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浅草寺の門前、田原町三丁目に、門人五十人ほどを抱える中堅の道場あった。滝川道場という。
この道場を興した直心影流の剣客、滝川勘十郎は既に六十を超え、現在はひとり娘・いくの婿、彦四郎が師範代として門人たちのに稽古をつけている。
もともと、浅草寺、東本願寺の界隈には御家人屋敷が多く、門人の多くはその子弟であったが、在郷の百姓や町人も、希望すれば入門を許された。篤実な勘十郎の人柄を慕って、門人たちは一度入門すると、なかなかここを離れようとはしない。
「滝川道場」は特に富裕な旗本の後ろ盾もなく、言ってみれば地味な町道場であった。それが、婿の彦四郎(旧姓・佐久間)が幕府側用人、田沼意次邸で催された剣術仕合で勝ちあがり、見事、四強に残って以来、彦四郎と滝川道場の名は江戸中に広まった。以来、三年の月日が流れた今も、入門希望者が後をたたない。
その日も朝から、威勢のいいかけ声と木太刀を打ち合う音が、たえることなく響きわたっていた。
「ほお‥なかなかに活気があってよいではないか」
旅装の武士が武者窓から道場をのぞき込み、興味を引かれたように呟いた。
「一手…ご指南願おうか」
武士は柔らかく口元をほころばせ、大通りに面した正門へとまわった。
往来は、にぎやかに人が行き交っていた。
蔵前あたりの富裕な商人だろうか? 袴をつけた男児を連れ、七五三のお参りに向かう一家が通りかかった。武士が編笠を脱ぐと、内儀が思わず振り返って見た。婦女だけでなく、道行くものすべてが一度は振り返って見ずにはいられない…。
刻んだような横顔の完璧なまでの造型。北国育ちのきめ細かい肌に、濡れ濡れとした深い闇色の眸が、見るものの心を一瞬にして捉える。稀有な美貌の青年武士であった。
*
「たのもう〜」
凛とした声が初冬の澄んだ空気を揺らした。
編笠を小脇に抱え、武士は玄関で門人が出てくるのを待った。
やがて、元服したてとおぼしき、月代の剃り跡も青々した若者が顔を出した。
武士は、
「自分は一刀流の櫻田右近と申す。滝川彦四郎先生に、一手の御指南にあずかりたい」
と申し入れた。
「しょ、少々お待ちを…!」
若者は泡を食ったように、道場へと駆け戻った。右近は完璧に道場破りと看られたらしい。
もっとも、いたずらっけを起こし、きちんと身分を名乗らず「一手御指南」などと言った自分が悪いのだが…。右近は苦笑した。ほどなく、若者が上位の門人二人を連れて玄関へ出てきた。
「櫻田殿と申されるか?」
「いかにも」
「一刀流とお聞きしたが、わが道場では他流試合は禁じられておる。ご足労いただいたところ誠に申し訳ないが、これにてお引き取り願いたい」
高弟のひとりがいかめしい顔つきで、立ち合いを断ってきた。
(斯様に四角四面な応対では、本物の道場破りが来たら如何する…。もっと上手に、やんわり断らぬか…)
「とりあえず、彦四郎先生におとりつぎ下さらぬか?」
右近はあくまで低姿勢にものを頼んだ。
右近の言葉は柔らかいが、帰る気がまったくない様子に、高弟ふたりは困ったように顔を見合わせた。
「仕方ない…しばしお待ちを」
結局自分たちでは決めかねて、道場内へと戻っていった。
しばらくして再びざわめきと足音がこちらへ向かってくる。先程より数が増えている。その中に、右近は懐かしい声を聞いた。
「なに…一刀流の櫻田?! ばかもの、存じておるわ、儂の旧友じゃ!」
玄関に彦四郎が現れた。
「右近!」
「佐久間…しばらく」
師範代となり、さらに貫禄を増した彦四郎に、右近は懐かしげに微笑んだ。
「…書状は着いておったか?」
「ああ、十日ほど前には。待っておったぞ…ささ、上がってくれ!」
普段無口な彦四郎が興奮気味なのが珍しいのか、門人たちは目をしばたかせながらも、右近の旅装を解く手伝いをし、奥へ誘った。
*
奥の間に招き入れられた右近は、彦四郎、妻のいく、道場主である舅の滝川勘十郎と茶をすすりながら、和やかに語りあっていた。
右近と彦四郎は藩校時代から、かれこれ十年あまりのつきあいだ。成人してからはしばらく音信が途絶えていたが、彦四郎とは三年前、右近が江戸詰めだった頃、田沼意次主催の剣術仕合で再会している。その時、浅草の滝川道場に婿養子に入ったことは聞いていたが、妻のいくや舅殿に会うのは此度が初めてだった。
勘十郎はいかつい剣豪というよりは、一見、好々爺然とした話し好きの老人だった。だが、一代で道場を興し、それを何十年と守ってきた、ひとかどの剣客である。単なる人のよい老人であるはずがない。初対面ではしかとわからぬが、ただ者ではない雰囲気は右近にも感じられた。
「櫻田殿の噂は某の耳にも入っておりました。例の田沼邸の仕合の後、越後高山から出てきた天女のごとき美貌の剣士…とか」
「義父上…」
「名古屋山三の再来か、とか…それはもう町中で評判になっておりましたからのう」
「義父上…」
彦四郎は舅が右近の剣の腕はさておき、容姿ばかりをほめるので、友が気を悪くせぬかと心配顔だ。
十代の頃は、容姿以外のことで自分を評価してほしいと、むきになった時期もあったが、もはや左様なこと、さして気にもならない。
右近は彦四郎に案ずるな、と目で合図した。相手の心を思いやる優しいところは変わっておらぬなと、右近は嬉しく思った。
右近は素直に笑みを浮かべ、
「…まだまだ修行が足りませぬ。お恥ずかしい限りです」
と舅殿に向かって軽く頭を下げた。
勘十郎はひとくち茶をすすると、
「して…此度の出府は、江戸詰めを仰せつかったので?」
問われて右近が答えた。
「いえ…とりあえずは無役です。藩発行の手形をもらってきておりますが、しばらくは羽を伸ばしてよいという、御家老のお墨付きをもろうておりますゆえ」
「義父上、右近は国許で勘定吟味役をつとめておりました。重臣の不正の調査が一段落しましたゆえ、お役御免となって江戸へ参ったのです」
彦四郎がさりげなく説明を加えた。
「ほお…その若さで勘定吟味役とは…いやはや恐れ入り申した。花のごとき顔(かんばせ)に加えて、文武両道を絵に描いたような…」
勘十郎はしきりに感心してみせた。
「いかにも。右近は高山藩の宝でござる」
彦四郎に大まじめな顔でそう言われると、何やら照れくさくてかなわなかった。
右近は謙虚に一礼すると、
「左様なわけで、いずれ藩邸へ顔を出すつもりでおりますが、しばらくこちらでご厄介になりとう存じます。厚かましいお願いではござりますが、水汲みでも床磨きでも、門人の方々と同様に働きますゆえ…」
口先だけではない。右近は本気だった。
「何を言う、右近。旅の疲れもあるだろう。ゆるりとしていけ。客人として、好きなだけおるがよい。義父上、よろしゅうございますな?」
舅にはもっと遠慮するのかと思いきや、彦四郎、意外に強く出るのだな、と右近は笑いを噛み殺していた。
「ぜひ、そうしてくださりませ」
それまで口を挟まず、じっと端座していた妻のいくが声をかけた。
「彦四郎様の昔話をたくさん聞かせていただきとうござります」
「これ…」
好奇心いっぱいの瞳でにこにこ笑う妻を、彦四郎がやさしくたしなめた。彦四郎の妻だから、亭主同様、もの静かな女かと思いきや、そうでもないらしい。
「櫻田様は、彦四郎様と藩校時代からのおつきあいとか」
「さようにござる」
「彦四郎様はどんな少年でしたの? いたずらでした?それとも…」
「これ、いく、よしなさい」
「あら、よろしいではありませぬか!」
妻女は一度口を開くともう止まらなかった。矢継ぎ早に質問をあびせられ、右近は内心いささか閉口した。かしましい女は苦手だ。が、照れたような微笑を浮かべている彦四郎を見ると、いくに対してあまり無愛想にもなれなかった。
養子というから先方に望まれて婿入りしたのだろうが、彦四郎もこの妻女に惚れていることは、一目でみてとれた。
剣の腕は相当なものだが、気の毒なくらい真面目で世渡りの下手な彦四郎。だが、この人なつこい「いく」ならその辺りを補い、存外「道場主の妻」としてうまくやっていくのでは…。右近はしみじみと友の幸せを願った。
***
今年は雨が少ないのか、乾いた風が江戸の町を吹き抜けていた。だが、ふたたび東都の地に戻ってきた感慨と、滝川道場にしばし安息の場を得たことで、右近の心は暖かく満たされていた。
当分はこちらに厄介になり、無心に稽古に励んでみよう…。
心は粉々に砕け散り、身体も十分に回復しないまま、右近は国許を発った。病み上がりの身体に初冬の街道旅は辛かったが、一歩一歩江戸が近付くにつれ、もはや後ろは振り返るまい…という決意が静かに固まっていった。
十年余りの間、秘かに恋慕った親友・溝口誠之進が、藩主・結城因幡守信輝が三男、三郎信尭と割りない仲になってしまった。ふたりの逢瀬を目撃して以来、右近は己を失った。
されど自分と誠之進は恋仲ではなかったのだ。これは不義でも裏切りでもない。自分の片恋が破れただけ…。ふたりを、正確に言うと、三郎を憎むのは筋違いというものだ。
頭ではわかっていても、心がついていかなかった。
表情を殺しきった白い仮面の下で、嫉妬、憎しみ、軽蔑…、あらゆる負の感情が、紅蓮の炎となって荒れ狂っていた。
己を制御できなくなるのが恐かった。そんな姿を誠之進の前に曝したくはなかった。
(佐久間…私は、己の弱さから…逃げ出してきたのだ)
右近は何も聞かずに迎え入れてくれた友に、心の中で詫びた。
国許を発った時には、江戸についたらすぐ藩邸に顔を出し、以前仕えていた世嗣の惣一郎に目通りするつもりだった。しかし、道中、頭が冷えてくるにつれ、右近は己の身勝手さに気付いた。
あれほど引き止めた惣一郎を振り切り、勘定吟味役を拝命したのを口実に国許へ帰った。そして、今度は傷付いた心を癒してもらおうと、のこのこ江戸に戻って惣一郎の手にすがる気か? 考えれば浅ましいにも程があった。
ここで、ふた月でも三月でも、無心に木太刀を振り、汗を流し、一切の醜いものを出しきってしまおう。心に一点の曇りもなくなるまで、一から己を鍛えなおそう。藩邸へ顔を出すのはそれからだ。
(惣一郎様。必ず…会いにいきますゆえ。いましばらく…時間を)
慌ただしい師走はもう目の前に迫っていた。
つづく
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