弐の巻
「沫雪」2




by 戸田采女

 ほぼ二年ぶりに訪なう池之端の中屋敷であった。

 惣一郎の乗り物に従い屋敷の門を潜ると、見知った顔の中間ふたりが驚いたように右近を見た。

(なんだ、そのほうら…首にもならず、無事にご奉公しておったのか)

 右近が苦笑すると、相手も照れくさそうに頭を下げた。前に一度、昼間から詰め所で酒を飲み、与太噺に興じていたところを、右近にこっぴどく叱りつけられた奴(やっこ)たちだ。(番外「幕間狂言」参照)

 惣一郎は屋敷内に入ると、当然のように右近を居室へいざなった。
「まずは一服、仙之丞に茶でも点てさせよう」
「御意…」
庭に面した廊下を、右近は黙って惣一郎のあとに続いた。

 惣一郎は府中藩の綾姫を正室に迎えて以来、上屋敷で暮らしていたはずだが、中屋敷の手入れは怠らなかったと見える。庭園の樹木や灌木は、万全の冬支度で春を待っていた。

 こもを巻かれた松。紅白の梅に木瓜の花はちょうど見ごろを迎え、ねこやなぎのつぼみもふっくらと可憐な姿を見せていた。勘定吟味役として国許へ戻るよう、藩主・信輝公の内意が伝えられた日と、早春の景色はなにひとつ変わっていなかった。




 灰色の空からは、相変わらず綿毛のような雪が舞い降りていた。
惣一郎の居室には大型の火鉢が用意され、その傍らで仙之丞が茶を点てた。他の小姓たちは惣一郎が下がらせたのか、次の間に控える者は誰もいなかった。

 最初に点て終えた茶を、仙之丞が惣一郎にすすめた。惣一郎は作法通りに飲み干すと、茶碗を縁外へ置き、ようやく右近に声をかけた。

 「息災であったか?」
「…はい、おかげさまを持ちまして」 
「思ったほどやつれてはおらぬゆえ…。安堵いたした」
いきなりそう切り出され、右近は軽い動揺を覚えた。

 右近が勘定吟味役を辞したことと、次席家老・内藤帯刀罷免の報は、とっくに耳に届いているだろう。だが、このお方は国許での藩金流用のてん末をどこまでご存じなのだろう…。それと、誠之進と弟君、三郎のことも。

 右近の前にも茶が差し出された。右近は礼をして受け、久方ぶりに仙之丞の点てた茶を味わった。

 「そなた、何故すぐに藩邸に顔を出さなんだ?」
「それは…」
やはり、すでに江戸に入っていたことなど先刻御承知か。
「責めておるのではない。吟味役を退き、しばらくは羽を伸ばしたかった…ということか?」
「御意…」
「で、あの道場にはいつまでおるつもりじゃ?」

 居所までご存じとは。右近は肩で軽い溜息をついた。私の動向など全てお見通しか…。

 右近の独白を読んだのか、惣一郎はいささかバツが悪そうに目を逸らした。
「すまぬ…そなたが出府したと国許より書状が届いて以来…、板橋宿で小者を待たせておいた」

 なるほど、江戸へ入ったときから後をつけられていたのか。多少、妙な気配は感じたことはあったが…。さして気にもとめぬまま、三月も過ごしていたとは。我ながら、勘働きが鈍ったものよな…。

「その後、仙之丞にも道場まで何度か様子を見に行かせた」
「なんと…」
 瞠目する右近に、
「武者窓より、右近様が稽古に励む姿を…こっそり拝ませていただきました」
仙之丞も、きまり悪そうに頭を下げた。

 右近はちいさく首を左右にふると、惣一郎の目をじっと見つめた。
「では本日も、私が刀屋や書物問屋にたち寄りましたこと…ご存じだったのですね」

 惣一郎がこほんと咳払いをした。

 で、報告をうけて蕎麦屋の屋台まで出てくるとは…。
呆れかえるというか、惣一郎らしいというか。この人ならではの行動だと思った。

 堪えきれず、右近は喉の奥で笑い始めた。つられて仙之丞からも含み笑いが洩れた。

 惣一郎だけが脇息に肘をあずけ、あさっての方角を見ていた。




 仙之丞は二服目を所望した惣一郎のために、ふたたび茶を点てている。茶筅を振る軽い音が耳に心地よい。

 しかし、わざわざ書状で私の出府を知らせるとは…内藤帯刀もマメな男だ。

 茶を待つ間、惣一郎はくつろいだ様子で話しを続けた。
「初めは江戸へ入ったそなたを見つけ次第、ここへ引っ張ってこようと思うていたが、何やらあの道場に根を降ろしてしまったゆえ…しばらく様子を見ることにしたのじゃ」
「滝川道場には…私の藩校時代の友が婿に入っております。その縁で厄介になっておりました」

「友…か」
惣一郎は呟くように言うと、ふと寂しげな微笑を浮かべた。
「身供には…」

 いいかけてやめた惣一郎を、右近がひたと見た。

「いや…よい」

 二服目の茶が惣一郎の前に差し出された。惣一郎は居住まいを正してゆっくりと三口で飲み干した。

「ところで…」
茶碗をへり外へ戻し、惣一郎は話題を変えた。
「過日、主膳からも書状がきたぞ」
「御家老が?」
「勘定吟味役としてのそなたの働きをたたえ、身供が当分そなたを江戸に留めるつもりなら、何卒、お引き立てくだされ、とな」
「御家老が…さようなことを…」
 
 主膳は右近を部下として存分に使ったが、藩校時代、誠之進と親しくなってから、陰になり日向になり、右近の出世の後押しをしてくれたのも事実だ。また、右近の美貌に目をつけ、稚児小姓として召し出そうとした重臣たちを、『既に櫻田家の当主だから』という理由で、牽制してくれたのも主膳だった。父を早くに亡くした右近にとって、主膳は大きな後ろ楯だった。

 内藤帯刀の不正の調査に右近を抜擢したとき、娘・志保との縁組みをすすめ、「捨て駒にはしない」と暗に約束した主膳であった。志保の反逆で両家の縁組みはご破算となったが、役目が終わっても、こうして自分の身の振り方を案じてくれることに、右近は胸が熱くなった。

 「主膳に言われるまでもなく、そうするつもりじゃ…」
「惣一郎様…」
「そなた…戻ってきたのだろう?」
「……」
「誰の命でもなく…己の意志で、江戸へ戻ってきたのだな」
「……はい」
「国許に…もう未練はないな」

 『国許に』は『誠之進に』と置き換えられる。右近は己の心の声を懸命に聞こうとした。瞼がかすかに震える。

「…答えぬのか?」
「…惣一郎様」
仙之丞がもの言いたげに主人を仰ぎ見た。 再会相成ったばかりで、そのように問いつめずとも…。仙之丞の瞳が静かに訴えていた。

 惣一郎は待っていたのだ。自分が国許へ帰り、便りのひとつも出さず、二年あまりの月日が過ぎてなお…。 恨みごとの一つも言わず、昔通り側近く仕えよという。

 一瞬、右近の脳裡に誠之進と三郎の姿が浮かんだ。三郎を後ろから包み込むように抱きしめ、頬に唇を寄せる誠之進…。右近が愛してやまなかった、誠之進の鳶色の瞳、案ずるように覗き込む眼差しは、いまや三郎にしか向けられぬのだろう。

(もはや…思い切らねばならぬ)

「未練は…ござりませぬ」
右近は断腸の思いで低く呟き、深々と一礼した。

 その姿を見下ろす惣一郎の表情は、右近からは見えない。やがて、惣一郎は胸の奥から吐息とともに深い声を発した。

「今宵は…雪になるゆえ、屋敷に泊まっていくがよい」
「御意」
積もるとは思わなかったが、右近は慎んで頭を下げた。

「明日、滝川道場とやらへ戻り、荷物をとって参れ」
「惣一郎様…」
「…そなたに中屋敷の用人を勤めるよう命ずる」

 右近ははっと面をあげた。
「なれど、そのお役目はすでに他のものが…?!」
いぶかりながら仙之丞を見ると、
「…私のことならご心配なきよう。私は稚児小姓頭兼…『用人代理』にござりましたゆえ」
口元に柔らかい笑みを浮かべて、仙之丞はうなずいた。
「右近様…私も、お帰りをお待ち申しておりました。またよろしくお導きくださりませ」
仙之丞はつぶらな瞳を潤ませ、両手をついて深々と頭を下げた。

 「いずれ…私が家督したときには、江戸屋敷の要職につけるつもりだが…当分はそなたも気ままに過ごすとよい。私の側に仕えておれ」
「御意…」

 慎んで首を垂れると、惣一郎が満足気に微笑んだ。

「右近、夕餉のあと、碁を打ちに参れ。それまでは自室でくつろぐがよいぞ」

 右近は一瞬息を呑んだ。『碁を打ちにこい』とは、よもや昔と同じ意味ではあるまい? いくらなんでも自分はもう二十七である。惣一郎に一生仕える気で江戸に戻ってはきたが…。

「…心得まして、ござりまする」
平伏しながらも、右近は主人の真意をはかりかねていた。


つづく


『碁を打ちに参れ』の意味を今すぐ知りたい方は、『下弦の月・残月』を参照。
「沫雪」1「沫雪」3
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