?」
本心だろうか、と三郎はやはり訝しくおもう。
「ここだけの話ですが…」
声を潜めて膝行した松之助を、三郎が見上げた。
「藩校も楽しゅうございましたが、私は武芸の時間が辛うて辛うて…」
「うむ」
それは昔から知っていると、三郎は苦笑した。
「それと…生意気ですが、学問に関していえば、佐伯先生の塾は藩校より格上と存じます」
「さようか?」
「もちろんですよ。普通、上士の師弟か重臣方から才能を認められた者でなければ、まず出入りを許されません」
言われてみれば確かにそうなのかもしれない。
「誠之進様も十四歳まで佐伯先生の塾で学ばれたとか」
「らしいな…」
ぼんやりと相づちをうった三郎に、松之助は何やら熱く語りだした。
「門閥の師弟でも、頭の悪いもの、不熱心なものは入門させないそうです」
松之助の瞳がいたずらっぽく光った。
誰のことを言っているのか、三郎もおおよそ見当がついた。
門地を鼻にかけるばかりで、武芸も学問もぱっとしない、奥野と酒井のバカ息子どものことだろう。
「そんな佐伯塾の空気に触れられるだけでも、私は仕合せものにござります」
「そこまで言うのなら…」
三郎は微苦笑を浮かべて軽い溜息をついた。

 しばし三郎は無言で天井を見上げていたが、
「私はな…松之助」
「はい」
「藩校が楽しかったぞ」
「三郎ぎみ…」
「無論、気の合う者も合わぬ者もいたが、身分なぞ関わりなく机を並べ、一緒に相撲を取ったり、車座になって弁当を食べたり…」
「はい、それは私も」
「…去年まで通っていたのに、何やら遠い昔のようだな」

 思わず涙ぐみかけた三郎を、松之助のりすのような瞳がじっと見つめていた。




 三郎が藩校を辞めたきっかけは誠之進との出奔だったが、あの事件がなくても、藩主の血筋に連なるものが元服し、分家を起したあかつきには、中・下級藩士の師弟たちと共に学び武芸に励むなどありえぬ話だった。

 仔細あって町人として育った三郎が、城での暮らしにとけ込めるよう、思えば守役の誠之進は随分と型破りなことをしてのけた。西の丸主従の家族のような暮らし、藩主三男の三郎を藩校へという決断…。武家の作法はもちろん、能や茶の湯など、大名家の若君として恥ずかしくない教養を授ける一方で、三郎に息の詰まる暮らしをさせまいと、誠之進がどれほど心を砕いてきたか。

 その献身は今でも忘れていない。

 誠之進の愛情が薄れたとも思わない。

 三郎を守るために、溝口の家も家老の地位も、すべてを捨てる覚悟で出奔を試みた…誠之進の誠を微塵も疑ったりはしない。

 されど一一。
 
 江戸で過ごした最後のひと月余り、誠之進の心は自分のもとにはなかった。

 鶯が鳴き梅の香漂う頃、櫻田右近が中屋敷を訪ったあの日一一。

 右近の手前大人ぶって、『誠之進とつもる話もあるだろう』などと、心にもないことを言った。

 そのくせ、誠之進と右近をふたりだけにしたことを、後で歯がみするほど悔やんだ。

 右近は誠之進が好きなのだ。

 おそらくは藩校時代からずっと一一。
 
 あの日を境に誠之進の様子がおかしくなった。
 
 何があったのだろう。

 ふたりは何を話したのだろう。

 夕餉のあと、誠之進の部屋をたずねたら、もぬけの殻だった。

 私に断りもなく夜、外出するなど初めてのことだ。

 夜が更けても誠之進は戻らず、翌朝、泥酔して源蔵の長屋に転がりこんだという。

 あの夜、誠之進は右近と一緒だったのだろうか?

 まさか、ふたりの間に間違いが一一。

 それだけはあり得ぬと自分に言い聞かせたが、一度胸にきざした疑いは、墨を流したように広がっていった。

 江戸を離れた今も、その跡が消えない。

 父とも兄とも頼み、契りを交わした誠之進に、以前のように素直に甘えられない。

 誠之進が自分を裏切ったはずはない。

 なれど誠之進への磐石の信頼に、右近の存在が不安な影を落とす。

 高山に戻り、以前と変わることのない西の丸の暮らしが始まっても、誠之進の心があの者に捕われているように思えるのだ。

 誠之進は側近く仕えながらも、どこか他人行儀な気がする。

 自分が誠之進を遠ざけているから、あちらも距離を保っているのやもしれぬが…。

 誠之進のまことの心が知りたい。

 なれど、面と向かって右近との仲を問いただすなど、死んでもできぬことだった。





「三郎ぎみ…」
心配そうな松之助の呟きに、三郎は我に帰った。

(ああまただ…。埒もないことを)

 せっかく友と過ごす時間を、己ひとりの感傷に浸っていてはいけない。
三郎は気持ちを切り替えようと、勢いよく半身を起し胡座をかいた。
「すまぬ、愚痴をいうた」
「いえ、そんな」
「私も…来年には元服じゃ。自分の立場はわかっているつもりだ」
こくこくうなずく松之助を前に、三郎は懸命に笑みを作った。

(屋敷で鬱々と過ごすからいかぬのだ。いらぬことを考えてしまう…)

 三郎はそう考えると、
「それより松之助、明日、野駈けに出かけぬか?」
「えっ…とそれは」
松之助は目をみはり、声を落とした。
「お忍びでですか?」
りすのような瞳がおどおどと揺れた。
三郎は微苦笑を浮かべ、
「案ずるな。遠くまで行きはせぬ。せいぜい荒井宿のあたりまでじゃ」
「はあ…」
なおも逡巡する松之助に、三郎が詰め寄った。
「そなた、気が進まぬのか?」
「いえ、決してそのような」
「ならば、いかがじゃ? 明日は佐伯塾の講義はないぞ。誠之進も夜までは戻らぬ」
困ったように俯いていた松之助が重い口を開いた。
「な、なれど私がお供では、いざというとき三郎ぎみをお守りできませぬ」
頭脳明晰と誉れ高い三郎の学友は、非力で少々気が小さいのが難点だった。
「そのようなこと…」
三郎は大きく溜息をつき、
「案ずるな。源蔵や倫太郎も連れていく」
「ならば安心にござりますが…」
「何だ。まだ何かあるのか?」
「誠之進様に断りもなく…勝手に遠出などよろしいのでしょうか?」

 この一言が三郎の勘に触った。
「松之助」
急に重々しい口調で名を呼ばれ、松之助はおもわず居住まいを正した。
「私とてもう子供ではない。野駈けに出るくらい、いちいち誠之進の許しなぞいらぬわ!」
いつになく声を荒げた三郎に、
「はっ…申し訳、ござりませぬ!」
松之助が目をみはり、平伏した。

 これが源蔵なら『またまた三郎ぎみったら。何を拗ねてるんですかねえ〜』と、呑気に突っ込んでくるところだが、生真面目な松之助は三郎の八つ当たりを上手にかわすことができない。

 畏まったまま、いつまでも顔を上げぬ松之助に、
「もうよい、松之助。大きな声を出して悪かった」
「い、いえ」
「今日は下がってよいぞ…」
力なく呟くと、三郎は自己嫌悪に肩を落とした。
「三郎ぎみ、明日は何時頃お迎えにあがれば…?」
おずおずと尋ねる松之助に、
「野駆けか…? もうよい、その気が失せた」
「あ…」
「またにしよう」
これ以上不安にさせまいと、三郎は努めて穏やかに微笑んだ。
 

つづく


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写真は「空色地図」さんからお借りしています。


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