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翌日、誠之進は三郎を迎える準備のため、西の丸の屋敷へ赴いた。
三年前、火事で焼失して以来、西の丸は更地のまま残されていた。三郎を迎えるにあたって、藩主・結城因幡守信輝は、西の丸に新しい屋敷と野山の趣きを取り入れた庭を作らせた。屋敷のほうは完成していたが、庭にはまだ職人が慌ただしく出入りしている。
誠之進の父、上席家老の溝口主膳は、以前おひろと三郎に仕えていた奉行人を再び呼び寄せていた。乳母のお福とその息子、乳兄弟の源蔵である。
お福は徒士組五十石取りの竹之内佐之助の妻、源蔵は次男だ。源蔵もまだ九歳と幼いので、当面は三郎の遊び相手として、お福ともども西の丸で暮らすことになった。
三郎自身は彼らを覚えてはいないだろうが、せめて亡き母親ゆかりの者たちをお側に、という父・主膳の心使いだった。
誠之進は屋敷内の間取りと調度類を確認し、その足で信輝のもとへ向かった。
四十を過ぎてから、信輝はますます政治から遠ざかり、絵画の制作に没頭した。花鳥風月を描いた雅な画風の作品が多かったが、最近では平賀源内が伝えた西洋の画法にも感心を示し、熱心に研究していた。
結城家は譜代大名で、江戸城では 帝艦間詰。幕府でお役につくという道もあったが、信輝は柳営でのかけひきや付き合いを煩わしく思い、猟官運動などする気はまったくなかった。
それが、正室・お牧の方から見れば、なんともふがいない。実家の御三卿・田安家という後ろ楯がありながら、覇気のない殿様よ、と悔しがられた。
茶坊主に案内され藩主の居室に向かうと、信輝公は待ちかねたように誠之進を迎えた。
「誠之進、御苦労であったな。屋敷のほうは如何じゃ?」
誠之進は御前で深々と一礼して答えた。
「お庭のほうは今しばらくかかりそうですが、その他は準備万端でござりまする」
答えながら、誠之進は信輝公が命じて用意させたという、着物や玩具の数々を思いだしていた。
信輝公は満足そうにうなずいた。
「では、明日にでも迎えにいってくれ。早う三郎の顔が見たいのじゃ」
「心得ましてござりまする。明日の午後、供回りの者をつれ出立いたし、関川の宿で一泊、明後日、夕刻までに三郎ぎみをお連れする予定にござります」
「うむ。頼んだぞ、誠之進」
誠之進は平伏した。
「三郎のこと…、よしなに頼む。そなたの人物を見込んで主膳に無理をいうた」
(はて…。父上のほうから申し出たのではなかったか?)
ふと湧いた疑問だったが、誠之進は深く頭を下げたまま藩主の言葉に耳を傾けた。
「まだ若いそなたを江戸から呼び戻し、子供の守をせよとは酷な話であったが…」
「殿、そのようなことは決して!」
誠之進は思わず面をあげた。
信輝公は笑みを浮かべて鷹揚にうなずいた。
「側に仕える者次第で、大名家の子息の将来は大きく変わる。身供(みども)は、三郎には藩内でもっとも優れた人物をつけてやりたかったのじゃ。」
「…もったいないお言葉にござります」
「他の側仕え、下働きの者も、すべてそなたの判断で雇うがよい。母方の後ろ楯もなく、奥とも一切縁のない子ゆえ、そなたが唯一の後見じゃ。頼んだぞ、誠之進」
「はっ」
再び平伏した誠之進は、責任の重さに身が引き締まる思いだった。
二年間、江戸藩邸で暮らした誠之進だったが、江戸生まれの嫡男・惣一郎と信輝公が同席しているのをあまり見たことがない。長く江戸に勤める上司や朋輩の話では、信輝公と惣一郎はお互い礼を尽しながらも、微妙な距離感を保っているらしい。
大名の親子関係とはそうしたものかと深く考えはしなかったが、三郎ぎみを迎えるにあたって、信輝公の子煩悩ぶりを目のあたりにし、誠之進は複雑な気持になった。
単に遅く出来た子が可愛いだけなのか、二人の母親に対する想いの差か…。
ふと江戸の惣一郎のことを想う。
惣一郎は派手好きで確かに名君という柄ではないが、かといって決して馬鹿ではない。まわりにしかるべき人物を得ていれば、それなりの殿様として無難にやっていけるはず。自分ごときが口を挟むことではないが、殿ももう少し御嫡男を大事になさるべきではないか、と、誠之進は秘かに溜息をついた。
上席家老の父、溝口主膳の言う通り、君主の弟君への偏愛は騒乱の元となる。古今の例を見ても、乱心、病弱など、よほどの問題がない限り、嫡子相続が最も円満な形であった。
*
信越国境近い、関川宿の本陣『加賀屋』の奥座敷では、亡き娘、おひろの息子・春吉(三郎)を囲んで祖父と伯父伯母が別れを惜しんでいた。
春吉の祖父、加賀屋・主人、久右衛門は、娘が殿様のお手付きとなったのは運が悪かったと泣く泣くあきらめもしたが、一度城から戻され町家で成長した春吉が再び連れ去られることには、どうにも納得がいかぬ様子だった。
春吉が殿様のお子であることは紛れもない事実であり、引き取ると言われれば否も応もない。されど、お家の都合で幼子を物のごとく動かす武家の身勝手さに、久右衛門は憤りを感じていた。
やがて山あいの宿場町にも夕闇が迫り、もうじき城からの使いが到着する。
眉間に皺を寄せ、厳しい表情の久右衛門に、
「おとっつあん、春吉には可哀想だが、これも運命だ…」
おひろの兄で若主人の弥兵衛が久右衛門に言い聞かせた。
身重の妻、おみよは一言も口を挟まず、横で心配そうに二人を見ていた。
春吉こと三郎信尭は、祖父の隣でおとなしく正座している。
つぶらな瞳は大人たちの表情をかわるがわる追いかけていた。
自分がお殿さまの子供だということを、最近祖父から聞かされた。
自分がお城で生まれたこと。
母が病がちだったためお暇を取らされて、自分と母が『加賀屋』に戻ってきたこと。
参勤や鷹狩りでお殿さまが『加賀屋』にお泊まりになるとき、どうして自分なんかがお殿様のお部屋に呼ばれるのか…?
ずっと不思議に思っていたことが、ようやくわかった…。
お殿さまは優しいから嫌いではなかったが、突然お父上だといわれても本当のような気がしない…。
「…春吉は、うちの子じゃ」
久右衛門は膝の上で拳を握りしめた。
「おとっつあん、まだそんな事を言って…」
「江戸には立派な嫡男がおるではないか。春吉など、引き取られても冷や飯食いの三男。いずれはどこぞに養子にやられるだけじゃろう!」
「おとっつあん、気持はわかるけど…」
「儂からおひろを奪い、今度は孫まで連れていこうとするか!」
「おとっつあん!」
久右衛門の叫び声と入れ替わりに、襖の向こうから女中がおずおずと声をかけた。
「あのお…。お城からの使いの方が到着されました」
若主人の弥兵衛が、ふうっと大きな溜息をついた。
「お出迎えに出ねばなるまいな。私がいこう」
弥兵衛は立ち上がると、久右衛門を振り返った。
「おとっつあん、どうかこらえてください…頼みましたよ」
久右衛門は唇をひき結んだまま、答えない。
女中はしばらく久右衛門の顔色を伺っていたが、やがて小走りに弥兵衛の後を追い玄関へ向かった。
「お爺様…」
春吉はもはや観念していた。
幼いといってももう九歳。
細かい事情はともかく、宿屋の主人がお城の命令に逆らえないことくらいわかる。駄々をこねれば、皆に迷惑が及ぶであろうことも。
でも、お爺様やみんなと離れて知らないところへ行くなど、本当は不安でたまらない。
春吉は黒目がちの瞳を潤ませながらも、泣き出したい気持を懸命にこらえていた。
再び襖の向こうで弥兵衛の声がした。
「おとっつあん、守役の方をお連れしました」
唇を切れそうなほど噛みしめていた久右衛門が、
「何? 守役自ら出向いてきたのか?」
驚きとも諦めともつかぬ吐息を洩らした。
「春吉」
「はい」
「上座に座っていなさい」
春吉は訝りながら祖父を見た。
「いいから言う通りにしなさい」
久右衛門はそういって春吉を上座に残し、自分は下手に下がると襖の向こうの弥兵衛に声をかけた。
「お通ししなさい」
襖が開き、旅装の若い武士が姿を現わした。
武士は弥兵衛に促されて座敷に入ると、春吉の右下手、久右衛門の向かいに着座した。
つづく
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