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暦の上ではもう二月だが、ここ数日、寒の戻りで江戸は随分寒かった。
今朝は冷え込みが少し緩んだ。冴え渡った空はまだ冬のものだったが、日差しには微かな春の訪れを感ずる。右近が逗留する浅草寺近くの滝川道場でも、庭先の梅が枝に鶯が羽を休めていた。
のどかな初音を聞きながら、「天気が良いようなら、今日は出かけてみようか」と右近は思いたった。
江戸へ着いてからの三ヶ月、なまった身体を鍛え直そうと、連日のように激しい稽古をした。だが滝川道場での生活にも慣れてくると、やはり学問好きの右近は書が恋しくなった。
書物問屋にも久しく顔を出しておらぬし…前々から気になっていた大刀の拵えもそろそろ…。よし決めた。
右近は朝稽古でひと汗かいてから、佐久間や門人とともにたっぷり朝餉をとり、その後ぶらりと町へ出た。梅見がてら湯島天神に参り、聖堂近くの書物問屋で半刻ほどつぶした後、明神下の『御刀脇差拵処』岡田屋宗佑を訪なった。
当座の金は十分にあるとはいえ、役目を辞した身である。華美なものを求めるつもりはないが、脇差が若殿の惣一郎より拝領した備前の銘刀で、当然、拵えもそれなりだ。対して大刀の拵えが質素にすぎるというか、鞘の塗りも少し剥げてきていたりと、あまり見場のよろしくないことになっていた。
国許で勘定吟味役を勤めていた頃は、御用繁多でそれどころではなかった。せっかく江戸へ出てきたのも良い機会だから、この際拵えを新しくしておこうと考えた。
美麗かつ丁寧な仕事で有名な岡田屋は、懐かしい池之端の中屋敷から歩いて数分のところだった。大刀を預けて帰路につくとき、ふと、小腹を満たしたくなった。以前よく通った蕎麦屋の屋台を探して、福成寺から湯島切通町界隈を巡ってみた。すると、板倉摂津守邸近くにそれらしき屋台を見つけた。
親爺の鬢は随分薄くなっていたが、相変わらず武家屋敷の勤番侍相手に、元気に店を開いていた。先客の若党二人が席を発つのを待ち、右近は屋台に近付いた。
親爺と目があった。
「おお、これはこれは、結城様の御用人様じゃあありませんか?」
「私の顔を覚えておったか…?」
「へい…御贔屓にしていだたいておりやしたから…」
「相変わらず商売繁盛のようだな」
「…おかげさまで。そういや、一体何年ぶりになりますか…」
「二年あまりになろうか…。国元にしばらく帰っておったのだ」
「左様でございましたか…ご用人様もお元気そうでなによりです」
単なる社交辞令だろうか?
いずれにせよ、憔悴しきったように見えていないのは幸いだった。
「鴨南蛮をもらおうか…」
「へい…」
もともと口数の多い親爺ではない。右近を見覚えていて、声をかけてくれたのが何やら嬉しかった。
蕎麦を待つ間、ぼんやりと空を見上げる。つい四半刻前までは春めいた色合いだった空に、鉛色の雲が低く垂れ込めている。
(…そういえば冷えてきたな。蕎麦を食したら急いで帰ろう)
「へい、お待ち」
湯気の立ちのぼる、熱々の蕎麦が右近の前に差し出された。右近は懐かしさもあって、まずはじっくりと汁を味わった。蕎麦の熱い汁が冷えた身体を心からあたためてくれる。
「うまいぞ…親爺」
親爺は黙って頭を下げた。もういつもの寡黙な親爺に戻っている。
蕎麦を半分ほど胃に納めたころ、もう一人客が来た。綿入れ頭巾をかぶった二本差しだ。身につけている着物は押さえた色目の小紋だが、一目で上等な正絹だとわかる。こんな屋台で蕎麦を食うような身分には見えない。そこいらの旗本屋敷の次、三男だろうか?
右近は隣に座った客を横目でいぶかし気に見た。
「親爺…私にもこちらと同じものを」
「へい…」
親爺は黙々と蕎麦を茹でる。
この声…?
隣の男はいまだに頭巾をかぶったままだ。
「へい、お待ち」
熱々の蕎麦ができあがった。
男はようやく頭巾を脱ごうと軽く両手をあげた。
その手には見覚えがあった。
大きめだが指がすらりと長く、手のひらはどちらかというと薄めだ。絵筆を握ると、いともたやすく、魔法のように美しい情景を描きだしていく。
その同じ手が…ふたりきりの閨では、時に羽毛のように優しく、時に荒々しい情熱をこめて、右近の肌の上をさまよった。
忘れるはずのない手だった。
(なんと。いくら屋敷の近くとはいえ…斯様な場所へ供もつれずに…?)
相変わらず酔狂なお人よ、と右近は苦笑した。苦笑しながらも、胸の奥がじんわり熱くなるのを止められない。
(時が来れば、私のほうから出向くつもりでしたのに…。あなた様のなさることはいつも突然で…)
男は脱いだ頭巾を脇におき、親爺の運んできたどんぶりを両手で受け取った。
が、そのままの姿勢でかたまっている。
「お…」
まだ箸を手にとっていなかった。
右近は自分のどんぶりを脇へ置き、つと縁台から立ち上がった。
屋台から箸を取ると、男の手にもたせてやった。
相手はふっと嬉しそうに目もとを和ませた。
「…汁蕎麦ははじめてにござりますか?」
「うむ。前に来たときは仙之丞にすすめられて『盛り』とやらを所望した」
「まずは一口汁をお召し上がりください。身体が暖まります」
男は素直にうなずいて、
「こうか…?」
一口汁をすすると、うまそうに喉をならした。
「うむ…えもいわれぬ味わいじゃ」
「鴨のいいだしが出ておりまする」
「…下々の者は斯様な美味なるものを、日々食しておるのか?」
右近はくすりと笑い、
「庶民はそれくらいしか楽しみがござりませぬゆえ…」
「何やら羨ましいのう。身供の膳など、毒味が終わったあとの冷めた品ばかりじゃ」
男は大袈裟にため息をついてみせた。
「惣一郎様…」
別れた日のままに、惣一郎と右近は主従の会話を交わしていた。離れていた二年の月日が、まるで何もなかったかのように、惣一郎は昔と同じ瞳で右近を見つめ、軽口をたたいた。
「…この蕎麦、気に入ったぞ。…食べ終わるまで待っておれ」
「…はい。どうぞごゆるりと」
右近は苦笑した。
惣一郎は安心したように微笑むと、旨そうに蕎麦を食べ続けた。懐かしい主人の横顔を見守っていると、申し訳なさと切なさがないまぜになり、右近は胸を詰まらせた。
惣一郎は一度箸を止めると、低く呟いた。
「…どこへも行くでないぞ」
右近は万感の想いをこめて、「御意」と返した。
潤んだ右近の目の先に、はらはらと白いものが落ちてきた。見上げれば、鈍色の空から雪が舞い降りてくる。触れればすぐにも解けてしまう沫雪だった。
滝川道場の厚意で正月をともに過ごし、滞在はゆうにふた月を超えていた。これ以上の長居は迷惑だろうか…。そろそろ藩邸へも顔を出さねばなるまい。考えあぐねているうちに、いたずらに日々は過ぎていた。
去年のうちに右近が江戸へ入府したことは、内藤帯刀あたりが書状で知らせているはずだ。惣一郎は右近が訪ねてくるのを待っていたのだろうか?
雪がにわかに繁くなった。
「若殿…」
惣一郎の背後から、すっと番傘が差し出された。
「もう…蕎麦はよろしゅうござりましょう? お風邪を召しますゆえ…乗り物にお戻りくださりませ」
振り返った右近は、凛々しい若侍の姿に瞠目した。
「仙之丞…」
「右近様…お久しゅうござります」
稚児小姓時代の面影をのこしながら、仙之丞はすっかり背が伸びて、立派な体躯の青年になっていた。大刀が重いからと、脇差しか帯びていなかった昔が嘘のようだ。
惣一郎は最後に一口汁を飲むと、
「親爺、美味であった」
どんぶりを縁台に置いて立ちあがった。
気が付けば、いつ来たのか。すぐそこに乗り物が控えていた。
惣一郎は傘を持った仙之丞にいざなわれ、乗り物に乗り込んだ。
「右近様も…どうぞご一緒に」
仙之丞が静かに促した。
「藩邸へか?」
「いえ…中屋敷にござります」
「惣一郎様は、中屋敷に御滞在なのか?」
仙之丞は大きくうなずくと、
「年が明けてすぐに、お戻りになられました」
「お戻りにとは…。奥方様もご一緒か?」
右近と仙之丞は一瞬目を見交わした。
「若殿は…、中屋敷にはどなたもお連れになりませぬ」
「仙之丞?」
「右近様以外の者は…決して」
貴男という人は…。
「参りましょう…右近様」
仙之丞のさしかける傘に入り、右近は無言で乗り物の後に続いた。
つづく
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