番外編2「花薄」

この巻の主な登場人物


by 戸田采女


 明和三年八月。
越後の短い夏も終り、朝夕に袂に涼しさを覚える季節になった。野山に揺れる薄の穂が、早くも秋の訪れを告げていた。

 今年の六月、高山は大洪水に見舞われた。1614年(慶長19)、高山城築城の際、城の外堀を作るために川をせきとめて青田川の流れをかえる普請を行った。だが、無理に流れを変えたために、以後、城下はたびたび洪水に見舞われる結果となった。

 あれから二ヶ月余り。堤防の本格的な普請は、まだまだこれからだったが、城下は一応の落ち着きを取り戻していた。だが、被害を受けた田畑ではもはや秋の収穫は絶望的だ。洪水の被害を受けなかった地域も、長雨のため、米やその他の商品作物も総じて不作である。今年、来年と、農民の生活はもとより藩財政をも圧迫することは必至と思われた。

 藩主、結城因幡守信輝の三男、三郎信尭の守役を勤める誠之進も、重臣達に混じって様々な復旧計画の立案に携わっており、多忙な日々を送っていた。

 誠之進は上席家老・溝口主膳の嫡男であり、いずれは藩政の中枢となる人物だ。今は藩主・信輝公の命で三郎の守役を勤めているが、早ければ数年後には父の跡をついで家老職となる。今回のような非常時には率先して藩のために働かねばならない。

 最近は、朝夕の食事はかろうじて三郎と一緒にとっているものの、供に武芸に励んだり、勉強を見てやるような時間はめっきり減っていた。

 友人たちと楽しい藩校生活を送っているとはいえ、父君は現在、江戸在府。加えて、三郎の祖父、関川宿の加賀屋久右衛門は、肝の臓の病でもやは余命いくばくもない。三郎も既にそのことを知っている。七月の盂蘭盆会には三郎の母の墓参もかねて関川を訪れたが、衰弱ぶりは目を覆うばかりであった…。

(斯様な時期に、若のお側に居て差し上げることができぬとは…。心細い思いをしておられるのではないだろうか…。)

 気掛かりを残しながらも、やむをえず日々の御用に追われる誠之進だった。




 月冴ゆる夜のことだった。
夜半、宿直の門番が離れの誠之進の居室にやってきた。次の間から声をかけられ、誠之進は浅い眠りから目覚めた。

 誠之進は夜具の上に身を起こし、
「何事じゃ? 斯様な夜更けにいかがした?」
襖の向こうに声をかけた。
「…関川の加賀屋から遣いが参っております」

「なに…」
誠之進はすっと指先が冷えるのを感じた。加賀屋と聞いた瞬間、何事が出来(しゅったい)したか…すぐに悟った。誠之進は瞑目すると、胸の奥から重い吐息を吐き出した。
「遣いの者に会おう…。離れへ連れて参れ」


 夜道を懸命に歩いてきた加賀屋の番頭は、誠之進の予想通り、三郎の祖父、加賀屋久右衛門の訃報を伝えた。誠之進は道中の労をねぎらい、下働きの者を起こして番頭が休む部屋を用意させた。
 その足で三郎の居室へ向かう。祖父の死を伝えるという、辛い仕事が待っていた。


 手燭片手に摺り足で廊下をいく。三郎の居室のある棟の入口に控える宿直の武士が、誠之進の姿を認めて、はっと居ずまいを正した。無言で入室する誠之進を、武士は低く首を垂れて見送った。
 次の間から居間へ入り、寝所の襖の前に座ると、誠之進は室内に向かって低く声をかけた。

「三郎ぎみ…、誠之進にござります」

 応えはない。熟睡しているのだろうか。
再度呼びかけても応えがない。誠之進は小声で「御免」と呟くと、襖を開けて中へ入った。

 十二畳の部屋の中程に敷かれた夜具の上、三郎は穏やかな寝息をたてて休んでいた。

 静かに枕元に歩み寄り、手燭を脇に置き、正座した。

 橙色の仄かな灯りに照らされ、三郎の寝顔が闇に浮んだ。

 誠之進はしばし三郎の寝顔を見入った。どんな夢を見ているのだろう…。微かに笑みを浮かべたような穏やかな寝顔。形の良い、いくぶんふっくらとした唇から、規則正しい息が洩れていた。

 幸せな眠りを妨げたくない…。なれど、祖父の死を伝えぬわけにはいくまい。葬儀に間に合いたければ、夜明けには出立せねばならない。誠之進は身を切られるような想いで、三郎の肩に手をかけて、そっと揺り起こした。

「三郎ぎみ…」
「…ん」
睫が揺れたかと思うと、瞼が重そうに開き、黒目がちの眸が現れた。
「…誠之進?」
寝ぼけ眼の三郎に、誠之進は柔らかく微笑みかけた。
「…いかがした?」
誠之進をぼんやり見つめる眸が、徐々に覚醒する。
枕元に座った誠之進は、三郎が完全に目覚めるのをひたすらじっと待つ。
やがて、三郎は自分を静かに見おろす、誠之進の沈黙の意味を悟った。

 三郎がゆっくりと夜具の上に身を起こした。
「……もしや、おじじ様が?」

 「先程…加賀屋から使いが参りました。久右衛門殿、昨日の昼前…みまかられました、とのこと」
訃報を告げた誠之進を、三郎が放心したように見つめている。
しばし、主従は無言で眸を見交わしていた。

 鈍器で殴られたような、一瞬の無感覚の後、衝撃がじわじわと三郎の心を浸していく。三郎の哀しみと共鳴するがごとく、誠之進の胸にも鈍い痛みが広がった。

「…夜明けに出立すれば、何とかご葬儀か、野辺の送りには間に合いましょう…」
「行っても…構わぬのか?」
黒目がちの瞳から、みるみるうちに涙が溢れた。
「当たり前です。三郎ぎみのお爺さまですよ。…誰が何と言おうと、私がお連れいたします」
「誠之進…」
「…私も久右衛門殿にお別れを申し上げたいのです…」

 誠之進は久右衛門から三郎を託された日のことを思いだしていた。( 壱の巻2参照)

『万が一、事あらば…三郎ぎみは私が一命を賭してお守りいたします」
『あなた様の誠意を信じましょう…』

 まだ二十歳の若造だった自分と久右衛門の交わした約束…。
誠之進の耳の奥で、あの時の久右衛門の声が聞こえたような気がした。




 葬式から野辺の送りと、加賀屋の家族、関川の村びと、駆け付けた三郎と従者の一行に見送られ、加賀屋久右衛門は逝った。

 江戸幕府開闢以来、関川宿で本陣を営んできた加賀屋は、宿場の外れにある「国昌寺」に立派な墓所を有している。三郎の母、おひろもここに墓があった。埋葬が終った翌日、関川宿を発つ前、誠之進と三郎は供の者を連れず、二人きりで久右衛門に別れを告げにきた。

 立てたばかりの墓標の前で、三郎は手ずから摘んだ花をたむけ、線香をたてて静かに合掌した。誠之進は三郎の背を見守りつつ、自らも合掌し瞑目した。

 葬儀から野辺の送りの間、うっすらと涙が頬を伝う瞬間はあっても、三郎は決して取り乱さず、祖父を静かに見送った。赤子の時、城を出て、九歳まで母の実家、加賀屋で育てられた三郎にとって、久右衛門はまさに父親がわり。厳しくも慈愛に満ちた祖父は三郎にとって、もっとも慕わしい肉親だった。

 墓の前で三郎は沈思に落ちていた。誠之進は斜後ろに控え、動かぬ横顔をじっと見つめていた。

 普段、心のままに、笑顔や泣き顔を見せる三郎だったが、心底怒ったり、深い悲しみにくれる時、三郎は驚くほど寡黙になった。激しい感情に突き動かされている時ほど、三郎はそれを他人に見せず、深く己の内部に閉じ込めた。

 伯父・伯母夫婦は、葬儀に駆け付けた三郎を見て、涙を流さんばかりに喜んだが、もはや身内としてではなく、三郎を賓客として遇していた。いとこたちにまで敬語を使われ、三郎は優しい笑みで応対しながらも、心の中は寒々とした風が吹き抜けていたことだろう。

 久右衛門の死で三郎は祖父を亡くしたのみならず、加賀屋という故郷を永遠に失った。三郎の深い喪失感が誠之進には痛いほど感じられる。こうして隣に立っているだけで、三郎の哀しみの波動が誠之進の胸にも伝わってくる。

「三郎ぎみ…」
誠之進は一歩間合いを詰めると、三郎の肩に両手を置いた。
慰めの言葉など用意してはいない。ただ、自分がここにいる、側にいることだけを伝えたかった。

 掌から伝わる温もりに、ふと張り詰めていたものが弛んだのだろうか?
三郎の肩が小さく震えている。嗚咽を噛み殺しているのがわかった。

 思わず後ろから頬を寄せて覗き込もうとしたところ、三郎が一度大きく息をついた。
「…おまえがいてくれて…よかった」
吐息のような呟きが、誠之進の胸に響く。
「…こうしてお側にあるだけで、何のお力にもなれませぬが…」
「そんなことはない…」
三郎は小さくかぶりを振った。

 誠之進は三郎と並んで久右衛門の墓の前に立つと、無言でそっと手を繋いだ。
子供の頃、こうして三郎の手をひいて歩いた。三郎もそれを思いだしたのか、懐かしげな眼差しで誠之進を見上げる。誠之進が目元を和ませて頷き返すと、三郎は静かに嗚咽を洩らし始めた。

 泣叫ぶのでもなく、唇をかんで涙を堪えるのでもなく─。

 三郎は慕ってやまない祖父の死を悼んで、静かに、涙の流れるままに任せた。




 ひとしきり泣いた後、三郎は再び口を開いた。
「…斯様な少人数で遠出したこと…、主膳に知れたら、そなた、また大目玉だな」
時折声をつまらせながらも、唇にかすかな笑みが戻っていた。
「そのような戯れ言を…」
「…おじじ様に…こうしてお別れができて…本当によかった。そなたのおかげじゃ」
「おかげだなど…とんでもござりませぬ」
誠之進は小さく首を横に振った。

「なあ…誠之進」
片袖で涙を拭うと、遠い目をして三郎が呟いた。
「私は…ずっと、帰りたかったのだ…」

 誠之進は思わず息を呑んだ。
「…それは、加賀屋にでごさりますか?」

 三郎がこくりと頷いた。
「…どんなに父上がお優しくても、屋敷に綺麗な着物やおもちゃが溢れていても…」
「三郎ぎみ…!」
「…おじじ様の側へ帰りたかった」

 さわさわと山の風が吹き抜け、小花をつけた萩の枝を揺らしていった。

 誠之進は押し黙ったまま、三郎の横顔を見つめていた。
三郎が再び口を開いた。
「なれど…、城を逃げ出せば、そなたに会えなくなくなる…」
「…私に?」
三郎がうなずいた。
「…だから思い止まった」
「そのようなことを…」
声をつまらせたのは誠之進のほうだった。

 土蔵でひとり涙にくれていた時も、遠い目をして信越国境の山々を眺めていた時も─。

 毎日無邪気に暮らしていても、やはり三郎の心はここへ向かっていたのか。帰りたいとは一言も言わなかった…。どれほどの想いで、三郎はその一言を小さな胸に秘めていたのだろう。

 誠之進は空を仰いだ。山の稜線の彼方、ゆうるりと雲が流れる。
明るい悲しみに満ちた、空の蒼さが目に滲みた。

「…されど」
三郎は手を離して、ゆっくりと誠之進のほうへ向き直った。
「いつのまにか、そなたのいる屋敷が私の帰る家になった」
三郎は恥ずかしそうに睫を伏せた。
「…三郎…ぎみ」
こみ上げてくるものに、誠之進の声が微かに震える。
「…お福も源蔵も…、私は屋敷の皆が大好きだ」

 三郎の瞳は涙で濡れていた。
しかし、誠之進を見上げる笑顔は晴れやかで、一点の曇りもなかった。




「よいお顔じゃ。三郎ぎみの笑顔が、久右衛門殿にとって何よりの御供養となりましょう…」

 突然、背後からかかった声に振り返れば、二間ほど離れた場所に、初老の住職が竹帚を持って立っていた。

「ご出立にはまだ間がありますでしょう? 茶を点てますので、書院のほうへお越しくださいませ」

 三郎・誠之進主従は顔を見合わせて頷いた。
「かたじけない。馳走になりまする」
誠之進は住職に丁寧に頭を下げた。

 二人はそれぞれの想いを胸に、ふたたび久右衛門の墓に向きなおる。
首を垂れて静かに合掌した。


 加賀屋久右衛門、明和三年八月七日没す。享年六十九歳。


おわり





壁紙は『evergreen』さんからお借りしています。

 
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