壱の巻
「初霜」2




by 戸田采女

 煤掃きも終わり、浅草寺でも本日十七日より歳の市が開かれる。
滝川道場のひとり娘、師範代の彦四郎の妻・いくは、朝餉を済ませた後、元服前の門人ふたりほどをひきつれて、正月用品の買い出しに出かけた。

 食休みの後、彦四郎が最近入門したものばかりを集めて、棒振りを再開した。ちょうどその頃、正月の餅代欲しさか、此度は本物の道場破りが玄関先にやってきた。

「拙者は直心影流、片桐伊織と申す。滝川先生に一手の御指南に預かりたい」

 右近のときと違い、今度は同門の剣士である。むげに断るわけにもいかない。応対に出た門人は、まず稽古中の『若先生』に取次ぎ、渋々ではあるが片桐某を道場に通した。もう一人の門人は奥へ道場主の勘十郎を呼びに行った。

 朝餉のあと、右近は部屋で書見台に向かっていた。玄関先が妙にざわついているので、何事かと母屋から出てみると、この騒ぎである。右近は門弟たちの後に続いて道場へ向かったが、入口からは入らず、見所脇の引き戸をあけて中の様子を伺った。見所には既に彦四郎が端座して、招かれざる客に対峙していた。

 引き戸の音を聞き付け、
「右近か…。入れ」
と、見所にともに控えるよう促した。
右近は承知とうなずき、入室して戸をたてた。彦四郎の斜め後ろに着座した。

 男は再び彦四郎の前で姓名を名乗り、手合わせを求めてきた。

 『片桐伊織』とは大身旗本のような名前だが、垢染みた長着によれよれの袴、どう見ても食い詰め浪人にしか見えない。

(餅代でも包んでやって、引き取ってもらっては…)

 道場内に居並ぶ門弟達の顔には、明らかにそんな侮りが浮んでいた。
 
 彦四郎はまず中堅の門弟を指名し、相手をさせた。

 門弟は礼をして立ち上がるやいなや、片桐の雷神の如き一撃に、あっけなく木太刀をたたき落とされた。
 ただの喧嘩剣法ではない。むさ苦しい風体だが、この男、かつてはまともな修行を積んだひとかどの剣士であろうと、見所から見下ろす彦四郎はうなずいた。

 皆の顔色が変わった。

 ややあって滝川勘十郎の高弟のひとり、牧野友之助が前へ進み出た。彦四郎には兄弟子にあたる。彦四郎をのぞけば、彼が滝川道場では最上位の門弟だ。

「せめて…若先生に御指南いただきたいものですが…」
片桐は牧野を前に小さく鼻をならした。雑魚は引っ込めと言わんばかりである。

 牧野は相手の挑発を無言で聞き流し、相対すると正眼に構えた。
間合いは一間。双方正眼にて対峙したまま、しばし動かず。
 やがて、牧野が一歩踏み込み、大上段に振りかぶった。気合い声とともに激しく打ち降ろす。薄笑いを浮かべ迎え撃つ片桐と、一手二手打ち合ったが、
「鋭っ!」
片桐が初めて発した気合い声もろとも、牧野の木太刀はあっけなく巻き落とされた。

 門人たちは言葉を失い、道場内に重苦しい空気が漂った。

(この男…なかなかに遣う)

 右近は石のごとく動かぬ彦四郎の横顔を見た。
牧野までもが退けられては、彦四郎が出ずばなるまい。

 だが、滝川勘十郎が隠居同然の今、事実上の道場主である彦四郎が負ければただではすまない。看板をとられるか、奥へ招いていくらか包んで黙って帰らせるか。当然、道場主が破れれば、餅代くらいではすまぬだろう。五両、十両の金が必要になる。

 「彦四郎…私が出よう」
それまで凝っと後ろに控えていた右近が、たまりかねて彦四郎に声をかけた。
「食客の…しかも他流のおぬしの出る幕ではない…」
「なれど…」
「…私では勝てぬと申すか?」
「ばかな! 私はただ、道場主が軽々しく出ていくのは如何なものかと!」
 
 右近は断じて彦四郎を軽んじるつもりはなかった。

 するすると見所脇の引き戸があき、舅の勘十郎がひょっこり顔をのぞかせた。

「…櫻田殿。ご厚意はありがたいが、ここは彦四郎にやらせるがよい」
「滝川殿…」
「なに、道場を構えておれば、斯様なことは避けて通れぬ。闘って、退けられねば看板を取られ、つぶれるまでのこと。お客人の力を借りて今回難を逃れても、同じような輩はこの先何度でも現れましょう」
「おっしゃる通りにはござりますが…」
「なに、田沼様の仕合以来、彦四郎もこれでなかなか名が売れましたからのう…。この三年間で…はて、一体何人くらいの道場破りがきおったことか…」

 右近ははっと我にかえった。そうだ…自分は江戸を離れていたから知らぬだけだが、あの仕合で勝ちあがれば、嫌でも世間の注目を浴びる。道場破りなど、何もこれが初めてではなかろう。

「ここは彦四郎にお任せあれ。道場破りの十人や二十人、負かすこともできぬなら、婿に選んだ私の眼鏡違いということでござる」

 正論であった。勘十郎の彦四郎に寄せる信頼の深さが看てとれた。
「…承知いたしました」
右近は出過ぎた真似をしたと、悔やんだ。

 勘十郎はそれだけ言うと、道場内を一顧だにせず、さっさと奥へ引っ込んでしまった。

 己ですら気付かぬ右近の心の奥底に、佐久間では勝てぬ、という気持ちがあったのやもしれぬ。それは畢竟、己なら勝てるという驕りにつながる。彦四郎にばかりか、勘十郎にもそれを看破されたのだ。右近は深く恥じ入った。


 「次はどなたじゃ」

 見所でのやりとりを、片桐は冷笑を浮かべて見ていた。濁った視線が右近をとらえ、ねっとりと絡み付く。

 「そこに控えるお客人…、他流だろうと何だろうと一向に構わぬ。よろしければお手合わせ願いたい」

 片桐はさらに挑発した。
「ちと薹はたっておるが、色若衆のごとき美男ぶり…まだまだ十分…」

 腰を浮かせかけた右近を、彦四郎が片手で制した。
「…相手にするな」

「お手前が勝てば、大人しく引き揚げてやろうではないか。だが、某が勝ったときは…」
 
 門人たちが固唾を飲んだ。

「道場の看板などいらぬわ。湯島あたりの出合茶屋で一晩付きおうてもらおうか」
右近の逆鱗に触れるひとことを放った。刀を腰に帯びていれば、とっくに抜刀しているところだ。

「口数の多い男は好かぬ…」
彦四郎が吐き捨てるように呟いた。

 彦四郎はすっくと立ちあがり、道場へ降りた。門人に目で合図し、愛用の木太刀を持ってこさせる。

 片桐は鼻を鳴らし、
「さっさと出てくればよいものを。もったいをつけおって」

 右近は激発寸前だったが、もはや彦四郎が出ていった以上、無様に騒ぎ立てては友の顔をつぶす。忍の一字で見所に端座していた。

 両者は礼をして立ちあがり、ゆるりと離れた。間合いは三間。彦四郎は下段、片桐は八双に構えたまま、両者はしばらく睨みあっていた。

 まったく動きのない中、お互いの剣先から凄まじい気が発せられている。対峙すること四半刻。片桐の額に脂汗が浮き始めた。泰然として山のごとく動かぬ彦四郎を前に、相手がしびれを切らした。

 片桐が気合い声もろとも一気に間合いを詰め、彦四郎に肉迫した。彦四郎はまだ動かない。片桐は脇構えに転じ大きく踏みこんだ。

(彦四郎!)

 片桐の木太刀が彦四郎の胴を薙ぎ払うかと思った瞬間、彦四郎が右足を引き、さっと腰を沈めた。
「鋭っ」
電光のごとき一撃で、下から片桐の木太刀を跳ね上げた。

 木太刀が板に突き刺さる音に、門人たちは一様に、あんぐりと口をあけて天井を見上げていた。


「彦四郎…見事なり」
いつ舞い戻ったのか。勘十郎が右近の脇で満足そうにうなずいていた。




 片桐伊織を退けた後、彦四郎は何事もなかったように、初心者の稽古を再開した。

 少年時代から決して大言壮語をはかぬ、不言実行型の男だったが…。

(彦四郎…少し見ぬ間に恐ろしく腕を上げたな…)

 剣の腕を上げただけではない。道場をまかされ、門人たちを教え、幾多の道場破りを退けるうちに、人間としても、ひとまわり大きくなったような気がした。

 昔は四人の友の中で一番目立たぬ存在だった彦四郎。だが、そういう男こそが、黙々と修行に励み道を極めるのやもしれぬ。

 女々しく恋情に振り回されている今の自分は…。彦四郎の足下にも及ばぬ。

 乾いた笑いを洩らしながら、あらためて自戒する右近であった。


初霜 了


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