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藩主・因幡守信輝が、御国入りのため江戸を離れる日は、三日後と迫った。
朝から五月雨の降り残りが、しとしとと庭先を濡らしていた。
明日、右近は中屋敷を引き払って上屋敷へ移り、お国入りの行列に加わる。
午後、用人としての最後の仕事を終えた右近は、自室に戻って旅仕度をしていた。
もともと、独り身の身軽な暮らしだ。
荷物がさほど多いわけではない。
江戸で集めた書物は後から別便で送る。
衣服の他は持って帰るものといえば、母や姉への土産、愛用の鼓と竹刀くらいであった。
荷造りが一段落すると、右近はつと立ち上がって障子戸の側へ歩み寄った。
(この庭も今日で見納めか…)
庇をけむらすような雨に眼をあずけ、右近はしばし時を過ごした。
*
惣一郎と中屋敷で暮らしたのは三年余り。
四季折々の花が咲き乱れるこの屋敷で、季節が幾度か巡った。
菊の香漂う秋。
雪に映える、椿の紅。
春、爛漫の染井吉野。
小雨にけぶる花菖蒲。
花の数だけ想い出があった。
惣一郎や仙之丞たちと過ごした、心和む日々の記憶。
この屋敷で、惣一郎のかたわらで、私は……。
幸せではなかったか─?
天満屋の事件があった後でさえ、惣一郎の自分に対する想いは揺るがず…。
求められたとき、もう拒めないと思った。
この人を傷つけたくないと思った。
注がれるばかりの愛に、どう報いればいいのか…。
結局、身体を繋ぐ以外、自ら答えを見出せぬまま別れがやってきた。
これが恋だとは思わない。
されど、惣一郎と自分の間にも、確かに通い合うものはあったのだ──。
惣一郎への想いは、忠義と呼ぶには濃やかすぎ、恋と呼ぶには…。執着が足らなかった。
それでも─。
『国許に戻りたいのか?』と問われたとき、何故、ひとこと、江戸に残ると言えなんだのだろう…?
藩主の命は絶対である。
信輝公が決断すれば、惣一郎がそれを覆すことはできない。
惣一郎とて大名家の嫡男、それくらいのことは重々承知している。
だから現実には叶わなくとも、ひとことでよかったのだ。
『江戸に、惣一郎様のおそばに…おりとう存じます』
惣一郎は私の口からこの言葉が聞きたかったのだ。
それが、想いを返すことになりはしなかったか?
なれど、自分は取り繕うことすらできず、帰国の命にただ頬を熱くしていた。
『もう一度聞く。国許へ帰りたいのか?』
今にも泣き出しそうな瞳で尋ねる主を前に、残酷にも私の心臓は、国許へ帰れる喜びで破裂しそうなほど高鳴っていた。
誠之進も自分も共に成人し、いつ妻を迎えてもおかしくない年齢である。
藩校時代からはや十年。
誠之進とは生涯友でいようと約束した。
その言葉通りの関係が十年続いた。
わかっているのだ─。
誠之進への恋はもはや叶うまい。
されど、どれ程の時と距離をおいても、断ちがたいこの想い─。
恋の至極は忍恋と見立て候。
享楽的な元禄を経た今の時代に、葉隠を気取るつもりはない。
なれど、結局、自分には斯様な生き方しかできぬのだ…。
野暮といわれようが、愚かと笑われようが─。
両腕で抱きしめる惣一郎を振り切って、手もつなげぬ誠之進のもとへ、心は千里の道を一日で駆け戻ってしまうのだった。
*
夕暮れ前のひととき、屋敷内はひっそりと静まり返っていた。
樋の雨だれだけを音にして、雨は静かに、けぶるように降り続けた。
***
夕餉の後、仙之丞が右近の居室を訪なった。
「…若殿が…、後で碁の相手をせよと─」
惣一郎と右近の間での、暗黙の了解だった。
『碁の相手をせよ』とは、伽をさせるゆえ湯をつかっておけ、という意味だ。
*
右近は命じられた通り湯殿へ向かった。
抱かれるために身を浄めるという行為に、右近はいつまでたっても慣れない。
ぬか袋で躯をこすりながら、すでに身を揉むような羞恥に苛まれていた。
惣一郎に触れられるのを厭うているわけではない。
巧みな愛撫の前にあっけなく堕ちていく、己のあさましさが耐え難いのだった。
右近が惣一郎の伽をしていることは、とうの昔の屋敷中の知る所となっている。
今さら取り繕っても意味がないかもしれない。
それでも、惣一郎の寝所へ向かうとき、右近は決して寝間着のまま廊下を歩いたりはしなかった。今宵も小袖、袴をつけ、用人としての身なりをきっちり整えて主のもとへ赴いた。
*
惣一郎の居室に赴くと、居間で惣一郎と仙之丞が碁盤を挟んで向かい合っていた。
惣一郎はまだ寝間着には着替えておらず、珍しく着流し姿で碁を打っている。
小姓の竹弥が右近の訪いを告げると、仙之丞は一礼して席を右近に譲った。
右近を待つ間、代わりに打っていたという様子である。
右近は碁盤を挟んで主の前に座ると、伏し目がちに一礼した。
正式に帰国の命が出て以来、惣一郎はもはや観念したのか、頻繁に右近に召し出し、閨でなじるようなことはしなくなった。口数少なく部屋に引き蘢る日が増え、むしろ一時右近を遠ざけた。
右近のほうも、帰国を控えて雑務に追われていた。
主の事が気になりながらも、呼ばれもせぬのに、のこのこ様子を見に行くこともできずにいた。
気がつけば、出立の日は間近に迫り、縁談の話も仙之丞から先日初めて聞いた次第だ。
一見したところ、惣一郎はごく落ち着いた様子に見えたが、仙之丞の話では、このひと月、ほとんど絵筆も握っていないという…。
「如何する…仕切り直すか?」
己ひとりの想いに沈みかけていた右近に、惣一郎が碁盤の向こうから尋ねた。
右近は盤面に目を落とし、これまでの対局の流れを読む。
仙之丞が黒の先手、惣一郎が白の後手で打っていた。
お世辞にもうまいとはいえない仙之丞の手を見て、右近が思わず苦笑した。
「…いえ。このままで結構でござりまする」
「…そこから形勢逆転するつもりか?」
「はい」
右近は唇の端を吊り上げて、かすかに笑った。
「ではお手並み拝見といこうか?」
ふたりの対局が始まった。
右近が優美な指の動きで、盤面に黒石を打っていく。
惣一郎も碁は決して下手ではないのだが、何しろ相手は藩校設立以来の秀才である。
何手も先を読んだ右近の術中にはまり、気がついた時にはすっかり陣地を失っていた。
「ふむ…」
手詰まりになった惣一郎が、顎を指先でさすりながらうなった。
終局までいかずに投了するのも癪なのだろうが、どうにも次の一手が思い付かないようだった。
なかなか負けを宣言しない惣一郎に、右近が柔らかい笑みを向けた。
「いま一度…初めから如何です?」
右近は主の返事を待たずに石を碁笥(ごけ)に片付け始めた。
「右近…」
石を拾う右手に、そっと惣一郎の手が重ねられた。
さらりとした掌の熱が伝わってくる。
惣一郎の手は右近の手の甲を軽く握り込んだまま、しばらく盤面に留まっていた。
惣一郎の視線を痛いほど感じる。
顔をあげずとも、どのような表情で自分を見ているのか、右近は肌で感じていた。
もはや瞳に怒りの色はない。
哀切な、ただ愛しさだけを込めた視線が、右近の胸に突き刺さる。
鼻の奥が熱くなり、右近は我知らず唇をかんでいた。
「出立は…あさってなのだな」
「はい…」
「明日は、何時頃藩邸に入るのだ?」
「正午までには…」
「左様か」
惣一郎は指先に一瞬力を込めて強く握った。
「…道中…気をつけて参れ」
「惣一郎様…」
「…もう下がって休むがよい」
指先から力が抜け、手の温もりがするりと離れていく。
右近は思わず手首を返し、惣一郎の手を下から握り返した。
意を決して面をあげた。
惣一郎は想像した通りの顔で、静かに右近を見つめていた。
見つめ返すうちに、主の像が次第に歪んで見えた。
「…そのような顔をするでない」
声と同時に、惣一郎の顔がぼんやりと近付いてきた。
指先が右近の頬に触れる。
こぼれた涙をそっと拭われた。
「…身供なら大丈夫だ」
「惣一郎さま…っ、私は…」
「…二度と会えぬわけではない」
右近はこみ上げるものを堪えながら、小さくうなずいた。
「いずれ身供が藩主になったら…」
言葉を切った惣一郎を、右近はひたと見た。
「必ずそなたを江戸に呼び戻す…」
吐息のように呟くと、右近の右手を固く握ったまま、碁盤の上に身を乗り出してきた。
長着の袂がすれて、碁石が数個、ぱらぱらと音をたてて畳の上に落ちた。
「そう簡単にはあきらめぬぞ…」
惣一郎が唇を寄せる。
「よいな、右近」
「……御意」
ゆっくりと唇が重なった。
右近は初めて自分から舌を絡めて惣一郎を招き入れた…。
***
六月十日、未だ明けきらぬ早朝。
越後高山藩、結城因幡守信輝の行列が、お国入りのため、一橋御門近くの上屋敷を出立し、江戸を離れた。
*
池之端・中屋敷。
部屋の主が去ったあとの右近の居室に人影があった。
「…若殿、やはりこちらにおられましたか…」
夜明け前、床を抜け出した惣一郎を探して、小姓頭の仙之丞がやってきた。
惣一郎はうつむき加減で、何かを大切そうに抱えている。
かたわらに膝をつき、仙之丞が惣一郎の手元をのぞきこんだ。
「…右近様が、置いてゆかれたのですか?」
「うむ…」
右近愛用の小鼓だった。
未だ朝日も差し込まぬ、薄暗い部屋の中。
惣一郎は膝上に鼓を抱えたまま、虚空を見つめていた。
惣一郎の舞や謡の稽古のとき、しばしば右近が小鼓を打って合わせた。
右肩に小鼓を構え、端然と座す右近。
自在に音色を変え、時に華やかに、時に重々しく…。
絶妙の間合いで、右近の鼓の調べが惣一郎の舞に寄り添っていた。
今も耳を澄ませば、張りのある音色が聞こえてきそうな気がした。
「仙之丞…右近の部屋は、このままにしておいてくれ」
「惣一郎様…」
「誰にも使わせてはならぬ…」
「…心得ましてござりまする。何事も、若殿のお心のままに…」
立場は違えども、右近を慕う気持は仙之丞も同じだった。
親しいものに去られた喪失感を共有するがごとく、二人は目を見交わした。
「そなたもこれから大変だな…」
「はい…とても右近様の代わりなどできませぬが、精一杯勤めさせていただきます」
「うむ…」
「若殿…」
遠慮がちに見上げた仙之丞に、惣一郎がやさしく問いかける。
「何じゃ」
「お力落しのこととは存じますが…、どうぞこれからも、絵を…お続けください…」
惣一郎はふっと目を逸らせ、小さく首を左右に振った。
「……当分、絵筆を持つ気にはなれぬ…」
鈍い溜息が漂った。
「右近様のご希望です…」
惣一郎はしばしの間、まばたきもせずに手元の鼓を見つめていた。
「あれが…斯様なことをそなたに申したのか?」
「はい…」
惣一郎は両手で愛おしそうに鼓を抱え、言葉もなく沈思に落ちた。
どれほどの想いが惣一郎の胸中に去来しているのか…。
側で見ている仙之丞の胸も刺すように痛んだ。
何程のことができるかはわからない。
されど、右近に再び会える日まで、自分が惣一郎を支えて行くのだと、仙之丞は静かに心を決めていた。
やがて惣一郎は面をあげ、口元に微苦笑を浮かべると、
「あいわかった…」
遠い目をして胸の奥から深い吐息をついた。
庭先は、閑寂として人影もない。
上野・寛永寺の時の鐘が、 まだ眠たげな町に一日の始まりを告げる。
残月が、朝の白い光に幻のごとく浮んでいた。
残月 了
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