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「結城ちゃん、いるかい?」
ノックの音と同時に、わが天敵の渋いバリトンが響いた。
入口近くのデスクでパソとにらめっこしていた学生が、
「あ、古賀先生。おはようございます」
律儀に挨拶を返している。
*
古賀教授はK大で私、結城惣一郎の先輩にあたる。パックス・ブリタニカから第二次世界大戦にかけての英国外交史が専門だ。戦後のアメリカ政治史を研究する私とは専門が違うので、マスターやドクターの頃にはあまり接点がなかったが、ここ数年、ひょんなことから『縁』ができてしまった。
古賀教授と私は、本学『十年にひとりの秀才』といわれた櫻田右近を取り合った仲なのだ。取り合ったといっても、どちらの研究室に引き抜くかで火花を散らしたという意味だ。右近は一、二年生の頃、欧州の政治史に興味を持っており、古賀教授の授業を熱心に受講していた。
それをアメリカの外交政策にも興味を向けさせるべく、私は授業を面白くするために四苦八苦したものだ。もちろん、右近に合わせてアカデミックに興味深く、という意味で。
涙ぐましい努力の介あって、三年の時、右近は私のゼミに入ってきた。あの時の古賀教授の『してやられた』表情といったら…。今思い出しても痛快だ。古賀教授は妻も子もいる四十男だが、別の意味でも右近に興味津々ではないかと、私は秘かに睨んでいる。
言い忘れたが、櫻田右近という古風な名前の男子学生。十年にひとりの頭脳と言われただけでなく、その美貌でも学内の注目の的だった。
昔の武家の小姓っぽい美しさというのだろうか。男とは思えない肌理の細かい白い肌に、印象的な漆黒の眸。鼻梁の線はすっきり高く、唇は刻んだように完璧な造型だった。普段口数の多いほうではなかったが(ディベートは得意)、あれだけ美しいにもかかわらず、どこか庶民的なところが周りの好意を集めていた。
女子学生はもちろん、一部の男子学生や、おそらく教授陣や食堂のおばさんからも熱い視線を浴びながら、本人は自分の魅力にまったく無頓着。その気になれば入れ食い状態だろうに、どうやら恋愛には疎いらしい。
中高では剣道をやっており、有段者という噂だ。大学に入ってからは勉学と家庭教師のバイトに明け暮れる、本学にはおよそふさわしくない、絶滅危惧種のような真面目学生なのだ。
その右近に私は六年越しの恋をしている。
*
オールバックにちょび髭がトレードマークの古賀教授は、開け放した奥のドアの向こうに私を見つけ、ひょいと片手をあげた。
うるさい奴が来た…。
と、眉をしかめている間に、古賀教授はバリケードがわりの文献の山をかき分け、私のデスクの前までやってきた。
「どう、調子?」
「どうって…別に。いつも通り仕事に励んでおりますよ」
私はキーボードを叩きながら、いかにも五月蝿そうに答えた。
用もないのに私をおちょくりに来たのが見え見えだ。
古賀教授はわざとらしくあたりを見回した。
「右近くん、姿が見えないようだけど…。風邪はもう治ったの? 明日を控えて結城くんもドキドキだね」
にやりと笑い、私のパソコンの横に陣取った小さなテディベアに手を伸ばした。
大切なベアに触れられ、思わず私は上目使いに見上げたが、
「今頃、熱でうんうん言ってたら心配だねえ…」
古賀教授はあろうことか、ベアのセーターを下からひっぱって中をのぞいている。
「ヴェポラップでも塗ってやらなくちゃ」
厚かましくも人差し指で胸のあたりをこねこねしている。
「古賀先生!返してくださいよっ」
私はきっと教授を睨み付け、手からテディベア『右近一号』を奪還した。
そのまま自分の膝の上に置いて保護する。
(もう大丈夫だよ、右近ちゃん…)
まったく、この男ときたら油断も隙もない。
明日というのは、二月某日。修士論文の最終発表の日だ。夏の始めに題目を決めて以来、わが愛する右近は私の授業の手伝いもしつつ、日夜文献を読みふけり、論文の執筆に全力を注いできた。
タイトルは『米国の対中政策の変化〜containment からengagementへ』
(containment =封じこめ、engagement=関与)
何事にもきっちりした右近は、〆きり一週間前には余裕で提出。内容も指導教員の私を唸らせたことは言うまでもなく、既に精読した副査からの評価も高い。
学部の卒論ではニクソンとキッシンジャーに焦点をあて、大統領補佐官制度を取り上げた。徳川幕府の側用人制度との比較考察が面白いと、国際政治学科の教授陣のみならず、学長までもが目を通し絶賛したものだ。
そんな右近のこと。私ごときが心配する筋合いではないのだが、一週間前にインフルエンザにかかり、どうも具合がよろしくない。発表の日まで自宅でゆっくり休むよう申し渡してある。明日に備えて作成すべき説明用のレジメも、内緒で私がコピーしてやろうと思う。
指導教員である私は最終試験の審査員にはなれない。たとえ40度の熱があっても、この後に及んで右近が口頭試問でしくじるとは思はないが…。
悔しいかな古賀教授の言うように、ぢつ私も明日を控え、そわそわと落ち着かないのであった。
古賀教授は『相変わらずここの研究室には紅茶もないのか』とぶーたれながら、私の愛用の『くまのプーさん』マグで勝手にコーヒーを入れた。私をからかうだけからかって三十分ほどくつろぐと、気が済んだのか退散していった。
敵は来年から一年ほど研究のため渡英。大学を留守にする。これも最後の悪あがきかと、私は大目に見てやることにした。
*
古賀教授が去っていくと、思わず大きな溜息がもれた。安心した私はベアを机の上に戻した。
(う、右近ちゃん…。お熱下がったかなあ)
白皙の美貌が熱で苦しみ、刻んだような唇で浅く喘ぐ姿が、私のいけない脳裡をかすめた。
(ああ喉が乾いたのかい? ちょっと待ってなさい、先生が手絞りのオレンジジュースを作ってあげよう…。)
そっとパジャマの背を抱き起こして、オレンジジュースを飲ませてやる。
(あ、だめぢゃないかそんなに零して…。しょうがないな、上手に飲めないんなら、私がこうして…。)
そっと口移しで飲ませると、右近の白い喉が美味しそうに鳴った。熱で朦朧としながらも、口元に薄い笑みが浮ぶ。
(ああ、気に入ったのかい? ならいくらでも…飲ませてあげるよ。ほら、もう一口…)
私はいつしかうっとりと目を閉じ、瞼の裏に浮ぶ右近の唇と戯れていた。
*
「先生、そろそろ時間ですけど」
妄想にひたる私に不粋な学生が声をかけた。準備万端資料を整えて、ドアのところでさあ早うこんかいと、睨んでいる。
冬の朝、暖かな寝床からいきなり引きずり出されたように、私は不機嫌の極みにあった。
(わかってる。講議にいかなきゃならん。できの悪い学部生相手でも、やることはやらにゃいかん。ああ、しかし一一。)
(こんなことしてる暇があったら、今すぐにでも右近の団地へ行き、アイスノン片手に添い寝してやりたい…。)
あああああ、不毛だ!
「先生、これひとつ片付けたら、もうお帰りになったらいかがです。午後からは講議ないんでしょ」
人の心を見透かしたような物言いに、私は眉間に皺を寄せながら逆襲した。
「ぐちゃぐちゃとうるさいね、平岡君。今いくよっ」
*
結局その日の午後、私は本当に右近の団地を訪ねてしまった。敷地内に車を止めると、近所の子供らが珍しそうに群がってくる。ジープにのったGIじゃあるまいしと苦笑したが、アルファロメオはやめて地味なサーブのガブリオレにすればよかったかと、ちょっと気恥ずかしい私だった。
目指す棟へいき三階へあがった。
『櫻田』と表札のかかった戸の前でドアフォンを鳴らすと、
「開いてるよ〜」
中からのんびりした老婆の声が聞こえた。
右近のおばあさんだろうか。
お邪魔しますと断り玄関に入る。
狭い玄関にきちんと並んだ履物が目に入った。
それより中へ勝手に上がり込むのはさすがにためらわれ、
「こんにちは。私、結城惣一郎と申します。櫻田君の大学の…」
居間に向かって声をかけた。
チャンバラのシーンだろうか。
TVの音が少しおおきい。
すると焦れたようなおばあさんの声が帰ってきた。
「うるさいねえ。もうすぐアレが出てくるとこだから…勝手にあがってきておくれよ!」
「は、はあ…」
脱力した私の耳に、例の決め台詞が聞こえてきた。
『静まれい、静まれいっ! このお方をどなたと心得る、先の副将軍、水戸の光國公なるぞっ…』
角さんの勇ましい声に紛れて、
「あのう…」
私は居間の入口まで進み、遠慮がちに声をかけた。
おばあさんはすっかりTVに夢中で、私は完全に無視されていた。
会うのは今日が初めてだが、これが右近から聞いた、時代劇マニアの婆様かと納得がいった。
「…先生?」
背後からかかった声に振り返れば、ダウンを着込んだ右近が玄関に立っていた。
「う、右近くん。なんだい、出かけてたのか?」
「はい。明日のレジメをコピーしようと思って」
「だめぢゃないか、出かけたりして!」
「あ、今朝にはもうすっかり熱がひいてたんで」
右近はにっこり笑ってみせるが、
「そんなもの、研究室にメールで送ってくれればこっちでやったのに」
流感がぶり返したらどうするんだと、私は心配でたまらなかった。
「先生にそんな御迷惑はかけられません」
きっぱり首を横に振る右近。
こういうところ、しっかりしすぎていて可愛くないというか…もっと甘えてほしい気がした。
内心がっかりしたが、
「ともかく…熱は下がったんだね」
「はい、おかげさまで。先生、そんなところでつっ立ってないで、奥へどうぞ」
「ああ…」
見たところ右近の顔色はさほど悪くなかった。
私はようやく安堵し、苦笑しながら居間へ入った。
右近と玄関で立ち話をしている間に、黄門様一行は無事次の目的地へ旅立っていったようだ。TV画面には脳天着な布団乾燥機のCMが流れている。
あらためて右近が私を婆様に紹介してくれた。
「ばあちゃん、結城先生だよ。ほら、いつも話てる…」
「…これはこれは。先程はどうも失礼おば」
黄門様が終わって落ち着いたのか、婆様は炬燵から出ると、
「右近の祖母でございます。孫がいつもお世話になっております」
畳に手をつき丁寧に頭を下げてくれた。
「いえいえ、こちらこそ。右近くんには研究室でお世話になっています」
「ほう…この子も少しは役にたっておりますかの」
うふうふと婆様は嬉しそうに微笑んだ。
「この通り、顔は別嬪ですが、どうも昔からぼんやりしたところがあって…」
右近の頭脳がどれほどのものか、婆様はよくわかっておられないのかもしれない。
だが右近が可愛くて仕方ない様子が、言葉や表情の端々に溢れていた。
同類同士、そういうことはよくわかるのだ。
(お仲間ですね…)
と、私は婆様にうなずいてみせた。
「先生、大福買ってきたんですが、召し上がりますか?」
そんな花のような笑顔で言われては…、
「あ、ああ。ありがとう」
と、ひたすら目尻が下がってしまう。
ぢつは私、今朝の妄想に引きずられ、オレンジをしこたま買い込んでいた。口うつしの夢は潰えたが、しかしまあ、これは後で御家族でどうぞということで。
(せっかく君が寒い中、買ってきた大福だ。喜んでいただくよ。)
私は台所へ入っていく右近の背中に目で語りかけていた。
がさがさと包みをあける音が居間まで聞こえてくる。
婆様は炬燵にはいったまま身体をよじって、
「右近、ちゃんと買ってきただろうね。あたしが頼んだのは『豆大福』だよ」
お茶の支度をする孫に声をかけた。
「え…いちご大福じゃなかったの?」
婆様の目がすうっと細くなり、
「この寒い時期にいちご大福なぞ買う馬鹿がおるか!」
「でもたくさん売ってたよっ」
むっと語気を強め、右近が台所からお茶と大福をお盆に乗せて現れた。
炬燵の上に右近が皿を置くと、婆様は大福を覗き込み、
「ふん、この時期のへなちょこ苺なぞ、ハウス栽培のまがいもんじゃ!」
「ばあちゃん、今どきシーズン中でも露地栽培なんかめったに…」
「やかましいっ!」
「あ、あのう…」
婆子喧嘩はやめませうと私が目顔で頼むと、婆様はようやく客の存在を思い出したらしく、
「ふむ。よもぎ大福もあるなら…そっちで勘弁してやろう」
入れ歯の具合が悪いふりをして、婆様はもごもごと口ごもった。
右近は淡々とお茶をいれ、私の前に差し出した。
「先生も…お好きなのをどうぞ」
「じゃあ、いただくね…」
私は婆様に散々にけなされたいちご大福に手を伸ばした。右近がほんの少し、嬉しそうに微笑む。右近自身は普通の白い大福に皿にとり、私達三人は炬燵でしばし無言で番茶をすすり、大福をはむはむした。
所詮大福なので、綺麗に食べようと思ってもなかなかそうはいかない。右近達は普段手で食べているらしく、楊子も何も出てこなかった。私はなるべく口の周りに粉が散らないよう、かなり神経を使って食べていたが、右近と婆様はそんなことにはおかまいなく、大口をあけて頬ばっている。
右近の形のいい桜色の唇や口の端にも、ぱふぱふと白い粉がついている。その姿が妙にかわいい。
気が付けば、私は息を詰めて右近の口元を見つめていた。
(ううっ。あれを舐めとってやったらどんな味がするだろう…。)
右近のさらさらの髪をすきながら、口角の脇についた粉をめがけて、わずかに顔を傾けて唇を寄せる…。ちゅっと啄むように触れれば、
『せんせい…くすぐったいですよ』
右近が笑いながら首をすくめる。
(おおおおっ。かわええ〜!)
『じゃあここは』
『あ、先生…』
『ここも…くすぐったいの?』
『い、いえ…くすぐったいというより…何だか変な感じです…っ』
『じゃあこっちは?』
『あっ…や、そんなとこ…』
私が茫洋とした眸で右近の唇を見つめ、戯れるふたりを脳裡に描いていると、
「右近、口のまわり、さっさとおふき」
婆様の無機質な声がした。
「あ、うん」
右近がはっと指先を唇にあてて粉をぬぐった。
「結城先生が気になって仕方ないみたいだよ」
(ぎくう…)
婆様がにやりと私を見た…ような気がした。
あ、侮れぬ婆様だ…。
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