一の巻
「青葉の頃」3




by 戸田采女

 翌朝、日の出前に厩を訪れた三郎は、寝わらを取り替えていた御厩方に申し付け、愛馬の『疾風(はやて)』に鞍を着けさせた。

 突然のことで驚いた馬番は、言われるままに作業をしていたが、鞍を付け終わる頃になって不安を覚えたらしい。
「若様、おひとりで出かけられるので?」
後で厄介なことになっては困ると、顔に書いてあった。
立場上、致し方なかろうが、三郎はそれを斟酌してやる気はなかった。
今日はどうでも出かけるつもりだ。
「なに、その辺りを少し走るだけじゃ」
三郎は鐙(あぶみ)に片足を乗せ、ひらりと馬に跨がった。
「まだ飼葉もやっておりませぬが…」
「案ずるな、途中で食べさせてやる」
三郎は馬に言ってきかせるがごとく、首筋をぽんぽんと叩いた。
「はあ…」
困ったように首をかしげる馬番に、
「昼過ぎには戻る。誰かに尋ねられたらそう言うておけ」
三郎は笑顔で言い残すと、馬の脾腹を軽く蹴って走りだした。

 まだ肌寒い早朝の空気が心地よい。
三郎は厩舎の脇から人気のない馬場を突っ切って、搦手門へと向かった。




 彼方に妙高の山々を望みながら、三郎はひとり馬を駆った。
田植えの終わった水田が一面にひろがり、萌黄色の苗が朝日を受けてきらめいていた。

 無理をすれば、母の墓所のある関川まで日帰りできたかもしれない。
なれど帰りが夜になっては、いくらなんでも皆が心配する。
松之助に言った通り、今日のところは荒井宿の辺りで引き返すつもりだった。

 高山城下を出て、街道を荒井方面にしばらく走ると、矢代川にかかる大橋に出会う。1711年(正徳元)、松平氏の代に作られた。以来、北国街道一の大橋として、参勤で江戸に上る北国の大名行列が渡ったほか、江戸と高山を結ぶ重要な橋であった。




 途中休憩がてら寄り道もしたが、天気も快晴、疾風の調子も良く、一刻(二時間)もかからぬうちに荒井宿に至った。時刻は辰の刻(朝8時)を過ぎたくらいである。三郎は慣れた手綱さばきでゆっくりと宿場町を通り抜けた。

(やはり、今日はひとりで来て正解だったな)

 松之助たちとわいわい出かけるのも楽しいはずだが、考えてみれば松之助、源蔵、倫太郎の三人は騎馬の身分ではない。藩校で馬術の時間はあるが、三人とも一応乗れますという程度だった。思いきり走りたい日には、やはり誘うべきではなかったのだ。

 昨日から企みを胸に秘めていた三郎は、昨夜、夜食と称してお福に握り飯を作らせていた。それを竹の皮に包み、懐に忍ばせて持ってきた。もちろん竹筒も携帯し、途中の神社で湧水を汲んだ。

 三郎は自分の朝餉の前に、疾風を立場(馬の休息所)で休ませることにした。

(よしよし、よう走ったな)

 馬番に約束した通り、疾風に水と飼葉をやった。若君とはいえ、三郎は九歳で初めて自分の馬を与えられて以来、時々厩舎に出向いて馬の世話をしてきた。生き物が好きな三郎には全く苦ではない。

 着物が多少汚れても平気だ。公式の場や客人に対する時以外、普段三郎は木綿の着物を着ている。今日もひときわ地味な紡の小袖と袴で出かけた。

(ふふっ…若君はおろか、重臣の息子にも見えるまい)

 疾風の世話をしている間、誰にも見とがめられぬのが、ちょっと面白い三郎であった。
 
 疾風が飼葉を食べ終わる頃には、さすがに三郎の胃袋もぐうと音をたてた。
城を出る前には水しか口にしなかったからだ。
三郎は立場を離れ、疾風を路傍の大榎につなぎ、木の根元に腰を降ろした。
腹がくちくなった疾風は大人しく木につながれ、ゆったりと尾を振っている。

 賑やかな話し声とともに、小出雲坂のほうから、背負い籠に春野菜を積んだ百姓娘たちがやってきた。城下に行商にでも行くのだろうか。三郎の姿を目に止め軽く会釈すると、何やら恥ずかしげに脇を通り過ぎていった。

 頭上には白雲たなびく青空が広がり、若葉の匂いのする風が吹き抜けた。
「別に供などおらずとも…ひとりでどこへでも行けるのじゃ」
三郎は空を見上げたまま、軽く溜息をついた。

 今までは、守役の誠之進の顔をたてて言う通りにしてきたが…、と、三郎は胸の中で少し愚痴ってみた。

「いずれ分家の当主となれば…存外、好きなように出歩けるやもしれぬ」
三郎はにんまり笑うと、懐から握り飯を取り出し、ゆっくりと頬張った。
道をゆく荷車や旅人を眺めながら、三郎は久方ぶりの開放感に浸っていた。

「分家のあかつきには…私はいったいどこの領主になるのだろう」
行き交う人馬を眺めながら、三郎はぼんやりと物思いにふけった。

『誠之進といつまでも西の丸で暮らしたい。領地など賜らずとも、部屋住みのままで構わぬ…』

 これまで、幾度となく心の中で叫んできた三郎だったが、父の遺言で正式に分家を許され、国許に戻った今、少なからぬ心境の変化があった。

 重臣たちにも既に信輝公の遺言は伝わっていた。江戸在府の藩主・惣一郎も三郎の分家を認めたことで、重臣たちの三郎に対する態度が微妙に変わった。以前、三郎を厄介者と見ていた一派が、領内に根を降ろすことになった三郎を、主筋としてまともに扱い始めたということか。

 周囲の空気が変わったことを読み、もはや甘えていてはならぬ、亡き父上のお言葉に立派に添ってみせようと、三郎自身の腹も座りつつあった。

 農村か、海の町か一一。
いずれの地を与えられようと、百姓や町の民と交わり、皆の暮らしを支える領主でありたいとおもう。大きな政などできぬが、領民たちが飢えず幸せに暮らせる助けになりたいと、三郎は切に願った。

 溝口家の知行地の治め方を間近に見て育ったからかもしれない。筆頭家老・溝口主膳は二十代で家老の座について以来、新田開発や近頃では海運業と交易の振興など、高山藩十一万石を豊かにする道を模索する一方、知行地の領民への目配りをおろそかにしなかった。年貢は四公六民、不作や飢饉の年はできる限り年貢を猶予したり軽減してやった。

 そして仁愛を持って領民を治める主膳も、代官の不正などには峻厳な裁きを下した。

 主膳の考えは、嫡男・誠之進にもしかと受け継がれ、領民たちは自分たちの行く末もこれで安泰と、胸をなで下ろしていることだろう。堀、山崎の両家は主膳の例に習っていたが、なかなか他家の領地ではこうはいかない。

 溝口家と誠之進は臣下だが、三郎のよき手本でもあった。




 握り飯を食べ終わった三郎は、ふたたび疾風に乗り荒井宿周辺を散策した。東本願寺へ参り、その足で川べりへ行き疾風に水を飲ませた。次は小出雲坂の上まで登ろうかと思ったが、途中の三叉路で気が変わった。

 ここで里山への道を入ると、『花心亭』がある。
誠之進と最後に出かけたのはいつだったろう…。
まだ契って間もない頃、人目を避けての逢瀬に利用した、藩公の別邸だった。

 三郎は手綱を引き、花心亭への道を選んだ。
雑木林が両側に迫る道を、三郎は愛馬の疾風とともにゆっくり進んだ。
誠之進と花心亭を訪れたのは夏の終わりから晩秋まで。
初夏のこの時期にやってくるのは初めてだった。

 深い木立の中から、野鳥の羽ばたきやさえずりが聞こえてくる。
馬上から見える梢にも、クロツグミが羽を休めている。

 一本道を登っていくと、やがて花心亭の黒板塀が見えた。
塀にそって進み門前に至ったが、案の定、正門も通用門も固く閉ざされ、人の入った形跡はない。

 三郎は疾風に乗ったまま、しばし門前で立ち止まった。

 誠之進とふたりで茸狩りや釣り興じた秋の風景が、三郎の脳裡に蘇る。

 始まったばかりの恋に夢中になっていた頃だ。

 三郎は馬上で深い溜息をついた。

(何をやっているのか…私は)

 つい花心亭に足を向けてしまったが、冷静に己の姿を眺めれば、何やらいたたまれぬ気分になった。

 会えなくなったわけでも破局を迎えたわけでもない。

 国許に戻って以来、誠之進は以前と変わらぬ眼差しで、日々、三郎を見守っている。

 誠之進のわずかな揺らぎにかくも動揺し、まともに目を合わせて話すらできない。そのくせ、女々しく思い出の場所に来てしまう自分が情けなかった。

「すべては…誠之進を信じればよいことではないか」

 声に出して呟き、自らに言い聞かせる三郎であった。

(さあ、もう十分息抜きはしたぞ。約束通り、昼過ぎには戻ってやらねば、馬番が叱られるやもしれぬ)

 三郎はきゅっと手綱をひいて馬首をめぐらせた。
軽く馬の腹を蹴り、ゆるやかな坂道を下る。
雑木林を抜け先ほどの三叉路に出ると、三郎は疾風に鞭をあてながら、雑念を振り切るがごとく風を分けて街道を走った。




 昼時、ふたたび宿場に戻った三郎は、蕎麦のうまそうな匂いに引かれて立ち止まった。
馬方や商人で賑わう、町の外れの一膳めし屋だ。
三郎はさっそく馬を降り、疾風を店の脇につなぐと、縁台に腰かけてあたりを見回した。
「いらっしゃい、何になさいます?」
注文を取りにきた老爺に、
「あれと同じものを」
馬方のすする蕎麦を指さして頼んだ。

 やがて供された熱々の蕎麦は、黒い太めの蕎麦に刻んだ油揚げとねぎがたっぷりかかり、汁の味は少々濃いめだが、馬で走った後にはそれがかえって美味しく感じられた。

 鬱々と思い悩んでいても、若い身体は腹が減るのだ。

 三郎は一心に蕎麦をすすり、汁もほどんと飲み干すと、
「親爺、馳走になった」
縁台にどんぶりを置き、財布から一分銀を取り出して添えた。

 三郎はすっと立ち上がって大刀をたばさんだ。きびきびした動作でふたたび疾風に跨がると、何やら店先から親爺が追いかけてきた。
「お武家さまっ」
「何じゃ」
泡を食ったような親爺の様子に、
「おお、そうか、足らぬのか?」
三郎が慌てて財布を取り出そうとすると、今度は丼を抱えた客の視線が集中した。
「すまぬ、いくらじゃ」
適当に銭を置かず、きちんと尋ねればよかったと後悔したが、
「八文でさあ。銀なんぞもろうても釣り銭に困りますだ」
「すまぬ、すまぬ」
多過ぎたのなら大事なしと、三郎はほっとしたように笑った。
「釣りはよいから取っておいてくれ」
「へっ…ほんとによろしいんで」
目を見はる親爺の後ろで、馬方や荷をかついだ商人がひそひそ話をはじめた。

『蕎麦に一分銀を出すなんざ…いったいどこの世間知らず様だい?』
『将軍家御落胤』
『ばかか、おめえは』
『まて、あの年格好といやあ…あっ!』
薬売りの男が思わず縁台から立ち上がった。

(やばっ…)

「雑作をかけた」
馬上から親爺ににっこり言い残すと、三郎は慌てて疾風の脾腹を蹴った。
勢いよく走り出した疾風は、主人の意を心得たように、街道を一目散に駆け抜けていった。


つづく


「青葉の頃」2
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写真は「空色地図」さんからお借りしています。


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